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戦術視界の劣等生  作者: TanaKyte


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7/7

軽い声の距離

寮の扉を閉めても、視線の名残は消えなかった。


 靴を脱いで上がり、鞄を机の横へ置き、カーテンの端を少しだけずらす。いつもならそこでようやく一人になる感覚が戻る。部屋の狭さも、窓の外の街灯も、ベッドの軋みも、自分のものとして落ち着くはずだった。だが今日は、どこまでが外で、どこからが自分の内側かが、妙に薄い。日中に浴びた視線がそのままついてきたのではない。見られたあとの手つきや、記録の取り方や、紙の欄の分かれ方が、まだ身体のどこかに残っている。


 上着を脱いで椅子へ掛けた時、胸ポケットの中の仮通行証が硬く当たった。制服の布越しでも分かる角の感触に、思わず指先が止まる。外へ出る線が、学園の中にいる間まで胸のあたりに残っている。それを意識した瞬間、喉の奥が少しだけ乾いた。


 水を飲んでも落ち着かなかった。机へ向かい、ノートを開いても、文字はきれいに並ばない。今日の訓練で止められた回数、観測欄の増えた紙、要否だけを丸で囲む確認票、月城の「進路書類じゃないですね」、黒瀬の「書き方に困ってる」。どれも別々の場面のはずなのに、頭の中では一つの長い線になっている。


 自分は戻ったのではなく、戻りながら移されている。


 そう言葉にしてみると、少しだけ近い気がした。だが近いだけで、すっきりはしない。管理される側へ寄せられている感覚と、何かの先へ押し出されている感覚が、まだうまく分けられないまま混ざっている。


 ノートへ視線を落とした時、端末が短く震えた。


 画面に出た名前を見て、律は数秒だけ手を止めた。


 鷲尾恒星わしお・こうせい


 通知欄に出た名前は軽いのに、胸の奥へ落ちてきた重さは、今日一日見てきたどの紙より早かった。


 メッセージは短い。


『起きてるかな、灰原くん。三分だけ顔を見たい。寮の玄関まで来られる?』


 三分だけ、という言い方がまず胡散臭かった。三分で済ませる人間なら、最初から三分と書かない。だが、行くなという理由もない。無視するという選択肢も、頭の中で一度は浮かんだものの、現実味はなかった。


 律は端末を伏せ、少し遅れてから立ち上がった。


 夜の寮棟は静かだ。生活音はある。どこかでシャワーの音がして、隣室で椅子を引く音がして、廊下の先では誰かが小さく笑っている。だが、そのどれも扉一枚ぶん向こう側で丸く削られていて、外の世界とは切り分けられている感じがする。


 玄関を出ると、街灯の下に人影があった。


 壁に寄りかかるでもなく、真ん中に立つでもない、半端な位置だった。警戒されないようにも、見失われないようにも取れる場所。鷲尾は手袋を外した片手を軽く上げる。


 「こんばんは」

 律は足を止めたまま言う。

 「やあ。来てくれて助かるよ」

 「三分ですか」

 「目安だね」

 「最初からそう言ってください」

 「最初から本当のことばかり言うと、警戒されるから」


 笑っている調子なのに、言っていることは笑えなかった。


 鷲尾はいつも通りの軽さだった。コートの前を開けたまま、肩の力も抜けている。昼間の教員たちや事務担当のような、判断を紙へ落とす側の硬さはない。だが、軽いから安心できるかというと、今日の律にはもうそうは思えなかった。


 むしろ、その軽さの方が、どこまで最初から知っていたのかを見えにくくしている気がした。


 「寮の前まで来て大丈夫なんですか」

 律が訊くと、鷲尾は少しだけ肩をすくめる。

 「手続き上は問題ないよ。君に会いに来た、で通る程度には」

 「通るんですね」

 「通したからね」

 その言い方も、軽いくせに妙に引っかかった。許された、ではなく、通した。どこまで自分で線を動かせる人間なのかが、その一語で見える。


 「顔色、そんなに悪くないね」

 「見に来ただけですか」

 「半分は」

 「残り半分は」

 鷲尾は少しだけ首を傾けた。

 「学園の空気を、君がどう受け取ってるかの確認かな」

 「確認」

 「うん。ああ、責めてるわけじゃないよ。今日あたりから、視線の質が変わる頃だろうと思って」


 律は返事をしなかった。


 変わる頃だろうと思って。


 その言い方が、変わってしまったものを外から観察している調子ではなく、変わるように最初から線を引いていた側の調子に聞こえる。


 鷲尾はそれに気づいているのかいないのか、街灯の白い光の下で平然と続けた。

 「訓練は止められた?」

 「何回か」

 「記録は増えた」

 問いではなく確認だった。

 「……見てたんですか」

 「見てない場面もあるよ。でも増えるだろうとは思ってた」

 「思ってた」

 「君を普通の戻り方に乗せないんだから、学園側の記録が変わるのは当然だろう?」


 当然。


 その二文字が、今日はひどく引っかかった。


 律は鷲尾の顔を見た。いつもと変わらない、温度を読み切らせない笑い方だった。親しげにしているのに、どこまでが個人的な好意で、どこからが仕事の線なのかが分かりにくい。


 「鷲尾さん」

 「何かな」

 「今回の配置、いつ知ったんですか」


 聞いた直後、自分の声が思ったより平たかったことに気づく。怒鳴るでも詰めるでもなく、確認票の欄みたいな声だった。


 鷲尾は少しだけ視線を上げ、寮棟の二階の窓を見た。誰かが動く影はない。

 「どこからを知った、にするかで変わるね」

 「言い方」

 「正確に言いたいんだよ」

 「じゃあ正確に」

 「君を学園の中だけで抱え続けるのは無理だろう、とはかなり早い段階から思ってた」

 「かなり早い」

 「リナさんが見つかる前から」

 その返答に、律は一歩だけ呼吸を詰まらせた。


 見つかる前から。


 救出されたあとに処遇を考え始めたのではなく、救出される前の時点で、すでにその先の置き場まで見ていたことになる。


 「助ける前に、置き場を考えてたんですか」

 「順番としてはそうなるね」

 「……」

 「嫌な言い方なのは分かるよ。でも、救出だけ綺麗にやって、その後は現場へ返します、の方が無責任だ」


 それは否定しにくい。否定しにくいから、余計に腹の置き場所が決まらない。


 鷲尾は手袋を持った手を軽く振った。

 「誤解しないでほしいのは、君をどこかへ送り込むのが先に決まってて、そのために今回を使ったわけじゃないってことかな」

 「そんなこと、言ってません」

 「でも少しは思ったでしょう」

 「……少しは」

 「健全だね」


 そう言って笑う。その笑い方が、からかっているようにも、正直さを評価しているようにも見える。どちらにも見えるのが厄介だった。


 「僕はね、君を保護対象としてだけ扱うにはもう無理があると思ってる」

 鷲尾は視線を戻した。「でも、自由にさせて伸びる類いでもない」

 「管理したいってことですか」

 「必要な範囲では」

 言い淀みもせずに返され、律はかえって言葉を失う。

 「ただ、それだけだと駄目なんだ。管理だけで終わらせると、多分もっと面倒になる」

 「誰にとって」

 「全員にとって」


 全員。その中に自分が入っているのか、学園が入っているのか、外の機構が入っているのか、わざと曖昧にしている気配があった。


 風が少し吹き、寮の植え込みが細く鳴った。夜の空気は昼より冷たいはずなのに、鷲尾の声だけは妙に軽いまま変わらない。その軽さが会話の角を丸くしている一方で、内容そのものはひどく先回りしている。


 「今日、訓練で何回か止められたでしょ」

 「……そうですね」

 「説明しにくい動き方をした」

 「見てなくても分かるんですか」

 「ある程度は」

 鷲尾はそこで一拍置いた。「霧島さんが今日のうちに記録を増やすなら、そういうことだよ」

 「霧島先生と話したんですか」

 「少し」

 「少しで、そこまで」

 「信頼されてるんだよ、僕」

 冗談めかした調子だったが、律は笑えなかった。


 信頼、という語では足りない。

 この人は、報告を受ける側にいるだけではない。霧島と話し、学園の処理線を動かし、その上で自分の様子を夜に見に来る。その全部が一本の線の上にある。


 「灰原くん」

 鷲尾が呼ぶ。

 「はい」

 「今日の君が見られてたのは、珍しいからだけじゃないよ」

 「……」

 「学園側が、どこまで学園の物差しで扱えるか測ってる」

 「外の物差しなら、もう決まってるみたいに聞こえます」

 鷲尾は小さく笑った。

 「半分はね」

 「半分」

 「残り半分は、君がどこまで自分で歩けるかを見てから」


 その言い方に、律は眉を寄せる。

 「歩けるかどうかなんて、最初から見てたんじゃないんですか」

 「見てたよ」

 「じゃあ」

 「見ていたことと、決め切ることは違う」


 鷲尾はさらりと言う。

 「君は助けられる側だった。でも、それだけで終わらなかった。リナさんの件も、蓮見の件も、そのあと君がどう反応したかも、全部含めて配置を決める必要があった」

 「配置」

 「置き場、でもいい」

 昨日までなら、律はその言葉にもっと強く反発したかもしれない。だが今は、もう紙の上でも同じことを別の語で見せられている。校外課程、外部実習、個別管理、連携先、開示制限。全部、置き場を整えるための言葉だった。


 「鷲尾さんは」

 律は少しだけ視線を落とす。「最初からそこまで入れて動いてたんですね」

 「そうだね」

 「事後的に決まったんじゃなく」

 「事後的に見せてる部分はあるけど、考えてなかったわけじゃない」

 「……やっぱり」

 「怒る?」

 唐突な聞き方だった。

 律は少しだけ考え、「怒ってないです」と答える。

 「偉い」

 「ただ」

 「ただ?」

 「助けられた側のはずなのに、最初から見られ方が違ったんだなとは思います」

 鷲尾の目元から笑みが少しだけ薄くなる。

 「うん。それはそうだ」

 そこで誤魔化さなかった。「君は保護対象だった。でも、観察対象でもあった」

 「はっきり言いますね」

 「今さら隠しても逆効果でしょ」


 律は息を吐いた。冷たい空気が喉を擦る。

 はっきり言われたから軽くなるわけではない。むしろ、自分が感じていた違和感に名前が付いただけだ。だが、名前が付いた分だけ、曖昧な不快さよりは少しだけ形がある。


 観察対象。

 管理対象。

 それでも、多分それだけでは終わらない。


 「で」

 鷲尾がわずかに身を起こす。「今日の君はどうだった」

 「どう、って」

 「見られて、止められて、記録されて。それでも自分の足で帰ってきた」

 律は眉をひそめる。

 「普通じゃないですか」

 「普通にできる人ばかりでもない」

 「できないと困るでしょう」

 「困るね。だから確認してる」


 軽い声のまま、やっていることは最初から一貫していた。気遣っているようで、確かめている。確かめているようで、少しだけ労っている。親切と監視が、同じ振る舞いの中で切り分けられない。


 「学園での君の位置は、ここ数日でかなり変わる」

 鷲尾は寮の玄関横の灯りを見上げる。「外に出る前って、実は一番視線が濃いんだ」

 「経験談みたいに言いますね」

 「似たようなのは何度も見てるから」

 「自分でも?」

 「僕はもう少し雑に扱われたかな」

 笑ってはいるが、どこまで本当かは読めない。

 「君の場合、学園がまだ丁寧だよ。送り出し方を迷ってる」

 「祝えない進路、って感じですか」

 鷲尾は少しだけ目を丸くし、それから面白そうに笑った。

 「言うようになったね」

 「誰かの受け売りです」

 「いいじゃない。十分正確だ」


 正確だと言われても、褒められている感じはしなかった。むしろ、正確に言葉にできるかどうかまで含めて見られている気がする。


 鷲尾はコートのポケットに片手を入れた。

 「明日以降、学園の中で話しかけてくる人は増えるよ」

 「増えますか」

 「増える。減る種類の人もいるけど」

 「詳しいですね」

 「人事配置の前後って、みんな似たような顔をする」

 その一言で、律はようやく少しだけ理解した。


 この人は、自分だけを見ているのではない。自分の反応も、学園の反応も、両方込みで配置として見ている。だから言葉の端が妙に早い。今日変わるはずの空気を、昼前からもう知っているような話し方をする。


 「俺が誰とどう話したかも、だいたい想像ついてるんですか」

 「だいたいは」

 「気持ち悪いですよ」

 「褒め言葉として受け取っておく」

 「褒めてません」

 「知ってる」


 鷲尾は楽しそうですらあった。だが、その楽しさが善意だけでできていないことも、今日の律には分かる。状況を読み切ることそのものを仕事にしている人間の目だ。対象がどこで躓くか、どこまで自力で立てるか、どのくらい言えば揺れるか。そのあたりの見積もりが早い。


 「一つだけ教えてください」

 律が言う。

 「どうぞ」

 「俺を特処室に入れるの、鷲尾さんの案ですか」

 今度は、鷲尾が数秒だけ黙った。

 完全な沈黙ではない。息を止めたわけでも、困ったわけでもない。ただ、どこまで答えるかを測る短い間だった。


 「僕だけの案じゃない」

 それが答えだった。

 「でも、僕の中ではかなり早い段階から候補だった」

 「候補」

 「受け皿としてね」

 「最初から」

 「うん」

 「……そうですか」

 「嫌そうだ」

 「嫌、っていうか」

 律は言い直す。「助かったあとに用意された避難先だと思ってたので」

 「避難先でもあるよ」

 鷲尾は否定しない。「でも、それだけじゃ意味が足りない」

 「意味」

 「君があのまま学園の中だけで整うなら、こんな面倒な線は引かない」


 律はそこでようやく、胸の奥にあったもう一つの感覚が少しだけはっきりした。


 守られているだけではない。

 見込まれている、と簡単に言うのも違う。

 だが少なくとも、鷲尾は自分を「壊れないよう棚に上げる対象」としてだけ見てはいない。


 それが救いなのか、不快なのか、まだ決められなかった。


 「君ね」

 鷲尾が急に柔らかい調子で言う。「今日の昼過ぎ、自主訓練で足運びだけ確認したでしょ」

 律は顔を上げる。

 「……見てたんですか」

 「見てないよ」

 「じゃあ何で」

 「霧島さんなら、ああいう日は無理に打ち込ませない。で、君は止まるのが下手だ」

 「……」

 「だから基礎に戻る。違う?」

 違わなかった。

 律は答えずにいる。鷲尾は小さく肩をすくめる。

 「当てものだよ。全部は見てない」


 全部は見ていない。

 その言い方は、見ていない範囲があることをわざわざ伝えてくる分だけ、かえって不気味だった。全部を見なくても、ある程度は読める。そう見せるには十分だった。


 「灰原くん」

 「何ですか」

 「君が今感じてる視線の半分は、いずれ薄くなる」

 「半分」

 「珍しさと噂の分」

 「残り半分は」

 鷲尾は一瞬だけ笑みを消した。

 「君が本当にどちら側へ寄るのか、まだ誰も決め切れてない分」


 どちら側。

 学園の内側か、外の管理線か。守られる側か、使われる側か。成長として扱われるのか、危険として扱われるのか。その全部が一つの問いに縮んでいる気がした。


 「俺は」

 律は口を開き、少しだけ迷う。「どっちに見えますか」

 鷲尾は即答しなかった。街灯の下で、目だけが少し細くなる。

 「まだ途中だよ」

 それは逃げでもごまかしでもなく、本当にそう見ている声だった。「ただ、守るだけで足りないのは確かだ」

 「足りない」

 「うん。君が先へ行くなら、見てる側も物差しを変えないと追いつけない」

 「その物差しを変えてるのが、鷲尾さんですか」

 「僕もその一人」

 複数形で答えたところが、妙に現実的だった。


 律は端末も紙も持っていないのに、またどこかの欄へ書き込まれている気分になった。しかも今回は事務的な記録ではない。もっと個人的な観察に近い。それでいて、個人の好悪に任せていない手つきでもある。


 「三分、過ぎましたよ」

 律が言うと、鷲尾はようやく時計を見るふりをした。

 「本当だ。じゃあ今日はここまで」

 「本当に終わるんですね」

 「終わるよ。顔を見に来ただけだから」

 「半分は」

 「半分は、ね」


 鷲尾は壁から離れた。帰る方向は寮と逆だ。だが、二歩進んでから振り返る。

 「明日も、君は見られる」

 「……」

 「でも全部をまともに受け取らなくていい。測られてる最中に、相手の物差し全部に付き合う必要はないから」

 それは助言に聞こえる。聞こえるのに、同時に「測られている最中」とさらりと言い切ったことの方が残る。


 「親切ですね」

 律が言う。

 鷲尾は笑った。

 「そう見える?」

 「見える時もあります」

 「それなら十分だ」


 十分。その言い方に、また何かを逃げられた気がした。


 「鷲尾さん」

 今度は律の方から呼ぶ。

 「うん?」

 「俺を助けたのは、本当に助けるためでしたか」

 夜気が、一瞬だけ薄く張る。


 鷲尾はすぐには笑わなかった。珍しく軽い調子が引き、代わりに目の奥だけが静かになる。

 「もちろん」

 短く答えたあとで、少し遅れて続ける。「ただ、助けたあとまで考えていた、というだけだよ」

 それは否定にも肯定にもなっている答えだった。


 律はそれ以上聞かなかった。聞いても、多分これ以上は出ない。出ないように言葉を選んでいるのではなく、本当にこの人の中では、救出と配置設計が矛盾なく同じ線の上にあるのだと分かったからだった。


 鷲尾は片手を挙げる。

 「おやすみ、灰原くん。ちゃんと寝るんだよ」

 「鷲尾さんも」

 「僕はまだ仕事」

 軽くそう言い、今度こそ背を向ける。


 去っていく足取りに迷いはない。振り返る気配も、こちらを安心させるための余韻も残さない。ただ、最初から来るべき場所へ来て、確認すべきことを確認して、次の場所へ移っただけのような歩き方だった。


 律はしばらくその背を見ていた。


 親切に見えた。

 監視にも見えた。

 その両方が、同じ声音、同じ距離、同じ表情の中に入っていた。


 軽い声の距離、というのは、多分こういうことだ。

 近づきすぎず、遠ざけもしない。安心させる言い方で、逃がさない位置に立つ。助けた側の顔で、配置した側の視線を隠し切らない。


 玄関の自動灯が一度だけ暗くなり、律が動くとまた点いた。白い光が足元へ戻る。

 部屋へ戻るため扉を開けながら、律は胸の奥に残った感覚を言葉にしきれないまま持ち上げる。


 守られているだけではない。

 けれど、切り捨てられているわけでもない。

 見られている。測られている。置き場を決められている。

 その全部の中に、少しだけ「先へ行けるかどうか」が含まれている。


 それが一番、落ち着かなかった。


 部屋へ戻り、扉を閉める。さっきまで一人になれない感じが残っていたはずの空間に、今は別の種類の気配が増えていた。誰かに見られているわけではない。だが、さっき交わした会話のせいで、自分の位置がよりはっきり輪郭を持ってしまった。


 机の上のノートを開く。

 書くべきことは多い。今日増えた欄、止められた訓練、未整理の記録、消えない視線、鷲尾の「見ていたことと決め切ることは違う」。どれもまだ整理しきれない。


 それでも、律は一行だけ書いた。


 ――助けられたあとに置かれる場所は、助けた側が先に決めていた。


 書いてから、その文が少しだけ違う気もした。

 決めていた、ではなく、決めるつもりで見ていた、の方が近いのかもしれない。

 だがその違いを今夜のうちに言い分けられるほど、自分の中は整っていない。


 ノートを閉じると、端末の画面がまだ薄く明るかった。新しい通知はない。

 それでも律はしばらく手を離せずにいた。


 鷲尾の言葉は、説明になっていないようで、必要なところだけは外していなかった。全部は語らない。けれど、知らなかったことだけは確実に増えている。自分が助けられた直後に初めて検討されたのではなく、もっと前から、もっと長い線の中で見られていたこと。学園に戻るかどうかではなく、戻しながらどこへ繋ぐかを考えられていたこと。そのどちらも、今さら取り消しようのない事実として胸に残る。


 明日もまた、学園の中では視線が残るだろう。

 訓練も、記録も、会話も、全部が少しずつ違うまま続いていく。

 その中で鷲尾だけが、最初からそれを知っていたような軽さで現れる。


 律は天井を見上げ、静かに息を吐いた。


 助けられたはずなのに、守られているだけでは終わらない。

 そのことを一番自然に受け入れているのが、あの人なのだと思うと、妙に腹立たしくて、同時に少しだけ現実味があった。


 眠る前の部屋は静かだった。

 なのに、さっきの声の軽さだけが、耳の近くに薄く残り続けていた。


 眠気はすぐには来なかった。目を閉じるたび、昼間の記録欄と夜の会話が同じ場所へ重なる。紙に残る管理と、軽い声で確かめられる観察は、方法が違うだけで同じ線の上にある。そのことだけが、静かな部屋の中でいつまでも薄く光っていた。



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