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神と悪魔と契約したら、世界が壊れかけました  作者: 0くるみ0


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2/2

第二話:灰の夜、世界の端で。少女は旅を始めた

城内で準備を整えた後、出発の時間を迎えた。

城門を出る時、風が冷たかった。


ユイは、城を振り返った。

見ているのに、何も言葉が出ない。


「行きましょう」


そして、アキが指を鳴らした。


次の瞬間、景色が滑るように切り替わった。

眩しさも衝撃もない。

ただ、立っている場所だけが静かに入れ替わるような、不思議な感覚だった。


気づけば、そこはもう別の場所だった。


街だった。


背の低い建物が並び、どの窓も暗く閉ざされている。


「……ここは?」


ユイが言うと、アキは首を傾げた。


「子爵領の外縁に近い街」


ルセリアは周囲を見回し、街の空気を吸い込むように一度だけ深く息をした。


「……この匂い、懐かしい」


「聖都の匂いとは違いますか?」


「違うわ。聖都は石と香の匂い。ここは人の暮らしの匂い」


ユイは、その言葉を聞きながら、暮らしの匂いを覚えようとした。


だが、すぐに別のことが胸に引っかかった。


「……あの」


ユイが小さく声を出すと、アキが視線だけで続きを促した。


「城のことは……どうするんですか?」


ルセリアは黙ったまま、ユイを見た。

代わりに、アキが静かに答える。


「そのままにはしないよ」


ユイは、続きを待った。


「子爵領で起きたことは、邪教の突撃によるものとして処理する。子爵家の人間は全員死亡。城は炎に包まれて焼失――そういう形になる」


ユイの喉が、わずかに動いた。


「……でも」


「誰も傷つけないように、だろう?」


アキは、ユイの言葉の先を取るように言った。


「そこは大丈夫。城を覆う炎は、外へ広がらない。周囲にも、人にも被害は出さない。ただ、残すべきでないものだけを燃やし尽くす形にする」


ルセリアも、一瞬驚いたようにアキを見てから、口を開いた。


「子爵領で何が行われていたかを思えば、それが一番、混乱の少ない形でしょうね」


ユイは、しばらく黙っていた。

それから、ようやく小さく頷いた。


「……分かりました」


宿は古く、しかし清潔だった。

看板は擦れて読みにくいが、戸口の段差は低く、灯りは弱い。

夜更けの旅人を拒む宿ではない。


宿の前で、ルセリアが言う。


「部屋は一つで十分ね」


ユイは、少しだけ目を丸くした。


「……一つで?」


アキが、肩の力を抜いたまま答える。


「僕は本に宿れるからね」


そう言って、手にした本を軽く持ち上げる。


すると、儀式の後からずっとユイの首飾りとなっていた黒曜石の小さな棺が、淡く光った。


「私も依り代があれば、それで足りる」


低い声が響く。


ルセリアが、当然のことのように言葉を継いだ。


「だから、ベッドが二つある部屋を一つ取ればいいの」


「……なるほど」


ユイは、そう答えるしかなかった。


宿に入ると、帳場の主人は、眠そうな目でユイたちを見た。


「……部屋は?」


ルセリアが柔らかく言う。


「二人部屋を一つ」


主人は少し迷ってから、鍵を差し出した。


階段を上がると、木が軽く軋む。

廊下の壁は薄い。

どこかの部屋の寝息が聞こえた。


部屋は簡素だった。

机、椅子、棚、洗面台。

窓は小さく、カーテンは粗い。

ベッドは二つ。


「……落ち着きます」


ユイがぽつりと言うと、ルセリアが目を細めた。


「そう?」


「はい。城より生きる感じがあるので」


ルセリアは笑った。


部屋に入ってすぐ、アキは本を膝に置き、ぱたんと閉じた。

その瞬間、彼の姿は薄くなり、消えた。


「……便利ですね」


ユイは、そう言った。


次に、儀式の後からずっとユイの首飾りとなっていた黒曜石の小さな棺が、淡く光った。

十センチほど。艶のある黒い石。

部屋の空気が、ほんの少しだけ引き締まる。

“威厳”の形をした緊張が、そこに置かれる。


「先にお風呂、入ってきなさい」


ルセリアは、ユイの肩に手を置くような距離で言った。


「……はい」


宿の風呂場は狭いが、湯は熱かった。

木桶の縁は古い。

床板は湿っている。

けれど湯気が、今夜のユイにはちょうどいい。


湯に肩まで浸かると、身体の中心が戻ってくる。

身体が戻ると、考えが整う。


ユイが髪を洗っていると、外からルセリアの声がした。


「香油、足りる?」


「大丈夫です」


ユイは短く返した。


「……じゃあ、背中流すわ。失礼するわよ」


ルセリアが入ってきた。

白い髪ではない。

湯気で金髪が少しだけ濃く見える。


ルセリアは、ユイの背中に湯をかける。


「今日は……怖かった?」


ルセリアがそう尋ねた時、ユイは少しだけ間を置いた。

問いは単純だが、答えは単純ではない。


「怖い、というより……」


ユイは言葉を探し、見つけた言い方を選んだ。


「……慣れないです」


ルセリアは、背中を流す手を止めないまま、静かに頷いた。


「そうよね。慣れる必要のないことばかり、来るもの」


湯気の中で、ユイは自分の指先を見た。


ルセリアは、ユイの髪をまとめる時、さらりと言った。


「髪、ほどけやすいわね。結び紐、貸す?」


ユイが首を振る前に、ルセリアは自分のリボンを外して差し出した。

断る隙を与えない優しさだった。


「……ありがとうございます」


「礼はいらない。今は手が塞がっているだけ」


そう言いながら、ルセリアは笑った。


風呂から上がると、ユイの頬は少しだけ赤い。

宿の廊下の冷気が、心地よく感じる。


部屋に戻ると、机の上にパンとスープが並んでいた。

宿の主人が「夜食」として置いたらしい。

金貨が一枚、皿の隅に置かれている。


「払ったの?」


ユイが問うと、ルセリアが肩をすくめた。


「払える時は払うの。払わなくてもいい時もあるけれど、今日は払った方がいい」


ユイはパンをちぎり、スープにつけて口に運んだ。

味は素朴で、塩は控えめ。

でも、身体が受け取る。


「……おいしいです」


「旅先のご飯は、だいたいこんなものよ」


ルセリアが笑う。


その時、部屋の隅の空気が揺れ、アキが姿を現した。

まるで最初からそこにいたみたいに。


「落ち着いた?」


「はい」


ユイが答えると、アキは「そっか」とだけ言って椅子に座った。


食事が半分ほど進んだところで、アキが机を軽く叩いた。


「さて。ユイ君は質問がいっぱいあるでしょ。今はそれに答える時間だ」


ルセリアも頷く。


「ええ。ユイが落ち着いているうちに」


ユイは背筋を伸ばした。

知りたいことは山ほどある。


「……まず、皆さんのことを教えてください」


ユイがそう言いながら、ルセリアを見た。


「私はルセリア。神聖法王領ルミナリスの大主教」


「大主教って……どのくらい偉いんですか?」


ルセリアは少し笑った。


「……面倒な仕事が一番回ってくるくらい」


アキが「それは偉いね」と言って、ユイが小さく頷く。


「どうして……城の地下に?」


ユイが次に聞く。

ルセリアは一瞬だけ視線を外し、窓の暗さを見る。


「私は神授物を聖都まで運ぶ途中だったの。でも、その途中で邪教の奇襲を受けて、捕らえられたわ」


ユイは黙って聞いている。


「あなたの家にいたのも理由がある。邪教は秘密の転送経路を守るために、協力者のいる子爵領を一時的な預かり場所にしていたの。だから私は、あそこに置かれていた」


ユイはそれを聞いて、すぐには何も言わなかった。

ただ、スープの表面の油の輪を見つめて、次に聞く。


「……教会は、そういうものを扱うんですか?」


「扱うわ。神からの賜物だもの」


アキが指を鳴らすと、机の上に薄い紙が一枚現れた。

地図だった。

その上に大陸の輪郭がある。

海が二つ。

中央にはユイたちが現在にいる神聖法王領ルミナリス、南にはガイア帝国とプロメテ共和国、北の黒い地域には血統契約公国サンギナリアが書いてある。

右側の海とその沿岸にも、海洋連合アクアリスという国がある。


「これはアストラ大陸の地図。君も以前見たことがあるはず。でも、これはすべての地域ではない」


そう言いながら、地図の外側に新しい部分が自動的に生成した。


その上に書かれているのは、ソムニウム、アンブラ、そして赤い文字でアビスネストと書いてある場所だった。


「この三つの場所は、現世にはない別なる次元にある領域。魔法が使えない人には一生行けない場所だよ。だから、世界をもっと知りたいあなたには、魔法が必要になる」


ユイは頷き、さらに聞く。


「魔法は、どうやって使うんですか?」


隣にいるルセリアが手を広げる。

その手の中で小さな光の粒が集まり始め、最後には一つの小さな光の球へと凝縮された。


「魔法とは、マナというエネルギーの使い方よ。マナはこの世界に溢れている。同時に、この世界のすべてを作っている基礎でもあるの」


「マナの使い方は、具体的にどんな方法がありますか?」


ルセリアは言葉を止めた。

代わりに、その視線がユイ――正確にはユイの胸元で静かに眠る黒曜石の棺に向けられる。


ユイの視線もルセリアにつられて下に向くと、空気が再び引き締まった。


「私より、この質問に答える方がいらっしゃるはず」


ルセリアがそう言った瞬間、黒い棺から現れたのは、神である少女だった。


「魔法の使い方は、大体九つに分けられる。それぞれ、この世にいる九つの神に対応している」


ユイは一瞬の間を置いてから、問いかけた。


「失礼ですが、まずはどのようにお呼びすればよろしいでしょうか?」


「……ノクティラでよい」


ルセリアが目を伏せる。


「神は九ついるとおっしゃいましたけど、アウレクス以外にも神様がいますか?」


「そうだ。九柱の神が、それぞれ司る領域を持つ」


ユイが「九」と繰り返すと、アキが指を折らずに言う。


「ざっくり紹介する?」


ルセリアが頷き、ユイの理解に合わせて語る。


「まずは君も知っている、光と秩序の神――アウレクス」


「残りの八つの神は、それぞれ」


「水と循環の神――サレッサ」


「風と運命の神――アエラリス」


「大地と生命の神――ガエロス」


「炎と変革の神――ピュラ」


「夢と魂の神――ソムニア」


「血と契約の神――クリムゾン」


「星と世界の神――アストリクス」


そして最後に、


「闇と境界の神――ノクティラ」


ノクティラは、まるで今話題に上がった人物が自分ではないかのように、平然とした面持ちで話を続けた。


「現在、人々が使っている魔法の多くも、神が司るものと何らかの関連があるわ。例えば光魔法、火魔法、血魔法といった具合にね」


彼女が言葉を切ると、ルセリアが補足するように言った。


「魔法使いは下から上へと一から九等級に分けられていて、魔法そのものも、その威力や難易度によって同じように分類されているのよ」


ユイがこれらの新しい知識を吸収しようとしている時、アキが言葉を挟んだ。


「要するに、あんたはこれから魔法を使うことになるんだ。だから、少なくともこれくらいは知っておいたほうがいいってことだよ」


この話を聞いたユイは、その流れに乗るようにアキへ視線を向けた。

アキはそれを待っていたように、先に言う。


「僕の話は、面白くないよ」


「面白いかどうかは……私が決めます」


ユイがさらりと言うと、ルセリアが笑い、アキが少しだけ目を細めた。

この子は、礼儀の皮で“拒否しない圧”を作れる。

賢い。


「仕方ないね」


アキは、指先で地図の外側をトントンと叩く。


「この世界――アストラだけが宇宙じゃない」


アキは続ける。


「外がある。僕はそこから来た……ということになってる」


「……帰れるんですか?」


ユイが聞くと、アキは肩をすくめた。


「帰れるなら、とっくに帰ってる」


答えになっているようで、答えの中心を避けている。


「ところで君はこれからどうする?」


アキは話題を変えて、すべてを見通すような視線でユイを見る。


「好奇心旺盛の子爵令嬢さん」


ユイは、その視線を受け止めて、逃げない。


「分かりません。でも知りたい。この世界のこと。城以外のことを全部知りたいです」


「それなら、旅に出てみるのはどう?」

ルセリアがそう助言した。「自分自身で見て、触れて、感じる。世界を知るには、それが一番の近道だわ」

道標を掴んだかのように、ユイは目を輝かせて「うん」と答えた。


この話を聞いたアキは、安心したように笑った。


「神と大主教がボディーガードとしてつく旅行か。贅沢だね、君。しかし、最初の旅行先はまだ決まってないよ」


ユイは、机の上の地図を見た。

行ける場所の名前はたくさんあるのに、自分がどこへ行きたいのかは、まだうまく言葉にならない。


「……最初の旅行先」


その言葉を、小さく繰り返す。


ルセリアがやわらかく言った。


「急いで決めなくてもいいわ」


アキも頷く。


「うん。そういうのは、ゆっくり考えて決めればいい」


ユイは少しだけ考えてから、静かに息を吐いた。


「……はい」


話が一段落したところで、ノクティラも神授物に戻った。

ルセリアがユイに温かい湯を注いだ。

宿のポットの湯だ。

香りはない。けれど温かい。


ユイは湯呑みを受け取り、両手で包んだ。


「……ありがとうございます」


「私は教会に戻る必要がある。あなたの旅の最初の目的地としても、悪くないわ」


ルセリアは、そう言った。


ユイはその言い方を聞いて、ほんの少しだけ安心した。


「……ありがとうございます」


「感謝は多すぎよ」


「いいアイデアだ!」


アキが机の上の地図を指す。


「ルミナリスの聖都には魔法学園がある」


ルセリアが頷く。


「学園は、知識の入り口よ。あなたは知らないことが多い。行きたい?」


ユイは、湯呑みを机に置いて、小さく言った。


「……行きます」


もうしばらく休憩すると、夜はもっと深くなってきた。


「朝になったら、また飛ぶ」


「飛ぶ、って……」


ユイが言うと、ルセリアが柔らかく説明する。


「転送よ。あなたはもう体験したでしょう?」


ユイは頷く。

体験した。

理解したわけではない。


「転送って、危険じゃないんですか?」


ルセリアは一拍置いた。


「普通は危険よ」


そして、ユイの目を見て言う。


「でも、今夜のあなたたちは“普通じゃない”」


アキが軽く言う。


「普通の旅なら馬車だし、君は今チートモードを体験しているよ」


ルセリアが「軽く言いなさい」と小声で注意し、ユイが少しだけ口元を柔らかくした。


棺の奥から、低い声が聞こえる。


「……侮るな。世界は常に牙を隠している」


威厳のある言葉だが、どこか“格言を言えば締まると思っている”気配がある。


「そうだね、でも今日はここまでにするか。そろそろ寝る時間ですよ皆さん」

アキは急に立ち上がると、パンと手を叩いてこう言った。


話すべきことは、まだ山ほどある。

だが、今夜は“全部”をやらない方が良い。

旅の面白さは、体験にある。


ルセリアはユイの枕元へ行き、静かに言った。


「寝たほうがいいよ。明日から、情報は嫌でも増える」


「……はい」


ユイは素直にベッドへ入った。

布団は軽い。

城の寝具ほど豪華ではないが、身体を包むには十分だ。


ルセリアはもう一つのベッドに座り、短い祈りのような瞑想に入る準備をする。

その姿勢が、頼もしい。


ユイは目を閉じる前に、小さく言った。


「……ルセリアさん」


「なに?」


「……明日、また教えてください。世界のこと」


ルセリアは、少しだけ目を細めた。

嬉しさを大げさにしない笑い方。


「ええ。いくらでも」


その返事は、約束というより、当たり前のようだった。


灯りが落ちる。


アキは、本へ戻った。


部屋は静かになる。

静かだが、怖くない。


ユイは、眠りに落ちる直前、ふと思った。

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