正法眼蔵 光明
唐の時代の中国の湖南の、招賢大師と呼ばれる長沙景岑は、堂に上って、僧達に示して、「尽十方界は、『沙門』(、『修行者』である自己)の眼である。
尽十方界は、『沙門』(、『修行者』である自己)の日常の言葉である。
尽十方界は、『沙門』(、『修行者』である自己)の全身である。
尽十方界は、自己の光明である。
尽十方界は、自己の光明の中に在る。
尽十方界が自己ではない者は一人もいない」と言った。
仏道の学に参入している者は必ず長沙景岑の言葉を学ぶ事に勤めるべきである。
長沙景岑の言葉の学に、うたた、ひどく、疎遠であるべきではない。
長沙景岑の言葉の学に疎遠なので、光明を学んで会得した者は稀なのである。
後漢の時代の中国の、明帝、孝明皇帝は、帝諱が荘であり、廟号は顕宗と言う。
光武帝の第四子である。
明帝の時代の、六十八年に、迦葉摩騰と竺法蘭が後漢の時代の中国に初めて仏教を伝来した。
焚経台の前で、道教の道士の邪悪な輩を降伏して、諸仏の神の力を表した。
(焚経台で道教の書物と仏教の経典を燃やしたら、道教の書物は燃えたが、仏教の経典は燃えなかった、という逸話が有る。)
その後、梁の武帝の時代の、五百二十七年頃、二十八祖の達磨が自ら西のインドから南海を経て中国の広州へ渡航した。
達磨は、「正法眼蔵」、「正しくものを見る眼」を正しく伝える正統な後継者であり、釈迦牟尼仏から二十八代目である、二十八祖である、釈迦牟尼仏の法の子孫である。
五百二十七年に、達磨は、蒿山の少室峰の少林寺に一時的に滞在した。
二十八祖の達磨は、法を二十九祖の慧可に正しく伝えた。
二十八祖の達磨が法を二十九祖の慧可に伝えたのが、仏祖の光明が、かつて、親しく成った時である。
二十八祖の達磨が法を二十九祖の慧可に伝える以前は、仏祖の光明を見聞きする事ができなかった。
まして、自己の光明を知る事が有ったであろうか? いいえ!
たとえ自己の光明を頂上から担って来て出会っても、自己の「眼睛」、「見る眼」の学に参入できなかった。
このため、光明の長短や角ばっている丸いを明らめる事ができなかったし、
光明の進退や手中に収めたり手放したりするのを明らめる事ができなかった。
(
原文の「巻舒」は「進退」などを意味する。
原文の「斂」は「収める」などを意味する。
)
光明との出会いを嫌って捨ててしまっていたので、光明と光明は、うたた、ひどく、疎遠であった。
光明と光明の疎遠が、たとえ光明であっても、疎遠によって遮られてしまうのである。
光明と、うたた、ひどく、疎遠である臭い皮袋である人は、誤って「仏の光も、自己の光明も、赤、白、青、黄といった色の(普通の)光であり、火の光や水の光のような物であろうし、宝玉の光のような物であろうし、天や龍の光のような物であろうし、太陽や月の光のような物であろう」という見解を思ってしまう。
善知識を持つ人々によって見聞きしたり、経典によって見聞きしたりしても、「光明」という言葉による仏祖の教えを聞くと、誤って「蛍の光のような物であろう」と思ってしまう人は、「眼睛」、「見る眼」や「頂上」の学に参入していない。
漢の時代から、隋、唐、宋の時代を経て、今に至るまで、このような類の者だけが多い。
霊感が無い文字だけの経典の似非学者に習い学ぶ事なかれ。
似非僧侶の、いかがわしい説を聞くべきではない。
仏祖の光明とは、尽十方界であるし、
尽仏祖であるし、
「仏と仏だけ(が能く究め尽せる、諸法の実の相)」であるし、
仏の光であるし、
光の仏である。
仏祖は仏祖を光明としている。
仏祖の光明を修行して証して、仏と成るし、坐禅している仏として坐禅するし、仏を証する。
このため、「法華経」の「序品」には「(釈迦牟尼仏の)光は、東方の一万八千の仏土を照らした」と記されている。
「(釈迦牟尼仏の)光は、東方の一万八千の仏土を照らした」という話自体が光である。
「東方の一万八千の仏土を照らした」光とは、仏の光、釈迦牟尼仏の光である。
東方を照らしたのは、東方が照らすからである。
(東方は太陽が昇る。)
東方は、あれこれの俗の論理とは無関係であり、法界の中心であるし、「拳頭」、「拳」の中央である。
東方を遮っても、光明の八両である。
(一斤は十六両。半斤は八両。)
この地に東方が有るし、他の地に東方が有るし、東方に東方が有る主旨の学に参入するべきである。
「一万八千」と記されているが、「一万」は「拳頭」、「拳」の半分であるし、「即心(是仏)」の半分であり、必ずしも千の十倍ではないし、一万の一万倍や百万などではない。
仏土とは、「眼睛」、「見る眼」の中である。
「東方を照らした」という言葉を見聞きして、一筋の白い練り絹を東方へ行き渡らせるような光景を推測して想像するのは、仏道を学んでいない。
尽十方界は東方だけなのであり、「東方」を「尽十方界」と言っているのである。
このため、尽十方界は在るのである。
「尽十方界」と開演する話を、「(東方の)一万八千の仏土」という言葉として聞くのである。
唐の時代の中国の、憲宗皇帝は、穆宗と宣宗、両皇帝の父であり、敬宗、文宗、武宗、三皇帝の祖父である。
憲宗が、(八百十八年に、法門寺の、)釈迦牟尼仏の遺骨である「仏舎利」を(長安の)宮中に迎え入れて供養した夜、何かが光明を放つ事が有った。
憲宗は大いに喜んだ。
早朝、群臣は皆、「憲宗様の神聖な徳を神聖な者が感心した(事による光明な)のである」という祝いの言葉を憲宗に述べた。
その時、一人の臣下、文公と呼ばれる韓愈がいた。
韓愈は、字は退之と言う。
韓愈は、かつて、仏祖の会の末席として学に参入していた。
韓愈は、独りだけ、祝いの言葉を憲宗に述べなかった。
憲宗は、「群臣は皆、祝いの言葉を述べてくれたのに、韓愈は、なぜ祝いの言葉を述べてくれないのか?」と質問した。
韓愈は、「私が、かつて仏教の書物を見た時、『仏の光は、青、黄、赤、白の(普通の)光ではない』と記されていたからです。今回の光明は、(仏の光ではなく、)龍神が護衛している事による光明です」と答えた。
憲宗は、「仏の光とは、どういった物であるのか?」と質問した。
韓愈は、答え(られ)なかった。
韓愈は、在俗者であるが、一人前の志が有る。
韓愈は、天地を回転させるような才能の持ち主であると言える。
「仏の光は、青、黄、赤、白の(普通の)光ではない」として学に参入するのが、仏道を学ぶ初心なのである。
「仏の光は、青、黄、赤、白の(普通の)光ではない」として学ばないのは、道を外れている。
たとえ経典の講義をして天の華を降らしても、「仏の光は、青、黄、赤、白の(普通の)光ではない」という道理に未だ到達しないのは、いたずらな無駄な鍛錬なのである。
たとえ未熟な修行者であっても、韓愈と同様に話せる、仏の「広長舌」を保持させられ任せられた時は、悟りを求める事を思い立って心しているのであるし、修行して証しているのである。
けれども、韓愈には、なお、仏教の書物を見聞きしていない所が有った。
韓愈は、「仏の光は、青、黄、赤、白の(普通の)光ではない」と言ったが、仏の光とは、どういった物である、と学んできたのか?
もし憲宗が仏祖であったら、「韓愈よ、もし青、黄、赤、白の(普通の)光を見て、『仏の光ではない』と学に参入する力が有るならば、さらに、仏の光を見て、『青、黄、赤、白の(普通の)光である』とする事なかれ」という質問が有るだろう。
明らかな光明は「百草」、「森羅万象」である。
「百草」、「森羅万象」の光明は、既に根、茎、枝、葉、華、果実、光、色であり、未だ与えたり奪ったりしていない。
「地獄、餓鬼、畜生、人間、天」という「五道」の光明が有るし、
「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天」という「六道」の光明が有る。
これらの中は、どんな場所なので、光明を説くのか?
どうして山や河や大地は生じるのか? なのである。
長沙景岑の「尽十方界は、自己の光明である」という言葉の学に明確に詳細に参入するべきである。
光明、自己、尽十方界の学に参入するべきである。
生と死が来たり去ったりするのは、光明が来たり去ったりするからである。
凡人や聖者を超越するのは、光明の青、赤である。
仏祖と成るのは、光明の黒、黄である。
修行と証は無いわけではないが、光明を汚染するのは駄目である。
草木や、牆壁や、「皮肉骨髄」、「理解」は、光明の赤、白である。
煙と霞がかかったように霞む自然の景色や、「水石」、「山水の情景を見せて楽しませる物」や、鳥が行き来する道や、奥深い仏道は、光明の循環である。
自己の光明を見聞きするのは、仏に出会った証拠であるし、仏を見た証拠である。
尽十方界は自己であるし、自己は尽十方界であるので、回避する余地は無い。
たとえ回避する余地が有っても、それは「出身」、「解脱」の活路である。
今の「髑髏七尺」は尽十方界の形である。
(
「髑髏」とは「頭蓋骨」である。
一尺は約三十センチメートル。
)
仏道を修行し証する尽十方界は、髑髏と形骸や、「皮肉骨髄」、「理解」である。
雲門山の、大慈雲匡真大師と呼ばれる雲門文偃は、如来、釈迦牟尼仏の法の子孫である。
(原文は「雲門山、大慈雲匡真大師は、如来、世尊より三十九世の児孫なり」。)
雲門文偃は、真覚大師と呼ばれる雪峰義存の法を嗣いだ。
雲門文偃は、仏(祖)達の後進の者であるが、祖師達の中の英雄である。
誰が「雲門山には、光明の仏が未だかつて世に出現した事が無い」と言うだろうか? いいえ!
雲門文偃は、ある時、堂に上って、僧達に示して、「人々には尽く光明の存在が有る。(しかし、光明の存在を)見る時は、暗くて昏昏として、見えない。『諸々の人々の光明の存在』とは、どういったものであるのか?」と言った。
僧達は、答えなかった。
雲門文偃は、自ら、代わりに、「(『諸々の人々の光明の存在』とは、)僧堂、仏殿、廚庫、三門である」と言った。
雲門文偃は「人々には尽く光明の存在が有る」と言ったが、「後に出現する」とは言わなかったし、「過去世に有った」とは言わなかったし、「無関係に形成されて現される」とは言わなかった。
「人々には光明の存在が自ら有る」と言っている事を明らかに聞いて保持するべきである。
百、千の無数の僧を集めて同じく参入させて、声をそろえて「人々には光明の存在が自ら有る」という同じ言葉を言わせるのである。
「人々には尽く光明の存在が有る」とは、雲門文偃の自作ではなく、人々の光明が自ら光をひねって人々の為に言っているのである。
「人々には尽く光明が有る」とは、「全ての人には自ら光明が存在する」という事である。
光明とは人々である。
光明をひねって会得して、身体が依り所とする環境としての報いである「この世」と過去の行いの正に報いである身心としている。
「光明には尽く人々の存在が有る」し、
「光明には自ら人々が存在する」し、
「人々には人々の存在が自ら有る」し、
「光々には光々の存在が自ら有る」、「光達には光達の存在が自ら有る」し、
「有有と、尽く、有有とした存在が有る」し、
「尽尽、尽尽の存在が、有有としている」。
そのため、知るべきである。
人々に尽く有る光明とは、形成されて現されている人々なのである。
光々とは、尽く有る人々なのである。光達とは、尽く有る人々なのである。
道元は、雲門文偃に、「あなたは、何ものを『人々』と呼んで人々としているのか? 何ものを『光明』と呼んで光明としているのか?」と質問する。
雲門文偃は、自ら、「『(諸々の人々の)光明の存在』とは、どういったものであるのか?」と言った。
雲門文偃の、この質問は、話を疑う光明と成る。
けれども、このように言ったために、「人々とは光々である」、「人々とは光達である」、「人とは光である」と成る。
雲門文偃が質問した時、僧達は、答えなかった。
たとえ、百、千に無数に、「道」、「真理」を会得して言い表す事ができても、無言の答えをひねって言い表すのである。
これが、仏祖が正しく伝えている「正法眼蔵涅槃妙心」、「正しくものを見る眼と寂滅した妙なる心」なのである。
雲門文偃は、自ら、代わりに、「(『諸々の人々の光明の存在』とは、)僧堂、仏殿、廚庫、三門である」と言った。
「雲門文偃は、自ら、代わりに、言った」とは、「雲門文偃は、自ら、雲門文偃に代わって、言った」のであるし、
「雲門文偃は、自ら、僧達に代わって、言った」のであるし、
「雲門文偃は、自ら、光明に代わって、言った」のであるし、
「雲門文偃は、自ら、『僧堂、仏殿、廚庫、三門』に代わって、言った」のである。
けれども、雲門文偃は、何ものを「僧堂、仏殿、廚庫、三門」と呼んで、僧堂、仏殿、廚庫、三門とするのか?
僧達や人々を「僧堂、仏殿、廚庫、三門」と呼んで、僧堂、仏殿、廚庫、三門とする事はできない。
どれほどの僧堂、仏殿、廚庫、三門が有るのか?
僧堂、仏殿、廚庫、三門とは、雲門文偃である、とするのか?
僧堂、仏殿、廚庫、三門とは、過去七仏である、とするのか?
僧堂、仏殿、廚庫、三門とは、二十八祖の達磨である、とするのか?
(原文は「四七なりとやせん」。)
僧堂、仏殿、廚庫、三門とは、三十三祖の大鑑禅師である、とするのか?
(原文は「二三なりとやせん」。)
僧堂、仏殿、廚庫、三門とは、「拳頭」、「拳」である、とするのか?
僧堂、仏殿、廚庫、三門とは、「(真理を嗅ぎ分ける)鼻の孔」である、とするのか?
たとえ、僧堂、仏殿、廚庫、三門が、どの仏祖であっても、人々を免れない者である。
このため、僧堂、仏殿、廚庫、三門とは、人々ではない。
僧堂、仏殿、廚庫、三門とは人々ではない時から今まで、仏殿は有るが仏はいない場合が有るし、仏殿も無いし仏もいない場合が有る。
光が有る仏がいるし、光が無い仏がいる。
仏がいない光が有るし、仏がいる光が有る。
真覚大師と呼ばれる雪峰義存は、僧達に示して、「僧堂の前で、諸々の人々と見えた」と言った。
「僧堂の前で、諸々の人と見えた」とは、雪峰義存の「通身」、「全身」が「眼睛」、「見る眼」である時であるし、
雪峰義存が雪峰義存を見た時であるし、
僧堂が僧堂と見えたのである。
保福従展は、雪峰義存の言葉を挙げて、鵝湖智孚に、「『僧堂の前』は、一時、置いておく。『望州亭と鳥石嶺で見えた』とは、どこで見えたのであろうか?」と質問した。
鵝湖智孚は、速歩きで部屋に帰った。
保福従展は、僧堂に入った。
鵝湖智孚が部屋に帰り、保福従展が僧堂に入ったのは、話の「出身」、「解脱」であるし、
奥底まで見えた道理であるし、
僧堂と見えたのである。
地蔵院の、真応大師と呼ばれる羅漢桂琛は、「食事を司る『典座』の僧は、寺の台所である『庫堂』に入った」と言った。
この話は、過去七仏以前の事なのである。
正法眼蔵 光明
千二百四十二年、夜、観音導利興聖宝林寺で僧達に示した。
その時、梅雨はしとしとと何日も降っていて、庇の先から点々と滴っている。
「光明の存在」とは、どういったものであろうか?
皆、雲門文偃の言葉に見破られる事を未だ免れる事ができない。




