正法眼蔵 発菩提心
心は三種類、有る。
(一)質多心。中国などでは「慮知心」と言う。(「質多」はサンスクリット語で「心」を意味する。)
(二)汗栗駄心。中国などでは「草木心」と言う。(原文は「汗栗多心」。「汗栗駄」はサンスクリット語で「心臓」を意味する。)
(三)矣栗駄心。中国などでは「積聚精要心」と言う。(原文は「矣栗多心」。)
三種類の心の中で、「菩提心」を起こすには、必ず、慮知心を用いる。
「菩提」はインドのサンスクリット語の音写で、中国などでは「道」と言う。
「質多」はインドのサンスクリット語の音写で、中国などでは「慮知心」と言う。
慮知心でなければ、「菩提心」を起こす事ができない。
ただし、慮知心を「菩提心」にするわけではない。
慮知心によって「菩提心」を起こすのである。
「『菩提心』を起こす」とは、自己が仏土へ未だ渡っていない時に、「先に、一切の全ての生者を仏土へ渡そう」という願いを起こして営むのである。
「姿形」、「外見」が卑しくても、「菩提心」を起こせば、既に、一切の全ての生者の導師なのである。
「菩提心」は、本から有るわけではないし、
今、新たに不意に突然に起こるわけではないし、
唯一ではないし、
多数ではないし、
「自然」、「成り行きな物」ではないし、
「凝然」、「じっと動かない物」ではない。
私の身の中に「菩提心」が有るわけではない。
私の身は心の中に有るわけではない。
「菩提心」は、法界に遍在するわけではないし、
前に存在していたわけではないし、
後に存在するわけではないし、
無いわけではないし、
「自性」、「自体の本来の性質」ではないし、
「他性」、「他のものの性質」ではないし、
「共性」、「共通性」ではないし、
「無因性」、「原因が無い性質」ではない。
けれども、「感応道交する」、「通じ合う」所で、「発菩提心する」、「発心する」のである。
諸々の仏や菩薩が授ける物ではなく、自分が可能な物ではなく、「感応道交する」、「通じ合う」と「発心する」ので、「自然」、「成り行きな物」ではないのである。
「発菩提心」、「発心」の多くは、「南閻浮提」、「この世」の人の身で「発心する」のである。
「発菩提心」は、「八難所」などでも少しは有るが、多くは無い。
「菩提心」を起こした後、「三阿僧祇劫」と「百大劫」、修行する。
(仏に成るには「三阿僧祇劫」と「百大劫」という長い年月がかかると言う場合が有る。)
または、無量の劫、行って、仏に成る。
または、無量の劫、行って、全ての生者を先に仏土へ渡して、自分は終に仏に成らない。
ただ全ての生者を仏土へ渡し、全ての生者に利益をもたらす者もいるのである。
菩薩の心、願いに従う。
「菩提心」とは、「どうにかして一切の全ての生者に『菩提心』、『悟りを求める心』を起こさせて、仏道に引き入れて導きたい」と絶え間無く「身業、口業、意業」の「三業」で営む物なのである。
いたずらに無駄に、世間の人々が欲望し願う物を与える事を「全ての生者に利益をもたらす」とするわけではない。
「発菩提心」、「発心」や、修行と証は、迷いと悟りの境地を超越しているし、
三界を超越しているし、
一切を超越しているし、
声聞や独覚の段階の人が及ぶ事ができる物ではない。
初祖の迦葉は、詩で釈迦牟尼仏をほめて、「発心と究極の境地の二つは全く異ならない。
このような二つの心を先に心で持つ事は難しい。
自分は未だ『得度しない』、『仏土へ渡らない』で、先に、他の者を仏土へ渡す。
このため、私、迦葉は、初めての発心を敬礼する。
(菩提心を)初めて起こした時に既に、人や天人の師と成れるのであるし、声聞や、『縁覚』(、『独覚』)を超越している。
このような発心は三界を超越している。
このため、『最無上(心)』と名づける事ができ得る」と言った。
「発心」とは、初めて「自分は未だ『得度しない』、『仏土へ渡らない』で、先に、他の者を仏土へ渡す」心を起こす事なのである。
初めて「自分は未だ『得度しない』、『仏土へ渡らない』で、先に、他の者を仏土へ渡す」心を起こす事を「初発菩提心」と言うのである。
「自分は未だ『得度しない』、『仏土へ渡らない』で、先に、他の者を仏土へ渡す」心を起こして以後、更に何人かの諸仏に出会い、捧げものを捧げて、仏法を見聞きし、更に「菩提心」を起こす事は、雪の上に霜を加えるような物なのである。
「究極の境地」とは、「仏という結果である悟り」なのである。
無上普遍正覚と「初発菩提心」は、量って比べれば、この世を焼き尽くす「劫火」と蛍の光のような物であるが、「自分は未だ『得度しない』、『仏土へ渡らない』で、先に、他の者を仏土へ渡す」心を起こせば、「二つは全く異ならない」のである。
「法華経」の「如来寿量品」で、釈迦牟尼仏は、「常に自ら、こう思う。『どの様にかして、全ての生者に、無上の道へ入る事を得させて、速やかに仏の身を成就する事を得させたい』」と言った。
この思いが、如来、釈迦牟尼仏の(「この世」での)寿命の量と成るのである。
仏が、発心、修行、悟りという結果を証する事は皆、このようなのである。
「全ての生者に利益をもたらす」とは、全ての生者に「自分は未だ『得度しない』、『仏土へ渡らない』で、先に、他の者を仏土へ渡す」心を起こさせる事なのである。
「自分は未だ『得度しない』、『仏土へ渡らない』で、先に、他の者を仏土へ渡す心を起こしている力によって、私は、仏に成ろう」と思うべきではない。
たとえ仏に成る事ができる功徳が熟して円満していても、なお功徳を全ての生者に巡らして、全ての生者が、仏に成れるように、または、仏道を会得できるように、「回向する」、「自分の功徳を他の者に与える」のである。
発心は、自分だけの物ではないし、他の者の物ではないし、(外から)来たわけではないが、発心して以後、大地を挙げれば皆、黄金と成るし、大海をかけば、たちまち、甘露と成る。
発心して以後、土石や砂礫を取る事は、「菩提心」をひねって来る事に成るのであるし、水しぶきや泡や火を持って来る事は、「菩提心」を親しく担って来る事に成るのである。
そのため、国や、城や、妻子や、「七宝」、「七種類の宝」や、男女や、頭や目や髄や脳や、身や肉や手や足を施す事は皆、「菩提心」が、競争して騒がしいのであるし、魚の様に活発なのである。
「質多心」、「慮知心」は、近いわけではないし、遠いわけではないし、自分だけの物ではないし、他の者の物ではないが、「自分は未だ『得度しない』、『仏土へ渡らない』で、先に、他の者を仏土へ渡す」道理で「質多心」、「慮知心」を巡らして不退転であれば、「発菩提心」、「発心」なのである。
そのため、今、一切の生者が「私の所有物である」と執着している草木や瓦礫や金銀や珍しい宝を「菩提心」で他の者に施す事もまた「発菩提心」、「発心」なのである!
心や、「諸法」、「全てのもの」は共に、「自、他、共、無因」、「自体の本来の物、他のものの物、共通の物、原因が無い物」ではないので、「菩提心」を「一刹那」、「一瞬」、起こしてからは、「万法」、「全てのもの」が皆、「増上縁」、「他のものを増上させる縁」と成る。
発心や、仏道の会得は皆、「刹那」、「一瞬の間」に生じて滅ぶ物による物なのである。
もし「刹那」に生じて滅びなければ、前の「刹那」の悪を去る事ができなく成ってしまうであろう。
前の「刹那」の悪を未だ去っていなければ、後の「刹那」の善は現在、生じて現れる事ができなく成ってしまうであろう。
発心や、仏道の会得や、善が生じる「刹那」の量は、如来、釈迦牟尼仏、独りだけが明らかに知らせてくれている。
「『一刹那』の心では、一つの言葉を起こす事ができる。『一刹那』の言葉では、一文字を説明できる」という言葉も如来、釈迦牟尼仏、独りだけの教えである。他の聖者には話す事ができない教えなのである。
壮年の男性が「一弾指」、「一回、指を弾く」間に、六十五の「刹那」が有って、「色受想行識」という「五蘊」が生じて滅びるが、凡人が、かつて覚知した事は無いのである。
「怛刹那」以上の量からは、凡人も知る事ができる。
(一つの「怛刹那」は百二十の「刹那」である。)
一つの昼夜を経る間に、六十四億九万九千九百八十の「刹那」が有って、「色受想行識」という「五蘊」も何回も生じて滅びるが、凡人が、かつて覚知した事は無いのである。
(「刹那」を)覚知できないので、(釈迦牟尼仏の「刹那」の話を聞いても、)「菩提心」を起こさない。
仏法を知らないし、仏法を信じない者は、「刹那」や「色受想行識」という「五蘊」が生じて滅ぶ道理を信じないのである。
如来、釈迦牟尼仏の「正法眼蔵涅槃妙心」、「正しくものを見る眼と寂滅した妙なる心」を明らめる者は、必ず、「刹那」や「色受想行識」という「五蘊」が生じて滅ぶ道理を信じるのである。
今、私達は、如来、釈迦牟尼仏が説いた教えに出会って、明らかに理解したように思われるが、わずかに「怛刹那」以上の量から「刹那」について知っているだけに過ぎないし、「『刹那』や『色受想行識』という『五蘊』が生じて滅ぶ道理は、釈迦牟尼仏の言う通りなのであろう」と信じて受け入れているだけに過ぎないのである。
釈迦牟尼仏が説いた一切の仏法を明らめる事ができないし、知らない事も、「刹那」の量を知らないのと同様である。
学者は、妄りに傲り高ぶる事なかれ。
極小を知らないだけではなく、極大をもまた知らないのだから。
如来、釈迦牟尼仏の仏道による力による時は、全ての生者もまた三千界を見る事ができる。
現在の生である「本有」から、「中有」を経て、未来の生である「当有」へ至る。
皆、「一刹那」ごとに移り行くのである。
自分の心とは無関係に、業に引かれて生と死をくり返す事は、「一刹那」も停滞しないのである。
生と死をくり返す身心によって、急いで「自分は未だ『得度しない』、『仏土へ渡らない』で、先に、他の者を仏土へ渡す」、「菩提心」を起こすべきなのである。
「発菩提心」、「発心」の道に背いて、たとえ身心を惜しんでも、生老病死して、終に、自分の所有物と成る事は有り得ないのである。
全ての生者の「寿行」、「寿命が活動して行く事」が生じ滅んで留まらないし、速やかであるのは、次のようなのである。
釈迦牟尼仏が存命中の時に、ある男性の出家者がいて、釈迦牟尼仏の所へ来て、釈迦牟尼仏の足に頭をつけて礼拝し、体勢を戻して釈迦牟尼仏の前に留まり、釈迦牟尼仏に「全ての生者の『寿行』、『寿命が活動して行く事』は、どうして速やかに生じ滅ぶのでしょうか?」と言った。
釈迦牟尼仏は、「私が説明できても、あなたは知る事ができない」と言った。
ある出家者は、「示す事ができる例えは無いでしょうか?」と言った。
釈迦牟尼仏は、「有ります。
今あなたの為に説きましょう。
例えば、四人のよい射手が、各々、弓矢を取り、相互に背を向けて集まって立ち、四方に矢を射ようとしていると、一人の(超常的に)足の速い男性が来て四人の射手に『あなた達、今、同時に矢を放ってください。私は全ての矢を取る事ができて全ての矢を地に落としません』と言うような物である。
どう思いますか?
この一人の(超常的に)足の速い男性は、速くないですか?」と言った。
ある出家者は、「非常に速いです。釈迦牟尼仏様」と言った。
釈迦牟尼仏は、「この一人の(超常的に)足の速い男性の速さは、『地行夜叉』が地を行く速さに及ばない。
『地行夜叉』が地を行く速さは、『空行夜叉』が空を行く速さに及ばない。
『空行夜叉』が空を行く速さは、『四天王天』の者の速さに及ばない。
『四天王天』の者の速さは、太陽や月の速さに及ばない。
太陽や月の速さは、『堅行天子』の速さに及ばない。
『堅行天子』は、太陽や月を導いて引いて行く者である。
これらの諸々の天人は、このような順序で比例して速い。
『寿行』、『寿命が活動して行く事』が生じて滅ぶのは、『堅行天子』よりも速いのである。
『刹那』で移り変わって行き、一時も停滞する事は無い」と言った。
私達の「寿行」、「寿命が活動して行く事」が生じて滅ぶのが速やかに「刹那」で移り変わって行くのは、このようなのである。
念と念の間で、修行者は、このような道理を忘れる事なかれ。
生じて滅ぶのが速やかに「刹那」で移り変わって行く事にいながら、もし「自分は未だ『得度しない』、『仏土へ渡らない』で、先に、他の者を仏土へ渡す」一念を起こす者には、長い寿命の量が、たちまち目の前に現れるのである。
過去、現在、未来の十方の諸仏、釈迦牟尼仏を含む過去七仏、二十八祖の達磨までの西のインドの二十八人の祖師達、二十八祖の達磨から三十三祖の大鑑禅師までの東の地の中国の六人の祖師達、釈迦牟尼仏の「正法眼蔵涅槃妙心」、「正しくものを見る眼と寂滅した妙なる心」を伝えている祖師達は皆、共に、「菩提心」を保持し任せられている。
「菩提心」を未だ起こしていない人は祖師ではないのである。
「禅苑清規」の第百二十問には、「『菩提心』を起こして悟っているか否か?」と記されている。
仏祖が仏道を学び修行する時は必ず、「菩提心」を起こして悟るのを優先する事を明らかに、知るべきである。
「菩提心」を優先する事が仏祖の常套手段なのである。
「起こして悟る」とは、明らかに理解する事なのである。
これは、「大覚」、「大いなる悟り」ではない。
たとえ「十地」を速やかに証して悟ってもなお、菩薩なのである。
二十八祖の達磨までの西のインドの二十八人の祖師達、二十八祖の達磨から三十三祖の大鑑禅師までの東の地の中国の六人の祖師達、諸々の大いなる祖師達は、菩薩なのであるし、仏ではないし、声聞や独覚などではない。
今の世にいる学に参入しようとしている輩の中には、「菩薩なのであるし、声聞ではない」事を明らめて知っている僧は一人もいない。
ただ妄りに「僧である」と自称して、「菩薩なのである」真実を知らないので、乱雑にしている。
末法の世に成り始めて祖師の仏道が衰退している事を憐れむべきである。
たとえ在家者でも、たとえ出家者でも、天上にいても、人の間にいても、苦しんでいても、楽しんでいても、早く「自分は未だ『得度しない』、『仏土へ渡らない』で、先に、他の者を仏土へ渡す」心を起こすべきである。
「衆生界」、「この世」は有限でも無限でもないが、「先に、一切の生者を仏土へ渡す」心を起こすのである。
「先に、一切の生者を仏土へ渡す」心が「菩提心」なのである。
「一生補処」、「この世に生まれるが、来世で仏に成れる」菩薩は、まさに「南閻浮提」、「この世」に降りようとする時、「兜率天」の諸々の天人のために、最後の教えを施して「『菩提心』は『法明門』、『法を明らかにする門』なのである。『仏、法、僧』という『三宝』を断たないので」と言う。
「三宝が断たれない」のは「菩提心」の力による物なのである事を明らかに知る事ができる。
「菩提心」を起こして以後、「菩提心」を堅く守護し、退転しないべきである。
釈迦牟尼仏は、「菩薩が守護する一大事とは、どういった物であるのか?
(菩薩が守護する一大事とは、)『菩提心』なのである。
世の人々が一子を守護するように、
片目が見えない者が残りの唯一の目を護るように、
荒れ野を行く時に、導いてくれる者を守護するように、
菩薩摩訶薩は、この『菩提心』を守護する事に常に勤める。
このように、菩薩は、『菩提心』を守護するのである。
このように、『菩提心』を護るので、無上普遍正覚を得る。
無上普遍正覚を得るので、『常、楽、我、浄』、『常に不変、苦を離れた安楽、障害が無い自在、迷いが無い清浄』という『涅槃の四徳』を十分に備える。
『常、楽、我、浄』とは、無上の大いなる『般涅槃』、『完全な涅槃』、『完全な寂滅』なのである。
このため、菩薩は、(『菩提心』という)一つの『法』、『物』を守護するべきである」と言った。
このように、釈迦牟尼仏は「『菩提心』を守るべきである」と明らかに言っている。
「菩提心」を守護して退転させてはいけない。
なぜなら、世間の常套句で、「たとえ生じても熟し難い物が三種類、有る。
魚の卵、
菴羅の果実、
発心した菩薩である」と言われているからである。
「菩提心」を忘れて失くし退転する者が多いので、自分も「菩提心」を忘れて失くし退転する事を事前に恐れるのである。
このため、「菩提心」を守護するのである。
菩薩が初心の時、「菩提心」を退転するのは、多くは、正しい師に出会わない事による。
正しい師に出会わなければ、正しい法を聞けないし、正しい法を聞けなければ、恐らくは、因果を否定し信じないし、
解脱を否定し信じないし、
「仏、法、僧」という「三宝」を否定し信じないし、
過去、現在、未来などの諸法を否定し信じない。
そして、いたずらに無駄に、現在の「五欲」を貪って、未来の「菩提」、「覚」の功徳を失くしてしまう。
「天魔波旬」、「魔」、「仏敵」などは、修行者を妨げるために、仏の姿形に化けたり、父や母や師匠や親族や諸々の天人などの姿形を出現させて、来て近づいて、菩薩に向かって虚偽の姿形をこしらえて、勧めて、「仏道は長く、長く諸々の苦しみを受ける。最も憂うべき物なのである。先に、自分が生死を解脱して、後に、全ての生者を仏土へ渡すに越した事は無いであろう」と言う。
修行者は、この言葉を聞き入れて、「菩提心」を退いてしまうし、菩薩の修行を退いてしまう。
正に、知るべきである。
このような説は、「魔」、「仏敵」の説なのである。
菩薩は、知って、従う事なかれ。
ひたすら「自分は未だ『得度しない』、『仏土へ渡らない』で、先に、他の者を仏土へ渡す」行いと願いを退転させないべきである。
「自分は未だ『得度しない』、『仏土へ渡らない』で、先に、他の者を仏土へ渡す」行いと願いに背くような説は、「『魔』、『仏敵』の説である」と知るべきであるし、
「外道の説である」と知るべきであるし、
「悪友の説である」と知るべきである。
更に従う事なかれ。
「魔」、「仏敵」には四種類、有る。
(一)煩悩魔
(二)五衆魔
(三)死魔
(四)天子魔
「煩悩魔」とは、よく言われる、百八の煩悩などである。
分別すると、「八万四千」の諸々の煩悩である。
「五衆魔」とは、煩悩が和合する「因縁」、「原因や、繋がり」である。
この身は、四大(元素)や、四大(元素)が造っている「色」や、眼などの「色」によって得ているが、これを「色衆」と名づける。
百八の煩悩などの諸々の「受」が和合するのを「受衆」と名づける。
大小、無数に有る「想」が分別したり和合したりするのを「想衆」と名づける。
好い姿形を好み、醜い姿形を嫌う心を起こす事によって、貪欲と怒りなどの心を能く起こして、「相応」、「和合」したり「不相応」、「分別」したりする法を「行衆」と名づける。
「喜、怒、哀、楽、愛、悪」という「六情」と「色声香味触法」という「六塵」は和合するので「眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識」という「六識」を生じる。
この「六識」が分別したり和合したりする事による無数の無限の心を「識衆」と名づける。
「死魔」とは、無常の因縁のために、相続している「色受想行識」という「五衆」、「五蘊」の寿命が破れると、「識、熱、寿(命)」という三つの「法」、「物」を尽く離れてしまうので、「死魔」と名づける。
「天子魔」とは、欲界の主が、この世の楽しみに深く執着し所有するので、邪悪な見解を生じ、一切の賢者と聖者の「涅槃」、「寂滅」の道の法を憎み嫉むのを「天子魔」と名づける。
「魔」とは、インドのサンスクリット語の音写で、中国では「能奪命者」と意訳する。
(「マーラ」はサンスクリット語で「殺すもの」を意味する。)
「死魔」は実に能く命を奪うが、他のものもまた能く命を奪う因縁をなすし、また、智慧の命を奪う。
このため、「殺すもの」(を意味する「マーラ」、「魔」)と名づける。
Q.
一つの「五衆魔」が他の三種の魔を含んでいる。
なぜ分別して四種類と説くのか?
A.
実に、四種類の魔は唯一の魔なのである。
魔の意義を分別するので、四種類、有る。
前記は、十四祖の龍樹が施し設けた物である。
修行者は、知って、学ぶ事に勤めるべきである。
いたずらに無駄に「魔」に悩まされて、「菩提心」を退転する事なかれ。
これが、「『菩提心』を守護する事」なのである。
正法眼蔵 発菩提心
その時、千二百四十四年、越州の吉田県の吉峰精舎にいて僧達に示した。




