6章『色欲がもたらすのは、最後の夜か、最高の夜か』 その2
「あれ、ほっぺたが赤くなってない?」
グリが気付いたのは、赤里の本心にではなく外見の違和感の方だった。
彼の左頬を人差し指でそっとつつく。
「さっき翠佳に叩かれた」
「なんですって!?」
「明日はどんな勝負パンツを穿いていくんだ、ってしつこく聞いてみたらこのザマだ」
「赤里……いくら私でも、それは擁護できないわ」
グリは赤里から身を離した。
図らずも状況が好転した赤里は、わずかに引きつった笑みを作り、理由を説明する。
「緊張をほぐしてやろうと思ったんだよ」
「それにしても、言い方ってものがあるでしょう。一応は女性なんだから」
「いいんだよ、あいつはああいう扱い方で。それよりも悪いな、余計なことをして。確実に勝つなら、もっと二人の動揺を煽るべきなんだろうけどな」
「いいの、そういう友達思いで優しい所も素敵よ」
グリは再び、赤里に密着し始める。
「それに、どうせ勝つのは私たちだから。気にすることなんて、何一つないわ」
「大した自信だな」
「単なる事実よ」
だろうな、と心中で納得する。
これは同時に、儚い望みも無いに等しいことを意味していた。
赤里は、仮に自分が命を捨てて二人が助かるならそれでもいいと、本気で思っていた。
彼には他に守りたいものも、愛するものもない。
死に対する恐怖心も、さほどない。
にも関わらず、ここまでそうしなかったのは、単純に意味がないからだ。
自分が死んで組織側に助命を嘆願したとしてもどうせ聞き入れられず、新しい追手が差し向けられるだけ。
しかし、正式に組織からの約束を得た今ならば……
ただ、グリは納得しないだろう。
赤の他人である二人のために命を捨てる理由がない。
「私、わざと死ぬつもりはないから」
グリの方も、赤里の思考回路を既に把握していた。
「分かってる。強制はしないさ。戦えばいい」
「あなたを死なせもしないから」
「何故俺にそこまでこだわる」
「あなたが大好きだからよ」
前々からの疑問は、単純明快かつ力強い一言で解決させられてしまった。
「私、本気なのよ。あなたのことが大好き。ううん、短い間だけど、実際一緒に過ごしているうちにそんな言葉じゃ足りなくなった。愛してるのよ」
それだけに留まらず、火に油を注ぐ結果になってしまったようだ。
グリは熱っぽい視線を至近距離で送りつつ、饒舌に赤里への愛を語り出した。
「あなたになら、私の全てをあげても構わない。それくらい本気よ」
別に何も欲しくはないんだがな。
目の覚めるような美少女にそうまで言われても、あくまでも赤里は冷静で、色恋という酒に酔うことはなかった。
「そうか。こんな俺のことをそこまで思ってくれてる気持ちは嬉しいよ」
しかしここで機嫌を損ねたくはないので、抱擁ぐらいはしてやる。
「んっ……」
グリは、目をつぶりこそすれど、手は回さなかった。
分かっていたのだ。
「…………やっぱり、あの人の方がいい?」
「何言ってるんだ、こんな状態で」
「こんな状態だから言うのよ」
グリは、自分を包んでいる赤里の二の腕に指をかけた。
軽く押すだけで拘束は容易に外れ、自由になった体を立ち上がらせる。
「ちょっとついてきて」
突然の誘いを不思議に思いながらも、赤里は彼女の言う通り、後をついていった。
出入口のドアを開け、部屋の外に出ると、そこは廊下である。
真っ直ぐに伸びた通路の左右には、規則的な間隔で幾つもドアがついているが、二人の他に人の姿はない。
明度を落とした電灯と相まって、部屋の延長のような落ち着いた雰囲気が形成されていた。
二組にあてがわれた部屋は隣り合っていた。
つまり、青依と翠佳は今、すぐ左隣のドアの向こうにいるはずだ。
グリは無言で、二人の部屋のドアと耳を順番に指差した。
手話など知らずとも理解できるジェスチャーである。
彼女の意図を疑問に思いながらも、赤里は水中に沈むガラス玉を探すように耳を澄ます。
「…………ぁ……っ」
鼓膜をくすぐるように、何かが微かに聴こえてくる。
「……ぃっ」
高さから、押し殺した女の声だと識別はつく。
何を言っているのかは分からないが。
――いや、言葉ではない。
そこまで理解した瞬間、赤里の体内を巡っている全身の血が、カッと熱くなって逆流する。
割って入りたい衝動が、本能から理性へと襲いかかってくる。
しかし当然、ドアには鍵がかかっているはずだ。
蹴り飛ばして大きな物音を上げてやりたい。止めさせたい。
ピッキングできないこともないが、時間がかかってしまう……
『こっちに来て』
奇妙な逡巡をしている赤里にグリがそう目で語りかけ、有無を言わさず彼の手を引っ張った。
そのまま再び、音を立てず自分たちの部屋へと引きずり込む。
赤里が苛立たしげに手を振り払うと、グリは苦笑して言った。
「正直な反応もできるのね。でもダメよ。いくらあなたに甘い私でも、男女の秘め事に水を差す野暮は見過ごせないわ。好きにさせてあげればいいじゃない。最後なんだから」
赤里は、舌打ちしそうになったのを、唇を噛んで無理矢理止める。
グリの言葉に対してではなく、自分の中に未だ嫉妬心が残っていたことに驚いた。
そして、あの時よりもひどく後味が悪くなっていたのに愕然とする。
未だに心臓がバクバクし、十の指先は冷たく、込み上げる唾は苦い。
泣きたくはならないが、叫んで暴れたくなる。
何より、青依のことを憎みたくないのに、憎んでしまっている。
殴りつけたい。いや、それだけじゃ足りない。ナイフで切り付けて……
なんだこれは。二人が付き合っていることを知った時もそうだが、どうしてそういう風に思ってしまう。
大の男が情けない……
「……すまん、助かった。危うくいい歳こいて醜態を晒す所だった」
「どうしてそんな風に捉えるの? 年齢なんて関係ないじゃない。ましてやこれまでは組織から恋愛を禁止されてたんだから、そうなったとしても自然なことでしょ」
「大したもんだよ。君は本当に経験豊富なんだな」
赤里が皮肉まじりに言うと、
「恋愛の経験はあなたと変わらないわ。私が今まで好きになった人は、赤里だけよ」
対するグリは真っ直ぐな瞳で応えた。
「恋愛は仕事とは違うんだから、経験なんてどうでもいいのよ。重要なのは、好きな人のために何かをしてあげたい、って気持ちよ」
ベクトルの向いている相手こそ違えど、彼女の言い分は赤里にも既に実感できていた。
しかし収まりのつかない感情の荒波は、彼の口を通じて外へ、意地の悪い言葉を送り出させ続ける。
「それで、グリは俺に何をしてくれるんだ。言っとくが、俺は君を欲しいとは全く思ってないからな」
が、すぐに顧みる。
そこまで口走った時点で、しまった、と思った。
一瞬といえど、グリに傷付いた表情をさせてしまったからではなく、ここまで好感度を維持し続けてきた努力が台無しになってしまうのでは、という危惧である。
「流れ星になってあげる」
「はあ?」
結論から言うと、赤里の懸念は杞憂に終わった。
むしろ逆に、茶禅の宣告によって消失してしまったと思っていた希望の灯が再点火する恩恵さえももたらしたのである。
「ロマンを理解できない男性はダメよ。あなたの願いを、半分なら叶えられる。そう言ってるの」
「半分? どういうことだ」
「いくら私でも、あなたと翠佳を結ばせることはできない。私個人の感情を抜きにしても、ね」
グリは声を落とし、人差し指を立てて赤里に顔を近付ける。
「……でも、明日の決闘で翠佳や青依を殺さず、お腹の子も助けてあげられる方法はあるわ」
「本当か!?」
どうやって、と方法を尋ねるよりも先に、赤里は食いついた。
「厳密には、青依を助けられるかどうかはあなた次第だけど。……あ、盗聴や盗撮の心配はないわ。私がもう調べておいたから」
と、グリは前置きして、
「方法自体はシンプルよ」
自身の手札を開示し、ごく短時間の説明を行った。
「……なるほど」
赤里は納得して頷く。
確かに単純かつ、最も有効な手段かもしれない。
「その提案、乗った。さっきは嫌味なことを言ってすまなかった」
「いいのよ。……それでね」
途端、グリの歯切れが悪くなった。
体をもじもじさせ、目を伏して長い睫毛をかぶせ、落ち着きのない動きをし始める。
彼女の体が熱くなっているのが触れずとも分かる。
水でもかければ、蒸発音と湯気が上がることだろう。
「赤里のお願い、聞いてあげるから……そ、その代わりにぃ……今夜は、そ、その……私達も…………あっちのふ、二人みたいにぃ……」
「……なるほど」
要は交換条件として自分とやれってことか。
"スイッチ"が入ったのかどうか知らないが、いつも以上にしおらしく振る舞いやがって。
赤里の心は冷えていたが、うかつに表へは出さない。
「ダメぇ……?」
「体力を消耗するんじゃないか」
「だいじょうぶよぉ」
咄嗟の反論も、あっさりと跳ね返されてしまった。
「うーん……」
オスならではの特性ゆえか、精神的な抵抗感はさほどない。
性交程度で大切な人間を救えるならば安い条件である。
問題は肉体的な部分。
先刻言い放ってしまったように、単純に彼女に対して欲情することができなかった。
また、その正確な理由が赤里には分からなかった。
少なくとも嫌悪の類ではない。
客観的に見ても、グリのことは美しいと思っているし、人間的に嫌いでもない。
想いが届かぬ女に操を立てている訳でもない。
思索が深くなり始めた時だった。
グリが赤里の肩を掴み、体をぐっと強い力で引き寄せる。
「考えている余裕はあるの?」
ぞっとするほど冷たい瞳と声。
恋に恋する乙女のような振る舞いはとうに消えていた。
「今の赤里に、二人を救う手立てが思いつくかしら?」
「……いい性格してるよ、君」
悔しいが言う通りだった。
グリは小悪魔のような笑みを浮かべ、赤里の左頬にそっと指を添えつつ、更に続ける。
「ねえ、どうして今まで私が、赤里に散々素っ気なくされても我慢してきたと思う?」
グリの指が、赤里の頬から顎、喉から胸元へと、羽毛のようなタッチで滑り落ちていく。
「全てこの時のためよ」
臍の下まで辿り着いたところで、手の動きが止まった。
「今夜は断らせない。こんな私にだって一応プライドがあるのよ。あなたに尽くしてあげたいとは思ってるけど、いつもいいようにやられっ放しになるのはイヤだわ。デリカシーのない言葉で傷付けた責任、取ってよね」
衣服越しに握力がかけられる。
今はまだ生卵も潰せないほど弱いが、これがいつ万力と化すか分かったものではない。
「……分かったよ」
気が乗らない理由を探すための自己分析よりも、親友たちの確実な救助が優先だ。赤里はついに折れた。
それに、苛立ちに任せてグリを傷付けた罪悪感がないでもない。
「上手く行かなくても文句言うなよ」
「あら、意外ね。初めてなの?」
「いや……」
赤里は言葉を濁す。
そのようなサービスを利用したことはあるが、金銭抜きでの経験はなかった。
だが問題はそこではない。
あまり欲情できない相手に、果たして適切に反応できるものだろうか。
「どっちでもいいけどね。私は赤里の全てを受け入れるから。素敵な夜にしましょうね! さ、まずは一緒にシャワーを浴びましょ? 私が隅々まで綺麗に洗ってあげる。赤里も私を隅々までスベスベにしてね」
まあ、頑張るしかないか。
喜色満面のグリが服を脱がし始めるのを無抵抗で受け入れながら、赤里は腹をくくる。