自由への扉
四
人の神経を逆なでするように、何度も鳴らす呼び鈴に苛立ちを覚えながら、佳織はアパートメントのドアを開けた。
「グッド・モーニング、ミズ・クラハシ! 早速ですが、お子さんのタロウ君はいますか?」
ドアの外にはタイトな白いスーツを着た細身の黒人女性と、その背後には太った白人の制服警官が立っていた。
「い、いえ、いませんが、ついさっき、その友達に、」
「まだ朝の七時過ぎではありませんか? こんなに朝早く、どこのお友達に、大事なお子さんを預けたというのです?」
それを今、言おうとしているのに黒人女性は居丈高に言葉をかぶせて来る。
朝早く来て無礼なのは、お前たちだと思った。
「ラ・ホヤに住んでる日本人女性の友達です。私は九時から近くの顧問先企業で新システムのインストールに立ち会わないといけないので、今日は友達に来てもらい、太朗を預けました」
「ラ・ホヤ! また遠いとこに! あなた、反省されてますか?」
女性は自らの権威の源泉である身分証を提示しながら、佳織を睨みつける。一体、何様のつもりと佳織はパスを覗き込んだ。
― CPS(州児童保護局)? まったく、どういうことよ?
「でも、ここから五十マイルも離れてません。せいぜい二十マイルかな? それなら、裁判所からの許可は要りませんよね?」
「ミズ・クラハシ。今回は、その事でここに伺ったのではありません。あなたの元ご主人、アントニオ・ブラボ氏から、あなたに対するタロウ君への虐待調査が求められています!」
「虐待? そんなバカな、何を根拠に、いったい……」
「この前、面会した際、ブラボ氏が気づいたそうです。あなたが彼に朝食を与えない育児放棄をしているとか、行き過ぎた体罰で腕に痣があるのを見たとか。我々は州政府から任された警察権を行使してでも事実を確認せねばなりません」
「してません! 前夫 (エクス・ハズ) が何を言ったか知りませんが、断じて、私は虐待などしてません!」
正直、佳織は心当たりがないわけではなかった。
食べ物の好き嫌いや我ままばかり言う太朗の食事を抜いたことは何度かあった。注意したら、顔を背ける太朗を自分に向かせるために腕を強く握ったこともある。しかし、全ては愛情のなせる業だ。それが虐待などであるはずがない。本当に前夫は狂っている。
「お子さんを預けたお友達の住所と電話番号を教えて下さい。今から、確認に行きます。それと、お仕事が終わったら、当方にご連絡ください。局で調書を取りますので」
女性が振り返って頷くと、制服警官が前に進み出て、まだキャミソール姿の佳織の肩を押して部屋の中へ入って来た。
「ちょいと奥さん、失礼しますぜ」
「ちょっ、ちょっと! 何で部屋の中に?」
「まぁ、すぐに終わりまさぁ」
警官は胸ポケットからデジタルカメラを取り出すと、寝室からリビング、バスルームに至る全ての部屋と、クローゼットから冷蔵庫まで全ての扉という扉を開けて、写真を撮った。
佳織は警察を呼んでやろうかと受話器を上げた。しかし、自分の行動に何の意味もないことは、すぐに思い至る。
何を隠そう、今、部屋の中でのさばっているのが警察なのだ。
「太朗、早くこっちに来て、着替えるわよ! 今日はスクールなんだから、もたもたしないで!」
児童保護局の役人が来た翌日、佳織は半日休暇を取った。
シングルマザーには、育児に関する有給休暇が会社から年間四十日は保障されている。佳織は全日休暇にせず、あえて半日のみ休暇申請することで、年八十回を太朗のことで休みを取ろうと決めた。
佳織の居住区には無償の公立幼稚園はなく、月に三百ドルを投じて、週三回、一日に五時間、通えるプリスクールに預けている。満六歳になる太朗は今年の九月から小学生だ。
「もう半年もすれば、あなた、小学校へ行くのよ。靴紐ぐらい、自分で結びなさい」
「べぇ~~だ!」
太朗が片目をつむって、舌を出した。
まったく可愛さ余って、憎さ百倍とはこの事だ。もう少し時間があれば、練習がてらに自分で結ばせるのだが、地区のスクールバスに乗り遅れるわけにはいかない。自家用のファミリーワゴンは昨日、修理に出したばかりだ。
あいにく修理業者は代車を切らしていて、佳織はスクールに太朗を預けたら、そこで戻りのバスが出るまで時間を潰すつもりだった。
ふざけて紐を結ぶ足元をぶらつかせる太朗に、佳織が手の平を上げて見せると急に大人しくなった。その時、玄関の呼び鈴が背後から聞こえた。まったく昨日と言い、今日と言い、朝から騒がしい。
佳織はインターホンのボタンを押して、来客を確かめる。書留郵便の配達だった。配達員から受け取った瞬間、バスの到着時刻に焦っていた佳織の動きが一時的に止まる。
サンディエゴ郡裁判所からだ。太朗に関することに間違いない。内容が気になって仕方ない佳織はバスに遅れるのを承知で封を切り、折り畳まれた数枚の書類を中から引き出した。
― 合衆国市民タロウ・ブラボ・クラハシの母カオリ・クラハシの単独親権を父アントニオ・ブラボとの共同親権へ変更を求める調停手続開始日時のお知らせ! いったい、何よ、これ?
「マム、マーム! ねぇねぇ、また誰か、来てるみたいだよぉー」
太朗が自分の袖口を引っ張るまで、佳織は、ただ書類の中身に没頭して、部屋に鳴り響く呼び鈴の音すら耳に入らなかった。
ふと我に帰って玄関を見ると、太朗が慣れた手つきでドアのチェーンを外すところだった。
たった今、書面で目にしたばかりの前夫アントニオの名前が佳織の脳裏に凄まじい衝撃を与えて、眩暈と吐き気が同時に襲って来る。
― まさか、あいつが太朗を奪い返し来たんじゃ……?
気付けば、佳織は悲鳴に近い怒声を上げていた。
「こら、太朗! マムがOKしてないのに、勝手にドアを開けちゃダメよ!」
親の気持ちなど何も知らない太朗が物怖じすることなく、僅かに開けたドアの向こうに立つ相手に「おはようございます」と日本語で挨拶した。
それを聞いて、佳織は胸をなで下ろす。一番身近にいる佳織を始め、日本人っぽい雰囲気の人に、太朗は必ず日本語を使う。
つまり、来訪者はラテン系である前夫ではないということだ。
ドアを開けてくれたのは、年端のいかない少年だった。癖の強そうな茶色い巻き髪と愛くるしい大きな瞳が印象的な生まれながらのハンサムボーイだ。
駿はサングラスを外して、腰をかがめ、笑顔で少年を見つめながら挨拶を返した。
「やっ。おはようございます! 君は太朗君かい?」
「はい。ぼくはタロウ、五歳です。お兄さんはー?」
太朗の質問に駿が答える前に、奥から三十代らしき女性が出て来て、彼を自分の背後へ遠ざける。
女性のいぶかる視線が突然、現れた漆黒のスーツに身を包んだ若い東洋人 ― 駿の顔面を捉えた。駿は笑顔を崩さず、瞬時に女性を細かく観察する。
日本人にしては濃いメイキャップ。それに映える、くっきりとした目鼻立ち。陽に焼けた褐色の肌に、ウェーブのかかった茶色い長髪がよくマッチしている。
背こそ、さ程高くないが、充分、欧米男性好みのオリエンタルビューティだと思った。
「あの、日本の方ですよね? えっと、どこの、どなたです?」
「どなた? あ、ども! 私、国際探偵の時枝駿です! 倉橋佳織さんのご両親の依頼で東京から来ました。昨晩、こっち着いてからメールを送りましたけど……まだ、読まれてませんか?」
「はぁ? 国際探偵……さん?」
眼前の女性 ― 倉橋佳織は首を傾げたままだ。駿の予感はやはり的中した。面倒くさいこと、この上ない状況だ。
それから数分後、駿は倉橋親子を運転して来た車に乗せた。まずはサンディエゴ郡北辺にある太朗が通うプリスクールに向かった。車は、ロスアンゼルス国際空港に近い日産レンタカー系列店で借りた大型セダン、マキシマだ。渡米した駿が即、行動できるように芹沢が予め手配してくれていた。
「時枝さんが、車で来てくれて、ほんと、助かったわ。私の車、エンジンが不調で昨日、修理に出したばかりなの」
「えっと、私が来ること、ご両親から何も聞いてないのですか?」
「先々週、父母とは国際電話で話したけど、何も聞いてない。会社のメールは毎日チェックしてるけど、個人のは、まだ見てないわ。先週はとくに、いろいろあったから……」
日本人に会うのは久しぶりで嬉しかったのか、太朗は車の中で、はしゃぎっ放しだった。
彼をプリスクールに降ろして、駿は佳織と二人になると、自分がここに送り込まれた趣旨について、一から説明した。
それを聞いた佳織は、少しばかり呆気に取られているようだ。
「その、いろいろというのは、あなたの逮捕のことですね?」
「そ。距離制限で捕まったのなんて初めて。私を五十マイル四方の世界に押し込めて、あいつ、前の夫は私を奴隷扱いしてる!」
「確か佳織さんが逮捕されたのは、太朗君のお父さんと会う約束の日だったんですよね?」
「つまり、会わせなかった私が悪いとでも言いたいの?」
「いえいえ、そんなつもりは全く」
駿は軽く謝りつつ、サングラスを掛けた横目で右隣の助手席に座る佳織をちらりと見た。
黒のタンクトップの上から濃紺のデニムを羽織り、下半身は足首を絞ったブラックジーンズ。彼女は話し方もスタイルも、すっかりアメリカナイズされているようだ。
「実は、アントニーのヤツ、何度も太朗との面会をすっぽかしてるの。どうせ観光ビザでLA辺りに語学留学に来た日本人か東南アジア系の女のケツでも追っかけ回してるんでしょうけど。
ろくに養育費も振り込まないで、自分の主張ばっかりして!この前、私、分かってて、あえて面会を無視したの。まさか警察を動かすなんて思いもしなかったから。正直、親には心配かけたこと反省してるわ。いきなり娘がアメリカで逮捕なんて、きっと、びっくりしたんでしょうね」
「あなたの親御さんからは、早く日本に連れ帰って欲しいという依頼を受けているんですけどねぇ……」
角度が高くなってきた陽光がハンドルを握る駿の顔を正面から射す。サングラスで表情はある程度ごまかしてはいるが、さすがに声にこもった不安は隠しきれなかった。
「そりゃ、私だって帰りたい。でも、この国が許すかしら? もし、それで太朗を手放すことになるなら、私はここに残る」
いよいよ駿の悪い予感は、その通りになってきた。
完全に依頼者のフライング、リサーチ不足、コミュニケーションの欠如等々のオンパレードだ。
「全てはハーグ条約を結んでない日本が悪いのよ。私たちはそのとばっちりを受けてる。私の言ってる意味、分かる?」
「分かります」
駿は単調なハイウェイの先を見たまま頷いた。
ハーグ条約には、国際結婚が破綻し、一方の親が子どもを母国に連れ帰ったとき、その国の政府が迅速に今まで住んでいた元の国に戻すことが定められている。
二〇一二年現在、欧米を中心に八十七ヶ国が条約に締結している反面、多くの発展途上国は先進国の身勝手として締結を拒んでいる。
法は家庭に入らずの慣習が根強い日本もまだ条約に加入していない。だが、米国政府の圧力もあり、徐々に締結の方向に動いているらしい。
「日本が条約に加盟しないことで、私たちみたいな、アメリカで離婚した日本人が米国籍の子どもを国外に連れ出さないように、あらかじめ裁判所が出国制限、移動制限の命令まで出す始末よ……。私と太朗の名前は米国内の空港にリストアップされてる。前夫のサインがないと飛行機にも乗れやしない!」
「そういう事情を含めた上で、帰国される気はありませんか?」
「私は、リアリストなの。そんな二つ返事で決断できないわ」
ただ、時間が経てば、自分がどんどん不利になるのは佳織も分かっているらしい。
ここに来て前夫は面接交渉権を頻繁に求め、児童保護局に虐待通報までした。さらに佳織の単独親権を取り上げ、共同親権まで求めているとのことだ。
今朝方、裁判所から来た書類の件で、佳織はこれから砂浜に近いラ・ホヤに住む日本人女性の友人と会う。友人はアメリカ人の弁護士を夫に持ち、すでに米国市民権も持っているという。
聞きながら、内心、駿は焦れていた。
佳織の固い決意がないと、どんな完璧な脱出計画も絵に描いた餅だ。
佳織がラ・ホヤの友人家族と会っている間、駿は広い庭に車を停め、自分は降りずに残っていた。
タブレット端末を取り出し、フェイスブックのアプリから、ある人物の新着メッセージがないか確認する。
その男、MAX‐(・デ)Dはオンラインだった。
― まったく、このナード(オタク)はいつ寝てることやら。
[ヘイ、MAX、ワズアップ!]
[ヘイ、シュン! ハウズ・ゴーイン?]
駿の問い掛けに、ヴァーチャル世界の仙人はチャットウィンドウを開いて呼応してきた。ことのほか、ノリがいい。駿の依頼に対する見返りを当てにしてのことだろう
[依頼していたカオリ・クラハシとアントニオ・ブラボに関することで、何か目ぼしいニュースはあったか?]
[そうだな……。まず、カオリは当時二十八歳の二〇〇三年四月に観光ビザで入国し、ロスで短期の語学留学を経験して、同じ年の九月にFー1ビザで再入国し、カリフォルニア州立短期大学の情報システム工学に在籍。
二〇〇五年六月に、準学士号を得ている。そして、同じ年の十月にメキシコ国籍の米国永住権保持者アントニオと結婚、Kー1ビザを得て、再度入国。
二〇〇九年一月に彼女も米国永住権を得たが、同じ年の六月に離婚か。ふーん。この女は同じ年に何かしでかすのが好きだな。 学校を卒業して、いきなり結婚てのもクサいぜ。準学士程度の学歴じゃ、正規の就労ビザは取れなかったクチか?]
[MAX、それだけか? 佳織さんのことばっかりじゃないか?]
駿はまだまだ言い足りなさそうなMAXの個人的感想を無視して先を促した。その程度の情報なら、駿が事前に倉橋夫妻から聴取した内容と大差ない。日本を出る前に佳織の戸籍謄本と婚姻届記載事項証明も法務局から入手していた。書面に添付されているサンディエゴ郡裁判所発行の結婚証明書から、アントニオは米国籍ではなく、メキシコ移民であることも知った。
[シュン、悪いが、まだ入金を確認してないんだが……]
[今日中には、千ドル、振り込む]
[おいおい、シュン、冗談はやめてくれ。せめて五千だろう?]
[フィリピンの時と違って、今回、使える経費は少ないんだ。マフィア絡みのヤバい案件じゃない。何とか、それで頼むよ]
[は、知らぬが仏だな。よし、千ドル分の情報は、まとめてメールする。振り込み、急いでくれ。あ、それと、今度、メイド・イン・ジャパンのラブ・ドールで良さそうなのがあれば……]
駿はコメントバックせずに、無視してウィンドウを閉じた。だが、MAXの言う、知らぬが仏( イグノアレンス・イズ・ブリス )という皮肉だけが妙に心の奥底をざわつかせていた。
友人宅から出てきた佳織は微かに晴れやかな顔をしていた。
「ケイコの夫は、前夫側の弁護士アラン・ペリーのことをよく知ってた。ありもしない虐待をでっち上げて、やがて単独親権を狙うのがやり方みたい。でも向こうが勝つ可能性は低いって」
「友人の旦那さんも弁護士さんでしたっけ? 頼むんですか?」
「そうしようかと思ってるわ。正直、こっちの弁護士費用は安くないけどね」
駿はハンドルを握る手に思わず力が入った。二人は再びハイウェイに乗り、太朗のいるプリスクールに向かっていた。今、昼十二時を過ぎたところで、ランチはスクールで取るつもりだ。
「実際に、法廷で争えば、それなりに時間は要るでしょう?」
「そうね……。最低三ヶ月か、半年か……。今は分からない」
「私は一週間以内に、あなた方を脱出させる計画を考えていましたが」
ギャラのことを考えれば、それ以上は割に合わない。
「はぁ?一週間?無茶よ。仕事も何もかも、ほっぽり出して逃げろというの? 太朗は、日本人である私の子だけど、合衆国市民でもあるの。無理に祖国を捨てさせるつもりはないわ」
万事休す。結局、佳織の選択は彼女次第だ。
駿は唇を噛んだ。
五
駿は佳織親子を自宅に送り届けると、夕方には、サンディエゴの南側にあるベイエリア、コロナドのモーテルに入った。
西向きの窓からは沈みゆく陽に白浜が照らされ、光輝いているのが一望できる。設備は安普請だが、見晴らしだけは抜群だ。
佳織は結局、会社を全日休暇にした。家に戻るとすぐに友人ケイコから電話がかかって来て、午前中の話の続きをし始める。
所在なく立ち尽くす駿に、佳織は軽く手の平を振って、去り際の愛想笑いを見せる程度だ。
駿は途端にやる気を失った。
タブレット端末を操作して、MAXが送って来たメールの資料を確認する。内容は佳織と前夫アントニオの三年前の離婚原因に関するものだった。地元タブロイド紙の内容が大半だ。
― やはり、そうだったか……。しかも、これは酷いぞ。
ある程度、予想はしていた。佳織は前夫からドメスティック・ヴァイオレンス(DV)の被害を受けていた。
日本には、民事不介入の原則がある。だが、痴情のもつれから来るDVやストーカー被害などに関しては、強行法規で母子は特別に保護される。
一方のハーグ条約には他国に連れ出した子どもの元居住国への送還義務に母親のDV被害に対する配慮は一切、規定されていない。
つまり、暴力夫から逃げるために母親が帰国することと、子どもを自国に連れ去ることは全く別物と考えているのだ。
日本の法曹界がハーグ条約締結に難色を示すのも、ここにある。条約が発効すれば、みすみす暴力を奮う前夫に子を委ねなければならない。それが世界の、いや欧米の常識なのだ。
ジャケットを脱ぎ散らかし、ベッドに横たわってタブレットの画面を眺めていると、バッグの中から携帯のベルが聞こえた。
駿は持ち上げて画面を見る。
プラス81の国番号。日本からだ。
『兄ちゃん、わしや』
嗄れているが、妙に迫力のある声がする。
「大牟田さん! あれっ、日本の時差は大丈夫ですか?」
天下の総合商社、三橋物産前会長、大牟田金吾だ。
『こっちは朝の十時や。ちょうど、今、テレビでハーグ条約のことやっててな。ほんで、あんさんの事、思い出したんや。で、どないな按配や。倉橋さんの娘さんは連れて帰れそうかいな?』
駿はことの成り行きをかいつまんで話した。
駿の溜め息を聞いて、大牟田が叱咤する。
『なんや、兄ちゃんらしないな。えらい弱気やないか』
「だって、ご本人が帰らないって言うなら、仕方ありませんよ」
『ふん。でも、そっちにおっても、ええようにならんのは分かりきったことや。あんさんが、その気にさせるしかないで』
「うーん……それより、手持ちの経費が底を尽きそうですけど」
『何やて? で、なんぼぐらい欲しいんや?』
駿はMAX‐Dが提示した正規価格を口にした。とにかく、今は情報だ。それが佳織を説得する材料になるかもしれない。
『分かった。何も問題あらへん。すぐに芹沢に送金させる。頼むで、兄ちゃん。倉橋さんはわしの大事な囲碁友達よってな』
大牟田は大阪商人らしく、ときに計算高いが、その実、義理堅さは人並み外れている。電話を切ると、駿は若干、心の中の靄が晴れた気がした。背中からベッドに倒れこみ、仰向けになると、徐々に鮮烈な記憶が蘇ってきた。
神戸で生まれ育った駿は、上京先の国立大学を卒業後、商社マンとして世界に出るのが夢だった。
その夢の矛先は自然と日本屈指の総合商社、三橋物産に向くことになる。駿は二度、この巨大商社の就職試験に挑戦した。
それは大学卒業見込の年と、その翌年の二回。なぜ二回かと言うと就職浪人をしたからだ。
緊張しっ放しの最終面接を終え、急にもよおしてきた駿は、三橋本社のトイレを失敬した。
そこで遭遇したのが当時会長の大牟田金吾だ。
その反り返ったカイザー髭とつるりとした坊主頭ですぐに分かった。実務から引退しても、気まぐれで最終面接に顔を出すことがあるとは聞いていた。
面接に来る学生の顔など腐るほど見ているはずだが、大牟田は駿を覚えていた。
『あんさん、若いうちはもっと自分を磨きなはれや。本に書かれたことだけを覚えるんやのうて、本に書かれたことを外の世界に出て、自分の眼でしっかりと見極めるんや』
激励とも助言とも受け取れる言葉を駿に残し、ゆったりとした着流しの裾をはためかして男子トイレから去って行った。
三橋物産からの結果は、やはり不採用。
駿は自己研鑽の足りなさを痛感する。
駿に海外留学の経験はなく、帰国子女でもない。
誇れるほどの学歴ではないが世界を相手にビジネスをしたいという情熱は人一倍あった。
就職浪人中に半年間、カナダでワーキングホリデーを体験して、三橋を再び受けた。が、そのときも大牟田に『その程度の経験なら、まだまだその辺にようけおりまっせ』と一笑に付された。ムキになった駿はとうとう、青年海外協力隊に応募した。
半年にも及ぶ審査を終え、選抜された駿が送り込まれた赴任先はアフリカ大陸南東部の国、マラウイであった。
そこで駿は日本語と英語の語学講師、それに灌漑設備建設のボランティア活動に従事した。
駿は天性とも言える人懐っこさと好奇心から、マラウイでもとりわけ独自の仮面文化を持つ母系集団チェワ族に入り込んで生活を共にし、彼らの信頼を勝ち得た。外部の人間には簡単に心を許さないチェワ族にしてみれば、寝食を共にする奇妙な日本人、駿は存在そのものが特殊だった。
とくに部族の長、羽毛仮面の酋長に気に入られ、二年の任期が終わる頃には、彼の娘を妻にするよう懇願された。正直、娘は駿の好みではなかった。が、せっかく築いたチェワ族との絆を無にすることを危惧して曖昧な態度をとっていた。
任務終了の朝、涙のお別れもほどほどに、駿は急いで協力隊のジープに乗り込み帰国の途についた。
やがて、乾いた大地を伝う地響きが聞こえると、槍と赤い仮面で武装した部族の戦士およそ百人が砂煙をあげて走り寄って来る。その中央には酋長と勝手に駿の許嫁にされた娘がいた。
酋長が渾身の力をこめて、槍を投げた。空高く弧を描き、槍は駿の座る助手席のすぐ真横に突き刺さった。振り返ると、仮面の戦士たちが皆、槍を握った拳で胸を叩き、空を見上げて咆吼を上げている。
その猛々しい野性味あふれる別れの儀式をいまだに駿は夢で見るのだ。
日本に帰ると、駿は再び旅の準備を始めた。
明確な行き先も決めず、東南アジア、インド、中央アジアを経て、ヨーロッパを旅して行く。
ミャンマーでは危険地帯で取材する共同通信、フリージャーナリストの助手をした。パキスタン・アフガニスタンの国境地帯では民間軍事会社の下請け作業員として潜り込み、軍需物資をトラックで運んだ。ルーマニアで出会ったジプシー(ロマ)の家族とバルカン半島からドイツ、イタリアを経てスペインまで共に大道芸をしながら飲まず食わずの旅をした。
大牟田のたった一言に触発されて、駿は非常に極端な二十代を過ごした。そして、二十八歳になって、そろそろ真剣に将来のことも考えないといけないなと思っていた時に、フィリピンで大牟田と再び出くわしたのだ。
肝心の大牟田のほうは忘れていたようだが。
駿の旅は、実はまだ終わっていない。
もちろん、彼の旅にも終点はある。それは意外と近くて、かつ遠いところにあった。
六
駿が運転するマキシマは軽快な走りでインターステイト5号を南下していた。
助手席には佳織が、そして後部座席にはチャイルドシートに身を納めた太朗が親子揃って、静かな寝息を立てている。
運転席のカーナビゲーションを見るまでもなかった。
眼前に横幅百メートル近い巨大な鉄のゲートが視界に入った。ゲートの上部にはフロンティア・トゥ・メキシコの文字が見える。
ゲート傍のパーキングエリアに車を停めると、駿は一人、パスポートをつかんでメキシコの入国管理事務所に入った。
それから十数分後、佳織が大きく背伸びをしてから、欠伸を漏らした。少しばかり長い昼寝からようやく目覚めたようだ。
「ねぇ、ここ、どこ? そろそろ郡裁判所には着きそう?」
「いえ、真逆ですよ。ここはティファナです」
「ティファナ? はっ、何、冗談言ってるの? 午後二時までにサンディエゴ郡裁判所に着いて、アントニーが起した親権変更の調停申立に行かなくちゃ……ほんっとに、だるいわぁ」
佳織が目をこすりながら視線を窓の外に向けた。
スペイン語だらけの交通標識。サボテン。小汚い埃まみれの道路。辺りに漂う雰囲気が何か違うのは一目瞭然だった。
ここは、アメリカではない。
「ちょっと、車、止めてよ! ここ、メキシコじゃないの!」
「ええ、ここはメキシコ合衆国バハ・カリフォルニア州のティファナです」
駿は眩しい陽光をサングラスで受け止め、こともなげに言い放った。佳織はオーマイゴッド、と呟き、首を振る。
「いつのまに国境を越えたの? パスポートチェックは?」
「お二人がお休みの間に、私が一人でやっておきました。レンタカーの車両保険手続とトラベラーズカードの申請と共にね」
佳織が自分のポーチをまさぐり、ない、ないと息を荒立てながら言う。
すぐに駿の横顔を、きっと睨み、右肩を掴んで引き寄せた。
「おおっと、危ないなぁ。運転中ですから乱暴しないで……」
「ちょっとぉ、返してよ! 私と太朗のパスポート返してよ!
今日の裁判所手続で国籍証明として、提示するつもりだったのにぃ!」
「まぁ、嫌でも一時間後にはお返ししますよ。これから、ヘネラル・アベラルド・ロドリゲス国際空港に行きますから」
「空港? 一体、ど、どこに行くのよ?」
佳織が顔を歪めた。
「もちろん、成田です。今から東京に帰るんです」
サングラスをずらして駿は、下がった目尻をしれっと見せた。
「無茶、言わないでよ! そんな着の身着のまま、行けるわけないでしょ! 仕事もあるのに。うちの両親から何を頼まれてるか知らないけどね、太朗を無断で国外に連れ出したら、アメリカの司法当局から、私、実子誘拐罪で逮捕されるのよ!」
自分が発した誘拐という言葉に佳織は思わず苦笑していた。
今、誘拐されているのは、間違いなく彼女自身だ。
「ま、それはアメリカでのお話でしょう? あなたがメキシコ経由で日本に戻っても、向こうで逮捕はされませんよ」
「それはどういうこと? 日本とアメリカは犯人引き渡しの条約があるんじゃないの?」
「確かにありますが、それは米国籍の犯人が日本に逃げた場合です。あなたは日本国籍です。関係ありません」
「それじゃあ、太朗は、どうなるの?」
「太朗君は誘拐された側、犯人ではないです。またハーグ条約を結んでいない今、日本は彼をアメリカに帰す義務もないです」
ああ言えばこう言う駿の態度に佳織の苛立ちが肌で伝わる。
「と、とにかく、車をすぐ止めて! きちんと話をして!」
言われて、駿は車を側道に寄せ、急ブレーキを踏んだ。
佳織が上体を大きく前にかがませた。目は駿の横顔を睨んだままだ。
「あーあ、さっきのランチに入れた薬、量が足りなかったかな」
「ひょっとして……あなた、睡眠薬を使ったの?」
「はい。海外に行く時は、時差ボケ解消の必需品でして」
「まさか! 太朗にも?」
佳織は瞬時に後部座席を振り返る。
駿は微笑みながら頷いて見せた。佳織の眼は血走っていた。
「あなた、本当に無茶苦茶ね! 急に、今日が最後の滞在日で、お別れのランチをしたいって言うから一緒に食事したら、まさか、こんなことをするなんて! もう調停手続に完全に遅刻じゃない!」
佳織は腕に巻いた時計の針を目にして、力無くうなだれた。
駿は佳織の混乱を落ち着いて見ていた。
全て想定したことだ。
大牟田から経費の追加入金を得た駿は、すぐMAXに情報収集を再依頼した。
前夫アントニオ・ブラボとは、いかなる人物か。
佳織との直接の離婚原因だけでなく。背景全てを知りたかった。やがて、完全に情報を熟知した駿は決意した。佳織と太朗、二人をこの国に留めて置くことは危険であると。
結果的に騙すことになっても、とにかく逃げられる状況を作り出し、その上で彼女に選ばせる。真正面にアメリカの司法に与したとしても、あれが父親である以上、太朗は彼の野心の餌食にされる。
もし、佳織が一言、ノーを発すれば、全ての責任を自分一人で背負うことになる。駿はそれを承知でリスキーな賭けに出た。
大牟田との電話から七日後の今、その勝負が明るみになる。
「これ、もちろんご存知ですね?」
駿が懐から取り出したスマートホンの画面に、ある動画共有サイトが開かれた。
ブラックアウトの映像に再生ボタンがある。
「ジャパニーズ・セクシー・カオリ・ファックシーン……。ちょっと、やめてよ!」
佳織が勢い良くスマホを掴もうとしたが、駿は手早く画面を消して、懐に戻した。
佳織は後部座席を振り返った。太朗は心地よさそうに、まだ深いまどろみの中にいるようだ。
「あなた、あれ、見たの?」
深い溜め息を吐きつつ佳織が聞く。
「いちおう、確認はさせていただきました」
駿は努めて冷静に言う。
「ほんっとに、アントニーのクソったれ! まだ出回っていたなんて……裁判所命令で全部デリートさせたはずなのに!」
「このヴァーチャルの世界で完全に消えることはありません。そうでしょう……?」
佳織が前夫に起こした民事裁判はDV被害に対してだけの慰謝料請求ではなかった。
アントニオ・ブラボが所持する家庭内レイプの痕跡 ― その全てのデジタルデータの拠出と処分が州から求められていた。
離婚後に起こした裁判で法的には決着はついていたはずだった。だが、ヴァーチャル世界の奥深い闇の中で、男の野慾に組み敷かれた佳織のしどけない裸体が自分の意志とはまるで無関係に蠢き続けている。サイトを覗く全世界の傍観者たちに、何度も何度も視姦され、凌辱されているのだ。今もなお。
「あなたと彼の過去、そして選択に私が何か言える立場ではありません。ただ、分かってもらいたい。これは彼のビジネスだ」
十三歳だったアントニオは家族と共にメキシコからアリゾナへ不法越境を果たした。
翌年、レーガン政権のアムネスティ(特別恩赦)で移民永住資格が認められ、カリフォルニアに移り住む。
だが、最底辺の生活を強いられ、十代後半から刑務所を出入りするようになる。アメリカの刑務所を支配するのは法ではなく、暴力と同胞ネットワークだ。所内の秩序を拒めば、男でも肉体を弄ばれ、最悪、生命を落とす。
アントニオは自衛手段としてヒスパニック系ギャングに身を置いた。出所後、メキシコからのマリファナ密輸や中国の人身取引組織、蛇頭と組んでアメリカへの密入国者の手引きなどに手を染め出した。
佳織と結婚した当時、いや現在も、彼が一貫して手がける闇のサイドビジネスがある。街中でナンパした女性を近くのモーテルに連れ込み、セックスをする。部屋には小型のCCDカメラが複数台、別アングルで仕込んである。女性たちは、隠し(ヒドゥン)カメラ監視の中で自らのあられもない痴態が収録されているとは知る由もない。
極めて低予算でアントニオはノーカットのポルノ映像を量産した。これらの映像データはメキシコの麻薬組織フアレス・カルテルに納入され、撮影者である自分の存在をクリーニングした上で、また別の配信業者に渡される。
アントニオがターゲットにした女性は、ほとんどが日本人の短期留学生だった。
たまに韓国、中国、香港など他の東洋系もいるが、彼女らは行為に至れば露骨に金銭を要求してくる。その点、日本人は何も求めないという。旅先のちょっとしたアバンチュールで済まされるらしい。MAXがサルベージした彼と日本人女性とのメールのやり取りが、その全てを物語っていた。
「佳織さんは彼の職業は何だと聞いていましたか?」
「結婚当時は、ビルの内装工事をしてたけど……。自分では、俺はグラフティ・ライターだって誇らしげに言ってたわ」
グラフティとは壁やシャッターにスプレー塗料を吹き付ける落書きのことだが、ギャング・カルチャーの原点でもある。
「実際は、フアレス・カルテルの準構成員です。彼は、ただのチンピラを卒業し、四十歳目前の今、フアレス・カルテルの幹部になろうとしているのです。ある条件を満たすことで、ね」
「な、何よ、その条件って?」
「太朗君の親権を得ることです。それで彼は幹部になれる」
「ちょっと待って! 何で、そこに太朗が関係するのよ!」
「フアレスのある大物幹部が一つの遺言書を作りました。準構成員アントニオ・ブラボの実子、太朗君にスナッフ・ビデオ、レイプ・ビデオの収益権の全てを与えると。彼が太朗君の親権を得て、後見人となれば自動的に収益は彼が支配できます」
メキシコ麻薬組織の四強、フアレス・カルテルにはもう一つ別の顔がある。
アリゾナ州とメキシコ・チワワ州の国境を不法に越えようとする密入国者を標的にしたレイプが後を絶たない。組織が行うレイプはビデオ撮影という経済活動の一環なのだ。
無抵抗な標的を犯し、殺し、チェーンソーで四肢を切り刻み、酸でどろどろに溶かすところまで録画する。猟奇物を愛好する変質者は世界の至るところにいる。そして、それを販売し、入手する方法もネットを駆使して、いとも簡単に行える時代だ。
「なんで、年端のいかない太朗にそんなビジネスを巻き込ませるのよ……」
「大物幹部の気まぐれのようです。WBCで二度も優勝した日本のファンだとか。優秀な日本の血を欲しているらしいですね。もちろん、そんな違法行為を記した遺言書に法的な拘束力はない。しかし、どういう内容であろうとマフィアの世界でボスの言葉は絶対です」
何ら言い淀むことなく端的に答える駿に、佳織は完全に何かが抜け落ちた眼差しを向けた。
短い期間で、自分すら知らない前夫の過去と実像をよくもここまで調べたと驚愕しているのか、前夫に対する憎悪を思い起こして恨みが増しているのか。
「ねぇねぇ、マーム、お腹すいたよぉ~」
二人が幾度となく発した自分の名前を耳にして、太郎の目が覚めてしまったようだ。
「どうしますか? 今からアメリカにUターンしますか?」
佳織は押し黙っていた。
今、逃げればアメリカで築いてきた全ての物が失われる。仕事も、友人も、ビザも、信用も。
「ねぇ、ねぇ、マームぅ」
太朗がチャイルドシートのベルトを自分で外して、佳織の首に手を回して抱きついて来た。
佳織は振り向くと優しい手つきで彼の頭をゆっくりとなでた。
「分かったわ。すぐに空港に行って。お願い。私は、アメリカで全てを失っても、この子の将来だけは失うわけにはいかない」
佳織の新たな決意を聞いて、駿はエンジンをかけ、アクセルを全開にした。
加速する度に、自由への扉が近づいていた。




