㉒
食後、私たちはまた手をつないで北の塔へ向かった。
「じゃあ、また明日ね。
おやすみなさい、アルくん」
「え? ソフィー、どこに行くの?」
玄関前まで彼を送ったところで戻ろうとした私の手を、彼はぎゅと握って止めた。
「どこって、屋敷よ?」
「どうして?」
「どうしてって、私は屋敷に住んでるんだもの」
「僕たち、夫婦なんだよね?
夫婦は一緒に住むものなんじゃないの?」
「ええ、普通はそうでしょうけど、私たちは普通の夫婦ではないと思うわ」
「そうなの?
どのあたりが普通じゃないの?」
きょとんとした顔で首をかしげる彼は、やっぱり小さなアルくんみたいで可愛い。
だが、ここはちゃんとはっきりさせておかなくてはいけないところだと思う。
「アルくん、あなたが言ったのよ。
私を愛することはないって」
「……!」
がーんと音が聞こえてきそうなほど、彼は愕然とした表情になった。
「それに、あなたは稀代の悪女ディアナを妻にしたかったのでしょう?
私はディアナの異母妹ソフィーで、特に悪いこともしていない普通の女だわ。
あなたの望んだ妻ではないのよ」
「……そうだった。そういえば、そうだった……」
どうやら、そんなことはすっかり忘れていたらしい。
「ご、ごめんよ、ソフィー……
僕は、きみに酷いことをしたんだね……」
泣きそうな顔になった彼に、私は笑って見せた。
「いいのよ、アルくん。
少し大変なこともあったけど、私はここでの生活を気に入ってるわ」
私が大変だったのは、淑女教育を詰め込まれていた三か月間だけだ。
ロー様のおかげでヨランダとも手紙のやりとりができているし、本物のディアナも幸せに暮らしているらしい。
結果として、アルくんは誰も傷つけていないのだ。
「ソフィー、怒ってない……?」
「怒ってないわ。
最初は驚いたけど、それだけよ」
「僕のこと、嫌いにならない……?」
「嫌いだったら、一緒にお食事なんてしないわよ」
出会ってから今まで、小さなアルくんだった時も含めて、私が彼を嫌いだと思ったことは一度もない。
ただ、どう考えても普通の夫婦とは言えない。
「……僕、どうしたらいい?
ソフィーともっと一緒にいたい。
もっと仲良くなりたいんだ……」
彼のその気持ちは本物だと思う。
私に恋していると言っていたくらいなのだから。
だからこそ、私としては一定の距離をおきたいのだ。
「私はね、平民として育ったの。
だから、高位貴族の感覚っていまいちよくわからないの」
淑女教育で様々なことを学んだが、知識として知っているからといって腑に落ちているというわけではない。
理解できないことや、どう考えても理不尽だったり不条理だったりすることもたくさん教えられた。
口には出さないまでも、やっぱり私は骨の髄から平民なのだと逆に思い知らされたものだ。
「平民だとね、結婚するのはしばらく恋人としてお付き合いをしてからなの」
「うん、恋人っていうのは知ってる。
婚約者未満友達以上みたいな感じなんだよね」
彼は真面目な顔で頷いた。
「そうね。そんな感じよ。
恋人になってお付き合いをして、この人と幸せになれるかなってお互いに考えて、それから別れるか結婚するかって決めるの。
結婚って誰にとってもとても重要なことだから、時間をかけて慎重に見定めるのよ」
「うん、それもわかる。
離婚は結婚の百倍くらい大変だって、フローリスが持ってきた雑誌に書いてあった」
雑然とした室内に散らばっていた雑誌は、ロー様が持ってきたものだったようだ。
「私たちは書類上は夫婦になったけど、お互いのことを何もわかっていないわ。
仲良くなるには、そのあたりからやり直せばいいんじゃないかと思うのよ」
「恋人になるってこと?」
「いいえ、その前の段階よ。
まずは、お友達からってことにしましょう」
「おともだち……」
「知り合いからお友達になって、それから恋人になって、最後に夫婦になるっていうのが、平民の一般的な結婚までの流れよ。
私の養父母もそうだったって言ってたわ」
モーリス男爵家の厩番だったお父ちゃんは、近所の小間物屋で働いていたお母ちゃんに一目惚れして、頑張ってお友達になってそれからさらに頑張って結婚までこぎつけたという話だった。
お父ちゃんが私の理想な男性であるのと同じように、それが私の理想の結婚なのだ。
「お友達でも、今日みたいに一緒に食事はできるんだよね?」
「ええ、もちろんよ」
「ハグとキスは?」
意味はわかるが、よりによって彼の口からそんな言葉が出てくると思っていなかった私は面食らってしまった。
「アルくん、その意味わかってるのよね?」
「わかってるよ。
フローリスが持ってきた雑誌に、たくさん書いてあったから。
前はなんでそんなことしたいのかさっぱりわからなかったけど、今はよくわかる。
僕はソフィーとなら、ハグもキスもたくさんしたいよ。
恋するって、そういうことなんでしょう?」
「え、ええ……そう、だと、思うわ……?」
私もその方面は未経験なので、実際のところはよくわからないのだけど。
「ソフィーは、ハグとキスしたことある?」
「お父ちゃんとお母ちゃんとなら……」
あと、ヨランダともハグはしたことがあったな。
そのどれもが、彼が今言っているのとは意味合いが大きく異なると思うのだが。
「そうなんだね。
試しに僕ともしてみない?
ほら、案外平気かもしれないし、それは試してみないとわからないからさ」
期待に二色の瞳を輝かせる彼だが、さすがにそれは受け入れられない。
「な、なに言ってるのよ!
そういうのは、せめて恋人になってからじゃないと、無理!」
「そうかぁ、やっぱり無理かぁ……」
真っ赤になって言い返す私に、彼はわかりやすく落胆した。
「ソフィーがそう言うなら、今は諦める。
恋人になるまで我慢する!
でも、今みたいに手をつなぐくらいはいいでしょう?」
彼は私の手を両手で握って、懇願する。
「これくらいなら、まぁ大丈夫だと思うわ」
小さいアルくんの時もいつも手をつないでいたしね。
それに、全部ダメってことにするのも可哀想な気がする。
「よかった! じゃあ、今夜は手をつないだまま寝ようね!」
「ちょっと! ちょっと待って!」
私を塔の中に連れて行こうとするアルくんに、私は足を踏ん張って抵抗した。
「一緒に寝るのはダメよ!」
「でも、ハグもキスもしないよ? ただ隣で寝るだけだよ?
それでもダメなの?」
「ダメ! 絶対に無理!」
「夫婦なのに?」
「私たちは普通の夫婦じゃないでしょ!
だから、寝るのは別々なの!」
「そんなぁ……」
しゅんとした顔の彼に小さいアルくんが重なって見えて、絆されてしまいそうになるが、ここは負けるわけにはいかなない。
「ねえ、アルくん。
冷静になってよく考えてみて。
ここに、私がゆっくり眠れる場所があると思う?」
「え?」
彼はぱちぱちと瞬きをして、雑然を通り越して混沌とした室内を覗きこんだ。
「あなたは、いつもどこで寝てるの?」
「あそこにあるカウチで、毛布を被って……」
ぱっと見たところ、彼の言うカウチと毛布すらもどこにあるのかわからない。
きっと、完全に埋もれてしまっているのだ。
「そのカウチで二人並んで寝るなんて、無理よね?」
「……うん。物理的に不可能」
しゅんとした顔をしながらも、納得してくれたようだ。
「アルくん、明日の朝食の準備ができたら、また呼びに来るから」
「それまで、ソフィーとお別れなんだね……」
二色の瞳がうるうるとして輝いている。
それでも、彼はずっと握っていた私の手を放した。
「わかってる。我儘は言わないよ。
おやすみ、ソフィー。
また明日ね」
全身で『寂しい』と訴える彼に胸がきゅんとなったが、ここで留まるわけにはいかない。
「ええ、また明日。おやすみなさい、アルくん」
私は背中に彼の視線を感じながら、屋敷へと戻ったのだった。




