表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦術視界の劣等生  作者: TanaKyte


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/7

後戻りできない線

いつも読んでくださっている方も、今回初めての方もありがとうございます。

少しずつ物語を積み重ねていければと思っています。

今回のお話もお付き合いいただけるとうれしいです。

 「灰原、返却前にもう一回」


 装具台の向こうからそう言われて、灰原律はいばら・りつは差し出しかけた手を止めた。


 午後の通常訓練が終わったあとの整備室は、汗と冷えた金属の匂いが混ざっている。床に落ちた細い砂が靴裏で鳴り、奥では蒼真が誰かと補助具の噛み合わせを揉めていた。去年までなら、返却番号を呼ばれて、器具を置いて、終わりだった。だが帰還してからの数日は、その「終わり」が一度で終わらないことが増えた。


 「不具合、出てましたか」


 聞くと、担当の二年生は一拍だけ間を置いてから端末を見た。


 「いや。確認項目が増えてるだけ」


 増えてるだけ、という言い方の軽さと、画面を閉じる指の硬さが噛み合っていなかった。


 律は装具をもう一度置き直し、手首の識別帯を読み取らせる。端末が短く鳴る。その音を聞いた瞬間だけ、相手の目が自分の顔ではなく胸元の番号へ落ちた。見られているのは能力でも実技評価でもなく、もっと事務的で、だからこそ逃げ場のない何かだと分かる視線だった。


 「はい、いいよ」


 返ってきた声は普通だった。だから余計に、普通へ戻されたふりをされている感じだけが残る。


 整備室を出ると、廊下の窓から夕方の光が斜めに差し込んでいた。訓練帰りの生徒たちが話しながら通り過ぎる。その流れの中へ混ざれば、自分も同じ一人に見える。制服も、装具袋も、汗で少し張り付いたシャツの感触も同じだ。表向きには、もう通常訓練へ戻っている。通常任務にも、段階を落とした形で復帰している。担任も記録側も「無理はするな」とは言うが、「外れるな」とは言わない。


 なのに、戻った感じがしなかった。


 朝の点呼で名前を呼ばれた時に一度だけ空気が薄く止まる。任務の割り振りで自分の組だけ確認が一つ多い。記録提出の期限より、「誰に渡したか」の方を聞かれる。たったそれだけだ。露骨に隔てられているわけではない。むしろ、露骨でないから困る。表面には何も残さないように整えられている分、下に回っている処理だけが見えなくなる。


 見えないのに、重さだけは残る。


     *


 翌朝、第一訓練場の空気はまだ冷えていた。


 霧島冴子きりしま・さえこは開始から十五分、ほとんど何も言わなかった。木製の模擬障害、杭で区切られた狭い通路、視界を切る低い板壁。その間を走らされ、止められ、戻される。打ち込まれるのは射撃の精度より、位置の切り替えだった。踏み込む、切る、戻す。その順番が少しでも遅れると、短い声だけが飛ぶ。


 「遅い」

 「今のは前じゃない」

 「見るな。先に足を切れ」


 息が上がりきる前に、また始まる。


 律は板壁の角へ肩を寄せ、次の合図を待ちながら呼吸を整えた。朝の冷気が喉に刺さる。汗は出ているのに、指先だけが冷えていた。


 「もう一本」


 霧島の声が落ちる。


 律はうなずき、狭い通路へ入り直した。左から来る想定の射線を切り、二歩で退路へ寄せ、三歩目で逆側へ逃がす。頭では分かっている。だが、蓮見はすみとぶつかった時に見たものが、ときどき訓練の隙間で勝手に浮かんだ。赤い線ではない。もっと、順番そのものがずれるような感覚だった。何が危険か、ではなく、どこから崩れるかが先に立つ一瞬。あの時はそれで動けた。正確に言えば、考えるより前に身体がそちらへ寄った。


 今はもう出ない。


 出ないのに、見た事実だけが残っている。


 「灰原」


 呼ばれて顔を上げる。


 霧島は開始位置の前に立ったまま、こちらを見ていた。


 「今、何を見た」


 問い方が、見えていることを前提にしていた。


 律は数秒迷ってから答える。


 「……線そのものじゃなくて、崩れる順が先に来る感じが、少し」


 「少し、で止めるな。来たのか、来てないのか」


 「今は来てません。前に見た感覚を、思い出しただけです」


 霧島は否定もしない。評価もしない。ただ、そこで一度だけ視線を細くした。


 「なら、それを見ようとするな」


 「はい」


 「見えた時だけ拾え。拾えない時に追うな。今のお前は、追った方が遅れる」


 いつもと同じ調子だった。だが、その「今のお前は」という言い方に、単なる技量の話ではないものが混ざっていた。まだそこへ行かせない、というより、今はそこへ行かせる順番ではない、に近い。


 再開の合図が来る。律は走りながら、さっきの言葉を反芻した。


 追うな。


 それは訓練の注意として正しい。けれど、自分の中に残った違和感の扱いとしては、正しすぎる言葉だった。見たものを確認しに行けないまま、通常訓練だけを続ける。その形に戻されていること自体が、ひどく不自然だった。


     *


 午前の授業が終わったあと、月城怜奈つきしろ・れなに呼び止められたのは廊下の曲がり角だった。


 「少しだけ」


 いつも通り短い。律は足を止めた。


 月城の手には紙の束ではなく薄い端末があり、その画面には箇条書きの確認項目だけが並んでいるらしかった。問いは簡潔で、そこに余計な感情は乗っていない。


 「救出時、北側通路の二本目で止まった理由は」

 「足場の崩れじゃなくて、重なりです。あそこは進む線と戻る線が同じ場所に寄ってた」

 「確定」

 「進んだら危なかったのは確定です。理由の整理はまだ」

 「分かった」


 そこで終わるかと思ったが、月城は画面を閉じずに次を見た。


 「あなたの証言だけ別管理になってる件は、把握してる?」


 律の喉がわずかに詰まる。


 「……別管理」


 「こっちで見える範囲だと、通常事故報告の流れから外れてる。理由は降りてない」


 言い方は淡々としていた。気遣いはない。だが、突き放しでもない。事実だけを置くことで、逆に誤魔化さない人間の言い方だった。


 「私は、事実と推測を分けるしかないからそうしてる。黒瀬も同じ」

 「はい」

 「だから、変に安心しない方がいい」


 それだけ言って、月城は画面を閉じた。


 「普通に戻す処理は動いてる。でも、普通の案件として畳まれてはいない」


 通り過ぎる足音が一度だけ間を埋める。律は返事をしなかった。できなかった、の方が近い。


 月城はそれ以上何も言わずに去った。その背中を見送りながら、律は壁際へ少しだけ寄る。自分で思っていた以上に、身体がその一言へ反応していた。


 普通に戻す処理は動いている。

 でも、普通の案件としては畳まれていない。


 たぶん、それが今の自分の位置だった。


     *


 昼の食堂はいつも通り混んでいたが、席に着いたあとだけ周囲の音が少し遠かった。


 向かいに座った早瀬が何か言って、蒼真がその上から被せ、倉科が呆れたように止める。会話の流れ自体はいつも通りだ。蒼真は補助具の更新許可が遅いことに不満を言い、早瀬は午後の任務区分が軽すぎると文句を言い、倉科は二人まとめて「落ち着いて食べて」と返している。


 律も返事はしていた。していたはずなのに、自分の声だけ少し後ろから出てくる感じがあった。


 「灰原、聞いてるか」


 早瀬に言われて、律は顔を上げた。


 「聞いてる」

 「いや、たぶん半分くらいしか聞いてない」

 「半分は聞いてるなら十分だろ」

 「十分じゃねえよ」


 軽口の温度で返される。その普通さに、少しだけ救われる。だが同時に、そこへ混ざりきれない違和感も残る。


 視線をずらした先で、リナ・ヴァイスフェルト《りな・ゔぁいすふぇると》が一人分空いた席へ盆を置いていた。こちらへ気づくのが少し遅れ、それから小さく会釈だけする。戻ってきてから、彼女との会話は増えていなかった。減ってもいない。ただ、噛み合う場所が少しずつずれている。


 前までは、同じ違和感を別の入口から見ている感じがあった。今は、その「別」がもう少し広がっている。


 食後、返却口の前で並んだ時に、リナが先に口を開いた。


 「朝、また第一訓練場でしたか」

 「うん」

 「毎日」

 「ほぼ」


 それで一度会話が切れる。遠くで食器が重なる音がした。


 「……戻ってますね」

 「何が」


 聞き返すと、リナは少しだけ首を傾けた。


 「形だけなら、前と同じです」

 「形だけ、って言い方するんだな」

 「違いますか」


 違う、と即答できなかった。


 リナは盆を返し終え、列の流れから半歩だけ外れる。


 「私は、戻ってない感じがします」

 「自分が?」

 「自分も、周りも」


 その言い方は静かだった。感傷ではない。ただ、観測結果みたいに置かれる。


 「あなたの方は、もっと」

 「もっと、何」

 「処理されている感じがします」


 律はそこで言葉を失った。


 処理。月城の言った「戻す処理」と、ほとんど同じ意味の語が、別の口から出た。リナはその一致に気づいているのかいないのか、表情を変えない。


 「私は外へ戻されます」

 「……決まったのか」

 「まだ、正式には聞いていません」


 返答がおかしい。聞いていないのに、断定形で言った。


 律がその矛盾を拾う前に、リナは視線を窓の外へ逃がす。


 「でも、そうなる方が自然です。制度ごと止まる可能性もありますし」

 「お前は、それでいいのか」

 「よくはないです」


 即答だった。


 「けれど、良いかどうかで決まる話ではないでしょう」


 そこから先を、彼女は続けなかった。律も続けられない。自分だけが残る側へ寄せられつつあることと、彼女が戻される側へ寄っていること。その差を、今ここで言葉にしたくなかった。


 戻される。

 残される。

 囲われる。


 似ていないようで、どれも自分の意思だけでは決まらない言葉だった。


     *

該当箇所を和泉関連なしで通る形に直しました。


 鷲尾恒星わしお・こうせいに会ったのは、その日の放課後だった。


 校舎から訓練棟へ渡る渡り廊下。日が落ちきる前の薄い色の中で、鷲尾はいつも通りの軽い顔で壁に寄りかかっていた。こちらを待っていたのか、偶然そこにいたのか、それが分からない程度に自然な立ち方をしている。


 「やあ、灰原くん」


 呼び方も、声音も変わらない。


 律は足を止める。


 「何かありましたか」

 「用事というほどじゃないよ。顔色を見に来ただけ」


 そう言いながら、距離を詰めてはこなかった。去年の鷲尾なら、もっとあっさり肩口まで入ってきたはずだと思う。今は半歩ぶん遠い。その半歩が、妙に気になった。


 「朝練、続いてるらしいね」

 「らしい、って」

 「聞こえるところには聞こえるから」


 軽い。だが、その軽さで流していい範囲をちゃんと選んでいる声だった。


 「無理はしないこと」

 「してません」

 「ならいい。でも、してないつもりで超える子もいる」


 そこで鷲尾は、少しだけ目を細めた。


 「君は今、普通に戻っている途中じゃない。普通に戻している途中にいる」

 「……同じようなことを、月城さんにも言われました」

 「記録の子は鋭いね」


 笑ったあとで、鷲尾はすぐに表情を戻す。


 「焦らなくていいよ。決まってないことも多い」

 「何が」

 「そのうち話す」


 答えにはなっていない。だが、そのはぐらかし方が、何も知らない人間のものではなかった。


 律は息を吸い、聞く。


 「俺は、保護されてるんですか」

 「されてる」

 「監視も」

 「されてる」


 あまりに即答で、逆に言葉が継げなくなる。


 鷲尾はそこで初めて、少しだけ目線を落とした。


 「守るための管理と、縛るための管理は同じ形を取ることがある。そこは混ざる。綺麗には分けられない」

 「じゃあ、今の俺はどっちなんです」

 「両方だよ」


 渡り廊下を風が抜けた。制服の裾がわずかに鳴る。


 「気に入らないだろうけどね」

 「……気に入るわけないでしょう」

 「うん。だから、気に入らなくていい」


 そう言って鷲尾は壁から身体を離した。


 「ただ、君を何も知らない普通の学生として放しておく方が、もっとまずい段階に入ってる。それだけは覚えておいて」


 そのまま行き過ぎるかと思ったが、すれ違う直前で足を止める。


 「戻されたように見えても、前と同じ場所に返されたわけじゃない」


 律は振り向いた。


 「……それは」

 「分かってる顔をしてる」


 軽く言ったあと、鷲尾は視線だけで続きを促すようにした。だが律は答えられない。忘れていたわけではない。むしろ、忘れようとして失敗していた感覚そのものだった。


 表向きには通常へ戻されている。

 訓練も任務も再開している。

 けれど、前と同じ場所へ戻った感じだけがしない。


 戻されたのに、元に戻ったわけではない。


 その感覚に名前を与えられるのが、嫌だった。正しいから嫌だった。


 「覚えてるっていうより、もう気づいてるんだろうね」


 鷲尾はそれだけ確認すると、今度こそ去っていった。追う気にはなれない。追ったところで、今聞けることは増えないと分かっていた。


 半歩遠い距離。

 軽い言い方。

 答えすぎないくせに、核心だけは外さない態度。


 鷲尾の距離は、以前より近いところまで知っている人間の距離だった。けれど、その分だけ、こちらを「学生」としてではなく「扱いが決まっていない対象」として見ている感じも強くなっていた。


     *


 その夜、寮の机に向かっても、記録用紙の一行目がなかなか埋まらなかった。


 通常訓練、午後任務、装具確認、異常なし。

 本来なら、それで済む日だった。


 異常なし。


 書こうとして、止まる。


 異常がなかったわけではない。危険線が出たわけでもない。外部から接触されたわけでもない。目に見える何かが起きたわけでもない。なのに、全部が以前と同じ扱いでは進んでいないことだけは分かる。


 律はペン先を紙から離し、目を閉じた。


 蓮見と対峙した時の最後の数秒を、何度も思い出そうとして失敗する。赤い線を追った記憶はある。足を切った感覚もある。だが、その奥に一瞬だけ見えたものの輪郭が掴めない。危険そのものではなかった。もっと、危険が並ぶ前の順番みたいなものだった気がする。


 見間違いかもしれない。

 追い詰められたせいで、頭の中で繋がっただけかもしれない。

 でも、もし違うなら。


 今の訓練だけでは、そこへ届かない。


 その考えに行き着くたび、胸の奥が静かに冷える。強くなりたい、という単純な願望とは少し違う。届かないものがあると知ったのに、そこへ向かう手段を自分で選べないまま、通常へ戻される怖さだった。


 机上の端末が短く鳴ったのは、その時だった。


 通知元は教官室。

 内容は短い。


 明日、放課後。応接室へ来い。霧島。


 時間だけ指定されていて、用件はない。


 律は画面を見たまま、しばらく動けなかった。応接室という場所の選び方が、もう普通ではない。説教なら教官室で足りる。訓練の話なら第一訓練場で終わる。わざわざそこを使うのは、学園の中の話でありながら、学園の通常線から半歩外したい時だ。


 画面を閉じても、通知文の短さだけが残った。


     *


 翌日の放課後、応接室の扉は半分だけ開いていた。


 中へ入ると、窓際のブラインドは下ろされ、机の上には湯気の消えた茶が二つ置かれていた。霧島はソファに座らず、窓の前に立っている。こちらが入ったのを確認すると、振り返りもせずに言った。


 「閉めろ」


 扉を閉める音が、いつもより硬く聞こえた。


 「座れ」


 律は指示どおり向かいの椅子へ腰を下ろす。背もたれに身体を預ける気にはなれなかった。


 霧島は数秒黙ったまま、ようやくこちらを見る。


 「結論から言う」


 前置きがない。


 「三年に上がる時点で、お前には特異事案処理室とくいじあんしょりしつにインターン生として入ってもらう案が出てる」


 喉の奥が乾いた。


 想像していなかったわけではない。鷲尾の言い方、月城の確認、和泉の言葉。全部が、何か別の処理線へ繋がっている気配はあった。だが、実際に名前を出されると、頭の中で空いていた場所が急に現実の重さを持つ。


 「特処室……」


 口の中で転がすように言うと、霧島は小さくうなずく。


 「表向きは学生向けの実務研修だ。だが、お前もそれで終わる話だとは思ってないだろ」

 「……はい」


 霧島はそこで、珍しく視線を外さなかった。


 「拒否するなら、ここで止める」

 「止められるんですか」

 「私が止める。少なくとも、今すぐその線へ押し込まれることはなくなる」


 きっぱりしていた。できもしないことを言っている声ではない。


 「ただし」


 そこで声が低くなる。


 「止めたからといって、お前が普通の学生に戻るわけじゃない。外から見られていることも、学園の中だけで抱えきれない段階に入ってることも変わらん」


 律は指先を膝の上で組み直した。力が入りすぎて、関節が少し白くなる。


 「それは、保護のためですか」

 「それもある」

 「監視のためでも」

 「ある」


 鷲尾と同じ答えだった。


 霧島はそこで言葉を足す。


 「育てるためでもある」


 その一言だけが、胸の奥へ別の形で落ちた。


 「お前は今、見えたものを抱えたまま止まる段階からは外れ始めてる。だが、次へ進むには学園の訓練線だけじゃ足りん」

 「次、というのは」

 「私が言葉にする段階じゃない」


 そこで切られる。だが拒絶ではない。まだ先に置く、という切り方だった。


 「お前が蓮見とやり合った時、見たものがあるんだろう」

 「……少し」

 「その少しを、今のままの場所だけで飼うのは無理だ」


 飼う、という言葉がわざと荒い。律は息を呑む。


 「誤解するな。特処室へやるのは、切り離すためじゃない」

 「じゃあ何のためです」

 「戻る条件を残したまま、外へ出すためだ」


 それが、この場で一番まっすぐな言葉だった。


 戻る条件を残したまま。

 外へ出す。


 霧島は机の上の茶に触れもせず、続ける。


 「私は、お前を学園の中に閉じておけば安全だとは思ってない。逆だ。今のまま閉じた方が、視野も判断も細る」

 「でも、外へ出せば危なくなる」

 「なる」

 「管理も強くなる」

 「なる」

 「先生は、それでいいんですか」


 問いが少しだけ早く出た。自分でも分かる。責めたいわけではない。確認したかった。見放されたのではないと、どこかで確かめたかった。


 霧島はすぐには答えなかった。数秒の沈黙のあと、ようやく言う。


 「よくはない」


 即答だった。


 「だが、お前を今の位置へ留める方がもっとよくない。私が残せるのは、戻る条件までだ」

 「戻れるんですか」

 「戻れなくなる線もある」


 その言い方は、脅しではなかった。ただの事実だった。


 「だから選ばせてる。受けるなら、自分で踏め」

 「……受けなかったら」

 「私が止める。止めた上で、別の形で抱える」

 「でも、それで何も解決しない」

 「そうだ」


 また即答だった。


 その潔さに、逆に逃げ場がなくなる。


 律は視線を落とし、自分の手を見る。去年までなら、強い場所へ呼ばれることは単純に遠い話だった。自分はまだ使えない、で済んだ。今はもう済まない。見えてしまったものがある。見えていないふりをしたまま残るには、知りすぎた。


 選ばれた、とは思わない。

 認められた、とも違う。

 置かれる。

 囲われる。

 管理される。


 その感覚の方が近い。


 それでも、胸の底には別の温度もあった。蓮見と対した時に掠めた、あの先の感覚。危険を見て避けるだけでは届かない場所があると、もう知ってしまっている温度だ。


 学園の中だけで、通常訓練と通常任務へ戻される形を続けても、たぶん自分はそこへ行けない。

 行けないまま、見えているものだけを抱えて鈍る。


 それが一番嫌だった。


 律はゆっくり息を吸い、上げた視線を霧島へ戻す。


 「受けます」


 霧島の表情は変わらない。


 「即答だな」

 「迷ってないわけじゃないです」

 「だろうな」

 「でも、今のままじゃ届かない場所があるのは分かるので」


 言ってから、自分の声が思ったより平らだったことに気づく。震えていないわけではない。ただ、震えが表へ出る前に別のところで固まっている。


 霧島はそこで初めて、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。


 「分かった」

 「一つだけ」

 「何だ」

 「先生は、俺を見放したわけじゃないんですよね」


 聞くつもりはなかったのに、口から出た。みっともない問いだと分かる。だが、引っ込められなかった。


 霧島はその問いに、眉一つ動かさない。


 「見放すなら、選ばせない」


 短い。


 「外へ出すのは切るためじゃない。戻れるようにしておくためだ。勘違いするな」


 それで十分だった。


 胸の奥に張っていたものが、少しだけ緩む。安心と呼ぶには硬い。だが、足場がゼロではないと分かる感覚だった。


 霧島はそこでようやく机の上の書類を一つ引き寄せる。


 「正式な話はもう少し先だ。表向きの整え方もある」

 「はい」

 「それまでは、今まで通り訓練も任務もやる。ただし、何も変わっていないと思うな」

 「分かってます」

 「ならいい」


 話は終わりだという空気が落ちる。律は椅子から立ち上がった。扉へ向かいかけたところで、背中にもう一度だけ声が飛ぶ。


 「灰原」


 振り向く。


 「お前がこれから踏むのは、強くなるためだけの線じゃない」

 「……はい」

 「選ぶ責任が増える線だ。そこだけ間違えるな」


 律はうなずいた。返事はそれだけでよかった。


 扉を開けて廊下へ出る。夕方はもう終わりかけていて、窓の外は青と黒の境目へ沈んでいた。遠くの訓練場から、まだ誰かの掛け声が聞こえる。学園の中はいつも通り動いている。その中を歩きながら、自分だけが別の線へ足をかけた感覚があった。


 危険線は出ていない。


 それでも分かる。


 いま踏んだのは、戻れる場所を完全に失う線ではない。霧島は確かに、そこを切り残してくれた。けれど同時に、もう「何も知らない学生」に戻る道を自分で選ばないと決めた線でもある。


 その線は赤くも光らず、誰の目にも見えない。

 だが一度踏めば、前と同じ足取りでは戻れない。


 律は階段の踊り場で一度だけ立ち止まり、冷え始めた手を握り直した。


 守られるだけでは届かない場所がある。

 囲われるだけでは終われない。

 管理されるとしても、その先へ踏み込まなければ見えないものがある。


 次に進むしかない、というより、もうそこで止まる方が不自然だった。


 そしてその感覚だけは、不思議なほど静かに腹へ落ちていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。

感想や応援、ブックマークなどをいただけると、今後の励みになります。

また次回も読んでいただけましたら幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ