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第68話 楠木柚子

「外、晴れたみたいだな」


 俺が慣れたように丸机のそばに座ると、楠木はクッションを抱いたままベッドの上から俺を見下ろした。


 口元は隠れて見えないが、力のない瞳が疑問を抱いているのは明白で、しかしそれに言及する勇気がないのも見て取れた。そういったものを表情から読み取れるほど、俺はこいつと一緒に過ごしたということだろうか。まぁ、本当にそうなのかは楠木本人に聞いてみないと分からない。


 ともすれば俺も、そんなことをいちいち聞けるほどフットワークの軽い人間ではない。これでも踏み入る前に、境界線は見定める主義なのだ。そもそも踏み入るという行為自体避けてきただけなのだが。


「出かけないのか? せっかく着替えてるのに」

「・・・・・・うん」


 楠木の第一声は掠れている。いつものことだった。


 俺も学校というものがなければ誰かと話すことはないだろう。そうやって発声の仕方を忘れて、喋り方を忘れて、伝え方を忘れて、伝えたいことを忘れていく。人と会わないとはそういうことだ。


 とはいえ今の時代インターネットというものがあるのでその限りではない。楠木にも一度ネットゲームを勧めてみたが、家には業務用の弱い回線しかひいてないとのことで断念した。


「駅前になんか変な店できてたぞ」

「なにその変な店って」

「なんか、楠木が好きそうな店。タピオカーとか、なんかおもちゃみたいな色のアイスとか」

「あはは、なにそれ。浅くない?」


 楠木は遠慮がちに笑った後、目線を部屋の隅にやって俯いた。


「まぁ、好きだけどさ」


 楠木を復学させるにあたって、まずは外に出ることが大事だと俺は思った。きっと陽の光も浴びていないのだろう。肌は前にも増して白々としている。女子にとってはそのほうがいいのかもしれないが、俺にはそれがただ、なにかが抜け落ちた色にしか見えなかった。


「ごめんね」

「だからいいって言っただろ。昔のことは」


 楠木はたびたび、こうして謝罪を繰り返した。


「俺だって意地になってたんだ。よくよく思えば、イジメられてたのはもっと違うやつだったし、はじまりは楠木のせいかもしれないけど、その後のことは俺とそいつらの問題だ。だから忘れろ、とは言わないが・・・・・・なんだ。お互い様ってことなんだよ結局は」


 自分でもこんなことを言える日がくるなんて思ってもいなかった。


 勿論、この言葉のすべてが本音ではない。俺が今まで楠木を憎んでいたのは本当だ。俺の人格、人生を捻じ曲げたのだ。直接的な関与はなくとも、なぞるように辿っていけば必ず楠木に辿り着く。


 復讐はむなしいだけとは誰が言っただろう。ほんの少しだけ気持ちは分かる気がした。


 あれほど長い間苦悩していたことも、今となっては俺の中でどうだっていい事となっていた。解決したわけじゃない。ただ、踏み越えたといえばいいのだろうか。


「こうしてお話できてるだけでも、感謝しなくちゃなんだよね」

「だからいいんだってのに」

「ありがとね」


 鼻の先を赤くした楠木が笑う。俺にはそれが、本物の笑顔であるように思えた。


「髪切ったの?」

「前のとこで切った。楠木が最近来ないからって心配してたぞ」

「あー、うん。近々いくよ」

「そうか」

「やっぱそっちの方がカッコいいよ」

「自分じゃわからん」

「紫苑ちゃんはなんて?」

「今日はまだ会ってないから分からないが、前は髪が伸びてたほうが好きとは言ってくれた」


 俺がそう言うと楠木は小さく相槌を打ってはにかんだ。


「紫苑ちゃんと帰らなくてよかったの?」

「ああ、楠木のところに行くって言ってあるからな」

「そっか。うん、言ったほうがいいね。偉いと思う。そういうの」

「はじめて褒められた気がするな」

「わりと褒めるときは褒めてたと思うんだけどなー」


 拗ねたように言う楠木は少しずつ調子を取り戻してきたように思える。


 しかし、目の前で見えるくすんだものと過去の鮮やかな彩りに差異を感じてしまうともどかしい気分に苛まれ、つい手を伸ばしてしまいたくなる。


「佐保山?」


 やはり、違う。 


 こうじゃない。


「いや、なんでもない」


 俺が見たいのはこんな造花じゃないんだ。


「・・・・・・来週には雪、降るかな」

「どうだか。今年は暑いみたいだし、もっと先かもな」

「そうなんだ。家から出ないとわかんないことも多いね」


 焦ってはいけない。


 だが、のんびりもしていられない。


 気付けばすでに十二月。もうじき冬休みがやってくる。


 楠木が学校にこないまま長期休暇を迎えてしまえば、なんとか繋がっている細い糸が切れてしまいそうな気がした。楠木も、そしてクラスの奴らの心も、また違う方へ向いてしまうだろう。


 当たり前だ。人間、他人のことばかり気にしていられない。


 なにかきっかけがあって優しい人間になれたとしても、それは一時的なものだ。人間の優しさなんてそんなものだ。よほど狂っていないかぎりは、そこまで人のことばかり気にかけて生きてはいられない。


 タイムリミットがあるとすれば、今月。冬休みに入るまで。


 それまでに楠木を復学させる。


 楠木はそんなこと望んでいないかもしれない。


 知ったことか。


 俺はただ、今のこの状況がひどく気に食わないだけだ。


 素直に生きるだけじゃ祝福してくれない、捻くれたこの世界が嫌いで仕方がないだけだ。


「楠木、学校へ来るつもりはないのか?」


 俺はここではじめて楠木の防衛ラインを踏みぬいた。


 楠木も俺がただ遊びにきているわけではないということを分かっていたのだろう。そこまで驚きはせずに、ああ、という風に答えた。


「うん。だって、あたしが戻ってもみんなに迷惑かかるし。それでギスギスしちゃうのも、やだし。それに・・・・・・もう、どうすればいいかわかんないし」

「それは周りに聞いてみないとわからないだろ。そうじゃなくて楠木、お前自身の意見はどうなんだよ」

「あたしは・・・・・・」

「友達とか、教師とか。楠木を待ってる奴らがいるんじゃないのか」

「そんなのいないよ。みんな忘れてるよあたしのことなんて。恵だってそうでしょ? 最初はノート書いてくれてたみたいだけど、もう書いてないじゃん」


 ああ、と思った。


 こいつも俺と同じで、人間の優しさが無制限にあるわけではないと気付いているのだ。


 最初は心配してくれていた奴らも、今は楠木のことなんて忘れたかのようにいつもの日常を過ごしている。


 けど、それは違う。


「書いてるぞ」

「え?」

「あいつは書いてる。ヘタクソな字で、毎日俺にノートを渡してくる」

「じゃあ、なんで持って来ないの?」

「楠木がいらないって言ったんだろ。あんなノート、家に帰って捨ててるよ。それでもあの女は放課後になると俺にノートを渡してくる。捨てるぞって言ってもさ、バカみたいに意地になって『お願い』って真剣に言うんだ。間抜けな奴だよな、なんの意味もないのに。一つも楠木の元に届いてなんてないってのに」

「そんな・・・・・・」


 楠木は唇を噛んで、クッションを握りしめた。


「けどさ、どのツラさげてそんなことしてくるんだって感じはあるよな。まるで罪を償うように、これで許してください~ってさ。あからさまな奴だよ。反吐が出そうだ」

「で、でも・・・・・・恵は、いっつも授業中寝てばっかりで、ノートなんて取ったことない・・・・・・はずだよ」

「さあな、あいつの考えてることなんて俺にはなにもわからない。それはあっちも同じだ。楠木、お前がどうしたいのか、何を望んでいるのか。言わなきゃ誰もわからないんだ」


 唇の輪郭を波打たせ、楠木は何度も口を開きかけた。


 だが、その漏れ出た空気が声になることはなかった。


 感情が口と直接繋がっていたら、どれだけ楽だっただろう。人体の構造における欠陥にも近い、あまりにも遠回りな伝達の仕方は、口に到達するまでいくつもの感情を体内に残留させる。


 時には思ってもいないことを口にしてしまうこともある。


 時には至極簡単なことも言えなくなる。


「あ、あたしは・・・・・・」


 窓から差し込む夕日が、楠木の髪を照らしていく。滲むような、暗い色。だがそれは、様々なものが交じり合った、キレイな色だった。


 冬の夕暮れが早いのか、それとも楠木の沈黙が長かったのか。


 陽が落ちて辺りが暗くなるまで、楠木は言い淀んだ。


「はぁ・・・・・・」


 俺はため息をついて自分のカバンに手をかけた。


 結局、そうなんだよな。


 この楠木柚子という人間は、優しすぎるあまり、自分より他人を優先して自分の感情を押し殺してしまう。


 過去の出来事も、それを助長してしまっているのだろう。


 前向きに見えても、明るく振る舞っていても、ギャルなんて被りもので自分を誤魔化しても、結局こいつは、こいつでしかないのだ。


 髪を染めようが自分を着飾ろうが、それは変わらない。


 俺はカバンから取り出したものを楠木に差し出す。楠木は一度驚いたような素振りを見せて、そのあと恐る恐る手を伸ばした。


「そこに、全部書いてある」


 楠木は俺から受け取った色紙の束に視線を落とす。


「集めるのはまあ大変だった。けど、その代わり驚きもした。こんなにたくさん、書いてくれる奴がいるのかって」


 楠木への寄せ書きを頼む。あいつはきちんと言わないとわからない奴だから。


 クラスメイトへそう告げたときは、そりゃ怪訝な顔をされた。

 

 けどすぐに、その色紙は埋まっていった。俺という人間を不信がるよりも、もう姿も見ることのできない人間に想いを伝えることをあいつらは選んだのだ。


 そこに綴られているのは、クラスメイトが最後まで言葉にすることができなかった楠木への想いと、後悔と、切実な願いだ。


『学校に戻ってくるの待ってるよ~。元気になったらまたクレープ食べに行こう!』

『柚子ちゃんの明るい姿、また見たいな。』

『このあいだ教えてくれたネイルちょーよかった! おそろになっちゃうけどいいよね笑 てか来ないのってそれが原因だったり!? もしそうなら今すぐ剥がすから~泣 はよ学校戻ってきてくれ~!』

『喋ったことはないけど、いつも元気だなって見てました。二年生の廊下が、いつもより静かに思えます』

『大丈夫か~? はやくしないと預かってる柚子の体操着、わたしんちのにおいになるぞ~』

『楠木さんへ。いつも明るくお友達とはしゃいでる印象ですが、授業は真剣に聞いてくれてありがとう。そういうところ、楠木さんのすごいところだって思います。今はすごく辛い時期だとは思いますが、教師一同、楠木さんの復帰を待っています』

『柚子ちゃーん! 柚子ちゃんがいないと私ものすごく寂しいよ~! ドライフラワーの話いったい誰とすればいいの~!?』

『このあいだ一緒に百円玉探してくれてありがとうございました。結局あのあとポッケの中から出てきました』


 色紙一枚におよそ15人分。それが4枚。


 こんなにも、楠木のことを気にかけてくれている奴らがいるのかと思った。


 おそらくこのすべてが友達や知り合い、というわけではないのだろう。


 前に一度助けられた、その優しさと、明るさに元気と勇気をもらった人間。そんな奴らからの言葉も散見された。


 もちろん、友達からの言葉も多く見える。これは集まるのが早かった。


「お前を待ってる人間がな、そんだけいるんだよ」


 それはきっと、ギャルだからじゃない。


 クラス内でのカーストが高いからとか、陽キャだからとか、そんな理由じゃないのだ。


「みんなお前に、助けられてきたんだよ」


 こいつが、楠木柚子だから。


 みんなこの色紙に書いて、言葉を届けたいって思うんだ。


「俺だって同じだ」


 そこに書いてはいないが、書いてないなら言えばいい。


 言える。


 言えるさ。


 俺はもう昔の俺じゃないんだ。


 鬱屈で卑屈で、なにをするにも億劫で、人が嫌いで、人の間に渦巻く感情が嫌いだった、ぼっちの俺は、もういないんだ。


 どっかの誰かが、許可もなくすっ飛ばしてくれたせいで、こんなになってしまった。


「俺は楠木に、戻ってきて欲しい」


 大きな一粒が色紙に落ちる。


 肩が揺れるたび、瞳に溜まった涙が何度も頬を伝う。


「あ、あたし・・・・・・」


 その色紙に込められたのは思いだけじゃない。


 楠木柚子という人間がこれまで通ってきた旅路の功績が、そこにあるのだ。


 世界は厳しい。甘くない。優しいだけじゃどうにもならない。


 人を嫌え、人を疑え。損得を考えろ。無駄に労力を消費するな。人のことなど放って置け。自分さえよければそれでいい。気が向いたときだけ作り物の優しさを見せろ。


 気遣いができるだけ損をする。自分を犠牲にしていることなど誰も気付いてはくれない。


 この世界はそんな素直な人間が素直に生きられるほど真っ直ぐに出来ていない。世界を憎め。


 こんなくだらない人生としょうもない世界だ。それでもよりよいものにしたいのなら、利口に生きろ。


 ・・・・・・そんな薄汚い淀んだ理屈に抗い続けた結果が、そこにあるのだ。


「許されるのなら・・・・・・」


 涙は絶えない。溜め込んでいたものが多ければ多いほど、それは溢れ続ける。


「もう、一回・・・・・・学校に、いきたい・・・・・・」

「ああ」

「また、楽しく笑いたい・・・・・・」

「ああ」

「みんなに・・・・・・会いたいよ・・・・・・」


 色紙を抱きしめ、悲痛な声で懇願する。


「でも・・・・・怖い・・・・・・」


 分かってる。


 そんなすぐに切り替えられる器用さがあれば涙など流れない。涙を流せるのは後悔できる人間だけだ。後悔できるのは、他人よりも自分が嫌いな人間だけだ。


 俺たちは人嫌いだ。


 自分という人間が嫌いだ。


 だから逃げもするし、諦めもする。


 けど、だからこそ、それと同時に。


「俺に任せろ」


 自分と同じ苦しみを持った者を。


 助けたいとも思うのだ。


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