うちの猫と網戸とお隣の奥さん(後編)
うちのお隣の奥さんは感じのいい人だ。ときどき、ちょっとあまった料理なんかをおすそ分けしてくれる。
教会に通っているようで、イースターのときには色つきの卵を分けてもらった。
「これは祝福を受けた卵よ。あと、もうゆでてあるから、早めに食べてね」
祝福を受けても賞味期限は延びないらしい。
なんにせよありがたいことだった。
その奥さんを見かけたので、僕は声をかけた。
ほっかむりをして、軍手をはめている。
「草むしりですか?」
僕が尋ねると、お隣の奥さんは、
「そう! 最近暖かくなってきたでしょう? そしたらもう! すぐ草が伸びるんだから! 手に負えなくなる前に草を刈らないと藪になっちゃう。あなたも草むしりしないとダメよ。そういえば、お宅の猫ちゃんかわいいわよねー」
と笑顔でまくし立ててきた。お隣の奥さんは話好きだ。
「うちの猫ですか? そうでしょう! 僕もかわいいと思ってたんですよ!」
「そうそう。あたしが玄関を開けたら、お宅の猫ちゃんがドアの前で待ってて、スゥーっと家の中に入っちゃうの。あの子、人に慣れてるわよねえ」
「えっ……すいません……勝手に……」
「なに謝ってるのよ。うちに来るのは全然かまわないのよ。でも、あの猫ちゃんどこでも入っちゃうんじゃないかしら。知らない人の家に入ったらダメよ」
はじめて聞く話だった。
うちの猫は神経質で気難しいところがあって、知らない人に愛想を振り撒くようなタイプの猫ではない。……と思っていた。家の外ではちょっと違うのかもしれない。
「知らない人の家にはさすがに入らないと思います……たぶん……」
「それならいいんだけどね。猫嫌いな人もいるから。よく庭でお野菜を作ってたりするでしょ? 猫がおしっこすると、そういうのが枯れちゃうのよ」
「そうなんですか」
「そうなの。あら、ほら、お宅の猫ちゃん」
言われて見ると、うちの猫がお隣の家の中から僕を見つめていた。
人の家で何してるんですか、まったく……と思ったものの、お隣の奥さんは気にしていないようだった。
それはいいのだけど、猫の様子がおかしい。ガラスにぴったり張り付いている感じだし、なんか空中にいるような気がするし……この状態のうちの猫を最近見た気がする。
これ、なんだろうなあ、と近づいてみると、うちの猫はお隣の家の網戸によじ登っていた。
「おいいいいい! 何してるんですか! いったい何を聞いていたんですか!」
うちの猫は、「いまいいところなんだから邪魔しないで」という顔で、僕の事を無視していた。
お隣の奥さんがうふふ、と笑っている。
「降りて! 降りてください!」
身振りで降りるように伝えても猫は降りようとしない。網戸につかまったまま、横移動を始めてしまった。ガラス越しにガリガリという音が聞こえている。
「あああごめんなさい! 本当にごめんなさい!」
「あら、いいのよー。猫ちゃんがやってることなんだから」
「いやいや……もう……本当に……」
頭を抱えていると、お隣の奥さんが猫を捕まえてつれてきてくれた。
「網戸に登るのはダメだって言いましたよね!」
お尻をペチンと叩くと、うちの猫は「シャー!」と背中の毛を逆立てながら走り去っていった。
もう、無茶苦茶だ……。
「本当にごめんなさい……そうだ! 草むしりしてたんですよね。手伝います! というか僕がします!」
「あらあ、いいのよ。あなたそういうこと気にしすぎだから。気にしなくていいのよ。あっ、でもちょっと来て」
とつれていかれたのは家の前の道路だった。
「この付近のお宅、みんな庭をきれいに手入れしてるでしょ」
「ああ、きれいな庭が多いですよねえ」
「でもね、庭がきれいなのに、道路沿いに草が生えちゃってるのよ」
言われてみるとそのとおりだった。うちの前の道路も、草が結構伸びている。
「これ、気になってたから、二人で刈っちゃいましょう」
「はい!」
というわけで道路沿いの草むしりをすることになった。
軍手を持ってきた僕に、お隣の奥さんが言う。
「ところであなた、ハーブってわかる?」
「わかります。僕は吸ったことないですけど」
「そうよね、わからないわよね。あのね、あそこのお宅なんか特にそうなんだけど、庭にハーブを植えてたりするのよ。料理に使うの。道路沿いにも生えてるから、ハーブは残して、雑草だけ抜いていこうと思うの」
「なるほど」
「見分けがつかないわよね。ほらこれ、バジルよ」
お隣の奥さんが指差しているのは、確かに普通の草とは違う印象の草だった。
「それでそこの樹が月桂樹ね」
「ええっ、月桂樹ってこんなところに生えてるものなんですか! 人里離れた山奥で、満月の夜、月の光の下でしか見つけることができない幻の植物のようなイメージがありました」
「そんなわけないでしょ。それからこれがタイム」
「タイム……?」
名前だけは聞いたことがあるような気がした。
「この草は……ハーブかしら? どっちだったかしら。きれいに植えてあるようにも見えるし……」
「まかせてください!」
問題の葉っぱをちぎって口に含んだ。しっかりかみ締めて味を確かめると、口の中いっぱいに草の味が広がった。
「これは草です。草の味しかしません!」
「ええ……そう……。とにかく、これでだいたいわかったわね。草だけ抜いてちょうだい」
「はい。ばっちりです!」
「念のために確認するけど、いまあなたが抜いたのがバジルよ」
「あああ!」
お隣の奥さんの指導の下で草を抜いていると、うちの猫が近づいてきて、僕の様子を眺めていた。
それに飽きると、抜いた草が山になっているあたりをうろうろして、顔を軽くこすり付けたり、ちょっとかじってみたりしていた。
どうやらうちの猫はハーブよりも雑草のほうがお気に入りのようだった。
数時間で道路の回りの雑草がなくなった。
「きれいになったわね」
お隣の奥さんも満足そうだ。
「すっきりしましたね!」
雑草がなくなるだけで、ずいぶん印象が違って見えた。すっきりしているし、見ていて気分がいい。
「お疲れ様。ときどき草むしりしないとダメよ。あと、猫ちゃんはいつでも遊びに来ていいからね。気にしないでね」
お隣の奥さんは笑顔でそう言ってくれた。こういうところが、感じのいい人だ。
自宅に戻ると、うちの猫がゴロンと横たわってくつろいでいた。
「誰のせいで草むしりをすることになったと思ってるんですかー!」
頭をつんつんしていると、
「うっとうしいからやめてくれる?」
という感じで、前足ではたかれてしまった。
「もう! おみやげですよ」
うちの猫が気に入っていた草を床に置くと、寝そべったまま、噛んだり前足でつかもうとしてみたりしていた。
「お隣に遊びに行くのはいいですけど、礼儀正しくしてくださいね」
僕が言うと、うちの猫は横たわったままで、尻尾をパタパタ振って返事をした。
その様子を見て、まあ、ダメだろうなあ、と思った。
このぶんだとお隣の網戸も張り替えることになるのかもしれない。
でも――うちのかわいい猫のためなら、それも仕方がない!