正法眼蔵 出家
次のように、禅苑清規には記されている。
「過去、現在、未来の諸仏は皆、出家して仏道を成就した」と言われている。
(初祖から二十八祖までの)西のインドの二十八人の祖師達と(二十八祖から三十三祖までの)中国の六人の祖師達は、釈迦牟尼仏の心の印を伝えているが、尽く出家者である。
考えると、出家者の戒律を厳しく清浄に守って、能く三界の模範と成っている。
そのため、禅の学に参入して仏道を問うて探求するには、戒律を守る事を優先する。
過ちを離れて過ちを予防しなければ、仏祖に成れない!
出家者の戒律を受ける法では、「三衣」、「出家者の三種類の法衣」と器といった、新しい清浄な衣や物を準備する。
もし新しい衣が無いようであれば、(古い衣を)洗って清浄にする。
出家者の戒律を受ける場所に入って、出家者の戒律を受ける時に、衣と器を借りるのは駄目である。
(出家者の戒律を受ける時は、)一心に専念して注意して慎んで「異縁」、「意外な雑念に襲われる事」なかれ。
仏の姿を象って(模倣して)、仏の戒律を備えて、仏が「受用する事」、「受け入れてくれる事」を得る。これは一大事である!
「軽心」、「軽い気持ち」では駄目である!
もし衣と器を借りてしまったら、出家者の戒律を受ける場所に入って、出家者の戒律を受けても、戒律を受けた事には成らない!
もし出家者の戒律をかつて受けた事が無ければ、一生、出家者の戒律が無い人に成ってしまう。
(出家者の戒律を受けていない僧は、)濫りに「空門」、「空の門」、「仏教」に混じって、虚しく信者からの布施を受ける事に成ってしまう。
初心者は、仏道に入った時は仏法と戒律を暗記できていないため、師匠が言わなければ、このような(出家者の戒律を受けていない)状態に陥ってしまうかもしれない。
(そのため、)今、ここで、苦言を呈する。あえて望むと、心に銘じて忘れないべきである。
既に「声聞戒」を受けているのであれば、「菩薩戒」を受けるべきである。
出家者の戒律を受ける事は、仏法に入る最初の一歩なのである。
明らかに、知るべきである。
諸々の仏祖が仏道を成就できたのは、唯一、出家して出家者の戒律を受けた事による物なのである。
諸々の仏祖の命とは、出家して出家者の戒律を受ける事だけなのである。
未だかつて出家した事が無い者は、仏祖ではないのである。
「仏祖を見る」とは、出家して出家者の戒律を受ける事なのである。
(初祖の)摩訶迦葉は、釈迦牟尼仏に従って、出家を志して求めて、諸々の情が有る者を仏土へ渡す事を願った。
釈迦牟尼仏が「出家者よ、来なさい」と言うと、摩訶迦葉の髭と髪が自然に抜け落ち、(いつの間にか)摩訶迦葉の体は法衣に覆われていた。
これが、仏を学んで、諸々の情が有る者を解脱させる時は、皆、出家して出家者の戒律を受ける優れた行跡なのである。
次のように、「大般若波羅蜜多経」の第三に記されている。
次のように、釈迦牟尼仏は言った。
次のような事を、「菩薩摩訶薩」、「無上普遍正覚を求める大いなる修行者」は、思考するかもしれない。
私は、いつか、国王の位を捨てて、出家した日に無上普遍正覚を成就しよう。
また、この出家した日に「妙なる法輪を転じよう」、「妙なる法を説こう」。
無数の情の有る者を、「『塵』や『垢』」、「汚れ」、「煩悩」から遠ざけさせて離れさせて、菩薩の「浄法眼」、「法眼」を生じさせよう。
また、無数の情の有る者に、諸々の「漏」、「煩悩」を永遠に無くし尽くさせて、心と智慧を解脱させよう。
また、無数の情の有る者を、無上普遍正覚に不退転にさせよう。
このような「菩薩摩訶薩」、「無上普遍正覚を求める大いなる修行者」が、このような事を成就したいと欲するならば、「般若波羅蜜」、「知の到達」を学ぶべきである。
無上普遍正覚は、出家して出家者の戒律を受けた時に満足に成就できるのである。
出家した日でなければ、無上普遍正覚を満足に成就できない。
(出家しなければ、無上普遍正覚を満足に成就できない。)
そのため、出家した日をひねって来て、無上普遍正覚を成就する日を形成して現している。
無上普遍正覚を成就する日をひねって出すのは、出家した日なのである。
出家が「翻筋斗を打つ事」、「空中で一回転する事」が、「妙なる法輪を転じる事」、「妙なる法を説く事」なのである。
出家は、無数の情の有る者を、無上普遍正覚に不退転にさせるのである。
知るべきである。
「自利」、「自己の修行による利益を自己が受け取る事」と「利他」、「利益を他者にもたらす事」を満足に成就できるし、無上普遍正覚に不退転にさせる事ができるのは、出家と出家者の戒律を受ける事なのである。
無上普遍正覚の成就は、逆に、出家した日を無上普遍正覚と成すのである。
正に、知るべきである。
出家した日は、一つである、異なる、を超越しているのである。
出家した日のうちに、三阿僧祇劫の修行をして証するのである。
出家した日のうちに、無限の劫の海を行って、「妙なる法輪を転じる」、「妙なる法を説く」のである。
出家した日は、「謂如食頃」、「食事をするくらいの短い時間」ではないし、六十小劫ではないし、過去、現在、未来を超越しているし、「頂上」を脱ぎ落としている。
出家した日は、出家した日を超越しているのである。
けれども、鳥かごを打破すれば、出家した日は出家した日なのであるし、仏道を成就した日は仏道を成就した日なのである。
次のように、「大智度論」の第十三には記されている。
釈迦牟尼仏が祇園精舎にいた時、酔った、あるバラモンが、釈迦牟尼仏の所に来て、出家者に成りたいと欲した。
釈迦牟尼仏は、諸々の出家者達に命じて、あるバラモンの頭の髭と髪を剃って法衣を着させた。
あるバラモンは、酒の酔いから醒めると、自身が突然に出家者に変わっているのを見て驚き、逃げて走り去った。
諸々の出家者達は、釈迦牟尼仏に、「なぜ、酔った、あのバラモンの言葉を聞き入れて許して出家者にして、しかも、今、帰らせたのでしょうか?」と質問した。
釈迦牟尼仏は、「あのバラモンは、無数の劫の中で出家する心が無かったが、今、酔ったために、暫く、微かに『発心した』、『悟りを求める事を思い立って心した』のである。
この縁によって、後に、出家するはずである。
このように様々な因縁が有るのである。
出家者が戒律を破ってしまう事は、在家者が戒律を保持して守っている事よりも優れているのである。
在家者が戒律を保持して守っても解脱できないのである」と言った。
釈迦牟尼仏の言葉の主旨を明らかに知る事ができる。
釈迦牟尼仏の化の導きの根本は、出家なのである。
未だ出家しない事は、仏法ではないのである。
如来、釈迦牟尼仏が存命中、諸々の外道は、自らの邪道を捨てて仏法に帰依する時、必ず、まず、出家を請い願ったのである。
釈迦牟尼仏が「出家者よ、来なさい」という言葉を授けたり、釈迦牟尼仏が諸々の出家者達に命じて頭の髭と髪を剃って出家させて出家者の戒律を受けさせたりすると、たちまち、出家して出家者の戒律を受ける法が十分に備わった事に成ったのである。
知るべきである。
仏の化の導きを身心に被らせた時は、頭の髭と髪は自然に抜け落ち、(いつの間にか)体が法衣に覆われている物なのである。
もし諸仏が未だ許していない時には、頭の髭と髪は剃り除かれないのであるし、体が法衣に覆われないのであるし、仏の戒律を受ける事ができないのである。
そのため、出家して出家者の戒律を受ける事は、諸仏、如来が親しく「授記した」、「仏に成れるという予言を授けた」事に成るのである。
「法華経」の「如来寿量品」で、釈迦牟尼仏は、「諸々の善い男子よ。
如来(である私、釈迦牟尼仏)は、諸々の全ての生者が矮小な法を願って徳が薄く『垢』、『汚れ』、『煩悩』が重いのを見て、この人々の為に『私(、釈迦牟尼仏)は若くして出家して無上普遍正覚を得た』と説いたのである。
けれども、実は、私(、釈迦牟尼仏)は、仏に成ってから今まで、このように、とても長い時間を生きているのである。
方便で、全ての生者を教化して仏道に入らせるために、このように説いたのである」と言った。
「実は、私(、釈迦牟尼仏)は、仏に成ってから今まで、このように、とても長い時間を生きている」のは、「私(、釈迦牟尼仏)は若くして出家した」事による物なのである。
「無上普遍正覚を得た」のは、「私(、釈迦牟尼仏)は若くして出家した」事による物なのである。
「私(、釈迦牟尼仏)は若くして出家した」事を挙げて、ひねると、「矮小な法を願って徳が薄く『垢』、『汚れ』、『煩悩』が重い全ての生者」と共に「私(、釈迦牟尼仏)は若くして出家した」事に成るのである。
「私(、釈迦牟尼仏)は若くして出家した」という説法を見聞きして学に参入すると、釈迦牟尼仏の無上普遍正覚を見る事に成るのである。
「矮小な法を願う全ての生者」を救って仏土へ渡す時、「この人々の為に『私(、釈迦牟尼仏)は若くして出家して無上普遍正覚を得た』と説く」のである。
最終的に質問しよう。
出家の功徳は、どのくらいに成るのであろうか?
質問者に向かって言おう。
「頂上」くらいに成るのである。
正法眼蔵 出家
その時、千二百四十六年、越宇の永平寺にいて僧達に示した。




