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正法眼蔵 三時業

 十九祖の鳩摩羅多がインドの中央に至った時、後の二十祖の闍夜多という名前の修行者がいた。

 後の二十祖の闍夜多は、十九祖の鳩摩羅多に、「私の家の父と母は、昔から、『仏、法、僧』という『三宝』を信じています。

しかし、昔から、病気にまとわりつかれ、営む事は皆、思い通りに成りません。

それなのに、隣の家の人は、長い間、悪業を犯しているが、体は常に元気で健康で、何をしても思い通りに成っています。

隣の家の人は、なぜ幸福なのでしょうか?

私達には、どんな罪が有るのでしょうか?」と質問した。

 鳩摩羅多は、「疑う事は無い!

善悪の報いが訪れる時期には『三時』、『この生の時、第二の生の時、第三の生以降の時』という三つの時期が有る。

大体の人は、思いやり深い人が早死にし、乱暴者が長生きし、悪逆な人が幸運であり、正義の人が不運であるのを見て、因果を否定し信じない誤りを犯し、罪も報いも無いと誤って思ってしまう。

影響は人の後を完全についていく事を(大衆は)知らない。

また、(罪と罪の報いは)百、千、万の無数の劫を経ても磨滅する事は無い(のを大衆は知らない)」と言った。

 闍夜多は、この時、この言葉を聞いて、すぐに疑いが解けた。



 十九祖の鳩摩羅多は、如来、釈迦牟尼仏から十九代目の、仏法を付属された祖師である。

 如来、釈迦牟尼仏は、目の前で、十九祖の鳩摩羅多の名前を(予言して)記していた。


 鳩摩羅多は、釈迦牟尼仏、一人の仏法を明らめて正しく伝えているだけではなく、過去、現在、未来の諸仏の仏法も明らめて理解している。


 闍夜多は、この質問をした後、十九祖の鳩摩羅多に従って、如来、釈迦牟尼仏の正しい法を習って修得し、(つい)に二十祖と成った。

 釈迦牟尼仏は、遥かな昔、「二十祖は闍夜多である」と(予言して)記していた。



 仏法を判断するには、このように、祖師が判断したように、習って学ぶべきであるのが、(もっと)もなのである。


 今の世で、因果を知らないし、善業や悪業の報いを明らめていないし、過去、現在、未来を知らないし、善悪をわきまえていない、邪悪な見解を(いだ)いている輩の仲間に成るべきではない。



 十九祖の鳩摩羅多は「善悪の報いが訪れる時期には『三時』、『この生の時、第二の生の時、第三の生以降の時』という三つの時期が有る」と言った。



 (一)順現報受(現在の生で報いを受ける)

 (二)順次生受(次の生で報いを受ける)

 (三)順後次受(第三の生以降で報いを受ける)


 これらを「三時」と言う。



 仏祖の仏道を習って修得するには、最初に、「三時」という善業や悪業の報いの理を習って明らめるのである。

 そうでなければ、多くの人は誤って邪悪な見解に堕ちてしまうのであるし、

邪悪な見解に堕ちるだけではなく、地獄などの「三悪趣」、「三悪道」に堕ちて長い時、苦しみを受ける事に成ってしまうのである。

 「続善根しない」、「善の種となる善行を続けない」間は、多くの功徳を失ってしまうし、「菩提」、「覚」への道に長い間、障害が有ってしまう。

 惜しくはないか? はい! 惜しい!


 「三時」は、善業にも有るし、悪業にも有るのである。



 (一)順現報受業(現在の生で報いを受ける業)


 「善業や悪業をこの生で作ったり成長させたりして、この生で『異熟果』、『結果』、『報い』を受ける事を『順現報受業』(、『現在の生で報いを受ける業』)と名づける」。


 人が善であれ悪であれ(ごう)をこの生で作って、この生で(ごう)の報いを受ける事を「順現報受業」(、「現在の生で報いを受ける業」)と言う。


 次の話は、悪い(ごう)を作って、この生で悪い報いを受けた例である。



 昔、ある木こりが、山に入って降雪に遭遇して迷って道を見失ってしまった。

 日暮れに成るし、雪は深いし、寒さで凍えるし、木こりは、もうすぐ死にそうであった。

 木こりが、前に進んで、ある暗い木々が密集した林の中に入ると、一頭の(ヒグマ)に出会った。

 (ヒグマ)は先に林の中にいたようである。

 (ヒグマ)は、体の色が青みがかった黒であり、両眼は二つの燃える火のようであった。

 木こりは、恐怖で死にそうに成った。

 この(ヒグマ)は、実は、ある菩薩が(ヒグマ)の身を受けて「この世」に出現している者であった。

 (ヒグマ)は、木こりが恐怖しているのを見て、すぐに、慰めて、さとして、「あなた。怖がる事はありません。父と母が子に他意が有っても、私は、あなたに悪意はありません」と言った。

 (ヒグマ)は、前に進んで、木こりを捧げるように持って、穴の中に入り、木こりの身を(あたた)め、木こりを蘇生させて息を吹き返させて、様々な食べられる根や果実を取って来て、木こりに(すす)めて食べさせた。

 (ヒグマ)は、木こりが凍死する事を恐れて、木こりを抱いて寝てあげた。

 このように、(ヒグマ)が木こりを大事に世話して養って、六日間が経過した。

 七日目に成って、天候が晴れて、道が見えるように成った。

 (ヒグマ)は、木こりが帰りたいと思っているのを知って、甘い果実を取って来て木こりに十分に食べさせて、木こりを林の外まで送ってあげて、木こりに礼儀正しく別れを告げた。

 木こりは、ひざまずいて感謝して、「何によって恩に報いれば良いのでしょうか?」と言った。

 (ヒグマ)は、「私は別に報いは求めません。ただ、何日間か私が、あなたの身を護ったように、願わくば、あなたも、私の命を同様に護ってください」と言った。

 木こりは、(うやうや)しく引き受けて、下山した。

 木こりは、二人の猟師に出会った。

 猟師たちは、木こりに、「山中で何か獣を見なかったか?」と質問した。

 木こりは、「(ヒグマ)しか見なかった」と答えた。

 猟師たちは、「(ヒグマ)を見た場所を教えてくれませんか?」と頼んだ。

 木こりは、「三分の二の分け前をくれるなら教えよう」と答えた。

 猟師たちは、木こりへの分け前を認めた。

 木こりは、猟師たちに同行して、(ヒグマ)を殺害し、(ヒグマ)の肉を三等分にした。

 木こりが、両手で(ヒグマ)の肉を受け取ろうとすると、悪業の力によって、宝石の首飾りの紐が切れたように、(ハス)(くき)と蓮根が切れるように、両方の腕が抜け落ちた。

 猟師たちは、驚いて、(木こりに腕が抜け落ちた)理由を質問した。

 木こりは、罪を恥じて、詳細を述べた。

 猟師たちは、木こりを責めて、「あなたは、(ヒグマ)から大きな恩を受けたのに、なぜ、こんな悪逆な行いをできたのか? あなたの身が崩れてしまわないのが不思議なくらいだ!」と言った。

 猟師たちは、(ヒグマ)の肉を寺に捧げた。

 寺の上座の僧は、この時、「妙願智」を得たので、すぐに「定」に入って、「この肉は、何者の肉であるのか?」と()ると、「利益と安楽を一切の全ての生者に与える、大いなる菩薩の肉である」と知った。

 上座の僧は、「定」を出ると、知った事を僧達に言った。

 僧達は、聞いて驚き、(ヒグマ)をほめたたえて、香木を(まき)として集めて、(ヒグマ)の肉を燃やして、燃え残った(ヒグマ)の骨を収めた塔を建てて礼拝して捧げものを捧げた。


 このような悪業は、次の生を待つか、この生から次の生へ渡って、悪業の結果の報いを受ける。



 このようであるのを「悪業の順現報受業」(、「悪業のうち現在の生で報いを受ける業」)と名づける。


 恩を受けたら恩に報いる事を志すべきである。

 他者に恩を与えても、報いを求める事なかれ。


 今でも、恩が有る人に、恩を仇で返して危害を加えようとすれば、その悪業の報いを必ず受けるのである。


 全ての生者よ、永遠に、この話の木こりのような心を持つ事なかれ。

 木こりは、林の外で別れを告げる時には、どうやって恩に報いて感謝するべきかと言っていたが、山の(ふもと)で猟師たちに会った時には、三分の二の肉を(むさぼ)ろうとした。


 貪欲に()かれて、大きな恩が有る者に危害を加えたのである。


 在家者も出家者も、永遠に、このような恩知らずな心を持つ事なかれ。


 悪業の力が切る時、刀剣が切るよりも速く、両手を切る。



 次の話は、この生で()(ごう)を作って、「順現報受に」、(「現在の生で」、)()い報いを得た例である。



 昔、健陀羅(ガンダーラ)という国の迦膩色迦(カニシカ)(一世)という王の下に、ある、男性器に異常が有る男性がいた。

 ある男性は、常に、城内の事を監督していた。

 ある男性は、しばらく城外に出た時、五百頭くらいの牛の群れが城内に入れられるのを見た。

 ある男性は、牛を追い込んでいる者に、「この牛たちをどうするのですか?」と質問した。

 牛を追い込んでいる者は、「この牛たちの男性器を去勢します」と答えた。

 ある男性は、この時、「私は前世の悪業によって男性器に異常が有る男性の身を受けてしまったのだろう。今、私の財産によって、この牛たちを去勢という災難から救ってあげよう(。今世で善業をしよう)」と自ら思考した。

 ある男性は、(つぐな)って、牛たちを(ことごと)く去勢から救ってあげた。

 善業の力によって、ある男性は、男性器が正常な身に回復した。

 ある男性は、深い喜びが生じ、すぐに城内に帰還して、王宮の門のそばに行って王への使者を頼んで、王宮に入って王に会いたいと頼んだ。

 王は、ある男性を王宮に呼んで入れて、不思議に思い、会いたく成った理由を質問した。

 ある男性は、先ほどの事を詳細に話した。

 王は、聞いて驚き、喜び、ある男性に、珍しい財宝を手厚く与え、高い官位も与え、城外の事も監督させる事にした。


 このような善業は、次の生を待つか、この生から次の生へ渡って、善業の結果の報いを受ける。



 明らかに、知る事ができる。

 牛といった家畜の身は(世俗的には)惜しむべきではなくても、救う人は()い結果を受ける。


 まして、「父と母、師、年上の人々」という「恩田」を敬い、「仏、法、僧」という「(功)徳田」、「三宝」を敬い、諸々の善を修行する人は()い結果を受ける!


 このようであるのを「善の順現報受業」(、「善の、現在の生で報いを受ける業」)と名づける。



 善によって、また、悪によって、このような物事は多いが、挙げ尽くすには時間がいくつ有っても足りない。



 (二)順次生受業(次の生で報いを受ける業)


 「善業や悪業をこの生で作ったり成長させたりして、(次の生で、)第二の生で『異熟果』、『結果』、『報い』を受ける事を『順次生受業』(、『次の生で報いを受ける業』)と名づける」。


 人が、この生で「五無間業」、「無間地獄に落ちる最も重い罪である五逆罪」を犯すと、必ず、次の生で無間地獄に落ちるのである。


 「順次生受」の「順次生」とは、この生の、次の生である。


 他の罪によって、次の生で地獄に落ちる場合も有る。

 また、第三の生以降で引きずるべきであれば、次の生では地獄に落ちないが、第三の生以降で地獄に落ちる場合も有る。


 「五無間業」、「無間地獄に落ちる最も重い罪である五逆罪」は、必ず、次の生で地獄に落ちるのである。


 「順次生受」の「順次生」、「次の生」を「第二の生」とも言う。



 「五無間業」、「無間地獄に落ちる最も重い罪である五逆罪」とは、

(一)父を殺す罪

(二)母を殺す罪

(三)阿羅漢を殺す罪

(四)仏の身から出血させる罪

(五)法輪と僧を破る罪。仏の法を破って僧団を破壊する罪。

である。


 これらを「五無間業」、「五逆罪」と名づける。


 父を殺す罪、母を殺す罪、阿羅漢を殺す罪は、殺人罪である。


 仏の身から出血させる罪は、殺人未遂である。

 如来、仏は、どのようにしても人に殺されないようにしてくれるので、仏の身から出血させるのを「五逆罪」とするのである。

 早死にしない者は、(仏、)最後身の菩薩、兜率天の一生補処の菩薩、北倶盧洲の者、樹提伽のような者、「仏医」、「釈迦牟尼仏の医者」の耆婆のような者である。


 仏の法を破って僧団を破壊する罪は、「虚誑語」、「人をたぶらかすための虚偽の言葉」を話す罪である。


 「五逆罪」を犯す事は、必ず、「順次生受業」(、「次の生で報いを受ける業」)に成り、地獄に落ちるのである。


 提婆達多(デーヴァダッタ)は、「五無間業」、「五逆罪」のうち三つを犯した。


 提婆達多(デーヴァダッタ)は、蓮華(ウッパラ)(ヴァンナー)比丘尼を殺した。

 蓮華(ウッパラ)(ヴァンナー)比丘尼は、大いなる阿羅漢であった。

 蓮華(ウッパラ)(ヴァンナー)比丘尼を殺した罪を「阿羅漢を殺す罪」とする。


 提婆達多(デーヴァダッタ)は、大きな石を投げて、釈迦牟尼仏を殺そうとした。

 その時、「山神」という霊が大きな石を(さえぎ)って砕いた。

 大きな石は、砕けて飛び散って、如来、釈迦牟尼仏の足の指に当たり、足の指は破れて出血した。

 これは、仏の身から出血させる罪である。


 提婆達多(デーヴァダッタ)は、初心者の愚鈍な出家者、五百人をたぶらかして伽耶山の山頂へ()って別の「羯磨」、「作法」(の異端)を作った。

 これは、仏の法を破って僧団を破壊する罪である。


 提婆達多(デーヴァダッタ)は、これらの「五逆罪」のうちの三つの罪によって、「阿鼻地獄」、「無間地獄」に落ちた。

 今も、提婆達多(デーヴァダッタ)は、「無間の」、「絶え間無い」苦しみを受けている。


 過去七仏のうち「拘留孫仏、拘那含牟尼仏、迦葉仏、釈迦牟尼仏」という「四仏」の提婆達多(デーヴァダッタ)に相当する裏切者と提婆達多(デーヴァダッタ)は、今もなお「阿鼻地獄」、「無間地獄」にいる。


 倶伽離比丘は、舎利弗(シャーリプトラ)目犍連(モッガラーナ)が無実であるのに、事実無根の、出家者なのに女性と性交する波羅夷罪を犯したという悪口を言いふらした。

 釈迦牟尼仏が倶伽離比丘を(いさ)めたし、梵天も来て倶伽離比丘を制止したが、倶伽離比丘は、舎利弗(シャーリプトラ)目犍連(モッガラーナ)の悪口を言いふらしたので、(次の生で、)地獄に落ちた。


 四禅比丘は、命が終わる時に臨んで、仏の悪口を言ったので、「阿鼻地獄」、「無間地獄」に落ちた。


 このようであるのを「順次生受業」(、「次の生で報いを受ける業」)と名づける。



 (三)順後次受業(第三の生以降で報いを受ける業)


 「善業や悪業をこの生で作ったり成長させたりして、第三の生で、または、第三の生以降で、百、千の無数の劫が過ぎても、『異熟果』、『結果』、『報い』を受け続ける事を『順後次受業』(、『第三の生以降で報いを受ける業』)と名づける」。


 人が、この生で、善業であれ悪業であれ、(ごう)を作り終わっていても、第三の生で、または、第四の生で、または、第四の生以降で百、千の生の間でも、善業や悪業の報いを受けて感じるのを「順後次受業」(、「第三の生以降で報いを受ける業」)と名づける。


 菩薩による仏に成るまでの「三阿僧祇劫」の修行の功徳の多くは、「順後次受業」(、「第三の生以降で報いを受ける業」)なのである。

 (仏に成るには「三阿僧祇劫」と「百大劫」という長い年月がかかると言う場合が有る。)

 この道理を知らない修行者の多くは、疑いを(いだ)いてしまうのである。

 二十祖の闍夜多が在家者の修行者であった時のように。

 二十祖の闍夜多は、もし十九祖の鳩摩羅多に出会わなかったら、疑いを解き難かったであろう。


 修行者は、思考が()ければ悪(い心)を(めっ)して無くせるし、悪い事を思考してしまえば善(い心)を(すみ)やかに(めっ)して()くしてしまうのである。



 首都が「室羅筏(シュラーヴァスティー)」、「室羅伐(シュラーヴァスティー)」、「舎衛城(シュラーヴァスティー)」であるコーサラ国に、昔、二人の人がいた。

 二人のうち、一人は常に善行を修行し、もう一人は常に悪行をなしていた。

 善行を修行していた者は、「一身中に」、「一生で」、常に善行を修行し、未だかつて悪行をなさなかった。

 悪行をなしていた者は、「一身中に」、「一生で」、常に悪行をなし、未だかつて善行を修行しなかった。


 善行を修行していた者は、命が終わる時に臨んで、「順後次受の悪業の力によって」、「前々世の悪業の力によって」、地獄の「中有」が目の前に現れた。

 「私は、『一身中に』、『一生で』、常に善行を修行し、未だかつて悪行をなさなかった。私は、天に生まれるべきである。どんな(えん)が有って、地獄の『中有』が目の前に現れたのか?」と思考したが、(つい)に、「私には、きっと、『順後次受の悪業』、『前々世に悪業』が有って、今、成熟して(結果の報いと成って)、地獄の『中有』が目の前に現れたのであろう」と思考して言った。

 「一身で」、「一生で」、今まで、善行を修行していた事を自ら思い出して、深い喜びが生じた。

 優れた()い思考が目の前に現れたので、地獄の「中有」が()き消されて、たちまち天の「中有」が目の前に現れた。

 「中有」を経由してから命が終わり、天に生まれた。



 この、常に善行を修行していた人は、「『順後次受に』、『前々世に』、きっと、報いを受けるべきである悪業が私の身には有ったのであろう」と思っただけではなく、更に進んで「『一身での』、『一生での』、善行の修行の報いもまた、きっと、後で受けるはずである」と思った。

 「深い喜びが生じた」とは、この思考による物なのである。

 この思考と、善行を修行した思い出は真実であるので、地獄の「中有」が()き消されて、たちまち天の「中有」が目の前に現れて、命が終わったら、天に生まれた。


 もし、この人が悪人であったら、命が終わる時に臨んで、地獄の「中有」が目の前に現れたら、「私の『一身での』、『一生での』、善行の修行は功徳が無い。善悪が有るならば、どうして私が地獄の『中有』を見るであろうか? 善悪など無い!」と思ってしまうであろう。

 この時、因果を否定し信じない誤りを犯してしまうであろうし、「仏、法、僧」という「三宝」の悪口を言ってしまうであろう。

 もし、このようであれば、命が終わったら、地獄に落ちてしまうであろう。

 このようではなかったので、天に生まれたのである。

 この道理を明らめて、知るべきである。



 悪行をなしていた者は、命が終わる時に臨んで、「順後次受の善業の力によって」、「前々世の善業の力によって」、天の「中有」が目の前に現れた。

 「私は、『一身中に』、『一生で』、常に悪行をなし、未だかつて善行を修行しなかった。私は、地獄に生まれるはずである。どんな(えん)が有って、天の『中有』が目の前に現れたのか?」と思考した。

 (つい)に、邪悪な見解を立てて、因果と善悪の存在を否定し信じない誤りを犯した。

 邪悪な見解の力によって、すぐに天の「中有」が()き消されて、たちまち地獄の「中有」が目の前に現れた。

 「中有」を経由してから命が終わり、地獄に生まれた。



 この、悪行をなしていた人は、生きれば生きるほど、常に悪行をなした。

 さらに、一つも善行を修行しなかっただけではなく、命が終わる時に臨んで、天の「中有」が目の前に現れるのを見たが、「順後次受の善業の力による物である」、「前々世の善業の力による物である」と知る事ができないで、「私は、一生の間、悪行をなしていたが、天に生まれようとしている。測り知る事ができる。善悪など存在しない」といった善悪の存在を否定し信じない邪悪な見解を立てた力によって、すぐに天の「中有」が()き消されて、たちまち地獄の「中有」が目の前に現れ、「中有」を経由してから命が終わり、地獄に落ちて生まれた。

 邪悪な見解を立てた力によって、天の「中有」が()き消されたのである。



 修行者は邪悪な見解を立てる事なかれ。

 どういった物が邪悪な見解であるのか? どういった物が「正しくものを見る事」であるのか? と形に成り尽くすまで学習するべきである。


 まず、因果を否定し信じない誤りを犯してから、「仏、法、僧」という「三宝」の悪口を言い、過去、現在、未来と解脱を否定し信じない誤りを犯す物であるが、全て、邪悪な見解なのである。


 正に、知るべきである。

 今の生の私の身は、唯一無二なのである。

 いたずらに無駄に、邪悪な見解に堕ちて、虚しく悪業の報いを感じて得てしまうのは、惜しくないか? はい! 惜しい!


 悪行をなしながら、「私は悪人ではない」と思い込もうとしたり、「悪行の報いは無い」と邪悪な思考をしたりしても、悪行の報いを感じて得る事に成るのである!



 「供奉」の皓月は、長沙景岑に、「古代の高徳の僧は、『(涅槃、寂滅に入り)終われば、悪業による障害は本来は(くう)である。(涅槃、寂滅に入る事が)未だ終わっていなければ、前世の悪業を(つぐな)うべきである』と言っています。

二十四祖の獅子や二十九祖の慧可のような(殺された)人は(自然死ではないので)、どうして、前世の悪業を(つぐな)う事ができ得るでしょうか?」と質問した。

 長沙景岑は、「あなたは、『本来は(くう)である』事を理解していない」と言った。

 皓月は、「『本来は(くう)である』とは、どういった事なのでしょうか?」と言った。

 長沙景岑は、「『悪業による障害』が『本来は(くう)である』」と言った。

 皓月は、「『悪業による障害』とは、どういった物なのでしょうか?」と質問した。

 長沙景岑は、「悪業による障害とは、本来は(くう)である」と言った。

 皓月は、無言に成った。

 長沙景岑は、詩で示して、「『仮有』、『仮の存在』、『この世の物』、『肉体』は、元は、『真の有』、『真の存在』ではない。

『仮の滅』、『肉体の死』もまた、元は、『真の無』、『真の(くう)』ではない。

『涅槃』、『寂滅』も、前世の悪業を(つぐな)う事も、意義は、同一の性質の物であるし、更に、異なる物ではない」と言った。



 長沙景岑の答えは、答えに成っていない。

 十九祖の鳩摩羅多が二十祖の闍夜多に示した道理が無い。

 知るべきである。

 長沙景岑は、悪業による障害の主旨を知らないのである。



 仏祖の法の子孫は、修行して証して仏道をわきまえるには、まず、必ず、十九祖の鳩摩羅多のように、「三時の(ごう)」を明らめて知るべきである。

 既に、「三時の(ごう)」を明らめて知る事は、代々の祖師達の善業なのである。

 (おこた)るべきではない。



 「三時の(ごう)」の他に、「不定業」が有るし、八種類の(ごう)が有る。

 広く、「不定業」や八種類の(ごう)の学に参入するべきである。



 善業や悪業の報いの道理を未だ明らめていない輩は、(みだ)りに人や天人の導師と自称、詐称する事なかれ。



 「三時」の悪業の報いは必ず得て感じる事に成るが、懺悔(ざんげ)する者は、罪の重さを軽くしたり、罪を無くして清浄な者に成ったりできる。


 「三時」の善業は、「随喜すれば」、「()い言動を見聞きして喜び、帰依すれば」、ますます「増上」、「成長」する。


 善業や悪業が軽く成ったり重く成ったりするのは、全て、人が()した業の「白黒」、「善悪」に任されている。



 釈迦牟尼仏は、「たとえ百の劫を経ても、()した(ごう)は無く成らない。

因縁が巡り合わせた時に、結果である報いが返還されて自然に受ける事に成る。

あなた達は、知るべきである。

真っ黒な悪業を()すと、真っ黒な悪い『異熟果』、『結果』、『報い』を得る事に成ってしまう。

純白の善業を()すと、純白の()い『異熟果』、『結果』、『報い』を得る事に成る。

白黒な善悪が混ざった(ごう)()すと、()い物と悪い物が混ざった『異熟果』、『結果』、『報い』を得る事に成ってしまう。

このため、真っ黒な悪業と、白黒な善悪が混ざった(ごう)を離れて、純白の善業を学んで修行する事に勤めるべきである」と言った。

 この時、諸々の、集まっていた者達は、仏が説いた教えを聞き終わって、喜び、信じて受け入れた。



 正法眼蔵 三時業

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