正法眼蔵 発無上心
西の国インドの、始祖である釈迦牟尼仏は、「雪山を大いなる『涅槃』(、『寂滅』)に例える」と言った。
知るべきである。
例えるべき物を例えたのである。
例えるべき物とは、親しいからであるし、端的だからである。
雪山をひねって来る者は、雪山を例えるのである。
大いなる「涅槃」、「寂滅」をひねって来る者は、大いなる「涅槃」、「寂滅」に例えるのである。
中国の初祖である二十八祖の達磨は、「各々の心は木や石のような物である」と言った。
心は、心のようなのであるし、尽大地の心なのである。
このため、自分や他者の心なのである。
尽大地の人や、尽十方界の仏祖や、天人や竜などの各々の心は、「木や石」なのである。
この他に更に心は無いのである。
「木や石」は、自ずから、「有」、「存在」や、無や、空や、色などの境界の鳥かごにとらわれない。
「木や石の心」によって「発心する」、「悟りを求める事を思い立って心する」し、修行し証するのである。「各々の心は木や石である」からなのである。
「各々の心は木や石である」力によって今の「かの不思量の奥底を思量している」、「今は思考できない思考を思考しようとしている」事は形成されて現されているのである。
「各々の心は木や石である」、「風声」、「話」を見聞きする事によって初めて外道の類を超越するのである。
「各々の心は木や石である」、「風声」、「話」を見聞きする前は仏道ではないのである。
大証国師と呼ばれる南陽慧忠は、「古代の仏の心とは、牆壁や瓦礫である」と言った。
「牆壁や瓦礫」は、どこにあるのか? と参入して詳しく看るべきである。
「何ものかが、どの様にかして形成されて現されている」と質問するべきである。
「古代の仏の心」とは、釈迦牟尼仏よりも過去の仏である「空王仏」近辺の時代の過去の物ではなく、「粥足飯足」、「朝食に満足するし昼食に満足する事」なのであるし、「草足水足」、「牛が草と水で満足するように、修行者が悟りにとらわれずに淡々と仏道を実践する事」なのである。
これらのようである「古代の仏の心」をひねって来て、坐禅している仏として坐禅して仏に成る事を「発心」、「悟りを求める事を思い立って心する」と呼ぶ。
「発菩提心」、「発心」、「悟りを求める事を思い立って心する事」の因縁は、他からひねって来る事はできず、「菩提心」、「悟りを求める心」をひねって来て「発心する」、「悟りを求める事を思い立って心する」のである。
「『菩提心』、『悟りを求める心』をひねって来る」とは、一本の草をひねって仏像を造る事であるし、
根が無い樹をひねって経を造る事であるし、
砂を仏に捧げたり、飲み物を仏に捧げる事であるし、
一握りの食べ物を生者に施す事であるし、
五本の華を如来、釈迦牟尼仏に捧げる事である。
他の者からの勧めによって少しの善行を修行したり、「魔」、「仏敵」に悩まされて仏を礼拝したりするのもまた「発菩提心」、「発心」、「悟りを求める事を思い立って心する事」なのである。
それだけではなく、(「発心」、「悟りを求める事を思い立って心する事」とは、)「知家非家、捨家出家、入山修道、信行、法行する」、「家が真の家ではないと知って、家を捨てて出家し、山に入って仏道を修行し、仏法を信じて行い、仏法を知って行う」事であるし、
仏像を造ったり、仏塔を造ったりする事であるし、
経を読み、「念仏する」、「仏について思う」、「仏の名前などを唱える」事であるし、
生者の為に法を説く事であるし、
師を訪ねて仏道を尋ねる事であるし、
結跏趺坐する事であるし、
「仏、法、僧」の「三宝」を一回、礼拝する事であるし、
「南無仏」と一回、唱える事である。(「南無」は「敬礼する」事を意味する。)
このように、「八万」の法蘊の因縁は、必ず、「発心」、「悟りを求める事を思い立って心する事」に成るのである。
夢の中で発心した者が仏道を会得した事が有るし、
酔っている最中に発心した者が仏道を会得した事が有るし、
「飛花落葉」、「花もいつかは散り飛び、葉もいつかは枯れ落ちるように、儚い人生」の中で発心して仏道を会得する事が有るし、
桃の花を見たり緑色の竹の音を聞いたりして発心して仏道を会得する事が有るし、
天上で発心して仏道を会得する事が有るし、
海中で発心して仏道を会得する事が有る。
これらの者は皆、「発菩提心」、「発心」の中で更に「発菩提心する」、「発心する」のである。
身心の中で「発菩提心する」、「発心する」のであるし、
諸仏の身心の中で「発菩提心する」、「発心する」のであるし、
仏祖の「皮肉骨髄」、「理解」の中で「発菩提心する」、「発心する」のである。
そのため、今、仏像を造ったり、仏塔を造ったりする事などは、正しく、「発菩提心」、「発心」なのである。
直に仏に成るに至る発心なのであり、さらに中間で破る事はできない。
発心を「無為の」、「自然のままである」、「人為的に作られていない」、「消滅しない不変の絶対の真理の」功徳とするし、
発心を「無作の」、「ありのままである」功徳とするし、
発心は「真如観」、「真の、ありのままを観る事」なのであるし、
発心は「法性観」、「法の本性を観る事」なのであるし、
発心は「諸仏集三昧」、「諸仏の知や徳を集めた三昧」なのであるし、
発心は「得諸仏陀羅尼」、「諸仏の真理の保持を会得する事」なのであるし、
発心は「阿耨多羅三藐三菩提心」、「無上普遍正覚心」(、「無上心」、「発無上心」)なのであるし、
発心は阿羅漢果に成るのであるし、
発心は仏を形成して現すのである。
発心の他に更に「無為」、「自然のままである事」、「消滅しない不変の絶対の真理」や、「無作」、「ありのままである事」などの「法」、「もの」は無いのである。
それなのに、「小乗」、「矮小な乗り物」、「劣悪な段階」の愚かな人は、誤って「仏像を造ったり、仏塔を造ったりする事は、『有為の』、『人為的に作られている』、『生じたり滅んだりする変化する、この世のものである』功績なのである。
捨てて放置して営むべきではない。
『息慮凝心』、『慮る事を休息させて心を凝らす事』が『無為』、『自然のままである事』、『消滅しない不変の絶対の真理』なのであるし、
『無生』、『生じない事』や、『無作』、『何もしない事』が『無為』、『自然のままである事』、『消滅しない不変の絶対の真理』なのであるし、
『法性』、『法の本性』や、『実相』、『実の相』の、『観行』、『観る修行』が『無為』、『自然のままである事』、『消滅しない不変の絶対の真理』なのである」と言ってしまう。
このように誤って言うのを、西のインドから東の地の中国までの古今の習慣や風俗としてしまっている。
このため、重い罪や、最も重い罪である五逆罪を作っても、仏像を造らないし、仏塔を造らないし、煩悩を林のように盛んにして汚染されても、経を読まないし、「念仏しない」、「仏について思わない」、「仏の名前などを唱えない」。
これでは、人や天人の種を損なって壊すだけではなく、如来の仏の性質を否定して信じない輩に成ってしまう。
実に、悲しむべきである。
「仏、法、僧」という「三宝」の時に出会いながら、「三宝」の怨敵に成ってしまっている。
「三宝」の山に上りながら手ぶらで帰り、「三宝」の海に入りながら手ぶらで帰る様では、たとえ千、万の無数の仏祖の「この世」への出現に出会っても、「得度する事」、「仏土へ渡る事」は期待できないし、「発心する」、「悟りを求める事を思い立って心する」方法を失くしてしまう。
これは、経典に従わないし、善知識を持つ人々に従わないので、このように成ってしまうのである。
多くの人々は外道や邪悪な師に従うので、このように成ってしまうのである。
「仏塔を造る事などは『発菩提心』、『発心』ではない」という誤った見解を早く投げ捨てるべきである。
心を洗い、身を洗い、耳を洗い、眼を洗って、見聞きするべきではない。
まさに仏の経に従い、善知識を持つ人々に従って、正しい仏法に帰り、仏法を学ぶべきである。
仏法の大いなる仏道では、一つの塵の中に大千世界の経典が有り、一つの塵の中に無量の諸仏がいる。
一本の草と一本の木は共に、身心なのである。
「万法不生」、「全てのものが生じる事を超越している」のであれば、一つの心も「不生」、「生じる事を超越している」のである。
「諸法実相」、「全てのものが実の相である」ならば、一つの塵も実の相なのである。
そのため、一つの心は「諸法」、「全てのもの」であるし、
「諸法」、「全てのもの」は一つの心であるし、全身である。
もし仏塔を造る事などが「有為である」、「人為的に作られている」、「生じたり滅んだりする変化する、この世のものである」時は、「仏果菩提」、「仏という結果である悟り」や、「真如仏性」、「真の、ありのままの仏の性質」もまた「有為である」。
「真如仏性」、「真の、ありのままの仏の性質」は「有為ではない」、「人為的に作られていない」、「生じたり滅んだりする変化する、この世のものではない」ので、仏像を造ったり、仏塔を造ったりする事は「有為ではなく」、「無為の」、「自然のままである」、「消滅しない不変の絶対の真理である」、「発菩提心」、「発心」なのであるし、「無為」の「無漏の」、「煩悩が無い汚染されていない」功徳なのである。
ただ、正に、「仏像を造ったり、仏塔を造ったりする事などは『発菩提心』、『発心』なのである」と確信して理解するべきなのである。
億の無量の劫の行いと願いは、「仏像を造ったり、仏塔を造ったりする事などは『発菩提心』、『発心』なのである」と確信して理解する事によって生じて成長するのであるし、億、億万の無量の劫、朽ちない「発心」なのである。
「仏像を造ったり、仏塔を造ったりする事などは『発菩提心』、『発心』なのである」と確信して理解する事を「仏に成れる性質を見聞きした」と言うのである。
知るべきである。
木や石を集め、泥や土を重ね、金と銀などの「七宝」、「七種類の宝」を集めて仏像を造ったり、仏塔を造ったりする事は、一つの心を集めて仏像を造ったり、仏塔を造ったりする事に成るのである。
空は空を集めて仏に成るのである。
心は心をひねって仏を造るのである。
仏塔は仏塔を重ねて仏塔を造るのである。
仏は仏を形成させて現させて仏を造るのである。
このため、経には、「作是思惟時、十方仏皆現」、「この思惟をなす時、十方の仏は皆、現れる」と記されている。
知るべきである。
一つの思惟により仏に成る時は、十方の思惟による仏は皆、現れるのである。
一つの「法」、「もの」により仏に成る時は、「諸法」、「全てのもの」が仏に成るのである。
釈迦牟尼仏は、「明けの明星が出現した時、私(、釈迦牟尼仏)は、大地と、情の有る全ての生者と(共に)、同時に、仏道を成就し(て、仏に成っ)た」と言った。
そのため、「発心、修行、菩提、涅槃」、「悟りを求める事を思い立って心する事、修行、覚、寂滅」は、同時の「悟りを求める事を思い立って心する事、修行、覚、寂滅」なのである。
仏道の身心とは、草木や瓦礫なのであるし、風や雨や、水や火なのである。
これらを巡らして仏道に成らせる事が、「発心」なのである。
虚空をつまんで、仏像を造ったり、仏塔を造ったりするべきである。
谷川を掬って、仏像を造ったり、仏塔を造ったりするべきである。
これが、「発阿耨多羅三藐三菩提」、「発無上普遍正覚」なのである。
一つの「発菩提心」、「発心」を百、千、万発、無限発、起こすのである。
修行と証もまた同様である。
それなのに、誤って「『発心』は一発、起こったら更に『発心』しないし、修行は無量であるが、証する事ができる修行の成果は唯一の証だけである」としか聞く事ができない人は、仏法を聞く事ができていないし、
仏法を知っていないし、
仏法に出会っていない。
千億発の無限発の「発心」は、必ず、一つの「発心」を起こした事による物なのである。
千億人の無数人の「発心」は、一つの「発心」を起こした事による物なのである。
一つの「発心」は千億の無数の「発心」に成るのである。
修行と証と、「転法」、「法を転じる事」、「法を説く事」もまた同様である。
草木などでなければ、どうして身心が存在するであろうか?
身心でなければ、どうして草木が存在するであろうか?
草木でなければ、草木ではないので、このように成るのである。
坐禅して仏道をわきまえる事は、「発菩提心」、「発心」なのである。
「発心」は、(坐禅と、)同一ではないし、全く異なる物でもない。
坐禅は、(「発心」と、)同一ではないし、全く異なる物でもないし、くり返しではないし、完全に分離できる物ではない。
「発心、修行、菩提、涅槃」、「悟りを求める事を思い立って心する事、修行、覚、寂滅」の各々に皆このように参入して究めるべきである。
もし草や木や「七宝」、「七種類の宝」を集めて仏像を造ったり仏塔を造ったりする全てが「有為」、「人為的に作られているもの」、「生じたり滅んだりする変化する、この世のもの」であるので仏道を成就できなければ、三十七品菩提分法も「有為」であろうし、
三界の人や天人の身心をひねって修行する事は共に、「有為」であろうし、
究極の境地は無い事に成ってしまうであろう。
草や木や瓦礫と、四大(元素)と「色受想行識」という「五蘊」は、同じく、唯一の心なのであるし、(唯一の心で出来ているのであるし、)実の相なのである。
尽十方界と、「真如仏性」、「真の、ありのままの仏の性質」は、同じく、法の位に住んでいる。
「真如仏性」、「真の、ありのままの仏の性質」の中に、どのように、草や木などが存在するのであろうか?
草や木などは、「真如仏性」、「真の、ありのままの仏の性質」である!
「諸法」、「全てのもの」は、「有為」、「人為的に作られているもの」、「生じたり滅んだりする変化する、この世のもの」ではなく、
「無為」、「自然のままであるもの」、「消滅しない不変の絶対の真理」ではなく、実の相なのである。
実の相は、ありのままの実の相なのである。
「ありのまま」とは、今の身心なのである。
この身心によって「発心」するべきである。
水を踏み、石を踏む事を嫌う事なかれ。
ただ一本の草をひねって「丈六」の「金身」である「仏身」を造り、一つの微小な塵をひねって古代の仏の塔廟を建てる事は、「発菩提心」、「発心」に成るのであるし、
仏を見る事に成るのであるし、
仏を聞く事に成るのであるし、
仏法を見る事に成るのであるし、
仏法を聞く事に成るのであるし、
仏に成る事に成るのであるし、
行っている仏を行う事に成るのである。
釈迦牟尼仏は、「男性の在家信者、女性の在家信者、善い男子、善い女の人は、妻子の肉を『仏、法、僧』という『三宝』に捧げているような物であるし、
自身の肉を『三宝』に捧げているような物である。
諸々の出家者は、既に、信者からの布施を受け取っている。
(出家者は、)どうして修行しないでいられようか? いいえ! 修行しなければならない!」と言った。
そのため、知る事ができる。
飲食物や、衣服や、寝具や、医薬品や、僧が住む僧房や、田畑や、林などを「仏、法、僧」という「三宝」に捧げる事は、自身や妻子などの身の皮肉骨髄を捧げるような物なのである。
既に「三宝」の功徳の海に入っている。「一味」、「仲間」、「同志」なのである。
既に「一味」、「仲間」、「同志」であるので、「仏、法、僧」という「三宝」なのである。
既に「三宝」の功徳が自身や妻子の皮肉骨髄に形成されて現されているのは、精勤的に仏道をわきまえる鍛錬をした事による物なのである。
今、釈迦牟尼仏の性質と相を挙げて、仏道の「皮肉骨髄」、「理解」に参入して理解して取るべきなのである。
今、信者からの布施は「発心」に成るのである。
信者からの布施を受け取る者である出家者は、どうして修行しないでいられようか? いいえ! 修行しなければならない!
「頭が正しいので尾も正しい」べきなのである。
このため、突然、一つの塵を「動かせば」、「起こせば」、一つの心が、従って、「動く」、「起こる」のである。
初めて、一つの心を起こせば、一つの空が、わずかに起こるのである。
未だ学ぶべき物が有る人や、学ぶべき物が絶えて無い人は、「発心」する時、初めて、一つの仏に成れる性質という種を撒く事ができ得るのである。
四大(元素)と「色受想行識」という「五蘊」を巡らして誠心誠意、修行すれば、仏道を会得する。
草木や牆壁を巡らして誠心誠意、修行すれば、仏道を会得する。
四大(元素)と「色受想行識」という「五蘊」は、草木や牆壁と、同じく参入しているからであるし、
同じ性質だからであるし、
同じ心や命だからであるし、
同じ身や機関だからである。
このため、仏祖の会の下では、多くの人が「草木心」をひねって仏道をわきまえている。
これが、「発菩提心」、「発心」の様子なのである。
三十二祖の弘忍は前世は「栽松道者」であった。
臨済義玄には、黄檗山で杉と松を植える鍛錬が有った。
後洞山師虔が松を植えていた時、劉翁がいた。
彼らは、「常緑樹の松と栢の様に操を変えない事」をひねって、仏祖の「眼睛」、「見る眼」を抉り出したのである。
活きている「眼睛」、「見る眼」を弄する力は、「眼睛」、「見る眼」を開き明らかにする事を形成して現しているのである。
仏像を造ったり、仏塔を造ったりする事などは、「眼睛」、「見る眼」を弄する事に成るのであるし、
発心される事に成るのであるし、
発心させる事に成るのである。
仏塔を造るなどの「眼睛」、「見る眼」を得ていないような人は、仏祖として仏道を成就する事は無いのである。
仏像を造る「眼睛」、「見る眼」を得た後で、仏祖に成るのである。
誤っている「仏塔などを造っても、終には、塵や土と化す。真実の功徳ではない。『無生の』、『生じる事を超越している』修練は堅牢である。塵や埃に汚染されない」という言葉は仏の言葉ではない。
もし「『塔婆』、『仏塔』は塵や土と化す」と言うならば、「無生」、「生じる事を超越しているもの」もまた塵や土と化すのである。
もし「無生」、「生じる事を超越しているもの」が塵や土と化さないのであれば、「塔婆」、「仏塔」もまた塵や土と化さない。
「この中には、どんなものが存在するのか? 『有為』、『人為的に作られているもの』、『生じたり滅んだりする変化する、この世のもの』と説いたり、『無為』、『自然のままであるもの』、『消滅しない不変の絶対の真理』と説いたりする」なのである。
経には、「菩薩は、生死において、最初に発心した時、ひたすらに『菩提』、『悟り』を求めて、堅固で、動かす事ができない。
彼(、菩薩)の一念の功徳は深さや広さが無限である。
如来が分別して説いて劫を極めても、(菩薩の一念の功徳を言い)尽くす事はできない」と記されている。
明らかに、知るべきである。
生死をひねって来て「発心」するとは、「ひたすらに『菩提』、『悟り』を求める」事なのである。
「菩薩の一念」は、一本の草や一本の木と同じなのである。一つの生や一つの死であるので。
けれども、「菩薩の一念の功徳」の「深さ」も「無限」なのであるし、「広さ」も「無限」なのである。
「劫を極めて」言葉にして、「如来が菩薩の一念の功徳を分別しても言い尽くす事ができない」。
「海は枯れてもなお底が残る」し、「人は死んでも心が残る」ので、「言い尽くす事ができない」のである。
「菩薩の一念の功徳は深さや広さが無限である」ように、一本の草や一本の木や、一つの石や一つの瓦は、「深さや広さが無限である」。
もし一本の草や一つの石が「七尺、八尺」であれば、「菩薩の一念」も「七尺、八尺」であるし、「発心」もまた「七尺、八尺」である。
そのため、「奥深い山に入って仏道を思惟する事は簡単なのである。仏像を造ったり、仏塔を造ったりする事は難しいのである」。
共に、精進して怠らない事によって成就するが、心をひねって来る事と、心によってひねって来られる事は、遥かに異なるのである。
このような「発菩提心」、「発心」が積もり重なって、仏祖として形成されて現されるのである。
正法眼蔵 発無上心
その時、千二百四十四年、越州の吉田県の吉峰精舎にいて僧達に示した。




