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国際探偵   作者: 宇佐美陣悟
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3/3

愛と法のフロンティア


                       七 

 フロンティア ― メキシコ国境から国道をものの三十分、時速六十キロで飛ばすだけで、ヘネラル・アベラルド・ロドリゲス国際空港の巨大ターミナルビルが前方に見えて来た。

「空席はあるかしら?」

佳織が心配そうな声で聞いてくる。

「ご存知と思いますが、成田への直行便はありません。ここから、メキシコ・シチーを経由して帰ることになります」

「ラ・ホヤの友達のケイコに電話を一本、入れていいかしら? 急にこんなことになって、きっと心配していると思うの……」

 佳織の携帯は、彼女のポーチからパスポート共に駿が拝借していた。当然、電源は切ってある。

おそらく、頼んだ弁護士や裁判所、そして前夫アントニオからの留守番電話のメッセージで一杯だろう。

「待ってください。電話して、今さら、何て言うのです? 今、あなたはアメリカの法を踏みにじって行動しているのです。

そんな気遣いは無用ですよ」

「そうよね……。確かに、そう。ところで、メキシコの空港で私たちの出国制限が掛けられてるって、ことはないわね?」

「実子誘拐罪でアメリカ司法当局が逮捕状を出した後、国外逃亡犯のリストをフランスのリヨンに本部があるインターポールに送るそうですが、一日、二日では対応できないでしょう」

 国境を越え、メキシコから日本に連れ帰るという計画も、その想定から来るものだった。

アメリカの行政も日本同様、ある意味、徹底したセクショナリズムだ。サンディエゴ郡裁判所が佳織に発した移動制限も、カリフォルニア州内の空港や長距離バス(コーチ)には事前通知されているが、国境を管理するイミグレーションや警備隊は連邦の管轄で州が直接指揮できない。

「は、インターポールって? あなた、まるでルパン三世にでもなった気分ね!」

 佳織はだいぶ気分が落ち着いて来たのか、軽く冗談を口にした。そういうあなたは峰不二子ですかと、突っ込んでやろうかと思ったが、駿は鼻を鳴らしただけで運転に集中した。

車はターミナルビル内の駐車フロアに侵入していた。駿のマキシマがビル内の螺旋道路を上がって行くと、幸運にも空きスペースがすぐに見えた。

バックで駐車を完了し、佳織と太朗も車外に出たところで、駿は言い知れぬ戦慄を背中に感じた。

― 誰かに見られている……!

「佳織さん、太朗君、もう一度、車に乗ってください!」

「えー? フライトまで、余裕ないんじゃないの?」

「マームぅ、タロウ、お腹すいたよぉ」

 駿は二人の問い掛けを無視してキーを回し、再びエンジンをかけた。佳織を運転席に座らせ、太朗を後部座席に押し込める。

「念のため、私が先に周囲を偵察して来ます。降りるのは、それからにしてください」 

パワーウィンドウを下ろし、怪訝な瞳を向ける佳織に駿は言った。佳織が頷いたのを見たところで、背後からメキシコ訛りの強い巻き舌の英語が聞こえた。

「そちらのセニョール、セニョーラ、ちょっとよろしいですか?」

 タイなしで黒のジャケットを羽織り、口髭を伸ばした中肉中背の浅黒い男が現れた。その後ろに、もう二人、別の上背のある男が立っている。全員、ラテン系の濃い相貌をしていた。

「いったい、何の用です?」

駿はスペイン語で答えた。

「ほぉ、スペイン語がお分かりですか? なら、ちょうどいい。その運転席の女性、カオリ・クラハシさんでしょう? 我々はメキシコ国家警察です。アメリカFBIからの要請で彼女を拘束せねばなりません。後ろのお子さんはタロウ君ですね?」

 あえてゆっくり目のスペイン語に切り替えて、口髭男が駿に尋ねた。

駿は男がこれ見よがしに提示した警察ワッペンを目の端に捉えてから運転席の窓に顔を突っ込んで佳織に耳打ちする。

「こいつらはニセ警官です。私が後部座席に飛び込んだら、すぐに発進してください」

佳織の顔がみるみる強ばるのが分かる。

「セニョール、早くしなさい。我々も手荒なことはしたくない」

「わ、分かりました。とにかく、そちらで話を伺いましょう。ちょっと、この子をチャイルドシートから降ろしますので……」

 駿は後部座席のドアを開け、片足を跨いだところで叫んだ。

「車、出して、今!」

 駿の悲鳴に近い指示を聴き終えるまでもなく、佳織がアクセルをめいいっぱい踏んだ。

前輪が床を削るような音をあげる。

 急発進した車が階下に向かう螺旋道路を曲がり切る前に、背後で何かが炸裂する音がした。リアガラスに亀裂が入ると同時に、車内に砕け散ったガラス片が降り注ぐ。

太朗が泣き叫んだ。

 駿はひびが入ったルームミラーに、銃を前方に向けて、駆け寄って来る男たちの姿が徐々に遠ざかるのを見た。

 ターミナルビルから車が出たところで、太朗が再び喚く。

「ああーん、マームゥ! お腹すいたぁ!」

「さっきから、うるさいなぁ! ママだって、すいてるの!」

 佳織の強引な車線変更に後ろのバスから大音量のクラクションが浴びせられる。

せっかく着いた空港から再び距離が遠のく。

「時枝さん、さっきの警察バッジでなぜ彼らが偽物って分かった?」

「いえいえ。メキシコ警察のバッジなんか知りませんから」

「じゃ、何でニセ警官って断言したのよ!」

「勘です。国を挟んでの手続にしては、動きが早過ぎます」

 いずれにせよ、本物の警察が突然、銃を発射するはずはない。 

「なんで、私たちが空港に来たって気づいたのかしら? まさか、レンタカー会社とアントニーの組織が組んでるとか……」

「会社が車のナンバーをアントニオ氏に教えていたとしても、向こうは我々が国境を抜けたと分かるはずはありません」

「メキシコの入管もアントニーと組んでて、このナンバーが国境を通過したら、彼に通知することになってるとか?」

「どうでしょうか」

駿はそうは思わない。それなら、逃走に使用する車がこれだと事前に知られていたことになる。佳織の言うとおりだとしても、空港での待ち伏せは偶然にしては出来過ぎだ。

 そもそも、相手は駿の存在自体を知らなかったはずだ。

佳織のドライビング・テクニックはかなり荒い。左右二車線を強引にジグザグ走行しながらスピードを上げて突っ走る。

「で、これからどうするのよ? いったい、どこに行くの?」

「とにかく、南に直進して下さい。エンセナーダに行きます」

「エンセナーダ? ところで、こんなフロントガラスにひびの入った車、乗っていて、怪しまれないかしら?」

 佳織の心配をよそに、対向車線からボンネットが半分裂け、エンジンが剥き出しになった大型車が横切って行った。

「とにかく、先を急ぎましょう。ここはメキシコなんです」

 ― そう、ここはメキシコだ。別の法が息づくフロンティアだ。


                       八

 国境の町ティファナからハイウェイを飛ばし、約一時間と少しでエンセナーダ市中央部に到着した。駿たちを乗せた車は市内を深く食い込んだ湾の南端にある突堤を目指していた。

 メキシコ国旗が掲げられた港湾管理事務所の目の前に車を停めると、駿たちは足早にビルの中へ駆け込んだ。すでに陽は傾き、季節的には暖かい西陽の優しい光が辺りを照らしている。

「武藤さん! 駐在所所長の武藤さんはおられますか!」

 ビルの三階にある三橋物産メキシコ・カリフォルニア地区駐在所の受付で駿は叫んだ。

すぐに割腹のいい初老男性が現れる。

「はい。武藤は、私ですが……」

「あ、お忙しい中、すいません。私は国際探偵の時枝と申します。大牟田前会長から聞いてます?会長から電話ありました?」

「はァ? 会長? えーと、あなたは一体、何を……」

 急に呼び出され応対すれば、会長がどうとか訳の分からぬことを言う若造に武藤は困り果てた顔をしている。

それもそのはず、三橋のような巨大国際企業で前任とは言え、会長職であった人間など雲上人だ。海外支社の末端が接触する機会など皆無だ。

 駿は目の前で大牟田の携帯電話へ直接、掛けた。

「ちょっと、大牟田さん! さっき、すぐに指示してくれるって言ったでしょうが!」

『おう、兄ちゃん、悪い、悪い。あんな、先に中南米地区担当取締役に連絡をつけてからやないと、あかんらしくて……』

「とにかく、こっちの担当の武藤さんと替わりますから、話をしてください。そして、指示してください! 今!」

 強引に携帯を押し付けられて、武藤は相手が誰か分からず、話を始めた。

それから、五分後、武藤が素っ頓狂な叫び声を発したのを駿たちは耳にした。駿は若干笑みを浮かべていたが、佳織は武藤の慌てぶりを見て、どうも落ち着かない様子だ。

 ― ティファナの空港に行けない以上、もうこれしかない!

 大牟田に頼るのは癪ではあったが、人の命には替えられない。

 駿は佳織親子を無事脱出させるためには使える物は何でも使おうと、すでに心に決めていた。


 三橋商船が所有する日本船籍のコンテナ貨物船‘かわち丸’の甲板近い急ごしらえの客室に駿たち三人はいた。三橋商船は三橋物産が全株式を保有する百パーセント子会社だ。

「本日、午後九時には出港しますので、それまで食堂室でご夕食でも、どうぞ。そこでパスポートもお返しします」

 副船長の柳井が客室に現れて、駿たちに告げた。日本の船舶法では貨物船でも十三名未満なら旅客運搬することができる。この船は通常、貨物のみを積むフル・コンテナ船だが、大牟田の特別な指示で駿たち三人をこれから日本の横浜港へ運ぶ。

「あー、やっと、ご飯だぁ。タロウ、お腹ぺこぺこだぁ」

 食堂室のテーブルに付き、出されたメキシカンピラフを太朗は大口を開けて頬張っている。柳井は地元の名物らしいフィッシュタコスとコーントルティーヤを運んで来てくれた。

「こちら、お三方のパスポートです。メキシコ入管での出国手続は終わっています。パスポートコントロールは以上です。でも、アメリカから入国の際、よくスタンプを取られてましたね」

 柳井が感心するのも無理ない。

通常、アメリカ側からメキシコに入国する際、入管にパスポートを見せることさえ要しないのだ。七十二時間の観光滞在ならメキシコの地に足を踏み入れた痕跡すらパスポート上、残らない。だが、それでは一度、米国に戻ったうえでないと他国へ渡れないのだ。

だが、駿はレンタカーの車両保険加入を理由に、メキシコ入管に入国スタンプを押させ、トラベラーズカードの申請も三人分、行なった。ティファナの空港から日本への直行便もないし、メキシコ国内で何か予期しない悶着があれば七十二時間などあっと言う間に越えてしまう。まさか三橋の貨物船で帰国するなど予想もしなかったが。

「十年近くアメリカ大陸にいたのに、まさかこんな大慌てで帰ることになるなんてね……。それより、あなたは聞かないのね」

 タコスを口に運びながら佳織が駿に探るような瞳を向けた。

「私が、あなたに何を聞かないって言うのです?」

「馴れ初めよ……。あのクソッタレとの。まさか私がアイツとそっちの趣味が合うとでも思ってた?」

「さぁ。それはないでしょうけど」

調べれば分かることだが、駿が解決すべきことには大して関わりのないことだ。

「今、考えるとバカみたいだけど、私、ハリウッド映画もハーレクインのありきたりなロマンス小説も大好きだったの。二十八のとき、彼氏と別れるわ、会社はクビになるわで、昔から大好きだった英語の世界に飛び込もうって一大決心したってわけ」

 佳織はこの期に及んで自分なりの言い訳をしたいのだろう。

「それが渡米のきっかけですか?」

「そう。来てすぐの頃は、とっても楽しかった……。毎週末に開かれる国際交流パーティ。モテにモテたわ。日本で、そんな経験したことない。でも、イエローキャブって言う、こっちの日本のコを揶揄するスラングも当然、聞いてたし、ガードは固いほうだったのに、結局、アイツとああなるなんて……最低よ」

 悔やみきれない過去の甘さ。

国際離婚の代償の大きさなど想像もできなかった若い自分に佳織は説教をしたいに違いない。

「どういう過去であれ、あなたの人生の結果が、隣にいる太朗君なのです。それだけは分かってあげてください」

 笑顔で励ます駿の言葉に弾かれたように、佳織はピラフを食べ続ける太朗の両肩を抱きすくめた。


 午後六時半。アメリカ大陸で見る最後の日没( サン・セット )を見ようと、佳織と太朗はデッキの外に出た。後部の舷側では、巨大なガントリークレーンが出港直前まで積載限界ぎりぎりまでコンテナを搬入する作業をしている。

騒音を聞きながらでも、二人には感慨深い日没だった。

とくにアメリカで全てを擲った佳織には、そう感じずにはおられないのだろう。

 その時、柳井が息を切らせて、階段を駆け上がって来た。

「すいませんが、すぐに艦橋の通信室に来てください」

 佳織、太朗、そして駿が柳井の後に続いて艦橋に入った。

「倉橋さんの元夫を名乗る男性から電話が入っています」

 一瞬、駿たちは言葉を失った。なぜ、ここが分かったのか。

 ハンドセットを持ったまま、船長が佳織に電話に出るか尋ねる。

腰にしがみついている太朗の頭をなでると、佳織はこわごわ電話に出た。

駿は瞬間的に電話をスピーカーホンに切り替え、通信室全体で会話を聞こえるようにした。

「ヘイ、アントニー。ほんとにしつこいわね、あんたって!」

『ふん、なぜ俺がお前たちの行く先々を知ってるか分かるか?』

「は、知らないわよ。あんた、犬みたいに鼻が効くんじゃない?」

『ふん、くだない冗談言うな。タロウが履いてる靴をよく見ろ。俺が、この前の面会日にやった物だ。それで居る場所が分かる』

「実の息子にそんな小細工までして尾行して、あんたって、最低最悪のストーカー野郎ね。でも、これでもう本当にお別れよ」

『逃がしはしねぇさ。お前たちが乗ってる船は出港できない』

 訛りの強い英語には違いないが、アントニオが言ったことは、確かに艦橋にいる全員が理解した。

 ― 出港できないだと? それは、どういうことだ……。

「船長! 左舷前方、二百メートル沖合、潜望鏡が見えます!」

 メキシコ人クルーの一人が双眼鏡越しに外洋を見て叫んだ。

「潜望鏡だ?メキシコ軍の潜水艦か? 演習など聞いてないぞ」

 艦橋の前面を覆うフロントガラスの先には夕陽で赤茶けた太平洋の海面が広がっていた。

クルーが報告してから、ものの数分後、黒々とした巨鯨のような船体が陽光で揺らめく水面を持ち上げて浮上した。

『船長、そっちの船長、聞いているか? すぐにカオリとタロウを俺たちに引き渡せ! この麻薬潜水艦が、そっちの舷側に付いて、メキシコ税関の臨検を受ければ、そっちは大損害だぞ』

 船長が絶句して、艦橋の前面に駆け寄って外を見た。全長四十メートルほどの軍事用にしては小柄な潜水艦が艦頭を‘かわち丸’に向け、徐々に近づいてくる。

カルテルが麻薬運搬用の潜水艦を所持し、カリブ海やメキシコ沿岸部で摘発されたことは多々あるが、こんな堂々と切り札を曝すだろうか。

駿は手持ちのタブレット端末を取り出し、MAXとコンタクトを取った。

[MAX、エル・パソ情報センターのシステムをハックして、今、エンセナーダ沖に浮上している潜水艦の写真を送ってくれ]

[ヘイ、シュン! アメリカ、メキシコ双方の麻薬取締機関が共同運営するサーバに侵入しろと? ギャラは高くつくぜ! ]

 駿はMAXの言い値に応じた。今はとにかく急を要する。

「船長、すぐに作業を中止して、出港準備に入ってください」

 潜水艦の浮上に動揺している船長に駿は声をかけた。

「おい、君、いくら三橋本社のお客さんだからって、そんな、」

「それから、ゴムボートを一つ、舷側に降ろしてください! 」

 次から次に無理難題を言う駿に、クルーたちが呆れ顔をする。

「時枝さん、いったい、どうするつもりなのよ?」

「いや、何、アントニオ氏と最後の直談判をします」

 すでに決意を固めた駿の顔を見て、佳織は口を閉ざした。


「あなた、アントニオ・ブラボさんですね? 私は佳織さんの代理人、国際探偵の時枝駿です。あなたと取引をしに来ました」

「取引だと? 早くタロウとカオリを出せ! それだけだ!」

 洋上に浮かべた駿のゴムボートのすぐ目の前に、艦首のハッチからラテン系のハンサムな男が顔を出した。

顔の下半分は無精髭に覆われているが、怪しい雰囲気の漂う色男に見えた。

「潜水艦で麻薬運搬するカルテルがこの地区の海軍、警察、税関を買収し、摘発を抑えていることは分かっています。しかし、その艦内にいる要人の存在を彼らに伝えればどうなりますか?」

「言ってることが全然、分からねぇな。とにかくタロウを出せ!」

「アントニオさん、あなたは騙されています。あなたのボスはビデオの収益権を太朗君に譲る遺書など準備していない!」

「なんだと! いきなり何を言う。ふざけるなっ!」

 アントニオが懐から銃を抜き、容赦なく撃ち放った。夕陽が乱反射するゴムボートすぐ傍の海面が水飛沫を上げる。

「ふざけちゃいない! あなたのボスは幼児(ペド)愛好者(フィリア)だ。太郎君をお楽しみの道具にしようとして、唆しただけだ。あなた父親として、太郎君を本気で彼に差し出す気か? それこそ狂気だ!」

「まさか! ボスが俺に嘘を? そんなこと信じねぇぞ!」

 明らかに狼狽しているアントニオが艦内へと視線を落とした。

 ― やはり、ボスであるフアレスの大物ベガも同乗してたか!

 予想は的中したが、駿は急に全身の肌が粟立つのを感じた。

[MAX、やはり、エル・パソにはデータを送らないでくれ!]

[おいおい。もうギャラは発生してんだ、シュン、手遅れだぜ]

[何だと!]

 直後に己の耳に達した鈍い轟音が、駿の視線をタブレット画面から前方の潜水艦へと戻した。すでにハッチは閉められ、アントニオの姿は見えない。

艦内でボスに詰め寄る彼の姿が駿の脳裏に浮かんだ。

浮上していたはずの潜水艦の吃水線が次第に上がり始め、遂には艦首までもが完全に海中に没した。無数の気泡が辺りの海面から泡立つ。

駿が首を伸ばし、海中をのぞき込むと、黒々とした海面の奥底に赤い炎の塊が僅かに見えた。

 ― え? まさか、沈んだ? そんな、まさかっ!

 眼前で急展開する事態に駿の頭が追いつかない。

[シュン、魚雷を撃ったのはメキシコ海軍だ。エル・パソで共同運営しているアメリカに感づかれる前に処置したらしい。

麻薬潜水艦の目的地はサンディエゴだった。メキシコ海軍の上層部も絡んでいたから証拠隠滅だろう。この潜水艦の持ち主はティファナの組織だが、今回は中国系不法移民の越境にフアレスがチャーターしたようだ、表向きはな。

が、実際はフアレス内部の権力闘争に敗れた大物幹部ベガがティファナに亡命するためにお忍びで乗り込んだ。僅かに残った子分と共に。まぁ、結局、誰が引き金を弾いたなんてことは、邪魔者が消えたフアレスには関係のない話なんだが……]

 MAXが送って来た情報を一通り見てから駿は舌打ちした。

 ― いや、結局この件で、引き金を弾いたのは、俺自身じゃないのか。

 駿は振り返ると、太平洋に沈む夕陽を船縁で浴びる佳織と太朗を見た。

佳織が白いハンカチを手に取り、海風に任せて棚引かせると俄かに放した。ハンカチは湾内の強風に煽られ、果てしなく海洋の真上を飛んで行き、やがて見えなくなった。

我が子を人身御供にしようとした実の父もまた太朗の眼には見えない別の世界へと消え去ってしまった。

太朗が世の中を理解できるようになったとき、佳織は今日起きた事をどのように説明するのだろうか。

それを考えると言いようのない悲しみに駿は打ちひしがれた。

水平線に沈む夕陽だけが、醜い世界を美しくしようと懸命に闘っているように見えた。


 佳織と太朗は、それから十日後、横浜港から上陸し、日本への長かった旅路を終える。

倉橋夫妻から託された国際探偵としての依頼はこうして無事、完遂された。


                     END

今朝がた、大牟田の手元に届いたロスアンゼルス・ポストの第一面にメキシコ・エンセナーダ港で起きた謎の海中爆発が大々的に報じられていた。

海上に浮遊している漂流物から推察するに、おそらくアカプルコを拠点にするカルテル保有の麻薬運搬用小型潜水艦との見方が強まっていた。また海中爆発音が聞こえた同時期に、付近海域でメキシコ海軍のフリゲート艦隊が、アメリカ政府に何ら事前通告なく、緊急洋上演習を行った件とアカプルコで休養を取っていたはずのフアレス・カルテル大物ロペス・ベガの消息が急に途絶えた件について、非常に不可解であると担当記者のコメントが添えられてあった。

『事故か? 自沈か? 麻薬カルテルとの癒着が明るみになることを恐れたメキシコ軍内部による意図的な撃沈か? 特殊部隊まで投入して洋上摘発をして来たメキシコ政府が公式見解を示さないのは本当に理解し難い』

新聞を折り畳むと、大牟田はゆっくりと大きく頷いた。彼はエンセナーダの全駐在員に箝口令を出していた。我ら三橋がこの騒動に表立って関わったことは何もない。

ただ、洋上でボート遊びをして遭難した日本人三人を引き揚げ、三橋商船所有のコンテナ貨物船に保護しただけのことだ。海軍がどういう意図で、どういう始末を着けたかは、まるで関係のないことだ、と。


 それから、あっという間に一週間が過ぎた。

芹沢が息を切らしてノックもせずに会長室に飛び込んで来た。大牟田は会長職を退いて久しいが、出社しているときはこの部屋で現会長よりも堂々とふんぞり返っている。

「会長、大変です! 城戸副社長のお嬢さんが、ナポリで連絡がつかなくなりました!」

「城戸の娘がかいな? その……ナポリにナポリタンでも食いに行っとんか?」

「いえいえ、ただの観光でしょう。それより、イタリアは誘拐の多い国ですからね。少し注意を払われておいたほうがよろしいかと」

「そうやなー。まぁ、何もないこと祈るが、いちおう警察庁の峯岸参事官に繋いでくれ。それと……あの、兄ちゃんにも連絡とっといてや」

「え、時枝にですか……? 倉橋さんの娘さん成功の件で、会長が特別ボーナスを差し上げて以来、あのバカ、また呑気に温泉にでも行っているようですが……」

「ええから、すぐに呼んでんか!」

 大牟田の怒鳴り声に驚いて、芹沢が部屋から飛び出していった。


「ウェイ? センセイ? まーだ、佐渡島から帰って来てませんけど!」

 自分の誕生日プレゼントは現金だと念を押していたのに、何もくれずに、一人で温泉に行った駿への恨み節を麗華は芹沢に電話で長々とぶちまけた。

 

 新潟県佐渡島のとある温泉宿に駿はいた。

露天風呂につかりながら、眼前に広がる日本海の遥か先へとぼんやり目をこらす。

 駿が生まれた後、両親の遅まきながらの新婚旅行はここ佐渡島温泉だった。祖父に幼かった自分を預け、付近の民宿に逗留した二人が神戸に戻ることは、その後、二度となかった。

 あれから三十年の月日が経つ。駿は一人、黙々と両親の足跡を追った。幾年もの歳月をかけ、調べた結果、まるで水の流れが高きから低きへ流れるように一つの結論へと向かっていく。

 ― 俺の両親は三十年前、この地で拉致された……。

 佐渡島北辺の温泉に身を沈め、日本海を目にする度に、駿の決心はさらに鋼のように強靭になっていく。駿の旅の終着点はまさに、そこなのだ。生涯を賭けても、必ず成し遂げる。

 ― 父さん、母さん、待っててくれ……。必ず、俺が救い出す。

 脱衣所に置かれた携帯が小刻みに何度も震えているのも気づかず、駿は湯船の中で大の字になって、大きく背伸びをした。

 世界を股にかけた新たな鬼ごっこが始まろうとしていた。 


                       了  



原稿用紙 百十四枚 




 備考:二○一三年、日本の国会はハーグ条約の締結を承認し、国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約の実施に関する法律を同条約に関する国内法として成立させた。

 これにより、翌二○一四年四月一日より、ハーグ条約は日本においても発効された。

 作品内容は、発効前の事案に基づいている。


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