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正法眼蔵 法性

 経典によってか、善知識を持つ人々によって、学に参入すると、師無しで独りで悟るのである。


 師無しで独りで悟るのは、「法性」、「法の本性」の仕業(しわざ)なのである。


 たとえ生まれながらにして知っていても、必ず師を訪ねて仏道を尋ねるべきである。

 たとえ生まれながらにして知っていなくても、必ず鍛錬して仏道をわきまえるべきである。


 (多かれ少なかれ、)どの個人も生まれながらに知っている!


 仏という結果である悟りに至るまでも、経典によってか、善知識を持つ人々によって、学ぶのである。


 知るべきである。

 経典か善知識を持つ人々に出会って法性三昧を得る事を「法性三昧に出会って法性三昧を得る生まれながらの知」と言うのである。


 「法性三昧に出会って法性三昧を得る生まれながらの知」は、「宿住智」、「宿命智」、「前世の知」を得るし、三明を得るし、無上普遍正覚を証する。


 「生まれながらの知」に出会って「生まれながらの知」を習い学ぶのである。

 「師がいなくても得られる知」や「自然に得られる知」に出会って「師がいなくても得られる知」や「自然に得られる知」を正しく伝えるのである。


 もし生まれながらにして知っていなければ、経典か善知識を持つ人々に出会っても、法性を聞く事ができ得ないのであるし、法性を証する事ができ得ないのである。


 大いなる仏道は、人が水を飲んで冷たさと暖かさを自分で知るような道理ではないのである。


 一切の全ての諸仏、一切の全ての菩薩、一切の全ての生者は皆、「生まれながらの知」の力によって、一切の全ての法性の大いなる道を明らめるのである。

 経典か善知識を持つ人々によって法性の大いなる道を明らめる事を「自ら法性を明らめる」とする。


 経典は、法性であるし、自己である。

 善知識を持つ人々は、法性であるし、自己である。

 法性は、善知識を持つ人々であるし、自己である。


 法性は自己であるので、外道や「魔」、「仏敵」の仲間が誤って計っている自己ではないのである。

 法性には、外道や「魔」、「仏敵」の仲間はいない。


 法性は、ただ、(かゆ)を食べるし、御飯を食べるし、茶を点じるだけなのである。


 それなのに、二、三十年の長い年月、学んでいると自称する者は、法性についての話を見聞きしても呆然としたまま一生を過ごしてしまう。

 寺や林で十分に坐禅していると自称して「『曲木』の『牀』」、「『曲彔』という『椅子』」に上る者は、法性の音声を聞いても、法性の色形を見ても、身心が依り所とする環境としての報いである「この世」と過去の行いの正に報いである身心を、普通に、紛然としている乱雑としている穴として昇降するだけなのである。

 そのような、ありさまであるのは、「今、見聞きしている三界、十方が崩落した後で、法性は現れるだろう。法性とは今の森羅万象ではない」と誤って計っているからなのである。

 法性の道理とは、そのようではない。


 森羅万象と法性は、同じである、異なる、といった論理を遥かに超越しているし、

離れている、離れていない、といった話を超越しているし、

過去、現在、未来ではないし、

「断常」、「断見と常見」、「『死ぬと身体が断滅するので因果や善悪の言動の報いは無いという誤った見解』と『死後も人の自我は不滅であるという誤った見解』」ではないし、

「色受想行識」という「五蘊」ではないので、法性なのである。



 洪州の江西の大寂禅師と呼ばれる馬祖道一は、「一切の全ての生者は、無量の劫の昔から、法性三昧を出ていない。全ての生者は、長く法性三昧の中に存在していて、衣を着たり、御飯を食べたり、話したり、(こた)えたり、『眼耳鼻舌身意』という『六根』を運用したり、一切の全ての行為をするのも、(ことごと)く、法性なのである」と言った。



 馬祖道一が言っている法性とは、法性が言っている法性なのである。

 馬祖道一と同じく法性に参入する事は、法性と同じく法性に参入する事に成る。


 既に聞いている事が有るので、言い表す事が有る!


 法性は馬祖道一に乗っているのである。


 人が御飯を食べる時、御飯も人を食べるのである。


 法性から今まで、法性三昧をかつて出ていないのである。


 法性より後に、法性を出ていないし、

法性より前に、法性を出ていない。


 法性と無量の劫は、法性三昧なのである。


 法性を「無量の劫」と言うのである。


 そのため、今の「ここ」は、法性なのであるし、

法性は、今の「ここ」なのである。


 衣を着たり、御飯を食べたりするのは、法性三昧が、衣を着たり、御飯を食べたりするのである。


 衣は、法性が形成して現しているのであるし、

御飯は、法性が形成して現しているのであるし、

食べる事は、法性が形成して現しているのであるし、

着る事は、法性が形成して現しているのである。


 もし、衣を着ず、御飯を食べず、話さず、(こた)えず、「眼耳鼻舌身意」という「六根」を運用せず、一切の全ての行為をしなければ、法性三昧ではないし、法性に入っていないのである。


 今の言葉が形成されて現されているのは、諸仏が法性を伝授して釈迦牟尼仏にまで法性が到達し、諸々の祖師達が法性を正しく伝えて馬祖道一にまで法性が到達しているからである。

 仏から仏へ、祖師から祖師へ、法性を正しく伝えて授けて、法性三昧に正しく伝えている。


 仏から仏へ、祖師から祖師へ、法性に入らないで、法性を魚の様に活発に成らせる。


 文字だけの霊感が無い経典の似非(えせ)学者が、たとえ法性について話しても、馬祖道一の法性ではない。


 法性を出ていない全ての生者による、法性に存在しないようにしようとする力は、たとえ得る所が有っても、法性の新たな三、四枚に過ぎないのである。

 法性に存在しないようにしようと、話したり、(こた)えたり、「眼耳鼻舌身意」という「六根」を運用したり、一切の全ての行為をするのは、法性なのである。


 無量の劫の月日は、法性の経歴なのである。現在と未来もまた同様である。


 身心の量を身心の量として、「法性に遠い」と思量する思量は、法性なのである。

 身心の量を身心の量とせずに、「法性ではない」と思量する思量は、法性なのである。


 思量と、「不思量」、「今は思考できない思考」は共に、法性なのである。


 「『性』、『性質』と言うのであれば、水も流れて(かよ)う事ができないし、樹も繁栄したり枯れたりできない」と学ぶ人は外道なのである。



 「法華経」の「方便品」で、釈迦牟尼仏は、「ありのままの相、ありのままの性質」と言った。



 そのため、華が開き、葉が落ちるのは、ありのままの性質なのである。


 それなのに、愚かな人は誤って「法性の世界には、華が開き、葉が落ちる事は有り得ない」と思ってしまう。

 愚かな人は、一時、自分の疑問を他人に質問するべきではない。

 あなたの疑問を、説明を模倣して、説明に変えなさい。

 説明に変えた自分の疑問を、他人の説明のように挙げて、三回くり返して、参入して究めるべきである。

 そうすれば、自分の疑問から脱出できるだろう。


 従来の思量は、誤った思量ではなく、ただ、明らめていない時の思量なのである。

 明らめた時、従来の思量を誤りにするわけではない。


 華が開き葉が落ちる事は、自然に、華が開き葉が落ちる事なのである。


 「法性に華が開き葉が落ちる事は有り得ない」と思量できるのは、法性なのである。

 模倣を脱ぎ落として来ている思量なのである。

 このため、法性のような思量なのである。


 法性についての思量を(ふる)うと、このような「面目」、「有様(ありよう)」に成るのである。


 馬祖道一の「(ことごと)く、法性なのである」という言葉は真に八、九割の言葉であり、馬祖道一が未だ言わなかった言葉は多い。

 馬祖道一は、「一切の全ての法性は、法性を出ていない」と言わなかったし、

「一切の全ての法性は、(ことごと)く、法性なのである」と言わなかったし、

「一切の全ての生者は、生者を出ていない」と言わなかったし、

「一切の全ての生者は、法性の少しの部分なのである」と言わなかったし、

「一切の全ての生者は、一切の全ての生者の少しの部分なのである」と言わなかったし、

「一切の全ての法性は、全ての生者の少しの部分なのである」と言わなかったし、

「半人前の生者は、半人前の法性なのである」と言わなかったし、

「全ての生者には無い物が、法性なのである」と言わなかったし、

「法性は、生者ではない」と言わなかったし、

「法性は、法性を脱出する」と言わなかったし、

「生者は、生者を脱ぎ落とす」と言わなかった。


 馬祖道一は、「全ての生者は、法性三昧を出ていない」としか言わなかった。


 馬祖道一は、「法性は、生者三昧を出ていない」と言わなかったし、

「法性三昧は、生者三昧を出入りする」と言わなかった。


 まして、馬祖道一は、「法性は、仏と成る」と言わなかったし、

「生者は、法性を証する」と言わなかったし、

「法性は、法性を証する」と言わなかったし、

「情の無いものは、法性を出ていない」と言わなかった。


 馬祖道一に、「何ものを生者と呼んで生者とするのか?」と質問するべきである。

 もし法性を生者と呼んで生者とすれば、「何ものかが、どの様にかして来ている」なのである。

 もし生者を生者と呼んで生者とすれば、「ある物を似ている物によって説明しても、言い当てられない」なのである。

 速やかに言いなさい。速やかに言いなさい。



 正法眼蔵 法性


 時に、千二百四十三年、冬の初め、越州の吉峰精舎にいて僧達に示した。

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