戯れ
初音が秀麗な顔に見とれているうちに、章継はにやりと口の端を歪めた。
「それでこそ、いじめ甲斐がある」
冗談か本気かわからない発言にぎょっとする。
「っいい加減、手をどけてください」
「警戒してるのか。うん、賢いな」
話をそらそうとするけれど、章継はまったく反省する様子がない。力強く髪をかき混ぜられて、初音の首はぐらぐらと前後に振られた。
「もう、子供扱いはやめてくださいっ」
唇をとがらせ、上背のある章継を見上げる。きっとまだ笑っているのだろうと思ったが、目が合った彼のまなざしが思いの外真剣で、初音は小さく息を呑んだ。
「子供扱いをやめれば、困るのはお前だぞ」
頭上に置かれた手が後頭部にまわり、あっという間に首の後ろを引き寄せられる。
「戦帰りの男とふたりきりなんて、危険だと思わないか」
低く艶やかな声で囁かれ、初音はびくりと背中を揺らした。
(や、なんて……っ?)
逃れようとして身じろぐけれど、いつの間にか腰に腕を回されていてかなわない。ふう、と温かい息が耳元にかかる。
「っ、ゃ……!」
初音が身体を硬直させていると、章継はおかしそうに笑った。
「抵抗しないってことは、同意と見なすぞ」
余裕めいた口調で耳に直接囁き込まれ、心拍が上がっていく。しなやかな指先にうなじを撫でられて、くすぐったさだけではない刺激に腰が砕けそうになった。
「ほら、俺が誘惑してやっているんだから、何か言ったらどうだ」
尊大な物言いに屈しそうになる自分自身を叱咤して、やっとの思いで腕を持ち上げた。
「いやっ……!」
手を突っ張って、章継を背後へ押しのける。章継は振りほどかれた手を宙に浮かせたまま、目を丸くして初音を見た。彼の腕から逃れられてほっとしたのもつかの間、今の行動の結果に思い当たり、初音は不安に駆られた。
(怒った、かな)
これまでの相手の不遜な言動を振り返り、次に何をされるかと固唾を飲んで待つ。嫌味を言われたり、怒鳴られるくらいならまだいい。力づくでこられたら、勝ち目はない。
「……ふ」
章継の口からかすかな吐息が漏れる。次の動きを見逃すまいと、初音は目を大きく見開いた。肩に力が入る。しかし、章継はこらえきれないというように笑い声を漏らした。初音は混乱しきりだ。
「そうか、嫌だったか」
ひとしきり笑い終え、ようやく言葉を発した章継の表情は、予想に反して穏やかだった。
「そんな必死な顔をされるとはな。怖がらせて悪かった」
謝られて、かえって恐縮する。
「いえ……その、私も過剰な反応をしてしまってごめんなさい」
「ああ、まさか振りほどかれるとは思わなかった」
「すっかり振られてしまったな」
自嘲と言うにはあまりに軽く、どこか他人事のような口ぶりだ。真意がわからず、呆然としてしまう。初音の視線に気づいたのだろう、章継は彼女の方を一瞥してひょいと片眉を上げた。
「どうした」
「……怒ってないんですか?」
おそるおそる尋ねると、彼はどうして、と首を傾げた。
「今のは驚かせた俺が悪い。お前こそ、怒ってもいいんじゃないか」
「私は……」
不思議なことに、怒りは感じていなかった。彼があまりに自由だから、困惑はしているけれど。なんと答えていいかわからなくて、考え込む。
「嫌なことは嫌と言っていい。ちゃんと意思表示をする人間の方が、信用できる」
「そういうものですか?」
「そうだ。それに、簡単に思い通りになるよりも多少抵抗された方が楽しい」
にやりと人の悪い笑みを向けられ、頭の中に警鐘が鳴り響く。
「私、そろそろ失礼しますっ」
初音は勢いよく頭を下げると、一目散に逃げ出した。呼び止める間もなく、どんどん小さくなる背中を見つめ、章継は独りごちた。
「結局どこの誰だか聞けなかった」
その口元はゆるく持ち上がっている。
「まあいい。屋敷で生活しているのなら、そのうち会うこともあるだろう」
初音が消えていった方向をちらりと一瞥して、踵を返す。章継は足取りも軽くその場を後にした。