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正法眼蔵 虚空

 「ここが、どこだと思っているのか?」のために、仏道が形成されて現されて仏祖に成らせる。

 仏祖の仏道が形成されて現されるのは自然に正統に代々形成されて現されるので、「皮肉骨髄」、「理解」が渾身する、虚空に掛かる事なのである。

 虚空は、(くう)を二十に分類した「二十空」等の仲間ではない。

 (くう)は「二十空」だけではない! 八万四千空が有るし、たくさん有る。



 撫州の石鞏慧蔵は、西堂智蔵に、「あなたもまた虚空をとらえる事ができ得る事を理解していますか?」と質問した。

 西堂智蔵は、「(虚空を)とらえる事ができ得る事を理解しています」と言った。

 石鞏慧蔵は、「あなたは、どのように、とらえますか?」と言った。

 西堂智蔵は、手で虚空をつかむ手振りをした。

 石鞏慧蔵は、「あなたは虚空をとらえる事を理解していません」と言った。

 西堂智蔵は、「兄弟子よ、どのように、とらえるのですか?」と言った。

 石鞏慧蔵は、西堂智蔵の鼻の(あな)をつかんで引っ張った。

 西堂智蔵は、痛みをこらえる声を出して、「ひどいです。人の鼻の(あな)を引っ張るなんて。(鼻が)取れてしまいそうです」と言った。

 石鞏慧蔵は、「(虚空は、)このように、とらえて、初めて得られる」と言った。



 石鞏慧蔵は、「あなたもまた虚空をとらえる事ができ得る事を理解しているか?」と言った。

 「あなたもまた『通身』、『全身』が千手観音の『眼が有る手』であるのか?」と質問しているのである。


 西堂智蔵は、「(虚空を)とらえる事ができ得る事を理解している」と言った。

 虚空の一塊(ひとかたまり)は触れられて汚染されたのである。

 汚染されてから今まで、虚空は地に落ちたまま来ているのである。


 石鞏慧蔵は、「あなたは、どのように、とらえるのか?」と言った。

 「如如」、「真如」、「真の、ありのまま」と呼んで()しても、早くも変化し終わっているのである。

 けれども、変化に従って、そのように去るのである。


 西堂智蔵は、手で虚空をつかむ手振りをした。

 虎の頭に騎乗する事だけを会得していて、虎の尾をつかむ事を未だ会得していないのである。


 石鞏慧蔵は、「あなたは虚空をとらえる事を理解していない」と言った。

 (虚空を)とらえる事を理解していないだけではなく、虚空を夢にも未だ見た事が無いのである。

 けれども、年月が長いので、彼の(ため)に挙げて示す事は(ほっ)しないのである。


 西堂智蔵は、「兄弟子よ、どのように、とらえるのか?」と言った。

 「和尚、あなたも半分は言ってください。全てを私に頼る事なかれ」なのである。


 石鞏慧蔵は、西堂智蔵の鼻の(あな)をつかんで引っ張った。

 しばらく学に参入するべきである。

 西堂智蔵の「(真理を嗅ぎ分ける)鼻の(あな)」に石鞏慧蔵は身を隠している。

 または、「『(真理を嗅ぎ分ける)鼻の(あな)』が石鞏慧蔵を引き寄せている」という言葉が形成されて現される事が有る。

 けれども、虚空は一塊(ひとかたまり)なので、「磕著築著」、「ぶつかり当たり、突き当たる」のである。


 西堂智蔵は、痛みをこらえる声を出して、「ひどい。人の鼻の(あな)を引っ張るとは。(鼻が)取れてしまいそうである」と言った。

 従来は人に会うと思っていたが、たちまち自己に会う事を得たのである。

 けれども、自己を汚染するのは駄目なのである。

 「修己する」、「修行して自己を向上させる」べきである。


 石鞏慧蔵は、「(虚空は、)このように、とらえて、初めて得られる」と言った。

 「(虚空は、)このように、とらえて、初めて得られる」事が無いわけではないが、石鞏慧蔵は石鞏慧蔵と、共に一つの手を差し出して、(虚空を)とらえる事ができ得ていない。

 虚空は虚空と、共に一つの手を差し出して、(虚空を)とらえる事ができ得ていないので、未だ自ら労苦していないのである。



 尽界には虚空を許容する隙間(すきま)は無いが、石鞏慧蔵と西堂智蔵の話は久しく虚空の雷鳴を成している。


 石鞏慧蔵と西堂智蔵の後、「『法眼宗、潙仰宗、曹洞宗、雲門宗、臨済宗』という『五家』の師匠」を自称する、学に参入している人は多いが、虚空を見聞きしたり推測したりできている人は(まれ)なのである。

 石鞏慧蔵と西堂智蔵の前後で、虚空を(ろう)しようとする仲間の面々はいるが、着手できた人は少ない。


 石鞏慧蔵は虚空をとらえた。

 西堂智蔵は虚空を「見る事ができなかった」、「理解できなかった」。



 大仏寺の道元は、正に、石鞏慧蔵の(ため)に言おう。


 石鞏慧蔵が昔、西堂智蔵の「(真理を嗅ぎ分ける)鼻の(あな)」をつかんだ事が虚空をとらえた事に成るのであれば、石鞏慧蔵は自分の「(真理を嗅ぎ分ける)鼻の(あな)」をつかむべきであった。

 指先で指先をつかむ事も(虚空をとらえた事に成ると)理解して取るべきである。

 けれども、石鞏慧蔵は、虚空をとらえる身のこなしを少し知っている。

 たとえ虚空をとらえる良い手であっても、虚空の内外の学に参入するべきである。

 虚空を殺したり活かしたりする学に参入するべきである。

 虚空の軽重を知るべきである。

 仏から仏へ、祖師から祖師への、鍛錬して仏道をわきまえる事や、心する事と、修行する事と証する事や、言って理解して取る事と質問して理解して取る事は、虚空をとらえる事に成ると保持して任せられるべきである。



 道元の亡き師である、天童山の、古代の仏と等しい、五十祖の如浄は、「渾身は口に似ていて虚空にかかっている」と言った。



 明らかに知る事ができる。

 虚空の渾身は虚空にかかっている。



 洪州の西山の亮座主は、ある時、馬祖道一の所へ行っていた。


 馬祖道一は、「どんな経を説き明かすのか?」と質問した。

 亮座主は、「(般若)心経です」と言った。

 馬祖道一は、「何によって説き明かすのか?」と質問した。

 亮座主は、「心によって説き明かします」と言った。

 馬祖道一は、「心は主役のようなものであるし、思いは脇役のようなものである。

『眼(識)耳(識)鼻(識)舌(識)身(識)意識』という『六識』は伴侶なのである。

どうして経を説き明かす事ができ得ると理解できるであろうか? いいえ!」と言った。

 亮座主は、「心が(経を)説き明かす事ができ得ないのであれば、虚空が(経を)説き明かす事もでき得ないのでしょうか?」と言った。

 馬祖道一は、「(かえ)って、虚空こそが(経を)説き明かす事ができるであろう」と言った。

 亮座主は、(そで)を払って退席した。

 馬祖道一は、「亮座主」と呼んだ。

 亮座主は、振り向いた。

 馬祖道一は、「生まれてから老いに至るまで、ここ(、虚空)だけなのである」と言った。

 亮座主は、馬祖道一の言葉によって反省した。

 亮座主は、ついに(俗世から)西山へ隠れ住んで、その後の消息はわからない。



 そのため、仏祖は経を説き明かす者なのである。

 経を説き明かすとは、必ず、虚空に成る事なのである。

 (経を説き明かすとは、必ず、無の普遍に成る事なのである。)

 虚空でなければ、経を一つも説き明かす事ができ得ないのである。

 心経を説き明かすにも、身経を説き明かすにも、共に、虚空によって説き明かすのである。


 虚空によって、思量を形成して現しているし、

「不思量」、「今は思考できない思考」を形成して現している。


 虚空によって、「有師智」、「師がいて得られる知」を成すし、

「無師智」、「師がいなくても得られる知」を成す。


 「生知」、「生まれながらにして知っている知」を成したり、「学而知」、「学んで知る知」を成したりするのは、共に、虚空による物なのである。


 仏祖に成るのは、同様に、虚空による物なのである。



 二十一祖の婆修盤頭は、「心は、虚空の世界と同じである。(心と、虚空の世界は、)同じく、虚空の法を示す。虚空を『証得した』、『悟った』時、正しいも無いし、『非法』、『法から外れる事』も無い」と言った。



 壁に向かっている人が、人に向かっている壁と、出会って(まみ)える、牆壁の心や、枯木の心は、「虚空の世界」なのである。


 「(まさ)に、この身によって『得度するべき』、『(仏土へ)渡すべき』者には、この身を現して、その者の(ため)に法を説く」事は、「同じく、虚空の法を示す」事なのである。

 「(まさ)に、他の身によって『得度するべき』、『(仏土へ)渡すべき』者には、他の身を現して、その者の(ため)に法を説く」事は、「同じく、虚空の法を示す」事なのである。


 「一日に使われる」時と、「一日を使う事ができ得る」時は、「虚空を『証得した』、『悟った』時」なのである。


 「石は大きければ大きいし、石は小さければ小さい」事は、「正しいも無いし、『非法』、『法から外れる事』も無い」事なのである。



 このような虚空をしばらく「正法眼蔵涅槃妙心」、「正しくものを見る眼と寂滅した妙なる心」として参入して究めるだけなのである。



 正法眼蔵 虚空


 その時、千二百四十五年、越宇の大仏寺にいて僧達に示した。

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