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正法眼蔵 出家功徳

 次のように、十四祖の龍樹は言っている。


 Q.

 在家者の戒を守っても、天上に生まれる事ができ得るし、菩薩の道を行う事ができ得るし、「涅槃」、「寂滅」を得られる。

 なぜ出家者の戒を受けて守る必要が有るのか?


 A.

 在家者の戒を守っても、出家者の戒を守っても、共に、仏土へ渡れるが、難易度が有る。


 在家者は、生きるための仕事が有るし、様々な仕事が有る。

 在家者は、仏道に専念すれば、仕事が駄目に成ってしまう。

 在家者は、仕事に専念すれば、仏道が駄目に成ってしまう。

 在家者は、仏道と仕事の、一方だけを取らず、両方を捨てず、仏道を修行する必要が有るが、「難しい」と言うのである。


 出家者は、俗世から離れるので、色々と怒ったり心を乱されたりしないで済むし、仏道の修行に、ひたすら専念できるので、「簡単である」と言うのである。


 また、次に、在家者は、(俗世が)騒がしいし乱れているし、仕事が多い。

 在家者は、(俗世が、)「結使」、「煩悩」の根源であるし、多くの罪が集まる場所である。

 このため、在家者は、(仏土へ渡るのが)「難しい」とする。


 出家者は、例えば人が無人の野を行くように、一心に成れるし、無心に成れる。

 心の内の心配が無く成るし、外部の物事も無く成る。

 次のように、詩で説かれているように。

「林の樹々の間で静かに坐禅して、煩悩を寂滅させて諸々の悪を(めっ)して断つ。

無欲で執着しないで心安らかで一心を得る。

出家者の安楽は天の安楽どころではない。

人は、富や高位といった利益、良い衣服、良い寝床を求める。

在家者の安楽は安らかで穏やかではない。

利益を求めると満足できないからである。

ぼろきれによる粗末な法衣を着て乞食を行えば、()()いも心も常に一定で乱れない。

自己の智慧という眼で『諸法』、『全てのもの』の実(の相)を観察して知る。

種々の法門の中に、唯一普遍に、観察して入る。

理解と智慧が有る心は、寂静であり、三界で及ぶ事ができる物は無いのである。

このため、知る事ができる。

出家して戒を守って仏道を学び修行する事を『簡単である』とするのである」


 また、次に、出家して戒を守れば、無数の()い「誤りの予防」を得て一切、十分に備えて満たす。

 このため、在家者は出家して出家者の戒を受けるべきである。


 また、次に、仏法の中で、出家が第一に修行し難い。

 (そのため、逆に、早く、出家するべきである。)

 次の話のように。



 バラモンの閻浮呿提梵志が、舎利弗(シャーリプトラ)に、「仏法の中で、何が最も難しいのか?」と質問した。

 舎利弗(シャーリプトラ)は、「出家が難しい」と答えた。

 閻浮呿提梵志は、「出家には、どんな難しい事が有るのか?」と質問した。

 舎利弗(シャーリプトラ)は、「出家では、出家を内心で楽しむ事が難しい」と答えた。

 閻浮呿提梵志は、「出家を内心で楽しむ事ができ得たら、次に、何が難しいのか?」と言った。

 舎利弗(シャーリプトラ)は、「諸々の()い法を修行するのが難しい。このため、(逆に、)出家するべきである」と答えた。



 また、次に、人が出家した時、魔王は、驚き(うれ)えて、「この出家した人は、『結使』、『煩悩』が薄く成って、必ず、『涅槃』、『寂滅』を会得して、『僧宝』、『僧』の数の中に入る」と言う。


 また、次に、仏法の中の出家者は、戒を破る罪を犯しても、罪をつぐない終われば解脱を会得する。

 次のように、「優鉢羅華比丘尼本生経」に記されているように。



 釈迦牟尼仏が存命中の時に、蓮華(ウッパラ)(ヴァンナー)比丘尼は、六神通と阿羅漢を会得した。


 蓮華(ウッパラ)(ヴァンナー)比丘尼は、貴族の家に入って、常に出家をたたえて、諸々の貴族の婦女に「姉妹よ、同胞よ、出家するべきです」と話していた。

 諸々の貴族の婦女は、「私達は、若くて盛んで、容姿も美しいので、戒を守るのは難しいです。戒を受けても破ってしまうでしょう」と言った。

 蓮華(ウッパラ)(ヴァンナー)比丘尼は、「戒を破ってしまうならば破ってしまっても良いのです。出家するべきです」と言った。

 諸々の貴族の婦女は、「戒を破ってしまったら地獄に堕ちてしまうでしょう? どうして戒を破ってしまっても良いのですか?」と質問した。

 蓮華(ウッパラ)(ヴァンナー)比丘尼は、「地獄に堕ちてしまうならば堕ちてしまっても良いのです」と答えた。

 諸々の貴族の婦女は、笑って、「地獄では罪の報いを受けてしまいます。どうして地獄に堕ちてしまっても良いのですか?」と言った。

 次のように、蓮華(ウッパラ)(ヴァンナー)比丘尼は言った。


 (神通力で)私の前世の時を思い出すと、私は、遊女に成って、色々な衣服を着て古い名言を説きました。

 ある時、女性の出家者の衣服を着て(たわむ)れて笑いました。

 この因縁のおかげで、釈迦牟尼仏の前の迦葉仏の時代に、女性の出家者に成れました。

 しかし、貴族であったためと、端正な容姿であったため、心に(おご)り高ぶり他人を見下す思いを生じてしまって戒を破ってしまいました。

 戒を破ってしまった罪のせいで、地獄に堕ちて色々な罪の報いを受けてしまいました。

 けれども、罪の報いを受け終わると、(今世で、)釈迦牟尼仏に出会えましたし、出家できましたし、六神通と阿羅漢の道を会得できました。

 このため、知る事ができます。

 出家して戒を受ければ、戒を破ってしまっても、戒を受けた因縁のおかげで、阿羅漢の道を会得できます。

 もし戒を受けた因縁が無いのに悪行を(おこな)ってしまえば、道を得る事はできません。

 私は、昔は、生から生へ地獄に堕ちてしまっていました。

 地獄から出ては悪人に成ってしまって、悪人として死んでは再び地獄に入ってしまって、全く何も得られませんでした。

 このため、明らかに、知る事ができます。

 出家して戒を受ければ、戒を破ってしまっても、戒を受けた因縁のおかげで、「道果」、「悟り」を得る事ができます。



 また、次に、釈迦牟尼仏が祇園精舎にいた時、酔った、あるバラモンが、釈迦牟尼仏の所に来て、出家者に成りたいと(ほっ)した。

 釈迦牟尼仏は、後の二祖の阿難陀に命じて、あるバラモンの頭の(ひげ)と髪を()って法衣を着させた。

 あるバラモンは、酒の酔いから()めると、自身が突然に出家者に変わっているのを見て驚き、逃げて走り去った。

 諸々の出家者達は、釈迦牟尼仏に、「なぜ、酔った、あのバラモンの言葉を聞き入れて許して出家者にしたのでしょうか?」と質問した。

 釈迦牟尼仏は、「あのバラモンは、無数の劫の中で出家する心が無かったが、今、酔ったために、(しばら)く、(かす)かに『発心した』、『悟りを求める事を思い立って心した』のである。

この因縁によって、後に、出家して道を会得するはずである。

このように様々な因縁が有るのである。

出家の功徳は量り知る事ができないのである。

このため、在家者が在家者の戒である『五戒』を守っても、出家者には及ばないのである」と言った。



 釈迦牟尼仏は、酔った、あるバラモンが出家して戒を受ける事を聞き入れて許して、道を会得するための最初の種植えとさせた。

 明らかに、知る事ができる。

 昔から未だ出家の功徳が無い生者は永遠に仏という結果をもたらす悟りを得る事ができないのである。

 このバラモンは、酒に酔ったため、(しばら)(かす)かに「発心して」、「悟りを求める事を思い立って心して」、頭の(ひげ)と髪を()られて戒を受けて出家者と成った。

 酒の酔いから()めていない時間はわずかであったが、出家の功徳を保護して道を会得するための善の種を成長させるべきである、という主旨は、釈迦牟尼仏の真実の黄金の言葉であるし、如来、釈迦牟尼仏の「この世」への出現の本懐なのである。

 一切の全ての生者は、明らかに、過去、現在、未来の中で(出家の功徳を)信じて受け入れて行うべきである。

 実に、発心して道を会得するが、必ず、刹那の一瞬の発心から始まる物なのである。

 このバラモンの少しの間の出家の功徳ですら、このようなのである。

 まして、人間の一生の寿命を巡らして出家して戒を受けていた功徳は、この酔ったバラモンよりも更に優れている!



 転輪聖王は、人の寿命が八万歳以上の時代に出現して、「四洲」を統治するし、「七宝」を十分に備えている。

 転輪聖王が統治する時、「四洲」は皆、浄土のように成る。

 転輪聖王による快楽は、言葉を尽くしても言い表す事ができない。

 または、「三千界を統治する転輪聖王もいる」と言われている。

 転輪聖王には、鉄輪王、銅輪王、銀輪王、金輪王という四種類の分類が有って、鉄輪王は一洲、銅輪王は二洲、銀輪王は三洲、金輪王は四洲を統治する。

 転輪聖王は、必ず、身で「殺生、不与取、邪淫、妄語、綺語、粗悪語、離間語、貪欲、瞋恚、邪見」という「十悪」を犯さない。

 転輪聖王は、このように快楽が豊かであるが、頭に一本でも白髪が生えれば、王位を王子に譲って、自身は(すみ)やかに出家して、法衣を着て山の林に入って、修行して鍛錬して、命が終われば必ず、梵天が住んでいる「大梵天」に生まれる。

 転輪聖王は、自身の頭の白髪を、銀の箱に入れて王宮に収めて、後の転輪聖王に伝える。

 後の転輪聖王もまた、白髪が生えれば、前の転輪聖王と同様にする。



 転輪聖王が、出家後の余命が長いのは、現在の人とは比べ物に成らないほどである。

 「転輪聖王が出現する時代は人の寿命が八万歳以上である」と言われているし、転輪聖王は身に仏の「三十二相」を備えているので、現在の人は及ぶ事ができない。

 けれども、白髪を見て「無常」、「死」を悟り、「白業」、「善業」を修行して功徳を成就するために、必ず、出家して仏道を修行するのである。

 現在の諸々の王(、権力者)は、転輪聖王に及ぶ事ができない。

 現在の諸々の王(、権力者)は、貪欲の中で、いたずらに無駄に時間を過ごして出家しなければ、来世で後悔するであろう。

 まして、小国、辺境の僻地(へきち)の王(、権力者)には、王者という名称が有っても王者の徳は無く、(むさぼ)って留まる事を知らない。



 出家して仏道を修行すれば、諸々の天人は喜び守るし、龍神は敬って保護するし、諸仏は仏眼で明らかに証明して喜ぶ。



 蓮華(ウッパラ)(ヴァンナー)比丘尼は、遊女であった昔の前々世の時は信心が無く、(たわむ)れに女性の出家者の衣服を着た。

 蓮華(ウッパラ)(ヴァンナー)比丘尼は、恐らくは、仏法を軽視する罪に成るが、身に女性の出家者の衣服を着た力によって、前世で仏法に出会えた。

 「女性の出家者の衣服」とは、法衣である。

 蓮華(ウッパラ)(ヴァンナー)比丘尼は、(たわむ)れに法衣を着た力によって、前世の、釈迦牟尼仏の前の迦葉仏の時代に仏法に出会えて、出家して戒を受けて、女性の出家者に成れた。

 蓮華(ウッパラ)(ヴァンナー)比丘尼は、前世で戒を破った罪によって地獄に堕ちて罪の報いを受けたが、出家の功徳は()ちず、今世で、(つい)に釈迦牟尼仏に出会えて、仏法を見聞きし、発心して仏法を習って修得して、永遠に三界を離れて、大いなる阿羅漢と成ったし、三明六通を十分に備えたし、無上の仏道を会得した。



 そのため、最初から、ひたすら、無上普遍正覚のために、清浄な信心を()らして法衣を信じて受け入れ(て出家し)たら、出家の功徳の「増上」、「成長」は、蓮華(ウッパラ)(ヴァンナー)比丘尼の前々世の遊女の功徳よりも、(すみ)やかであろう。

 まして、無上普遍正覚のために、「発菩提心して」、「発心して」、出家して戒を受けたら、出家の功徳は量り知れないであろう。

 人の身でなければ、出家の功徳を成就する事は(まれ)なのである。



 西のインドから東の地の中国まで、出家者や在家者の修行者や、祖師は多いが、十四祖の龍樹に及ぶ事はできない。

 十四祖の龍樹は、(もっぱ)ら、酔ったバラモンの話や、蓮華(ウッパラ)(ヴァンナー)比丘尼の前々世の遊女の話などを挙げて、全ての生者に出家して戒を受ける事を(すす)めているのである。

 十四祖の龍樹は、釈迦牟尼仏の黄金の(くち)が予言していた祖師なのである。



 釈迦牟尼仏は、「『南瞻部洲』、『南閻浮提』、『この世』が最も優れている物が四種類、有る。

(一)仏を見れる事

(二)仏法を聞ける事

(三)出家できる事

(四)仏道を会得できる事」と言った。



 明らかに、知るべきである。

 「南瞻部洲」、「南閻浮提」、「この世」が最も優れている四種類の物は、北倶廬洲よりも優れているし、諸々の天よりも優れている。

 今、私達は、善の種を植えた前世の善行の力に引き寄せられて最も優れている身(である人の身)を得ているのである。

 喜んで出家して戒を受けるべきなのである。

 最も優れている善い身(である人の身)を無駄にしてしまい(つゆ)のように(はかな)い命を「無常」、「変化」、「死」の風に任せてしまう事なかれ。

 出家の生を重ねれば、功徳を積み重ねられるであろう。



 釈迦牟尼仏は、「仏法の中でも、出家の果報は不可思議なのである。

たとえ人が『七宝』、『七種類の宝』で塔を建てて、塔の高さが三十三天にまで至っても、得られる功徳は、出家の功徳に及ばないのである。

なぜなら、『七宝』、『七種類の宝』による塔は、貪欲な悪人、愚かな人が破壊できてしまうからであるし、出家の功徳は破壊できないからである。

このため、男女に教えたり、奴隷を解放したり、国民に許可したりして出家させて仏道に入らせれば、自身が出家して仏道に入れば、功徳は量り知れないのである」と言った。



 釈迦牟尼仏は、明らかに、功徳の量を知っていて、このように比較しているのである。



 中国では「福増」と呼ばれる尸利苾提は、この釈迦牟尼仏の言葉を聞いて、百二十歳の老人であったが、()いて出家して戒を受けて、自身よりも若い出家者達よりも下位の者として出家者の末席に名を(つら)ねて修行して鍛錬して、大いなる阿羅漢と成った。



 知るべきである。

 今の生の人の身は、四大(元素)と「色受想行識」という「五蘊」が原因と成り(つな)がり合成して、仮初(かりそめ)の物として形成されているのであるし、「八苦」が常に有る。

 さらに、一刹那、一刹那に生じて滅んで留まる事が無い。

 さらに、「一弾指」、「一回、指を弾く」間に、六十五の「刹那」が生じて滅ぶが、(人は)自身の知が暗いので未だ知る事ができないのである。

 一つの昼夜が経つ間に、全部で、六十四億九万九千九百八十の「刹那」が有って、「色受想行識」という「五蘊」も何回も生じて滅びるが、(人は)知る事ができないのである。

 自身が生じて滅んでも、自身は知る事ができないのを憐れむべきである。

 「刹那」の生じて滅ぶ量は、釈迦牟尼仏と舎利弗(シャーリプトラ)だけが知る事ができた。

 他の聖者は、多くても、一人も知る事ができなかったのである。

 「刹那」の生じて滅ぶ道理によって、生者は善業や悪業を作る。

 また、「刹那」の生じて滅ぶ道理によって、生者は発心して道を会得する。

 「刹那」で生じて滅ぶのが、人の身なのであり、たとえ惜しんでも留める事ができない。

 昔から、人の身を惜しんで留める事ができた人は未だ一人もいない。

 このように、自分の物ではない人の身だが、巡らして出家して戒を受ければ、過去、現在、未来の諸仏が証している、金剛のように不壊である、仏という結果をもたらす無上普遍正覚を証する事ができるのである。

 知が有る人は誰もが仏道を喜んで求める!



 このため、過去、日月灯明仏の八人の子は皆、「四天下」、「四大洲」を統治する王位を捨てて出家した。

 大通智勝仏の十六人の子は共に、出家した。

 大通智勝仏の十六人の子は、大通智勝仏が「定」に入っている間、集まっている者達のために法華経を説いた。

 大通智勝仏の十六人の子は、今は、十方の如来と成っている。

 大通智勝仏の父の転輪聖王が率いていた人々の中の八万億人も、大通智勝仏の十六人の子の出家を見て、出家を求めて、大通智勝仏の父の転輪聖王は聞き入れて許した。

 妙荘厳王の二人の子、妙荘厳王、妙荘厳王の夫人は皆、出家した。



 知るべきである。

 大いなる聖者が、この世に出現した時、必ず、出家するのを正しい法としているのは、明らかである。

 「これらの仲間は、愚かで出家した」とは言えないのである。

 「これらの仲間は、賢くて出家した」と知ったならば、「賢くて出家した、これらの仲間と、等しく成ろう」と思うべきである。



 釈迦牟尼仏の時は、羅睺羅(ラーフラ)、後の二祖の阿難陀などの弟子は皆、出家した。

 また、釈迦族の千人が出家した事が有るし、釈迦族の二万人が出家した事が有る。



 「優れた行跡である」と言うべきである。

 最初の「五比丘」が出家してから、最後の須跋陀羅(スバッダ)が出家するに至るまで、釈迦牟尼仏に帰依した仲間は出家した。

 「出家の功徳は、量り知れない功徳なのである」と知るべきである。


 そのため、もし世の人々が子孫を憐れむならば、急いで出家させるべきである。

 もし世の人々が父や母を憐れむならば、出家を(すす)めるべきである。



 このため、次のように、詩で言われている。


 もし過去の世が無ければ、過去の仏は存在しないはずである。

 もし過去の仏が存在しなければ、出家や戒を受ける事は存在しないはずである。

 (出家や戒を受ける事は存在するので、過去の仏は存在するし、過去の世は存在する。)



 この詩は、諸仏、如来の詩なのである。

 外道が誤って「過去の世など存在しない」と言うのを論破しているのである。


 そのため、知るべきである。

 出家して戒を受けるのは、過去の諸仏の仏法なのである。


 私達は、幸いにも、諸仏の妙なる法である、出家と戒を受ける事が可能な時代に出会いながら、虚しく出家しないし戒を受けない。

 どんな罪による障害であるのか? わからない。

 最低である人の身を依り所として、最高の出家の功徳を成就したら、「南瞻部洲」、「南閻浮提」、「この世」や三界の中の最高の功徳に成るであろう。

 「南瞻部洲」、「南閻浮提」、「この世」の、この人の身が未だ滅びないうちに必ず出家して戒を受けるべきである。



 次のように、古代の聖者は言っている。


 出家者は、戒を破ってしまっても、在家者が戒を守っているよりも優れている。

 このため、経の説法では、ひとえに人に(すす)めて出家させるのである。

 経が出家を(すす)めてくれた恩に報いるのは難しいほどである。


 また、次に、出家を(すす)める事は、尊重するべき善業の修行を人に(すす)める事なのである。

 出家を(すす)めて得られる果報は、閻魔大王、転輪聖王、帝釈天よりも優れている。

 このため、経の説法では、ひとえに人に(すす)めて出家させるのである。

 経が出家を(すす)めてくれた恩に報いるのは難しいほどである。


 在家者のまま在家者の戒を守る事などを人に(すす)めても、人に(すす)めて出家させる時のような功徳は無いので、経は証しないのである。



 知るべきである。

 出家者は、戒を破ってしまっても、在家者が戒を守っているよりも優れている。

 仏への帰依の中では、必ず、出家して戒を受ける事が優れているのである。

 出家を(すす)めて得られる果報は、閻魔大王、転輪聖王、帝釈天よりも優れているのである。

 たとえ王族や貴族であるクシャトリヤではなくても、出家すれば王族や貴族であるクシャトリヤよりも優れているのである。

 出家すれば、閻魔大王、転輪聖王、帝釈天よりも優れているのである。

 在家者が戒を守っても、そうではないので、出家するべきである。


 釈迦牟尼仏が説いた仏法は、測り知れない物である、と知るべきである。

 釈迦牟尼仏と五百羅漢の仏法を広く集めているのである。

 仏法では道理が明らかである、と実に知る事ができる。


 千二百年頃の「禅師」と自称する凡人は、一人の聖者の三明六通の智慧ですら測り知る事ができない。

 まして、千二百年頃の「禅師」と自称する凡人は、五百羅漢という五百人の聖者の智慧を測り知る事ができない!

 私、道元は、千二百年頃の「禅師」と自称する凡人たちが知る事ができない物を知っているし、見る事ができない物を見たし、究める事ができない物を究めたし、凡人たちが知る事ができた物も知っている。

 そのため、千二百年頃の「禅師」と自称する凡人の暗黒のように暗い愚鈍な自説を、聖者の三明六通の言葉と比べる事なかれ。



 「阿毘達磨大毘婆沙論」の第百二十には、「発心して出家した者ですら『聖者』と名づける。まして、『忍』、『忍辱して忍耐して心を動かさない』法を得た者は『聖者』と名づける!」と記されている。



 知るべきである。

 発心して出家すれば「聖者」と名づけるのである。



 釈迦牟尼仏の五百大願の中の第百三十七願。

 私が未来に無上普遍正覚を成就し終わったら、私の仏法の中で出家したい諸々の者には、願わくば、障害が有りませんように。

 障害とは、心が弱く劣る事や、忘れやすく成る事や、狂気や、おごり高ぶる事や、畏敬の念が無く成る事や、愚かに成って智慧が無く成る事や、諸々の煩悩が多く成る事や、心が散乱する事である。

 障害が無く成るまで、私は無上普遍正覚を成就しない。


 第百三十八願。

 私が未来に無上普遍正覚を成就し終わったら、私の仏法の中で出家して仏道を学び修行したい、出家者の戒を受けたい女の人がいたら、願わくば、成就させる事ができますように。

 そう成るまで、私は無上普遍正覚を成就しない。


 第三百十四願。

 私が未来に無上普遍正覚を成就し終わったら、生者が、善行が少なくても、少ない善行の中で善行を愛好し楽しむ心が生じたら、その人を来世で仏法の中で出家させて仏道を学ばせ修行させるし、(その人を今世で)神聖な清浄な出家者見習いの十戒に安らかに留めて住まわせる。

 そう成るまで、私は無上普遍正覚を成就しない。



 知るべきである。

 今、出家する()い男子や()い女の人は皆、釈迦牟尼仏の昔の大願の力に助けられて障害無く出家して戒を受ける事を得ているのである。

 如来、釈迦牟尼仏は誓って願って出家させている。

 出家の功徳は、最も尊い最上の大いなる功徳である、と明らかに知る事ができる。



 釈迦牟尼仏は、「私(、釈迦牟尼仏)によって(ひげ)と髪を()り除いたが、法衣を欠片(かけら)だけ身につけている、戒を受けていない者に捧げものを捧げても、『無畏の城』、『城のように恐怖が無い境地』に入る事ができ得る。このため、このように、私(、釈迦牟尼仏)は説く」と言った。



 明らかに知る事ができる。

 (ひげ)と髪を()り除いて法衣を着ているが、戒を受けていない者に捧げものを捧げても、「無畏の城」、「城のように恐怖が無い境地」に入るであろう。



 釈迦牟尼仏は、「私(、釈迦牟尼仏)の(ため)に出家した、(ひげ)と髪を()り除いたが、法衣を欠片(かけら)だけ身につけている、戒を受けていない者を、『仏法から外れている』と悩ます人は、過去、現在、未来の諸仏の法身と報身を破壊しようとする人なのである。地獄などの『三悪道』を満ちあふれさせようとする事に成るからである」と言った。



 釈迦牟尼仏は、「生者達が、私(、釈迦牟尼仏)の(ため)に出家して、(ひげ)と髪を()り除いて、法衣を着たら、たとえ戒を守れなくても、彼らは(ことごと)く既に『涅槃』、『寂滅』の印を押されている者なのである。

また、出家したが、戒を守れない者を、『仏法から外れている』と悩ましたり、悪口を言って(はずかし)めたり、悪口を言って非難したり、手で杖を持って打ったり、手で刀を持って切ったり、法衣や器を奪ったり、種々の生活道具を奪ったりする人は、過去、現在、未来の諸仏の真実の報身を破壊しようとする人なのであるし、一切の人や天人の『眼目』、『要点』に敵対する人なのである。

諸仏が所有する正しい法や、『仏、法、僧』という『三宝』の種を滅ぼそうとする事に成るからである。

諸々の天人や人を、利益を得られないようにして、地獄に堕とさせる事に成るからである。

地獄などの『三悪道』を増長させて満ちあふれさせようとする事に成るからである」と言った。



 知るべきである。

 (ひげ)と髪を()って、法衣を着れば、たとえ戒を守れなくても、無上の大いなる「涅槃」、「寂滅」の印を押されるのである。

 たとえ戒を守れなくても、(ひげ)と髪を()って法衣を着ている者を悩まして乱す人は、過去、現在、未来の諸仏の報身を破壊しようとする事に成るのである。

 最も重い罪である五逆罪と同じ罪を犯す事に成るのである。


 出家の功徳は、過去、現在、未来の諸仏に近い、と明らかに知る事ができる。



 釈迦牟尼仏は、「出家者は、悪い心を起こす事なかれ。

悪い心を起こす者は、出家者ではない。

出家者は、言行一致させる必要が有る。

言行不一致の者は、出家者ではない。

私(、釈迦牟尼仏)は、父と母、兄弟、妻子、眷属、知人を捨てて出家して『道』、『真理』を学び修行したが、諸々の『善覚』を修行して集めた時であり、諸々の『不善覚』を修得して集めた時ではなかった。

『善覚』とは、赤子のように、一切の全ての生者を思いやる事である。

『不善覚』とは、『善覚』と違う事である」と言った。



 出家の「自性」、「本来の性質」とは、「赤子のように、一切の全ての生者を思いやる事」なのである。

 「赤子のように、一切の全ての生者を思いやる事」とは、「悪い心を起こさない事」なのであるし、「言行一致させる事」なのである。

 身のこなしが出家者に相応(ふさわ)しく成ったら、出家の功徳は、前述のように成るのである。



 釈迦牟尼仏は、「また、次に、舎利弗(シャーリプトラ)と『菩薩摩訶薩』、『無上普遍正覚を求める大いなる修行者』よ。

もし出家した日に、無上普遍正覚を成就したいのであれば、

もし出家した日に、『法輪を転じたい』、『法を説きたい』のであれば、

もし『法輪を転じた』、『法を説いた』時に、無数の生者を、『(ちり)(あか)』、『汚れ』、『煩悩』から遠ざけさせて離れさせて、仏法の中で『浄法眼』、『法眼』を得させたいのであれば、

もし『法輪を転じた』、『法を説いた』時に、無数の生者に、『一切法不受』、『一切の全てのものに影響されない』ようにさせて、諸々の『漏』、『煩悩』からの心の解脱を得させたいのであれば、

もし『法輪を転じた』、『法を説いた』時に、無数の生者を、無上普遍正覚に不退転にさせたいのであれば、

『般若波羅蜜』、『知の到達』を学ぶべきである」と言った。



 「般若」、「知」を学ぶ菩薩とは、祖師から祖師への祖師達なのである。

 「般若波羅蜜」、「知の到達」を学ぶと、無上普遍正覚は、必ず、出家した日に成熟するのである。

 けれども、「三阿僧祇劫」、修行して証しても、「無量阿僧祇劫」、「無数の時間」、修行して証しても、有限に、無限に、無上普遍正覚を汚染するわけではないのである。

 (仏に成るには「三阿僧祇劫」と「百大劫」という長い年月がかかると言う場合が有る。)

 仏道を学んでいる人は知るべきである。



 次のように、釈迦牟尼仏は言った。


 次のような事を、「菩薩摩訶薩」、「無上普遍正覚を求める大いなる修行者」は、思考するかもしれない。


 私は、いつか、国王の位を捨てて、出家した日に無上普遍正覚を成就しよう。

 また、この出家した日に「妙なる法輪を転じよう」、「妙なる法を説こう」。

 無数の情の有る者を、「『(ちり)』や『(あか)』」、「汚れ」、「煩悩」から遠ざけさせて離れさせて、菩薩の「浄法眼」、「法眼」を生じさせよう。

 また、無数の情の有る者に、諸々の「漏」、「煩悩」を永遠に無くし尽くさせて、心と智慧を解脱させよう。

 また、無数の情の有る者を、無上普遍正覚に不退転にさせよう。


 このような「菩薩摩訶薩」、「無上普遍正覚を求める大いなる修行者」が、このような事を成就したいと欲するならば、「般若波羅蜜」、「知の到達」を学ぶべきである。



 これは、釈迦牟尼仏が、最後身の菩薩として、王宮に降臨して生まれて、国王の位を捨てて、無上普遍正覚を成就して、「法輪を転じて」、「法を説いて」、生者を仏土へ渡した功徳を説いているのである。



 釈迦牟尼仏は、王子であった時に、車匿(チャンナ)から宝石などが飾られた荘厳な「七宝」、「七種類の宝」による(つか)の刀を受け取り、右手で刀を(さや)から抜き出して、左手で紺青の青蓮華色の「螺髻」、「ほら貝の形の髪形」の髪を持って、右手に持っている鋭利な刀で自身の髪を切って、切った髪を右手で捧げて、切った髪を空中に投げた。

 この時、帝釈天は、稀有な心、大いなる喜びが生じて、釈迦牟尼仏が切った髪を受け取って捧げて、地に落とさなかった。

 帝釈天は、釈迦牟尼仏が切った髪を天の妙なる衣で受け取って、天へ持って行った。

 その時、諸々の天人は、優れている上の天の、捧げるための道具で、釈迦牟尼仏が切った髪に、捧げものを捧げた。



 釈迦如来、釈迦牟尼仏は、昔、王子であった時に、夜中に「出家踰城」して、日が高く成って山に至って、自ら頭の髪を切った。

 その時、「浄居天」の天人が来て、釈迦牟尼仏の頭の髪を()り除き、法衣を与えた。



 「浄居天」の天人が来て、頭の髪を()り除き、法衣を与える事が、如来が「この世」に出現した時に必ず起きる、めでたい(しるし)なのであるし、諸仏の不変の法則なのである。



 過去、現在、未来の十方の諸仏の中に、在家者の時に仏に成った者は一人もいない。


 過去に仏がいたので、出家して戒を受ける功徳が存在するのである。


 生者が「得道する」、「悟る」のは、必ず、出家して戒を受ける事による物なのである。


 出家して戒を受ける功徳は、諸仏の不変の法則なので、出家の功徳は量り知れないのである。


 仏教の中に在家者が仏に成る伝説が有るが正しい伝説ではないし、女性の身のまま仏に成る伝説が有るが正しい伝説ではない。

 (男尊女卑ではない。)

 仏祖が正しく伝えているのは、出家者が仏に成る伝説なのである。



 長者の子である、後の五祖の提多迦が、四祖の優婆毱多の所へ来て敬礼して、出家させてくれるように求めた。

 優婆毱多は、「あなたは、身の出家であるのか? 心の出家であるのか?」と言った。

 提多迦は、「私が出家を求めるのは(自分の)身心の(ため)ではない」と答えた。

 優婆毱多は、「(自分の)身心の(ため)でなければ、誰が出家するというのか?」と言った。

 提多迦は、「出家には自分、自分の物といった思考は無いのです。

出家には自分、自分の物といった思考は無いので、出家では心が生じたり滅んだりしない。

出家では心が生じたり滅んだりしないので、出家は『常道』、『不変の真理』なのであるし、諸仏もまた不変なのである。

(この世の)心には形、相が無い(と言える)し、身体(、肉体)もまた形、相が無い(と言える)」と答えた。

 優婆毱多は、「あなたは、大いに悟り、心に自ら通達しなさい。『仏、法、僧』という『三宝』によって、『聖種』、『聖者の種』、『仏種』、『仏の種』を受け継いで盛んにしなさい」と言って、提多迦を出家させて戒を受けさせた。



 諸仏の仏法に出会って出家するのは、第一の最も優れている果報なのである。


 出家の法は、自分のためではないのであるし、自分の物のためではないのであるし、(自分の)身心のためではないのであるし、(自分の)身心が出家するわけではないのである。

 このようであるのが、「出家には自分、自分の物といった思考は無い」道理なのである。

 「出家には自分、自分の物といった思考は無い」ので、諸仏の仏法なのであるし、諸仏の不変の法なのである。

 諸仏の不変の法なので、「出家には自分、自分の物といった思考は無い」のであるし、「出家は(自分の)身心の(ため)ではない」のである。

 諸仏の不変の法は、三界のものが肩を並べる事ができない物なのである。

 このため、出家は最上の法なのである。


 出家は、速い、遅い、ではないし、

不変、変化、ではないし、

来る、去る、ではないし、

「住」、「立ち止まる」、「作」、「なす」、「行う」、ではないし、

広い、狭い、ではないし、

「大小」、「優劣」、ではないし、

「作」、「なす」、「行う」、「無作」、「行わない」、ではない。


 仏法を単一に伝えている祖師は、必ず、出家して戒を受けている!

 これが、後の五祖の提多迦が、四祖の優婆毱多に会って出家させてくれるように求めた道理なのである。



 提多迦は、出家して戒を受けて、四祖の優婆毱多の学に参入して、(つい)に五祖と成った。



 十七祖の僧伽難提は、首都が「室羅伐(シュラーヴァスティー)」、「舎衛城(シュラーヴァスティー)」であるコーサラ国の宝荘厳王の子であった。

 僧伽難提は、生まれてすぐに話す事ができて、常に仏の事をほめたたえた。


 僧伽難提は、七歳で俗世の楽しみを嫌い、詩で、父と母に告げて、「大いに思いやり深い父へ、頭を地につけて礼拝する。

骨肉の母へ、目上の人への敬意を表して安否を尋ねながら深く首を垂れて礼拝する。

(しかし、)私は今『出家したい』と御願いします。

請い願わくば、大いなる慈悲で聞き入れてください」と言った。

 父と母は、僧伽難提の出家を固く止めた。

 僧伽難提は、ついに、一日中、食事を食べなく成った。

 そのため、父と母は、在家者のまま出家の儀式を受ける事を許した。

 僧伽難提は、この時、「僧伽難提」という戒名を名づけられた。

 父と母は、出家者の禅利多に命じて僧伽難提の師にさせた。


 僧伽難提は、十九年が経っても、未だかつて修行を(おこた)らなかった。

 僧伽難提は、「身が王宮に在るのに、どうして出家であろうか? いいえ! 出家ではない!」と常に自ら思い、言っていた。


 ある日の夕方、天から光が降り注ぎ、僧伽難提は、平坦な一つの道を見た。

 僧伽難提が、無自覚に、約十里くらい、ゆっくり道を行くと、大岩の前に至った。

 岩窟が有った。

 僧伽難提は、岩窟の中で静かに坐禅した。


 父は、僧伽難提を失くして、禅利多を追放し、国を出て僧伽難提を探し歩いたが、僧伽難提の所在を知る事ができなかった。


 十年が経ち、僧伽難提は、仏法を会得して、「授記が終わって」、「仏に成る予言をされ終わって」、教化するために巡り歩いて、摩提国に至った。

 (十七祖の僧伽難提の仏法を嗣いだ、十八祖の伽耶舎多は摩提国の人である。)



 「在家」と「出家」という呼称は、十七祖の僧伽難提の時から聞こえ始めた。


 僧伽難提は、前世の善業の助けによって、天からの光の中で平坦な道を得たのである。

 (悟る前までの今世の人生を「前世」と言う場合が有る。)


 僧伽難提が、(つい)に、家である王宮を出て岩窟に至ったのは、実に、優れた行跡なのである。


 俗世の楽しみを嫌い、「俗塵」、「俗事」を(うれ)う者は、聖者なのである。

 「色声香味触」への「五欲」を(した)い、「出離」、「解脱」を忘れる者は、愚かな凡人なのである。


 唐の時代の中国の皇帝の粛宗と代宗は、しきりに仏教徒に近づいたが、なお王位を(むさぼ)って投げ捨てる事ができなかった。


 三十三祖の大鑑禅師が、親を(泣く泣く)捨てて、祖師と成ったのは、出家の功徳による物なのである。


 在家者の修行者である、蘊公と呼ばれる龐居士が、宝を捨てたが、(ちり)を捨てなかったのは、「最悪に愚かである」と言える。


 三十三祖の大鑑禅師の仏道による力と、在家者の修行者である龐居士の稽古(けいこ)は、比べるまでもない。


 知が明らかである者は必ず出家する。

 知が暗い者は家で人生を終えてしまうが、在家は「黒業」、「悪業」の因縁と成ってしまうのである。



 南嶽の懐譲は、ある日、ほめたたえて、「『無生法』、『生じる事を超越している法』の(ため)に出家するのである。天上でも、人の間でも、出家は最も優れている!」と言った。



 「無生法」、「生じる事を超越している法」とは、「如来の正しい法」、「仏法」なのである。

 このため、天上でも、人の間でも、出家は最も優れている。


 天上とは、欲界に六つの天、色界に十八の天、無色界に四つの天が有るが、共に、出家の道に及ばない。



 盤山宝積は、「皆さん。

『この中で』、仏道を学び修行するとは、

地が、山を持ち上げていても、山の高さを知らないような物なのであるし、

石が、宝玉を包んでいても、宝玉の無傷の完璧さを知らないような物なのである。

このように仏道を学び修行する事を『出家』と言う」と言った。



 仏祖の正しい仏法は、必ずしも、知る、知らない、に関わらない。


 出家は仏祖の正しい仏法であるので、出家の功徳は明らかなのである。



 鎮州の臨済院の、臨済義玄は、「出家者は、平常の真の正しい見解をわきまえて会得して、仏と『魔』、『仏敵』をわきまえるべきであるし、真偽をわきまえるべきであるし、凡人と聖者をわきまえるべきである。

このように、わきまえて会得していれば、『真の出家者である』と言える。

仏と『魔』、『仏敵』などをわきまえなければ、ある家から出たのに別の家へ入ってしまうような物なのであり、『(罪)業を造る在家者である』と言えるし、『真の正しい出家者である』とは言えない」と言った。



 「平常の真の正しい見解」とは、因果を深く信じる事や、「仏、法、僧」という「三宝」を深く信じる事などである。

 「仏をわきまえる」とは、仏の「因中」、「修行中」の功徳と「果上」、「悟り」の功徳を明らかに思う事なのであるし、

真偽を明らかに、わきまえて受け入れる事なのであるし、

凡人と聖者を明らかに、わきまえて受け入れる事なのである。


 もし仏と「魔」、「仏敵」を明らめなければ、仏道を学び修行する事が阻害されてしまい破壊されてしまい退転してしまうのである。

 「魔」、「仏敵」の事を覚知して従わなければ、仏道をわきまえる事に不退転に成るのである。

 これを「真の正しい出家者の法」とする。


 いたずらに無駄に、「魔」、「仏敵」の事を誤って「仏法である」と思う者が多いが、近頃の誤りなのである。


 学徒は、早く、「魔」、「仏敵」を知り、仏を明らめて、修行して証するべきである。



 如来、釈迦牟尼仏が(肉体が)死ぬ時、初祖の迦葉は、釈迦牟尼仏に、「『世尊』、『如来』、『仏』は、諸々の素質を知る力を十分に備えています。

善星が必ず『断善根』、『一闡提』、『仏法を信じない者に成る事』を知っていたでしょう。

どんな『因縁』、『理由』で、善星の出家を聞き入れて許したのでしょうか?」と言った。

 釈迦牟尼仏は、「()い男子よ。

私(、釈迦牟尼仏)が昔、初めて出家した時、異母弟の難陀、従弟の阿難陀と提婆達多(デーヴァダッタ)、息子の羅睺羅(ラーフラ)といった者達が皆、(ことごと)く、私(、釈迦牟尼仏)に従って出家して仏道を修行した。

もし私(、釈迦牟尼仏)が善星の出家を聞き入れて許さなかったら、善星は次の王として王位を継いで権力を自在に操って仏法を壊したであろう。

このような『因縁』、『理由』のために、私(、釈迦牟尼仏)は、善星の出家を聞き入れて許したのである。

()い男子よ。

もし善星が出家していなければ、やはり『断善根』、『一闡提』、『仏法を信じない者』に成ってしまい無数の生において全く利益を得られなかったであろう。

しかし、善星は出家したので、『断善根』、『一闡提』、『仏法を信じない者』に成ってしまったが、戒を守っていたし、老僧、高徳の長老、徳が有る僧に捧げものを捧げて(うやうや)しく敬っていたし、『禅定』の『初禅』から『四禅』までを習って修得していた。

これらを『()い原因』と名づける。

このような『()い原因』は、()い物事を()く生じる。

()い物事が生じれば、仏道を習って修得できる。

仏道を習って修得すれば、無上普遍正覚を得る事ができる。

このため、私(、釈迦牟尼仏)は、善星の出家を聞き入れて許したのである。

()い男子よ。

もし私(、釈迦牟尼仏)が善星の出家を聞き入れて許さなかったら、私(、釈迦牟尼仏)は『如来の十力を十分に備えている』と言えない。

()い男子よ。

仏が全ての生者を観察すると、生者は善い物と悪い物を十分に備えている。

生者は、善い物と悪い物を備えているが、遠からず一切の善の種を断ってしまい、悪の種だけを備えてしまう。

なぜなら、生者は、『善友』、『善知識を持つ人々』に親しまないし、正しい法を聴かないし、()い思考を思考しないし、正しい法の通りに行わないからである。

このため、生者は、善の種を断ってしまい、悪の種だけを備えてしまう」と言った。



 知るべきである。

 如来、釈迦牟尼仏は、生者が「断善根」、「一闡提」、「仏法を信じない者」と成り得てしまう事を明らかに知っていても、「()い原因」を授けるために出家を聞き入れて許したのである。

 「大いなる慈悲」、「大いなる思いやり」である。


 「断善根」、「一闡提」、「仏法を信じない者」と成ってしまうのは、「善友」、「善知識を持つ人々」に近づかないし、正しい法を聴かないし、()い思考を思考しないし、正しい法の通りに行わない事による物なのである。


 学徒は、必ず、「善友」、「善知識を持つ人々」に親近するべきである。

 「善友」、「善知識を持つ人々」とは、「諸仏が存在する」と説く人々なのであるし、「罪の報いと、善行の報いである幸福が存在する」と教えてくれる人々なのである。

 因果を否定し信じない誤りを犯さない人々を「善友」、「善知識を持つ人々」とする。

 「善友」、「善知識を持つ人々」が説く物が、「正しい法」なのである。

 正しい法の道理を思考する事が、「()い思考」なのである。

 ()い思考の通りに行う事が、「正しい法の通りに行う」事なのである。


 そのため、生者は、親しい者にも、疎遠な者にも、選ばないで、出家して戒を受ける事を(すす)めるべきである。

 出家後の退転、不退転を(かえり)みる事なかれ。

 出家後、修行する、修行しない、を恐れる事なかれ。

 これが、釈迦牟尼仏の正しい法なのである。



 釈迦牟尼仏は、出家者達に告げて、「知るべきである。

閻魔大王は、『私(、閻魔大王)は、いつの日か、(地獄の裁判官という、)この苦難を脱して、人の中に生まれて、人の身を得て、出家して、(ひげ)と髪を()り除き、三種類の法衣を着て、仏道を学び修行したい』と思い、話している。

閻魔大王ですら、このように思っているのである。

まして、あなた達は、人の身を得て、出家者と成っている。

このため、諸々の出家者よ、身口意で善行を(おこな)って、欠点を無くそうと思うべきであるし、『五結』、『五種類の煩悩』を無くして、『信根、精進根、念根、定根、慧根』という『五根』を修行するべきである。

このようにして、諸々の出家者よ、仏道を学ぶべきである」と言った。

 この時、諸々の出家者は、釈迦牟尼仏が説いた教えを聞いて喜んで従って(おこな)った。



 明らかに知る事ができる。

 このように、たとえ閻魔大王であっても、人の中に生まれる事を請い願うのである。


 人の中に生まれている人は、急いで、(ひげ)と髪を()り除き、三種類の法衣を着て、仏道を学び修行するべきである。

 出家できる事は、他の「六道」よりも優れている人の中での功徳なのである。


 それなのに、人の間に生まれながら、いたずらに無駄に役人の官位といった処世術を(むさぼ)り求め、虚しく国王や大臣の召使いとして、一生を夢幻に巡らして、来世は暗黒(の地獄)に(おもむ)き、頼みとするものが未だ無いのは最悪の愚かさである。


 既に、受け難い人の身を受けているだけではなく、出会い難い仏法に出会っている。

 急いで諸々の「(えん)」、「つながり」を捨てて、(すみ)やかに出家して仏道を学び修行するべきである。


 国王、大臣、妻子、眷属には、どこでも必ず出会えるが、仏法には優曇華のように出会い難い。


 たちまち「無常」、「死」が来た時、国王、大臣、親しい人、従僕、妻子、珍しい宝が助けてくれる事は無い。


 独りで「黄泉」、「冥界」に(おもむ)くのである。

 自己に従うものは、善業や悪業などだけなのである。


 人の身を()くす時、人の身を惜しむ心は深いであろう。

 人の身を保持している時に、早く出家するべきである。

 これは、過去、現在、未来の諸仏の正しい法なのである。



 「出家行法」には四種類、有る。

 「四依」と言われている物である。


 (一)姿形、寿命が尽きるまで、樹の下で坐る。

 (二)姿形、寿命が尽きるまで、糞掃衣を着る。

 (三)姿形、寿命が尽きるまで、乞食する。

 (四)姿形、寿命が尽きるまで、病気が有る時は、「陳棄薬」を服用する。



 「四依」という法を全て行えば、「出家である」と言えるし、「僧である」と言える。

 「四依」という法を行わなければ、「僧である」とは言えない。

 このため、「出家行法」と言う。



 今、西のインドから東の地の中国まで、仏祖が正しく伝えている物は、「出家行法」なのである。

 「一生、寺や林を離れない(で坐禅する)」のであれば、「四依」、「出家行法」が備わるのである。

 これを「行四依」と言う。


 これとは違う「五依」を打ち立てる事は、邪法を打ち立てる事に成るのである、と知るべきである。

 信じて受け入れる事なかれ!

 忍耐して聴く事なかれ!


 仏祖が正しく伝えている物が、正しい法なのである。

 仏祖が正しく伝えている、正しい法によって出家するのが、人の間での最上の最も尊い喜ぶべき幸福なのである。


 このため、西のインドでは、釈迦牟尼仏の異母弟の難陀、釈迦牟尼仏の従弟の阿難陀、提婆達多(デーヴァダッタ)、阿那律、釈迦牟尼仏の親族の摩訶男、抜提は共に、釈迦牟尼仏の祖父の獅子頬王の孫であり、クシャトリヤのうち最も尊い貴い者達であったが、早く出家している。

 後世のための優れた行跡である。

 今、クシャトリヤではない仲間は、身を惜しむべきではない。

 王子ではない仲間は、惜しむ物は何も無いではないか!

 「南閻浮提」、「この世」の第一の最も尊い貴い社会的地位よりも、三界の(真の)第一の最も尊い高貴な仏に帰依する事が、出家なのである。

 他の小国の王、諸々の離車(リッチャヴィ)族の人々は、いたずらに無駄に惜しむべきではない物を惜しみ、誇るべきではないものなのに誇り、留まるべきではないものに留まって、出家しなかった。

 誰もが「愚かである」とする!

 誰もが「最悪に愚かである」とする!



 羅睺羅(ラーフラ)は、釈迦牟尼仏の息子であり、釈迦牟尼仏の父の浄飯王の孫である。

 浄飯王は、帝位を羅睺羅(ラーフラ)に譲ろうとした。

 けれども、釈迦牟尼仏は、羅睺羅(ラーフラ)を強引に出家させた。

 出家が最も尊い法なのである、と知るべきである。

 羅睺羅(ラーフラ)は、戒を厳密に守って修行した「密行第一の釈迦牟尼仏の十大弟子」として、今に至っても未だ涅槃に入らず、全ての生者のために「福田」、「幸福を生じる源である田畑」として「この世」に現在も(目に見えないが)住んで存在している。



 西のインドで釈迦牟尼仏の「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」を伝えている祖師達の中に、出家した王子は多い。

 二十八祖の達磨は、南インドの大国の香至王の第三王子である。

 達磨は、王位を重んじないで、正しい仏法を保持して伝えている。

 出家が最も尊い、と明らかに知る事ができる。


 これらの人々に及ばない身分を持ちながら、出家するべきなのに、急いで出家しない人は、どのような明日を待っているのか?


 呼吸する時間も待たないで、急いで出家する人は賢い。



 また、知るべきである。

 出家させてくれて戒を受けさせてくれた師の僧の恩は、父と母の恩と等しいのである。



 次のように、「禅苑清規」の第一には記されている。


 過去、現在、未来の諸仏は皆、出家して仏道を成就している、と言われている。

 初祖から二十八祖までの西のインドの二十八人の祖師達、二十八祖から三十三祖までの中国の六人の祖師達、釈迦牟尼仏の心の印を伝えている者達は(ことごと)く、出家者である。

 出家者は、戒律を厳密に清浄に守って、()く三界の模範と成っている。

 そのため、禅の学に参入して仏道を問うて探求するには、戒律を守る事を優先する。

 過ちを離れて予防しなければ、仏祖に成れない!



 たとえ末法の世に成り始めて仏道が衰退している寺や林であってもなお、クチナシのような香りが良い華が花開く林なのである。

 凡庸な、「草木」に例えられる「修行者」が及べる物ではないのである。


 また、水と混ぜ合わせた乳のような物なのである。

 乳を用いる時、水と混ぜ合わせた乳を用いるべきである。他の物を用いるべきではない。



 「過去、現在、未来の諸仏は皆、出家して仏道を成就している、と言われている」と正しく伝えられている出家が、最も尊いのである。

 さらに、出家していない過去、現在、未来の諸仏はいないのである。


 出家が、仏から仏へ、祖師から祖師へ、正しく伝えている「正法眼蔵涅槃妙心」、「正しくものを見る眼と寂滅した妙なる心」なのであるし、無上普遍正覚なのである。



 正法眼蔵 出家功徳

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