第78話 化膿した明るい未来
祖母の葬式が行われた日時は詳しくは覚えていない。
容態が悪化したと連絡を受けて病院へ走った時、日付が変わったあたりで親戚の家に一度帰った時、眠りについて2時間ほど経ってから祖母の訃報を受けた時、母親が泣きながら先生に頭を下げた時、祖母の家に行き遺品を整理した時、火葬場ではじめて祖父の涙を見た時。ありとあらゆる時間が一つのものに統合され、細分化した記憶を呼び起こすことができない。
土日のどちらかだったことは、曖昧模糊な記憶の中に眠ってはいるが、それはこの際どうだっていい。
祖母が亡くなったことで、家の問題が発生したことは事実だった。
元々持病のある祖父を預かることになったの俺の家だった。幸い部屋は空いているし、母親は仕事柄家にいることが多いので心配いらないだろう。
しかしそうなると、今度は俺の問題に移る。
俺は祖父母の仕送りなどがあること前提でこちらに引っ越して高校に入ることを許された。しかしそれができないとなると、金銭面での関係で俺は今のアパートを立ち退きせざるを得なくなる。
高校生がバイトだけで生計を立てるのも難しいだろうし、そもそも今のアパートも祖母の紹介で無理やり住ませてもらっているのだ。
契約書の名義も祖母になっているし、本人が亡くなったとなれば話は違ってくるはずだ。
基本的に転入は学年が変わる4月にしか受け付けていないところが多く、仮に転入できたとしても、たとえば3年の8月に転入したとしたら4月から8月の単位がすべて取り消されてしまうのだ。それでは進学はおろか、卒業すら怪しくなってくる。
そして今は12月。
別の高校に転入するには都合がいいタイミングだった。
一応家の近くに転入先として丁度いい高校があるらしく、面接だけで試験はいらないとのことだった。
選択権は俺にはなかった。
人が死んだのだ。
それならば、生きている俺は従うしかない。
そうしなければ、線香の落とした灰に重みがなくなってしまう。
もう声が届かないからこそ、こうして敬うことしかできない。
それは俺だけじゃなく、母親や家族、親戚一同も同じ気持ちだった。
「天くん、落ち着きましたか?」
「・・・・・・ああ」
俺はあれから家にあげてもらい、風呂を沸かすからそれまで待ってなさいと紫苑の母親に言われた。リビングから出てきた男の人は紫苑の父親だろうか。厳格そうな人だったが、雪まみれで震える俺を心配してくれていた。
風呂が沸くまで俺は紫苑の部屋で待っていることとなった。
はじめて入る紫苑の家、それから紫苑の部屋。
感じるものはたくさんあるはずなのに、頭の中を渦巻く薄黒いものに乱反射して思考が定まらない。
パッと思いつくのは紫苑の部屋は白を基調としたシンプルな色合いで、置いてある物も少ない。部屋の隅に置かれた大きな本棚だけが存在感を放っている。
あまり人を部屋に呼び込んだことはないのだろう。紫苑は俺が部屋に来た時、慌ただしく部屋をかけまわり、クッションの代わりに自分の使っている枕を差し出してきたので、俺は遠慮して床に座り込んだ。
「天くん?」
「ああ」
「寒く、ないですか?」
「ああ」
「あの、ストーブ、そこだと熱くはないですか?」
「ああ」
熱かった。
足が熱風に当てられ、火傷するような痛みに変わる。
「天くん・・・・・・」
ぼーっとしていた。
体が動かせない。
俺はいったい、何しているんだろう。
紫苑はそんな俺の頭にタオルを乗せて、遠慮がちに拭き始めた。
軽く、弱い。もどかしさを感じる強さで、まるで頭を撫でられているかのようだった。
人の手は温かい。
誰かに触れられると、幸せを感じる。
頭に乗っていたタオルが離れていき、視界が晴れる。目の前には心配そうに俺を覗き込む紫苑の姿があった。
「疲れたんだ」
軽くなった頭が、自然と上を向く。シミ一つない白の天井が俺を見下ろしていた。
「遠かった」
「靴擦れとか、してないですか?」
確認するたびに靴下を脱ごうとするが、足に引っかかってうまく取れなかった。親指に引っかかった靴下を、紫苑が取ってくれる。
「ここ、赤くなっちゃってます。痛かったりしませんか?」
「痛い」
本当は痛みなんてなかった。
「お風呂前ですけど、お薬あるので・・・・・・塗った方がいいかもしれません」
そう言って紫苑は自分の机の中から救急ケースを出して軟膏を腫れた部分に塗ってくれた。人差し指の腹で、伸ばすように回す。
その感触が心地いい。
人肌を求めてしまう。
幸せの在りかを知ってしまった。
俺はもう、これ無しで生きていけるのだろうか。
「・・・・・・ッ!?」
「天くん!? ごめんなさい、痛かったですか!?」
「ああ・・・・・・痛い」
心臓が張り裂けそうだった。
「胸が・・・・・・痛い・・・・・・」
どんな軟膏を塗っても、治りはしない。その救急ケースの中にあるものをすべて塗ったくっても、この破裂しそうなほどの衝動が収まることはないだろう。
「転校しちゃうって、本当なんですか?」
「本当だ。4月に、転校だから、手続きはもっと早くから。3月には引っ越しをはじめる予定だ」
「そう、なんですか。そうですよね、うそなんてつきませんよね、天くんは」
俺の顔を映したように紫苑の表情も暗いものになる。
紫苑が冷たくなった俺の手を握る。
「寂しいです」
その温もりはストーブよりも温かかった。
「俺にとって転校なんて、本当はなんてことはないはずのものだったんだ。一人には慣れていたし、一人のほうが色々と都合がよかった。それに別れを惜しむ奴らもいなかったし、なんの未練もないはずだった」
まだ残っていた水が、前髪を伝い床に落ちる。濡れたワイシャツが腹にべったり張り付いて気持ちが悪い。
黒のルームウェアを来たラフな恰好の紫苑とは対照的だった。
「けどさ、どうも、頑張りすぎたみたいなんだ」
紫苑には楠木を復学させたいという意思とそのために何をしているかということも伝えてあった。直接会う機会はほとんどなかったが、きちんとメッセージでは定期的にやり取りはしていた。
毎日楠木の家に行って、人と話せるよう外へ連れ出して、楠木への想いを色紙に書いてもらえるよう頭を下げて回って、俺は少しばかり頑張りすぎたのだ。
それが無駄な努力ならまだよかった。
なんの成果も得られない、結局空虚で無意味な世界だと再確認できていれば、こんなにも後ろ髪を引かれるような気持ちにはならなかったのだ。
「なんで、今なんだろうな。もっと前に決まってくれていれば」
しかし、それを言うのはあまりにも酷だ。文句を言いたくても、その対象は今頃土の中、もしくは空の上だ。
なら責めるべきは、自分しかいない。
どうして孤高を演じきれないのか。
どうして最後までこの世界を嫌いでいられないのか。
これまで人を嫌いで、関り合いを拒んできた俺が、ちょっと人との温もりに触れて、うまく話すことができて、自然と輪の中に溶け込めただけで舞い上がって、意外と悪くないななんて思って。
有象無象の半端物。一貫しない意思、他人によって簡単に変わる価値観。
そんなようなものしか持っていないから、こうして揺れ動くんじゃないか。
たとえばこれから転校することをクラスのみんなに相談しようか。そうしたらみんなはそれを阻止しようと動いて、俺の母親に働きかける。
『サボテンを連れて行かないでください!』
それか、空港の中でクラスメイトが待ち構えていて俺を引き留めてくれることにしようか。
母親はしょうがないわね、と肩を竦め俺の転校をなかったことにしてくれる。
いいじゃないか、最高だ。青臭い。バカバカしい、都合の良すぎる、頭の悪いシナリオ。それでも俺は喜ぶし、幸せを噛みしめることができる。人と関わってよかった。そうやって締めくくることができれば、何も文句はない。
だが。
人が死んだのだ。
私情の介入なんて許されない。
俺の家にそこまでの権力や自由はない。
それに俺にだってたった一人でなんの援助もなく暮らし続けるのが無理だということはわかっていたし、たとえ誰かが居候させてくれたとしても、それは一時的な逃避にしかすぎず、就職や進学を控えた俺にとってかなり不自由であることは明確だ。
これが現実だ。
もう事態は転がらない。
変えられるのは、俺のこの、伸びきってしまった背筋だけだ。




