6章『色欲がもたらすのは、最後の夜か、最高の夜か』 その1
「今から君達三人は、普通の人とは違う世界で生きることになる」
「ちがう世界?」
「例えば、今までは『人を殺してはいけない』と言われてきただろう?」
「はい。人を殺したら、警察につかまっちゃうのよね」
「いたいのはイヤだしなあ」
「そうだ。国のルールで決められているし、相手に痛い思いをさせてしまう。だが、君達はこれからそういう仕事をしていくことになるんだ」
「せいぎの味方……ってこと?」
「いや、残念だが違う。もう少し大きくなったら分かるだろうが、正義も悪もない、ただの仕事でしかないんだ。辛いことも多いだろうが……」
「平気です」
「君は……」
「ぼくはやれます。痛くても、つらくても。今までよりはきっとマシなはずだから」
「……そうか。二人はどうだ?」
「ボクも……同じです。一生けんめい、がんばります」
「わたしも、やります」
「分かった。ならば、ここで約束しなさい」
「やくそく?」
「君達三人は、これから先、ずっと仲良く助け合っていくんだ。家族のように、兄弟のようにな。もちろんおじさんも、三人をできるだけ助けて育てていく」
「はい、わかりました」
「ボクたち、ずっと仲よしでいようね」
「うれしい! さっそく、新しい家族ができたおいわいがしたいわ!」
「そうだな、美味しいものでも食べに行こう。みんな、好きなものを言ってみなさい。今夜は新しい家族が誕生した記念日だ――」
「何が家族だ」
椅子に座っている青依は、薄暗い壁に向かって悪態をついた。
結局、信じていた恩師も親友も、あっさりと戦う道を選んでしまった。
いや、それは構わない、というか仕方がない。
その程度は青依も理解している。
立場上、それぞれ果たさなければならない義務があり、対する自分たちはそれを裏切った脱色者。
"あっさりと"戦いを決めてしまった所に、青依は苛立っていた。
それが青臭い、甘すぎる考えだというのも分かっている。
だが、それでも少しくらいは迷っている様を表に出してくれても良かったのではないか。
部外者が一人混ざっていたとはいえ、プライベートな場だったのだ。
監視の気配はなかったのだし、本音を出してもおかしくはなかったはずだ。
いや、それとも、始めから信じていたのは自分だけだったというのか。
だとすると、とんだ馬鹿を見ていたことに……
「暗い部屋にいると、ますます気分が暗くなるわよ」
翠佳の声と共に、間接照明だけが灯っていた部屋が一気に明るくなった。
二つのベッド、スタンド、観葉植物と、全体の輪郭がはっきりと姿を現すと、青依は顔を上げる。
私服姿の翠佳が、腰に手を当てて立っていた。
「まあ、実は根が暗いあんたにはお似合いの空間かもしれないけど」
「そーですね、でも仕方ねーから明るい翠佳様に合わせますよ」
青依の棒読みは単なるおどけであり、苛立ちや皮肉は込められていない。
「下らないこと考えてるんじゃないわよ。あんたはおかしくなんかないし、間違ってもないんだから」
翠佳は青依の向かい側の椅子に腰を下ろし、脚を組む。
二人の間にあるテーブルにはウィスキーと水のボトル、氷の入ったグラスが二つ置かれているが、中身はほとんど減っていない。
青依の方は単に一人で飲む気がしなかったからだが、翠佳の方は違った。
「そういや、今まで赤里と何話してたんだ」
少しだけ翠佳を貸して欲しいと、赤里から頼まれたため、席を外していたのだ。
「しょうもない下ネタよ」
「は? なんだそれ」
「あいつがあそこまでバカだとは思わなかったわ」
翠佳は呆れ顔で髪を払った後、薄い水割りウィスキーに口をつける。
本当はストレートで行きたいのだが、お腹の子への影響を考えると、そのような飲み方は慎んだ方がいい。
青依も翠佳にならい、ウィスキーをごく少量喉に送り込む。
彼女のものより更に薄い、もはやウィスキー水に近い代物だったが、それでも独特の焼け付く風味はしっかりと残っている。
パートナーのように酒豪ではないため、薄くせざるを得ないのだ。
茶禅から命令を下された四人はその後、明日の正午に行われる"決闘"に備えて、組織本部の近隣にあるビジネスホテルの部屋があてがわれた。
赤里とグリ、青依と翠佳、それぞれの組ごとに二つ。
ホテルからの外出はできないが、何故か相手との接触自体は禁止されていなかった。
戦闘行為に及ばなければ、との条件付きだが。
これらの理由についても、ついぞ茶禅が教えてくれることはなかった。
「あいつらしいっちゃらしいな」
青依の物言いは、やけに空虚だった。
「緊張してるのね。無理もないけれど」
翠佳はハイペースでグラスの中身を減らしていく。
ゆっくり飲みたくても、薄さと精神的な問題で中々抑えられない。
ならばと、空にする前に飲むこと自体をやめてしまう。
卓上にグラスを置くと、まだ溶け始めてもいない氷がカランと鳴る。
それを合図に立ち上がり、ベッドの上に膝をついて座った。
「こっちに来なさい。お酒なんていいから、ほら」
青依は言われるまま、街灯に引かれる蛾のように、翠佳の豊かな胸へと吸い寄せられていった。
谷間に辿り着くと、髪を指で梳かれる感覚が伝わってくる。
気持ちがいい。
それに何より、安らぐ。
「お前は本当に強いよな。やっぱり俺は、いつまで経っても弱いままみてえだ……情けねえ」
「いいのよ」
普段からは想像もつかないほど、柔らかで優しい響きだった。
「だから選んだの。青依のそういう、弱さをきちんと認めた上で強くあろうとする姿、嫌いじゃない……ううん、好きよ」
「翠佳……」
「でもね、一つだけ覚えておいて。私だって、別に強くなんかないわ」
青依は、はっとなって谷間から離れ、見上げた。
自分を見つめる最愛の人の、不安と怯えが入り混じった表情が、真冬の雪雲よりも重苦しくそこにあった。
にわかに申し訳なさが込み上げてくる。
「ごめんな」
そう言うと、翠佳は小さくかぶりを振って、
「私にもして」
とだけ言い、青依の胸に飛び込んだ。
鍛えて絞り込まれた肉体が物理的に彼女を受け止め、弱さを知っている精神が、精神的に彼女を包み込む。
そのまましばらくの間、言葉が止まる。
体温を分け合い、鼓動をシンクロさせ、互いの存在を確かめ合いながら一心に願い続ける。
死にたくない。生き残りたい。勝ちたい。幸せになりたい。
強い思いが、長い長いくちづけとして表れる。
この先、何が待ち受けているとしても、今という瞬間には関係ない。
少なくとも"今"だけは幸福だった。
そして幸福は、更なる"先"を欲動として求めさせるエネルギーとなる。
遠い未来にしてもそうだし、すぐ目の前の出来事にしてもだ。
青依がゆっくりと翠佳を引き離し、慈しみの上に更に別の感情を加えた手で、彼女の胸に触れる。
翠佳は微かな声を漏らし、身体をぴくりとさせたが、思い直したように青依の手首を掴み、一旦阻止した。
「悪い、嫌だったか」
「そうじゃなくて。……ねえ、本気で覚悟を決められてる?」
「ああ」
青依は断言した。
「もう誰も恨んだりしねえし、文句も言わねえ。赤里を倒して生き残ってやる。あいつだってきっと、とっくに同じ気持ちで覚悟してるんだろうよ。だから、あんな風に言ったんだ。……お前も、あの女に勝てよ」
「いい答えね。旦那様」
翠佳は、心からの微笑みを見せ、頷いた。
「私も約束する。必ずあの子に勝つわ。勝って、あなたと幸せになる」
「頑張ろうな」
「ええ、一緒に……」
翠佳は、青依の腕に体重ごと全てを委ねる。
後頭部に手を添えられ、そっとベッドへと寝かされていく……
――あれだけ煽ってやれば、少なくとも青依は戦えるようになるだろう。
ベッドの縁で前かがみになって腰かけていた赤里は、目を細めながら親友を思う。
脆い所を支える役目は翠佳に任せればいい。
いや、支え合う、というのが正しいか。
事ここに至っては、二人との戦いを避けることはできない。
ならばせめて、どちらが勝つにしても、遺恨だけは無くしておきたい。
自分はともかく、二人に未来があった場合、背後に影を落として欲しくはない。
できる限りのベストは尽くしておきたかった。
「ただいま」
静かに決意を固めていると、静かにドアの開く音がして、グリが部屋に入ってきた。
赤里は微動だにせず「ああ」とだけ返し、床に敷かれた絨毯の幾何学模様を見つめ続けていた。
今しばらくこの状態を続けていたかったが、グリはそうさせてくれない。
赤里に近付くなり、すぐそばに座って、頭を彼の肩に預ける。
「なんだ」
「だってぇ、さっきまでは中々くっつけなかったじゃない」
「くっつくな」
赤里の態度がいつになく素っ気ない。
親友との対決を翌日に控え、マイペースな赤里といえども流石にナーバスになっていることはグリも理解している。
しかし彼女は構わず、
「私がリラックスさせてあげる。あの時の夜みたいに」
赤里の腿を撫でる、吐息を耳元へあてるなどして、ますます距離を縮めてくる。
"あの時の夜"とは、虚しさを打ち明けた時のことを指しているのだろう。
赤里は深いため息をつく。




