第79話 『過ち』を望む
「天くん」
畳んだタオルを膝に置いて、紫苑が真正面から見つめてくる。
「私は、ここ最近の天くんの行為はすごく素敵なことだって思います。誰かのために頑張れるのって難しいことだし、たとえ踏み出せたとしても最後まで走りきれる人はいません。それでも天くんは最後まで諦めませんでした。だから今はちょっと、汗をかいちゃってるのかもしれません」
額に滲むものは、やけに冷たかった。
「だからこそ、そんな天くんを見てるのが好きでした。好きな人が何かに一生懸命になっているところって、すごく胸が熱くなるし、カッコいいなって思います。たとえそれが、自分を見失った果てのものだとしても」
息を飲む。
ああ、全部、お見通しなんだ、俺のことは。
どれだけこの人は俺のことを見ているのだろう。
どれだけこの人は俺のことを知っているのだろう。
どれだけこの人は俺のことを好きなのだろう。
考えると、ぞっとした。気が遠くなそうなほどの広大なものが、そこに広がっていたからだ。
「打算的なものも要りません。ただ闇雲に、ワガママに頑張ったその行為に、善意なんてものが微塵も含まれていなかったとしても、天くんはやっぱり、報われるべきです」
紫苑の手のひらが俺の手に重なる。毛糸のように柔らかく、岩石のように重かった。
「天くんは、どうしたいですか」
「俺は・・・・・・」
転校したくない?
みんなと別れたくない?
いやだいやだと駄々を捏ねて理屈を度外視した楽観的な結末を望む?
紫苑が俺を見上げる。
ナイフを突き立てられた。
それは止まることのない銀色の輝きだ。あまりにも眩しく冷たい光は、徐々に俺の首元をめがけて近づいてくる。
いやだ、死にたくない。
そう言ってナイフを握れば夥しいほどの血が溢れ出てくる。
同情を訴えかければ、喉奥に突き刺さり内部を抉られて声すら出せなくなる。
「好き、なんだ」
なら、その刃が俺の体を貫く前に、悔いのないよう、真実を述べたかった。
「人が嫌いなんて言っておきながら、憧れてただけなんだ。ただ明るく、単細胞に生きられたらって、何度も願っただけなんだ。ぼっちは心地よかった。一人は楽だ。だけど、それだけだ。平坦な道じゃ、目に見えるものしか見つけられない。見上げる坂道は億劫だ。だけど、走り抜けたその先には見たこともない景色が広がっている」
唇が震える。
「反吐が出そうだ、そんな言葉」
声が震える。
「この世はクソだ。見えてるものだけがすべてだ。俺に心を読む力なんてない。坂道は疲れるだけだ、その先にあるものは変わらぬ景色と急な下り坂だ。ゴロゴロと転がって、傷だらけになって、立ち上がるか、そこで寝ているかの選択を委ねられる。寝たままのほうが楽だ。そうすればもう傷は負わない。けど、道行く人は寝そべったままの俺を見下したような目で見て言うんだ。『いつまで寝てんだ』って」
どうして付いて行かなくちゃいけない。ありがとうを言うのは疲れる。ごめんと言うのは億劫だ。人の目が邪魔くさい、今にも話しかけてきそうなあの表情が苦手だ。なんで俺なんだ。
なんで人はこうにも滑稽に生きることしかできないのだ。
なんで人は、それを知っていながらも、人の温もりに溺れていくのか。
「助けてくれ、紫苑・・・・・・」
縋るしかない。
「助けて、くれよぉ・・・・・・」
バカみたいな声が漏れる。
まるで子供だ。
「天くんは、優しいから」
そんな俺でも、紫苑は嫌な顔することもせずに優しく抱きしめてくれる。
「きっとそんな風に、自分を責めちゃうんだと思います」
「そんなことない、俺は、だから、優しくなんて、ないんだって」
「はい。優しくなくなればいいんです。天くん。もっと意地悪になってください」
それは、悪魔の囁きだ。
「強がれる弱さより、弱音を吐ける強さを尊重してあげてください」
ナイフが突き刺さる。
それは俺を抉り、貪り、削り取っていく。
痛い。
やめてくれ。
それ以上は、頼むから。
「思い出をたくさん、作りましょう。天くん」
「・・・・・・・・・・・・」
声が出ない。
喉の奥に逆流した血が溜まり、ゴポ、と鈍い音を立てる。
「あ、あの・・・・・・偉そうなこといっちゃいましたけど、ちがったら、ごめんなさいっ」
「・・・・・・いや」
どうして紫苑はいつも俺の欲しいものをくれるんだろう。足りないもの、満ち足りたもの、そのすべてがいつも紫苑と共にある。
もう転校は決まっていることだ。
今から撤回はできない。
別れは辛い。
あれほど俺を迎え入れてくれたクラスと離れ離れになるのが辛い。
なら、転校することは告げないでおこう。消えるときは黙って、そうすればきっと傷を負わなくても済む。寝そべったまま、過ぎ行く時間を眺めていよう。
強がるのは、得意だった。
「そうだよ」
だけどそれは弱さだ。
「せめて、思い出を、作りたい」
逃げるのも疲れたし、追いかけるのも疲れた。
俺はどうしたってぼっちでオタクだ。
それは言い訳だ。
どれも自分で選んだ道だ。
「どうせ転校は決まってるんだ。なら、この学校でよかった。このクラスでよかった。みんなと出会えてよかった。そういう・・・・・・気持ちで、別れたい」
「はい。すごく、カッコイイと思います」
後頭部に触れる手が、俺の熱を奪っていく。
沸騰しそうなほどに熱されていた頭が冷えていくのがわかる。
「頑張りましょう、天くん。四月までに、いろんな楽しい思い出。たくさん作りましょう」
「ああ」
「きっとみんな受け入れてくれます。きっとみんな、協力してくれます」
「ああ」
「天くんの大好きな人たちが、大好きな天くんのことを、忘れないようにって」
突き刺さったナイフが、体から抜けていく。血肉を連れて、俺の中のものを外に出していく。
外の空気に触れると激痛が走った。
「だから、別れましょう。天くん」
いつのまにかストーブは消えていた。それなのに、粘ついた汗が止まらない。
「私がたぶん、天くんの邪魔になっているんだと思います。悩みのタネってやつです。えへへ」
困ったように笑う紫苑が、俺の目の前で顔を伏せる。
「私、幸せになりたいなんて思ったことはありません。幸せになりたいから、ずっと抱いていた恋を叶えたいだなんて思ったことはありません。私が望んでいるのは天くん、あなたの幸せだけです」
再び見たとき、紫苑は優しく目を細めていた。
「天くんの邪魔だけは、したくないんです」
引っかかっていたのは事実だった。
クラスメイトとはさよならをする。悲しいことだが、それは仕方がない。
なら、紫苑は? 恋人という関係はどうなるのだろう。
紫苑ともさよならか? だが、遠距離恋愛というものがある以上、その判断は軽率というものだ。
だからといって、曖昧な距離感のまま恋人という関係だけを持ち続けるのか?
分からない。
紫苑との別れを、いったいどういうものにすればいいのか、俺には分からない。分からないから、付き合ったまま、恋人のまま、俺は向こうへ引っ越す。
そしてそれからも関係は続き、高校を卒業して、進学、就職、それぞれの道に進んだあとも恋人で、社会人になってからも、どれだけ歳をとっても、ずっと恋人。名だけの関係。
俺はそういう、不透明な関係の末路を知っている。
自然消滅だ。
煙のように消えた『過ち』。
その恐ろしさと、単純さ、それから後悔と、付きまとう重みを知っている。
それならここで別れたほうが、互いのためになる?
分からない。
紫苑とのことが気がかりだったことは、事実だった。
「紫苑は」
けど。
「紫苑は本当に、それでいいのかよ」
すると紫苑は、目を開いて、驚いたように俺を見た。
口が小さく開く。しかしそこから声は発せられない。
そうしている間に、紫苑の母親が部屋に入ってきて、風呂が沸いたことを教えてくれる。
俺は紫苑の母親に連れられ、脱衣所に向かう。
部屋を出る前に振り返ると、紫苑は同じ体勢のまま、先ほどまで俺が座っていた場所を、じっと静かに見つめていた。




