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正法眼蔵 阿羅漢

「諸々の『漏』、『煩悩』は既に()き、また煩悩(を起こす事)が無く、(おのれ)にとって(真の)利益と成る事をとらえて会得して、諸々の存在する『結』、『輪廻転生に結びつけ束縛する煩悩』を(無くし)()くし、心が自在である事を得ている」



 これが大いなる阿羅漢である。

 これが仏法を学ぶ者の究極の結果である。

 これを第四果と名づける。

 これが仏の阿羅漢である。


 「諸々の『漏』、『煩悩』」とは、柄が無い、破れた木の柄杓(ひしゃく)である。

 多くの時間、用いて来たが、「既に()くす」とは、木の柄杓(ひしゃく)の渾身の超越である。


 「(おのれ)にとって(真の)利益と成る事をとらえて会得する」とは、頂上に出入りする事である。


 「諸々の存在する『結』、『輪廻転生に結びつけ束縛する煩悩』を(無くし)()くす」とは、尽十方界は「最初」から隠していない事である。


 「心が自在である事を得ている」様子を、「高い場所では(おの)ずと高く(やす)んじるし、低い場所では(おの)ずと低く(やす)んじる」として、参入して究める。

 このため、牆壁、瓦礫が有る。

 「自在」と言うのは、「心也全機現」、「心の全ての機関が現れている」。


 「また煩悩(を起こす事)が無い」とは、煩悩を未だ生じない事であり、煩悩が煩悩によって(さえぎ)られる事を言う。



 阿羅漢の「神通」、「理解」や、知や、禅定や、説法や、化して導く事や、光を放つ事などは、外道や「天魔」、「魔」、「仏敵」などの論理と同じわけが無い。

 阿羅漢の、百仏世界を見る等の論理も、凡人の見解に従うべきではない。

 「『胡』の(ひげ)は赤いと思っていたら、赤い(ひげ)の『胡』がいた」道理である。

 「入涅槃」、「寂滅に入る事」は、阿羅漢の「拳頭」、「拳」の中に入る行いである。

 このため、「涅槃妙心」、「寂滅した妙なる心を持つ事」であり、回避する場所が無いのである。

 「(真理を嗅ぎ分ける)鼻の(あな)」に入る阿羅漢を真の阿羅漢とする。

 未だ「(真理を嗅ぎ分ける)鼻の(あな)」に出入りしない者は、阿羅漢ではない。



 古代の「法華経」の「信解品」を意訳すると、「我等今日、真阿羅漢。以仏道声、令一切聞」、「私達は今、真の阿羅漢と成った。仏道の声をもって、一切のものに聞かせる」と記されている。



 「一切のものに聞かせる」という言葉の意味は、「一切の『諸法』、『全てのもの』に仏の声を聞かせる」という意味である。

 どうして、諸仏と仏の弟子だけを挙げてひねっているだろうか? いいえ! 諸仏と仏の弟子以外にも仏の声を聞かせるのである!

 「有識」、「有情」、「情の有るもの」や、知が有るものや、「皮肉骨髄」、「理解」が有るものである仲間に皆、聞かせるのを「一切のものに聞かせる」と言っているのである。

 「有識」、「有情」、「情の有るもの」や、知が有るものとは、国土、草木、牆壁、瓦礫である。

 「揺落」、「秋に草木の葉が風に揺れて落ちる事」や、栄枯盛衰や、生と死が来たり去ったりする事は皆、仏の声を聞いて表しているのである。

 「仏道の声をもって、一切のものに聞かせる」由来は、世界を(ふる)って耳であるとして学に参入するだけではないのである。



 「法華経」の「方便品」で、釈迦牟尼仏は、「もし私、釈迦牟尼仏の弟子が、自ら『阿羅漢である』とか『独覚である』とか言っておきながら、諸々の仏、如来は、ただ菩薩だけを教化する事を聞かないし知らなければ、この人は、仏の弟子でもないし、阿羅漢でもないし、独覚でもない」と言った。



 釈迦牟尼仏の言葉の「ただ菩薩だけを教化する事」とは、「私、釈迦牟尼仏と十方の仏は、()く、この事を知っている」のであるし、「仏と仏だけが()く究め尽せる諸法の実の相」であるし、無上普遍正覚である。


 菩薩と諸仏が自ら「阿羅漢である」とか「独覚である」とか言うのも、仏の弟子が自ら「阿羅漢である」とか「独覚である」とか言うのと、同じである。

 なぜなら、自ら「阿羅漢である」とか「独覚である」とか言う者は、諸々の仏、如来は、ただ菩薩だけを教化する事を聞いているし知っているはずであるからである。



 古代の仏教書には「『声聞経』の中には、阿羅漢を称して、名づけて『仏地』(、『仏の境地』、『仏の地位』)と()す」と記されている。



 「『声聞経』の中には、阿羅漢を称して、名づけて『仏地』(、『仏の境地』、『仏の地位』)と()す」という言葉は、仏道による証明である。経典の学者の(個人的な)胸中の思いだけではなく、仏道の「通軌」、「共通の規範」である。

 阿羅漢を称して「仏地」、「仏の境地」、「仏の地位」とする道理の学にも参入するべきである。

 「仏地」、「仏の境地」、「仏の地位」を称して阿羅漢とする道理の学にも参入するべきである。

 阿羅漢果の他に、一つも微塵(みじん)も、一つの法も、他の法は無い。まして、無上普遍正覚も無い!

 無上普遍正覚の他に、さらに、一つも微塵(みじん)も、一つの法も、他の法は無い。まして、阿羅漢果を含む「四向四果」も無い!

 阿羅漢が「諸法」、「全てのもの」を(にな)って来る時、「諸法」、「全てのもの」は、実に、八両でも半斤でもなく、心でも仏でも物でもなく、「仏眼也覰不見」、「仏の眼が見ても見えない」のである。

 (一斤は十六両。半斤は八両。)

 「八万劫」の前後を論ずるべきではない。

 「眼睛」、「見る眼」を(えぐ)り出す力量の学に参入するべきである。

 「剰法は渾法剰である」、「残りの法は、法を(ふる)って残った物である」。



 「法華経」の「方便品」で、釈迦牟尼仏は、「この諸々の男性の出家者と女性の出家者で、自ら『既に阿羅漢を得た。これ(、阿羅漢)は、最後の身であり、究極の涅槃(、寂滅)である』と言って、再び無上普遍正覚を(こころざ)して求めなければ、『この輩は皆、増上慢の人(、悟っていないのに悟ったと思い上がっている人)である』と、まさに知るべきである。なぜなら、もし出家者がいて実に阿羅漢を得ていれば、『この法』、『法華経』、『仏法』を信じないのは論理的に有り得ないからである」と言った。



 「法華経」の「方便品」の釈迦牟尼仏の言葉は、「無上普遍正覚を()く信じる者が阿羅漢である」と証している。

 「この法」、「法華経」、「仏法」を必ず信じる事は、「この法」、「法華経」、「仏法」を付属する事であるし、

「この法」、「法華経」、「仏法」を単一に伝える事であるし、

「この法」、「法華経」、「仏法」を修行するし証する事である。

 実に阿羅漢を得ていれば、「これ」、「阿羅漢」は、最後の身ではないし、究極の「涅槃」、「寂滅」ではない。阿羅漢は、無上普遍正覚を(こころざ)して求めるので。

 無上普遍正覚を(こころざ)して求める事は、「眼睛」、「見る眼」を(ろう)する事であるし、

(二十八祖の達磨のように、)壁に向かって坐禅して打ち坐る事であるし、

「面壁開眼」、「壁に向かって開眼する」事であるし、

(あまね)く世界といえども、神出鬼没であるし、

諸々の時に行き渡るといえども、「互換」、「どちらも当てはまる」し、「投機」、「機会に投じる」。

 このようであるのを、「無上普遍正覚を(こころざ)して求める」と言う。

 このため、(「無上普遍正覚を(こころざ)して求める」とは、)「阿羅漢を(こころざ)して求める」事である。

 「阿羅漢を(こころざ)して求める」とは、「粥足飯足」、「朝食に満足するし昼食に満足する事」である。



 夾山の圜悟克勤は、「古代の人は、(仏法の)要旨を会得した後は、深い山や草の屋根の家や岩穴へ行って、脚の折れた(なべ)御飯(ごはん)を煮て食べて、十年、二十年、大いに人の世を忘れて、永遠に『塵寰』、『塵界』、『俗世』を離れ去る。

今時の人は、あえて、このような事(、古代の人のような事)を望まない。

ただただ、名を隠し、跡を(くら)まして、本分を守り、一人の『骨律錐』の老僧と成って、自ら証している所に(かな)うようにし、(おのれ)の力量に従って受用する。

前世の悪業を消し除き、前世の悪習を消し除く。

また、余力が有れば、考えてから、他人に及ぼし、知という(えん)を結び、自己の足を錬磨して純熟する。

例えるならば、荒れている雑草の中から一人前や半人前(の『草』、『修行者』)を選び取るような物である。

同じく存在している事を知り、共に生死を解脱し、転じて未来の利益と成る事をして仏祖の深い恩に報いる。

やむをえなければ、(しも)(つゆ)のように(はかな)くても結果が熟したら、考えてから、俗世に出現して、(えん)に応じて、相手に合わせて、人や天人を開いて(たく)して、(つい)に、心を欲求にとらわれない。

まして、どうして、権力者に依存したり、俗人の似非(えせ)僧侶と成ったり、凡人を(あざむ)き聖者をないがしろにする()()いをしたり、名声と利益を求めたり、無間地獄落ちの悪業をなしたりするだろうか? いいえ!

たとえ、『機縁』、『仏教を求める素質や仏教を教えてもらう(えん)』が無くても、ただ、このように、世を渡って、悪業の結果を生じなければ、真の出家者、阿羅漢であろう」と言った。



 今で言う所の「本来の僧」が、「真の出家者、阿羅漢」なのである。

 夾山の圜悟克勤の言葉によって、阿羅漢の性質と相を知るべきである。

 西のインドの経典の似非(えせ)学者などの言葉を妄りに認める事なかれ。

 東の地の中国の、夾山の圜悟克勤は、仏法を正統に正しく伝えられた仏祖なのである。



 洪州の百丈山の、大智禅師と呼ばれる三十六祖の百丈の懐海は「眼耳鼻舌(身意)の各々で一切の『この世』に有ったり無かったりする諸法に汚染されず貪らない事を、真理の四句の詩を受けて保持していると言い、『四果』を得たと言う」と言った。



 今の自己や他のものとは無関係である眼耳鼻舌身意と、その「頭が正しいので尾も正しい」事は、はかり究める事ができない。

 このため、渾身は(おの)ずから「汚染されず貪らない」のである。

 「渾一切の『この世』に有ったり無かったりする諸法に汚染されず貪らない」のである。

 「真理の四句の詩を受けて保持している」事が(おの)ずから渾渾(こんこん)と尽きない事を「汚染されず貪らない」と言うし、「『四果』を得たと言う」。

 「四果」とは「阿羅漢」である。

 そのため、今、形成されて現されている眼耳鼻舌身意は、阿羅漢なのである。

 「構本宗末」、「(もと)(かま)え、(すえ)(むね)とする事」は、(おの)ずから「透脱」、「透体脱落」、「煩悩を透過して脱ぎ落とす事」である。

 「始到牢関」、「初めて要衝の地である『虎牢関』に到達した」のは、「真理の四句の詩を受けて保持した」時であり、「『四果』を得た」時である。

 「透頂透底、全体現成」、「頂上まで奥底まで、透過して脱ぎ落とし、全体が形成されて現される」と、さらに、わずかな残り漏れも無いのである。



 最終的に、阿羅漢について言おう。

 どう言おうか?

「阿羅漢が凡人であった時は、『諸法』、『全てのもの』が(さまた)げていた。

阿羅漢が聖者に成った時は、『諸法』、『全てのもの』が解脱させてくれる。

知るべきである。

阿羅漢と『諸法』、『全てのもの』は(阿羅漢果に)同時に参入したのである。

既に阿羅漢を証した(、と言った)ら、阿羅漢に妨げられる。

そのため、釈迦牟尼仏よりも過去の仏である『空王仏』以前からの老いたる『拳頭』、『拳』なのである」



 正法眼蔵 阿羅漢


 その時、千二百四十二年、雍州の宇治郡の観音導利興聖宝林寺に住んでいて僧達に示した。

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