第46話 カモミールは苦い
「それじゃあサボテンくん、また明日ねっ!」
小さな手を大きく振り、子供のように駆けていく杉菜を見送って俺も帰路に着くことにした。
空は茜色に染まっており、時刻は6時半。
五時に帰るという目標は達成できなかったが初日に、しかもあの破天荒な杉菜との作業でこの成果はまずまずなのではなかろうか。
体育祭までおよそ一週間あるが、それまでに今日のような雑用をしなければならないとなると気分は憂鬱になるばかり。
暖かくなり、灯りに群がる鬱陶しい羽虫を手で払いながら息をつく。
と、校門を出て、少し歩いたところ。元々桜並木だったそこに、憂鬱な気分を全て吹き飛ばさんとする軽快な笑顔があった。
「あ、天くん」
「し、紫苑?」
それは先に帰ったはずの紫苑だった。
「ど、どうしたんだ? こんなところで」
すると紫苑は、
「佐保山くんが来るの、待ってました」
「待ってたって・・・・・・ずっとここにいたのか?」
「はい」
ホームルームが終わったのは四時。あれから少なくとも紫苑はあれから一時間半もここで待っていたということになる。
「言っただろ、体育祭委員の仕事があるって。なんでまた・・・・・・」
ずっとこんなところで待たせてしまっていた罪悪感に苛まれる。こんなことなら杉菜になんて付き合ってないでさっさと終わらせてしまえばよかった。
「ごめんなさい。私も天くんからLIMEを貰って帰ろうと思ったんですけど、その・・・・・・やっぱり会いたくって」
紫苑の頬が赤いのは、夕焼けのせいではない。口にするのも恥ずかしいくせに、顔を真っ赤にして一生懸命に気持ちを伝える。
紫苑はそういう、健気で不器用な奴だから。
「ゴールデンウィーク以来ですから、四日ぶり、でしょうか」
「まぁ、そうなるな」
「久さしぶりの、天くんです」
俺の顔を見つめ、顔を綻ばせる紫苑。
「ずっと、会いたかったです」
「そんな大げさな」
俺は思わず笑ってしまった。
「でも。やっぱり悪かったな。長いこと待っただろ?」
「いえ、待ってる間ずっと考えてましたから。天くん、きっとびっくりするだろうなぁ、とか。第一声はなんて言おうかなぁ、とか。そんなことばかり思っていたら時間はあっという間に過ぎちゃってました」
ずっと、一時間半も。俺がいつ来るかも分からないそんな虚無の時間を、紫苑はあっという間だったと言ってのけた。
「でも天くんの顔を見た時、嬉しくて。せっかく考えてた第一声も忘れちゃってました」
ついさっき、俺が紫苑と顔を合わせた時の第一声と言えば「あ、天くん」だ。そんな当たり障りもない普通の反応をしてしまったことを紫苑はほんの少し悔しそうにしていた。
そうして紫苑は両手を胸の前で擦り合わせた。
「寒いのか?」
「あ、いえ」
俺に指摘されて、紫苑は慌ててその両手を背に隠した。
暖かくなってきたとはいえ、日が落ちた後の風はまだ冷たい。一時間半も外で待ちぼうけを喰らっていたら冷えるのは当然だ。
なんでもないです、と笑って誤魔化すそんな紫苑に俺は、
「手、繋ぐか」
自分でも驚くような案を挙げていた。
「えっ?」
「だからさ、手。寒いんだろ? 俺のせいでもあるし」
「え、えっと」
紫苑はというと、視線をこれでもかというくらいに泳がせて、口はぽかんと開いていた。
その様子に、俺はまた笑ってしまう。
「じゃあ、いい、ですか?」
「ああ」
一歩、紫苑が近づく。そして一度俺の顔を確認するように見上げた後、視線を落として手を握った。
両手で。
「えぇっと」
一生懸命に俺の手を両手で包み込む紫苑は目を瞑っている。
俺はどうしたものかと考える。
「いや、紫苑。そうじゃなくて、まぁ。これでも別に俺は構わないが」
「あ、あれっ? ご、ごめんなさい私・・・・・・っ」
伝わってくる紫苑の高くなった体温。俺の手もきっと熱を帯びているはずだ。
待たせてしまっていた紫苑への謝罪を込めて、そして俺のことをずっと待ち続けてくれていた紫苑への想いを込めて、俺は言った。
「たとえばさ、なんていうか。もっと、恋人っぽくっていうか」
ぎこちなく紡がれていく俺の言葉に、紫苑の肩がぴくっと震えたのが分かった。
「恋人っぽく・・・・・・」
「あぁ。あるだろ? なんか、こうやって手を繋いで帰るヤツ」
以前、俺と紫苑がしてこなかった恋人同士っぽいこと。
休日にデートだってした。名前だって呼び合うようになった。そしたら、手を繋ぐくらい、順序としては間違ってはいないはずだ。
ちょとずつでいいから、不器用でもいいから。俺たちは俺たちらしく変わっていこうってそう言ったのだから。
「それじゃあ」
紫苑は一度、俺の手から両手を話す。温もりが消え、夕方の冷たい風が手を撫でていく。
しかしすぐさま、今度は合わせるように紫苑の片手が俺の手に添えられた。
「握っても、いいですか?」
「ああ」
そして、ギュッと。優しく、柔らかく、紫苑の手が俺の手と絡まっていく。
片手と片手、しかしさっきよりも温かくて、甘酸っぱい気持ちが胸の中に溢れてくる。これはもしかしたら、幸せというのかもしれない。
「にぎっ・・・・・・ちゃいました」
「握られてしまった」
「もう、なんですかそれ」
俺の冗談じみた返しに、紫苑は嬉しそうに笑った。
もし、紫苑も今。俺と同じ気持ちなのだとしたら、俺も勇気を出した甲斐があったというものだ。
「じゃあ、帰るか」
「はい」
駅までの短い道だが、俺は少しでも多くの幸せを感じていたいと、少しでも紫苑の笑った顔を見ていたいと思った。
「そういえば」
駅へと続く田んぼ道を二人で歩いていると、紫苑が思い出したかのように言った。
「体育祭委員のお仕事、お疲れ様です」
「あぁ、本当に疲れた」
俺はわざとらしく溜め息をつく。
「でも、素敵なことだと思います。誰かのために、生徒のために、体育祭を成功させようと頑張るのって」
「そうか?」
「はい。漫画やアニメでもよくあるじゃないですか。誰かのために戦うとか、世界のために戦うとか。それってきっと、他のものに置き換えても尊いことなんです」
「嫌々だけどな」
「嫌々でもです」
そんな紫苑を前に、俺の中に溜まっていた体育祭委員への愚痴は泡のように消えていった。
本当に、紫苑は優しくて。俺の性根が彼女によって浄化されていくのが自分でも分かる。
「あぁ、でも」
だが一つ。唯一消えることはなかった愚痴があった。
「もう一人の体育祭委員、杉菜って奴なんだけどな。そいつがまたやかましい奴で」
俺は杉菜の生態を事細かく紫苑に説明した。
声が高くて活舌の悪い、子供みたいな喋り方をすること。
静かにしろと言っているのに一人で永遠と会話を続けること。
体育祭のポスターだと言っているのに異星物の絵画を書き始めること。
そのどれもに、紫苑はくすくすと笑ってくれた。
「さっき別れたときも、子供みたいに手を振って。バカみたいにドタドタ走っていきやがって、不思議な奴もいたもんだ」
「ふふ、面白い方なんですね。その杉菜さんというのは」
「あぁ、面白可笑しい奴だよ。おかげで明日もどうせポスター作りの続きだ。あんな絵がOK出されるわけがないからな」
「そうなんですね。じゃあ、明日も」
「すまん。帰れなさそうだ」
すると、俺の手を握る力が少しだけ増した。
まるで行かないでと、一緒にいてくれと言うように。
「いえ、頑張ってください。体育祭をいいものにするために。きっとみんな喜んでくれるはずです」
「そうだといいな」
俺は心にも思っていないことを適当に口から漏らす。
別に、体育祭なんてどうだっていい。早く終わってくれと願うだけだ。
「はぁ」
そこで、今日の疲れが出たのか俺はあくびをしてしまう。
「今日は早めに寝た方が良さそうだ。明日も杉菜のテンションに付き合ってられる自信がない」
「あっ、そうですよね。天くん疲れてるのに・・・・・・ごめんなさい。私連れまわしちゃって」
「それはいいんだよ。紫苑と居ると疲れも忘れられるから。むしろ、その。あーなんだ」
俺は誤魔化すように右手で頭を掻こうとしたが、右手は今紫苑の手を握っている最中だ。
一瞬だけ、紫苑を見て、すぐに目を逸らして言う。
「一緒に居たいんだよ」
俺は、ちゃんと言えただろうか。
その答えは、握った手が教えてくれた。
ギュッと、握られる。俺も、握り返す。
「そうだ。天くん」
ひとしきり無言が続いたあと、照れを隠すように紫苑が口を開いた。
「寝る前に、オススメのお茶があるんです」
「ほう」
「カモミールティーって言うんですけど、知ってますか?」
「・・・・・・」
「天くん?」
口を真一文字に結び、言葉を発しようとしなかった俺を不思議に思うように紫苑が顔を覗き込んでくる。
「あぁ、悪い。知ってるぞ。不眠に効くとかいう」
「はい! なんでもリラックス効果があるとか。だから寝る前にコップ一杯分飲むだけで気持ちの良い睡眠に入れるみたいです。テレビでやっているのを見て、私も最近買って飲んでるんです」
「そうなのか」
「でも、聞いた話よりもちょっと苦くて」
紫苑は困ったように笑う。苦いのはあまり好きではないらしい。
「前に親戚の家でご馳走になったこともあるんですけど。その時はもっとさっぱりした味だった気がするんですよね」
うーんと首を傾げる紫苑。
「紫苑が今飲んでるっていうそれ、もしかしたらローマンカモミールなのかもしれないな」
「ローマン、ですか」
「カモミールにはローマンとジャーマンっていうのがあって、ローマンのほうは少し苦みがあるみたいだ」
「そうなんですか。なるほど」
紫苑は感心したように頷いて見せた。
「詳しいんですね、天くん。お花とかお好きなんですか?」
「別にそういうわけじゃない。むしろ」
「むしろ?」
むしろ、嫌いだ。
だが、それは口にはしなかった。
「いや、まぁたまたま聞いたことがあっただけだ。ほんと、たまたまな」
「ふむふむ」
そうして紫苑は、今度は顎に手を当てて何度も頷いた。付き合い始めてから時折紫苑が見せるこの仕草。
もしかしたら、これは紫苑の癖みたいなものなのかもしれない。それが俺と一緒に居てリラックスしているせいで出ているのだとしたら、それはとても嬉しいことだった。
そのあとも俺と紫苑はそんな他愛もない話。時折杉菜の愚痴も交えながら二人で手を繋ぎながら田んぼ道を歩いた。




