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戦術視界の劣等生  作者: TanaKyte


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8/22

送り出す条件

 「灰原、今日は放課後すぐ来い」


 一時間目の終わり、前の扉から顔を出した教員がそれだけ言って去っていった。名指しの声は特別大きくもなかったのに、教室の空気だけが一拍遅れて沈む。周囲は誰も反応を広げない。広げないまま、視線だけが短く残る。


 律は返事をしなかった。呼ばれたこと自体に驚きはない。むしろ、昨日の夜に鷲尾と話したあとなら、来るべきものが来たという感じの方が近かった。


 鞄の横に置かれた課題ノートの端を指で押さえる。紙の重さは同じなのに、ここ数日、自分の周りに集まる書類だけが別の密度でできているように思える。確認票、控え、通行証、移動記録。そこへ今日は、たぶん別の紙が加わる。


 拒否の余地があります、という形の紙かもしれない。

 あるいは、もう決まっていることへ名前を入れるだけの紙かもしれない。


 どちらにしても、放課後までの時間が軽くなることはなかった。


 午前の授業は頭に入ってこないほどではない。けれど、黒板を写している最中にも、昨日の鷲尾の声が不意に蘇る。


 助けたあとまで考えていた、というだけだよ。


 軽い言い方だった。だが、その軽さの下にあったものは、もう見間違えようがない。助けることと、その後の置き場を考えることが、あの人の中では最初から同じ線の上にあった。自分は救出された側のはずなのに、救出直後からただ守られるだけの相手ではなかった。


 それなら霧島はどうなのか。


 鷲尾と同じところまで見ていたのか。学園内だけでは抱えきれないと判断したのはいつか。送り出すつもりでここ数日を進めていたのか。あるいは、最後まで学園の中へ留める可能性も、本当は少しは考えていたのか。


 そのあたりの答えが、放課後に来るのだろうと思った。


 昼休み、月城怜奈つきしろ・れなが書類束を抱えて教室へ来た。配布物の再提出確認だったらしく、律の机の横で一度だけ立ち止まる。

 「灰原さん、今日の放課後」

 「呼ばれてます」

 先に言うと、月城は小さくうなずく。

 「そうですか」

 「月城さんも知ってたんですか」

 「呼び出しがあることだけは」

 「内容は」

 「聞いていません」

 答え方が早い。隠しているというより、本当にそこまでしか持っていない声だった。

 「……そうですか」

 「ただ」

 月城は言いかけて、教室の後ろを一度だけ見た。誰もこちらを見ていないことを確かめるみたいな視線だった。「遅れない方がいいです」

 「それは分かります」

 「はい」


 それだけ残して去っていく。止める言葉も、頑張れも、おめでとうもない。今の月城が差し出せるのは、多分その程度の実務だけなのだろうと分かる。分かるから、そこで変に温かいことを言われるよりは楽だった。


 午後の訓練は基礎の確認だけで終わった。昨日みたいに何度も止められはしない。されない代わりに、霧島はほとんど講評をしなかった。必要最低限の指示だけを出し、終わればすぐ次へ回す。その静けさが、かえって話の本体が別にあるのだと示していた。


 放課後、呼ばれた場所は職員室でも会議室でもなく、訓練棟の奥にある小さな観測室だった。


 窓は高く、細い。外の色は見えるが、景色までは入ってこない。壁際に記録棚、中央に机が一つ、向かい合う椅子が二脚。訓練後の軽い面談にも使われる部屋だが、今日は机の上に紙がない代わりに、湯気の立たないマグカップが二つだけ置かれていた。


 霧島冴子きりしま・さえこは、先に来て座っていたわけではない。律が入るのとほとんど同時に隣の扉から現れ、そのまま何も言わず向かいの椅子を引いた。

 「座れ」

 「はい」


 腰を下ろす。木の椅子は少し低く、机の角がいつもより近く見える。霧島はマグカップの片方を律の前へ押しやった。中身は白湯だった。茶でもコーヒーでもないところが、妙にこの人らしい。


 「飲め」

 「ありがとうございます」


 一口だけ口をつける。熱くはない。けれど、部屋へ入った時から張っていた喉の奥には少しだけましだった。


 霧島は自分のカップに手をつけず、こちらをまっすぐ見た。

 「昨日、鷲尾と話したな」

 律は白湯を置く。

 「はい」

 「何を聞いた」

 問い方は簡潔だった。取り調べの口調ではない。ただ、順番を無駄にしない人の聞き方だ。

 「配置を、事後的に知ったわけじゃないことを」

 「他には」

 「学園だけで抱え続けるつもりは、かなり早い段階からなかったこと」

 霧島は目を細めない。表情もほとんど変えない。ただ、「そうか」と短く言ったあと、数秒だけ黙った。

 「それで」

 「それで、先生はどうなんですかと思いました」

 「どう、とは」

 「見放したわけじゃないのか」

 言ってから、その聞き方は少し違う気もした。だが今さら言い直せない。


 霧島はすぐには答えなかった。机の上に置いた指先を一度だけ動かし、それから言う。

 「見放していない」

 短い。

 けれど、その短さには逃げがなかった。


 律はその返答をもう少し疑いたかった。もっと条件付きの、立場上そう言うしかない答えが返ると思っていたのかもしれない。だが霧島の声は平坦なまま、変に柔らかくもしない。だから逆に、そこだけは本当なのだと分かってしまう。


 「ただ」

 霧島が続ける。「学園内に置いたまま守れる段階でもない」

 「……」

 「そこは両立しない」


 観測室の空気が、少しだけ固くなる。


 外へ出すことと、見放すことを切り離して言われると、話は簡単になるはずだった。だが実際には、簡単にならない。学園に置いたまま守れない、という一言の中に、今まで訓練場や書類の端で感じてきた違和感が全部まとめて入ってしまう。


 「俺が危ないからですか」

 律が訊く。

 「それだけなら、学園内で隔離する手もある」

 霧島の返しは即答だった。

 「じゃあ」

 「今のままでは、おまえが届かない場所もある」

 その一言だけは、少し低かった。


 届かない場所。


 律はその語を頭の中で一度だけ繰り返した。外の機構、特処室、管理線、記録の増えた訓練、未整理のまま残された反応。全部がそこへ繋がっている気がする。けれど、届かないと言われてすぐ前向きになれるほど、素直な言葉でもない。


 「届く必要があるんですか」

 「ある」

 「俺に」

 「おまえに、というより」

 霧島は少しだけ視線を落とし、すぐ戻す。「おまえがここで止まると、次に同じことが起きた時に足りなくなる」

 「同じこと」

 「敵の狙い方、学園の反応速度、外の判断線、その全部だ」

 説明台詞にはしない。それでも、意味が通る最低限の線だけは渡してくる。

 「今回の件で、おまえは助かった。それは事実だ。だが、助かった生徒としてだけ戻して終われるほど、もう軽くない」


 その言い方に、律は喉の奥が少しだけ詰まる。


 助かった生徒としてだけ戻して終われるほど、もう軽くない。


 それは慰めではない。だが、切り捨てでもなかった。今の自分が何から外れているのかを、妙に正確に言い当てている。


 「先生は」

 律は白湯の表面を見ながら訊く。「最初から、外へ出すつもりだったんですか」

 霧島は首を横には振らなかった。かといって、すぐ肯定もしない。

 「最初から決めていたわけじゃない」

 「でも、可能性としては見てた」

 「見ていた」

 「いつから」

 「灰梟会かいきょうかいの件が、学園内の問題として閉じないと分かった時点だ」

 「それは、救出後ですか」

 「前後を綺麗に切れない」

 そこで霧島は少しだけ息を吐く。「鷲尾から連絡を受けた夜には、もう学園だけでは抱えきれないと思った。だが、それでも最後に決める前に、おまえを学園の側から見直した」

 「見直した」

 「訓練、記録、教員の反応、月城と黒瀬の整理、全部だ」


 律は顔を上げた。

 「試されてたんですか」

 「試す、だけなら雑だ」

 霧島は言う。「送り出していいかを見た」

 「同じじゃないですか」

「違う」

 即座に返る。「外へ出す価値があるかを量ったわけじゃない。外へ出した時に、おまえが折れるだけで終わらないかを見た」

 その言葉は、思っていたよりずっと重かった。


 選別ではない。けれど確認ではある。

 守るに値するかではなく、送り出した先で壊すだけにならないかを見る。


 そこに優しさが含まれているのかどうか、律にはまだ判然としない。だが少なくとも、自分を単なる荷物として引き渡す手つきではないのだと分かった。


 「……で」

 律が低く言う。「結果、行けると」

 「行かせる」

 霧島は訂正するように言った。「行けるかどうかは、まだ向こうで変わる。だが、学園側としては行かせる」

 「向こうで変わる」

 「おまえが自分で立てないなら、戻す」

 律は目を細める。

 「戻す」

 「条件付きでな」

 そこで初めて、霧島は机の端に置いてあった封筒を手元へ引いた。最初から机の色に紛れて見えにくかっただけで、何もなかったわけではないらしい。

 封筒の中から紙を一枚だけ出し、机の中央へ置く。

 見出しは簡素だった。


 校外課程移行に伴う確認事項。

 その下に、小さく三項目だけ並んでいる。


 一、学園籍は維持する。

 二、受け入れ不成立の場合、学園側保留管理へ戻す。

 三、本人が継続困難と申告した場合、学園側再判断を行う。


 たったそれだけなのに、目が止まる。


 継続困難と申告した場合。

 受け入れ不成立の場合。

 戻す。


 形式上の逃げ道はある。

 あるように見える。


 「拒否できるんですか」

 律が訊くと、霧島は紙から目を離さない。

 「形式上は」

 「形式上」

 「嫌だと言えば、その場では止まる」

 「その場では」

 「だが、そのあと何が残るかは別だ」


 まっすぐだった。ごまかしも慰めもない。


 律は紙を見下ろす。三項目だけの確認書なのに、そこに書かれていない部分の方が多い。止めた場合、学園内でどう扱うのか。誰が責任を持つのか。次に同じような事態が起きた時、どこまで対応できるのか。そのあたりが全部空欄のまま、しかし空欄では済まない重さで机の上にある。


 「つまり」

 律は言葉を選ぶ。「拒否する余地はあるけど、戻れるわけじゃない」

 霧島は少しだけ律を見た。

 「その理解でいい」

 「学園の中の前の位置には」

 「戻れない」

 「……」

 「ここ数日で、おまえも分かってるはずだ」


 否定できなかった。


 訓練場の記録、教室の付箋、昼の列の譲られ方、観測欄の追加、月城の沈黙、黒瀬の未整理、鷲尾の夜の確認。そのどれ一つを取っても、もう「助かったから元の生活へ戻る」だけの線ではない。もしここで特処室を拒否しても、自分は前の訓練班の空気の中へそのまま戻れるわけではない。学園側だって、そう扱えない。


 そのことを、自分の方がもう知っている。


 「嫌なら止めろ、とは言わないんですね」

 律が言うと、霧島は眉一つ動かさなかった。

 「言わない」

 「何で」

 「今のおまえにとって、そこはもう誠実な言い方じゃない」

 その答えは苦かった。

 「選べるふりをして突き放すのは簡単だ。だが、もう後戻りできない段階まで来てる人間に『好きにしろ』と言うのは、判断を渡したことにはならない」


 律は机の縁に指を置き、その冷たさでようやく少し呼吸を整える。


 好きにしろと言わない。

 嫌なら止めろとも言わない。

 代わりに、形式上の余地だけは残す。


 それは情ではない。保護者みたいな囲い込みでもない。多分、今の自分にとって一番苦いかたちの誠実さだった。


 「先生は」

 律は紙から目を上げた。「俺を行かせたいんですか」

 霧島は数秒だけ黙る。

 この人にしては長い間だった。答えを迷っているというより、言葉を削っている沈黙に見えた。

 「行かせたい、では足りない」

 ようやく出た声は低い。「行かせる必要がある。だが、それだけでも足りない」

 「……」

 「戻す条件を残したまま出す」

 その言葉は、前に一度聞いたものより、今日の方がずっとはっきり胸に落ちた。

 「向こうで使い潰されるなら、出さない」

 「そこまで信用してないんですね」

 「していない」

 即答だった。「鷲尾も、向こうの全部もな」

 「でも出す」

 「こちらに置いて守り切れるなら、出さない」

 霧島は言い切る。「だが今のままでは、守るにも、伸ばすにも、学園の内側だけでは足りない」


 守ると伸ばすが、同じ文の中に入っている。

 そのことに、律は少し遅れて気づいた。


 片方だけなら、もっと分かりやすい。危険だから隔離する。見込みがあるから外で鍛える。どちらか一方なら、まだ受け取りやすい。だが今の霧島が言っているのは、その両方だった。守るためにも外へ出し、届かせるためにも外へ出す。しかも、その先を全面的には信用していない。


 矛盾しているようで、たぶん現実にはそれしかない。


 「先生、苦しくないですか」

 自分でも唐突だと思う訊き方だった。

 霧島は目を細める。

 「何がだ」

 「信じ切ってない相手に、俺を渡すみたいになるの」

 観測室の空気が、少しだけ止まる。


 霧島はすぐには答えなかった。代わりに、今度こそ白湯のカップへ手を伸ばし、一口だけ飲む。その動作が小さな時間稼ぎなのだと分かる程度には、もうこの人の沈黙の長さに慣れていた。


 「苦いな」

 ぽつりとそう言う。

 茶化したのではない。本当に、ただ味を言っただけの声だった。

 「だが、苦いからやめる判断は取らない」

 カップを置き、律を見る。「見放すよりはましだし、留めて腐らせるよりもましだ」

 「腐らせる」

 「おまえがここで『助かった生徒』に固定され続けることだ」

 律は息を止めた。


 固定され続ける。


 それは、今まで感じていた違和感に対する別の言い方だった。周囲の視線の変化も、訓練記録の増え方も、多分そこに繋がっている。助かった、無事だった、保護が必要だ。そこへだけ固定されれば、確かに守られるかもしれない。だが同時に、今の自分に起きている変化や、届きかけているものまでそこで止まる。


 「俺は」

 律は言葉を探す。「行けば、戻れるんですか」

 その問いは、自分でも曖昧だと思った。戻るとは何なのか。学園に帰ることか。前の訓練の位置へ戻ることか。普通の生徒のふりができることか。

 霧島はその曖昧さをそのまま受け取ったらしい。

 「前と同じには戻れない」

 やはり飾らない。「だが、学園へ戻る線は残す」

 「前と同じじゃなくても」

 「それしか残せない」

 その言い方に、諦めはなかった。代わりに、削り切ったあとの重さだけがあった。


 律は紙へ視線を落とす。三項目の確認書。形式上の余地。戻る線。継続困難。再判断。どれも曖昧で、どれも本気だった。できると軽く約束していないからこそ、逆に今この人が残せる最大限なのだと分かってしまう。


 「先生」

 「何だ」

 「俺が嫌だって言ったら」

 「止める」

 「本当に」

 「その場ではな」

 霧島は繰り返す。「だが、そのあと学園側保留管理へ移る。訓練も行動範囲も今まで通りにはしない。自由に前へ戻れると思うな」

 「……」

 「それでも嫌だと言う権利は残す」

 権利、という言い方が妙に乾いている。

 「おまえが自分の足で出る形を取らないなら、それはそれでこちらが抱える」

 「抱える」

 「楽な抱え方じゃない」


 その先は言わない。だが十分だった。学園に残ることは、守られることと同義ではない。もっと窮屈な管理になる。学園の外へ出ない代わりに、内側の範囲で厳しく抱えることになるのだろう。そこまで見えてしまうと、この確認書の「拒否できます」がいかにも形式であることがよく分かる。


 後戻りできないのではない。

 後戻りしても、もう元の場所ではない。


 その違いだけが、いやに鮮明だった。


 「鷲尾さんには」

 律が言う。「先生が最後に決めるって言われました」

 「そうだ」

 「じゃあ今決めたんですね」

 「いや」

 霧島は首を横に振る。「決めたのは、おまえがまだ救出直後の衝撃に振り回されているだけではないと確認した時点だ」

 「いつですか」

 「蓮見のあと、おまえが一本だけ戻すと決めた時から」

 その返答に、律は呼吸を忘れた。


 蓮見灯夜はすみ・とうやとの戦い。その極限で、自分は全部を守るのではなく、一本だけ通す判断をした。後悔しないわけではない。だがあの選択がなければ、今ここへ自分が座っていないことも分かる。

 霧島はその場面を、勝った負けたでも、生き残っただけでもなく、「決めた時」として見ていたらしい。


 「そこから先は」

 霧島が言う。「学園の授業と訓練だけで伸ばすには、遅い」

 「早すぎる、じゃなく」

 「遅い」

 断言だった。「今のおまえに必要なのは、普通の生徒に合わせた速度じゃない」


 胸の奥で何かが重く動いた。


 選ばれたと言われたわけではない。特別だと持ち上げられたわけでもない。それでも、その一言は今まで受けてきた管理の言葉とは少し違う方向から刺さる。守るためだけに外へ出すのではない。今のままでは遅いから、という判断もそこに含まれている。


 それが嬉しいかと問われれば、違う。

 誇らしいかと問われても、違う。

 ただ、逃げ場のない現実味だけがある。


 「先生は」

 律は低く言う。「俺が向こうでうまくいくと思ってますか」

 「思っていない」

 また即答だった。

 「……」

 「うまくいくかどうかは知らん」

 霧島は続ける。「だが、行かせないまま腐らせるよりはましだと思ってる」

 その粗い言い方が、妙に救いだった。成功する、成長する、大丈夫だ、とは言わない。言えないことを分かった上で、それでも留めるよりはましだと断言する。その苦さが、霧島にとっての本音なのだろう。


 沈黙が落ちる。


 高窓の外で、部活の終了を知らせるベルが遠く鳴った。観測室の中では、その音が少し遅れて届く。自分たちだけ別の時間帯へずれているみたいだ、と律は思った。


 机の中央の確認書へ手を伸ばす。紙は薄い。署名欄も小さい。

 「これ、今ここで書くんですか」

 「書かなくてもいい」

 霧島が言う。

 「持ち帰ってもいい。ただし、明日の朝までだ」

 「短いですね」

 「長くしても、迷いの質は変わらん」

 その通りだった。三日も一週間もあれば答えが変わる類いではない。既にここ数日で積み重なったものが多すぎる。


 律は紙を見下ろしたまま言う。

 「先生、俺に期待してますか」

 霧島はわずかに眉を動かす。

 「今の流れでそれを聞くか」

 「気になったので」

 「期待、という語は便利すぎる」

 少しだけ吐き捨てるような調子だった。「だが、おまえがまだ学園の内側だけで終わる人間じゃないとは思ってる」

 「それは」

 「十分重いだろ」

 「……はい」


 期待されている、と美しく言い換えれば少し軽くなる。だが今の霧島は、そういう軽い言葉へ逃がさない。学園の内側だけで終わる人間じゃない。だから外へ出す。そこに守る意味も混ざる。戻る線も一本だけ残す。全部が一緒くたになっていて、綺麗に分けられないまま現実になっている。


 律はペンを取った。


 書く前に、一度だけ止まる。

 拒否の余地があるなら、本当に考えるべきなのかもしれない。自分は向こうへ行くべきか。学園の中へ残るべきか。戻る線を今ここで太く求めるべきか。


 だが、そのどれを考えても、最後には同じところへ戻ってくる。

 今のままでは届かない。

 学園内に置いたままでは守れない。

 それでも戻る線だけは残す。

 その条件で送り出す。


 苦い。けれど、筋は通っている。

 少なくとも、見放されてはいない。


 署名欄へ自分の名前を書く。インクが紙へ落ち、黒い線になる。たったそれだけで、もう前の位置へ戻る選択を自分から閉じた気もするし、逆に一本だけ残っていた戻る線に自分の側から手をかけた気もした。


 書き終えてペンを置く。

 霧島は紙をすぐには引き取らなかった。

 「いいのか」

 最後の確認だった。

 律は短く息を吐く。

 「良くはないです」

 正直に答えると、霧島の口元がわずかに動いた。

 「そうだろうな」

 「でも、行きます」

 「理由は」

 問い返される。最後まで、自分で言わせる。

 「ここに残っても、前の位置には戻れないからです」

 霧島は黙って聞く。

 「あと」

 律は続ける。「今のままだと足りないのは、俺も分かるので」

 「そうか」

 「ただ、向こうを信用してるわけじゃないです」

 「それでいい」

 「先生の方も」

 「していない」

 また即答だった。

 律は小さくうなずく。

 「なら、まあ」

 そこで言葉が切れ、自分でも少しだけ笑いそうになる。「その条件なら」

 霧島は初めて紙を引き取った。折り目もつけず、そのまま封筒へ戻す。

 「覚えておけ」

 「何をですか」

 「送り出すのは、切るのとは違う」

 声は低いままだった。「向こうで何を拾っても、それで学園側の線が消えると思うな」

 「……はい」

 「ただし、戻れば前と同じだとも思うな」

 「分かってます」

 「分かってない」

 霧島は言い切る。「今はまだ、その意味をおまえの身体が分かってない」

 それは否定ではなく、先回りしすぎるなという釘刺しに近かった。

 「だから向こうで見ろ。こっちで戻る条件を残しておく」


 その言い方に、律はようやく少しだけ息がしやすくなる。

 約束ではない。保証でもない。けれど、今この人が言える最大限なのだろうと思った。


 霧島は封筒を脇へ置き、椅子の背へ浅くもたれた。

 「もう一つ」

 「はい」

 「向こうへ行ったあと、自分から切るな」

 律は目を瞬かせる。

 「何を」

 「学園側との線だ」

 「切りませんよ」

 「おまえは、負担にならないよう黙る方へ寄る」

 図星だった。律は返事に詰まる。

 「必要な報告はしろ。月城でも黒瀬でも、私でもいい。向こうで整理しきれないものを、向こうだけで抱えるな」

 「……はい」

 「それを怠ったら、戻す」

 脅しではなく条件として言う。だからこそ、冗談にならない。


 律は改めてうなずいた。


 観測室の外では、人の気配が少しずつ減っていく。窓の高い位置に見える空も暗くなり始めていた。ここから出れば、また寮への道、昇降口、廊下、夕方の学園が待っている。そのどれも昨日までと同じ顔をしているはずなのに、自分の位置だけはもう少しずつ変わっている。


 「以上だ」

 霧島が言う。

 「帰れ」

 「……はい」

 立ち上がりかけて、律は一度だけ止まる。

 「霧島先生」

 「何だ」

 「見放してないって、さっき言いましたよね」

 「言った」

 「それだけ、確認したかったです」

 自分でも子供っぽいと思う言い方だった。だが霧島は顔をしかめない。

 「何度でも確認しろ」

 その声だけ、ほんの少しだけ温度が違った。「ただし、甘えるな」

 「難しいですね」

 「そうだな」

 それで終わりだった。


 観測室を出る。扉が閉まると、廊下の空気は少しだけ広い。窓から差し込む夕方の薄い光が床へ長く伸びている。歩き出した足は軽くない。けれど、昨日までのように曖昧な重さだけでもなかった。


 送り出される。

 そのこと自体はもう変わらない。

 けれど、切られたのではない。戻る線を一本だけ残したまま外へ出される。


 その一本が細いことも、保証にはならないことも、前と同じ場所へ戻れるわけではないことも分かっている。それでも、何も残さず放り出されるのとは違う。その違いだけが、今はひどく大きかった。


 階段を下りる途中、窓ガラスに映る自分の姿が少しだけ目に入る。制服も鞄も変わらない。胸ポケットの仮通行証も外からは見えない。けれど、もうただの学園生の輪郭ではないのだと、自分の方が知っている。


 昇降口で靴を履き替え、外へ出る。夕方の空気は冷たかった。肺へ入るたび、観測室の乾いた白湯とは別の温度で胸が広がる。


 寮への道の途中で、律は一度だけ足を止めた。


 嫌なら止めろとは言われなかった。

 好きにしろとも言われなかった。

 代わりに、後戻りできない段階まで来た相手に、戻る線だけ残して送り出すと言われた。


 それは優しさなのかもしれないし、厳しさなのかもしれない。

 多分、どちらか一つではない。


 苦い納得、という言葉が頭に浮かび、律はすぐには捨てなかった。


 自分が今持っているものは、前向きな決意でも、きれいな覚悟でもない。もっと鈍くて、もっと現実的なものだ。ここに残っても前には戻れない。向こうへ行っても、うまくいく保証はない。その間で、一本だけ残された線に手をかけて、自分の足で進むと決めた。


 寮の明かりが見えてくる。

 戻る場所はある。

 ただし、前と同じ意味ではない。


 そのことを身体のどこかでまだ受け止めきれないまま、律は夕方の冷たい空気をもう一度吸い込み、静かに前へ歩き出した。



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