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国際探偵   作者: 宇佐美陣悟
1/3

ワールド・チェイス         

 

  あなたの大切な人が海の向こうに消えたら、どうしますか?


 お金さえ払ってくれたら、世界中どこに行ってでも、お目当ての人を見つけて日本に絶対、連れ帰って来ます!

 それが国際探偵の売り文句だ。

 今日もまた地球の裏側まで行って、国際探偵は依頼された誰かを探している。


    序 

 朝から燦々と照らすカリフォルニアの陽光を浴びて、一人の男がパーキングエリアから出ようとする車に近づいて来た。

「イクスキューズ・ミー。運転免許証を見せて下さい」

 テンガロンハットをかぶった白人の中年は頭を屈めて運転席の窓を軽くノックした。ネズミ色の半袖シャツに黒ネクタイ、胸には金色の六芒星が光り、左肩に縫い付けられた所属腕章にはデピュティ・シェリフの文字が見える。

 ー サンディエゴ郡の保安官? 何よ、いったい。

 倉橋(くらはし)佳織(かおり)はパワーウィンドウを下げると免許証を言われるがまま提示した。州間高速道路( インターステート・ハイウェイ )の降り口でもない場所で提示を求められるのは余りに稀なことだ。わざわざ早起きして、ショッピング・モールで日用品の買い物を済ませたというのに、急いでいる時に限って、東洋人を目の敵にする鬱陶しい横槍が入るものだ。法の執行官である男に愛想笑いの一つもしたが、ハンドルを握る手には思わず力が入る。佳織は少し思い出すだけで苛立ちが、ぶり返して来た。今朝の太朗の機嫌は本当に最悪だった。

 昨晩、欲しがるビデオゲームを買うのは、まだ早いと突っぱねたら、それをいまだに根に持って自分に逆らっている。叱るだけで言うことを聞かせるのは余り好きじゃない。なだめすかして急いで着替えさせ、朝から時間もないのに、フレンチトーストも焼いてやった。それなのに、しつこく助手席では、ぶつぶつ文句を言い続け、ようやく疲れきって、居眠りを始めたところだ。

 どうも執念深いところは、あの男に似てしまったようだ。

「ユーアー・ジャパニーズ……カオリ・クラハシさん?」

「はい」佳織は空想を中断して顔を保安官に向けた。

「これから、どちらへ?」 

「えーと、SDSU( サンディエゴ州立大学 )です」

「お仕事ですか?」

 矢継ぎ早で聞く保安官の表情が読めない。

「ええ。私、クアルコ社のエンジニアです。大学と新しい移動端末の開発をしておりまして。家に戻るのは何時になるか分らないので、先にトイレット・ペーパーとかの買い出しを……」

「何時に戻られるか、分らない?」

「ええ」

 佳織はセクション・チーフのホセ・ロドリゲスの脂ぎった濃いヒゲ面が瞼の裏に浮かんで、吐き気がした。

 ー あのデブのゲイ野郎! 次、あいさつ代わりのボディ・タッチしたら、確実にセクハラで訴えてやるから!

 まだ朝日が顔を出していない午前六時には与えられた個室に一人陣取って、ホモセクシャルの動画サイトを見ながらデ・カフェを啜っていると専らの噂だ。聞くだけで身の毛がよだつ。

「車から、降りて下さい」

 保安官の冷たい声に佳織は我に帰った。

「え? ちょっと、私、急いでいるんですけど……」

 それでなくても、これから太朗をラ・ホヤに住む日本人の友人宅に預けに行かなくてはならない。遅刻などすれば、自分の失点をサディスティックにあげつらうロドリゲスの思う壺だ。

「さぁ、早く、降りなさい、ミズ・クラハシ。カリフォルニア州サンディエゴ郡裁判所から、あなたへの逮捕状(ワラント)が出ています」

 ー ええ? 逮捕状? なぜ? 私が万引きでもしたって言うの? いったい、なんのジョークよ、これは……? 

 聞き馴染みのないその単語は佳織を一瞬でパニックに陥れた。

「ゲッラウト・オブ・ユア・カー! ライト・ナウ!」

 保安官が腰のベルトに下げた拳銃に手を伸ばした。

 どうやら保安官が声を荒げているのは、ジョークでも演技でもないらしい。彼が出した大声で、助手席で気持ち良さそうに寝ていたはずの太朗が目を覚まして、大きく背伸びをした。


                     二 

 赤い仮面の戦士たちが、槍を持って追いすがって来る。その数は百人を下らない。戦士の一人が全身のばねを大きく使って、こっちに槍を投げつけた。太陽の光に照らされた槍の影が急降下して来た。自分が座る助手席に、槍が突き刺さった。

 ルームミラーに映る青ざめた表情を見たとき、いつも夢から醒めるのだ。こういう目覚めをする日は、たいていろくな事がない。分かってはいるのだが、タヌキ寝入りはもう限界だった。

 想像を絶する圧力が、時枝(ときえだ)駿(しゅん)の胸を締め付けていた。

「ほらほらほら、センセイ、起きて起きて起きて、起きろよ」

 眉間に皺を寄せて仰向けに寝ている駿の胸の上で、ぺたりと腰を下ろし、首を揺さぶる女性―(ハン)(リー)(ホワ)だ。朝から毎度、彼女の甲高い声を聞かされるのが、駿の一日の始まりだ。

「ほらほらほら、冷める冷める冷める。センセイのために作った麻婆豆腐が冷めるから、口に入れるよ」

 確か先週だったか、熱い豆腐の塊を覚醒し切っていない口元に押し付けられて、火傷したことがあった。

「わかった、わかった、起きるから、そこどけ!」

 麗華を押しのけて、六畳間の三分の一を占めているシングルベッドから駿は跳ね起きた。ベッドのすぐ隣にある小さなガラステーブルには麻婆豆腐の大皿がもうもうと湯気を上げて置かれてある。あと一分、起きるのが遅ければ、先週と同じ目に遭わされていただろう。

 ー なんでまた、いつもいつも朝から気合いの入った四川の郷土料理を俺に食わすかね!

 しかし、思い起こせば、それこそが、自分で麗華に提示したルームシェアの条件であり、東京下北沢にある『時枝国際探偵事務所』の秘書採用条件でもあった。

 月額、手取り十万円。住み込み要( 但し、所長である時枝駿の部屋で )。住居費として、月三万円を秘書報酬から差し引く。(ただし、炊事・洗濯・掃除など日常家事を行うなら、労働の対価として住居費・水道光熱費の支払いは免除とする。)

 安月給の上に、誰が好き好んで安普請に暮らす雇い主の私用に酷使されるのを望む者がいるだろうか。

 それが、いたのだ。朝から、やけに辛い四川料理を作る奴が。

 麗華が『あたし、その条件でいい! ここ住む! でも三万、払わない!』と言ったとき、提示した駿自身が耳を疑った。

 そもそも渋谷のハローワークで見かけたときは職探しに来たふつうの学生だと思っていた。まさか職にあぶれた中国人とは。

「センセイ、どうやら、お客が来てます」

 まだ目ヤニがこびりついた駿に無理やり茶碗と箸を持たせてから、麗華が玄関に視線を向けて、ぼそりと言った。耳をすますと廊下から、わざとらしい咳払いが聞こえる。

 駿は慌てて、玄関に走り寄ってドアを開けた。男の背姿がちらりと見える。

 駿の事務所がある木造アパート二階の共同便所で、細身の男が煙草を吸っていた。着古した灰色のトレンチコートに茶色い中折れハット。加えて薄暗い色付き眼鏡。自分では渋い大人の男を演出しているようだが、駿から見れば、ただただ親爺臭い。

「芹沢さん」

 駿に気づくと、振り向き様、芹沢恭三(せりざわきょうぞう)は吸いかけの煙草を洗面台に投げ捨てた。いちいち動作にこだわっているようだが、駿は全く気にしない。機嫌の善し悪し関係なく、いつも眉間に皺が寄り、落くぼんだ眼窩の奥に鋭い光をたたえている。

 芹沢を一目見て、多くのサラリーマンは彼を避けて通るだろうが、彼も実は歴としたサラリーマンだ。しかも、天下に名だたる総合商社、三橋物産の企業内弁護士と言うから恐れ入る。

「なんだ、今、起きたばかりかよ」

 芹沢はトレーナーに下、ジャージ姿の駿を見て鼻で笑った。

「んー、まぁ……。まだ九時ですよ」

「まだァ? もう九時、だろう?」

「とにかく、芹沢さん、部屋に入って下さい。ここは少し寒いです。中で麻婆豆腐でも食って温もりましょう」

「んん? 麻婆?」


「相変わらず、しけた生活してんな」

 特大の丼ぶりに麻婆豆腐をぶっかけた即席麻婆丼を二杯も平らげてから、芹沢はところどころ亀裂の入った土壁を見て呟いた。

 マグカップにコーヒーを注いで差し出した麗華の手の甲を包むようにして受け取ると黄ばんだ歯を見せて、にやりと微笑んだ。麗華は毛虫にでも触れたように怖気(おぞけ)た手を引っ込める。

「ま、彼女みたいなコスプレ好きの美人ニーハオちゃんが専属秘書とくりゃ、そんなに悪い暮らし向きでもなさそうだが」

 美人という芹沢の言葉に反応して、麗華は両手を腰に当て、胸を張った。

 秘書業務中の彼女は真紅のチャイナドレスを着る。冬場でも半袖、ミニスカートが基本だ。その服は、そのまま夜のバイト先でも着用する。着替える手間が省けていいらしい。

「それで、芹沢さんが、わざわざ来られた用件は何でしょう?」

 駿は顔を綻ばせた。話を聞く前から金の匂いを嗅いでいる。

「まぁ、ぶっちゃけ、お前に依頼だ。夕方四時、時間あるか?」

 駿は壁に掛けてあるホワイトボードのカレンダーを見た。

 三月二十日にだけ、花丸が付けられていた。麗華の二十三歳の誕生日だ。それ以外に書き込みは何もない。

「大丈夫なようだな」

 同じくホワイトボードに顔を向けていた芹沢が言った。


 午後四時。老夫婦二人は狭い玄関で立ち尽くしていた。遠慮しているのか、それともここに来たことに後悔しているのか。

 時枝事務所のビジネスとプライベートが混然一体となった雑駁な空間に足を踏み入れるのは、いささか勇気がいるようだ。

 タイなしだが、久々に黒のスーツを着けた駿が声を掛けた。

「あっ、倉橋さんですねェ? どうぞ、どうぞ。ちょっと汚いですが、どうぞ、どうぞ、お入りください。ささ、どうぞ!」

 駿は手前の四畳半部屋にあるソファセットへ座るよう二人を促す。駿が倉橋夫婦の着ていたコートを預り、ハンガーに掛けたところで、麗華がソファセットの中央にあるガラステーブルに、温かいプーアル茶を淹れた湯呑み二つを置いた。

 駿と麗華は手を動かしながらも、「まだまだ肌寒いですねぇ」「ここはすぐに分かりましたかぁ」とありきたりな話題を振りつつ、笑顔を絶やさない。だが、二人の反応は余りに薄かった。

「あの……」

 倉橋妻らしい上品に白髪をまとめた女性が最初に口を開く。

「はいぃ!」

 滑稽にも駿と麗華は二人一緒に返事をした。久々の依頼を逃してなるものかと前のめりになって顔を突き出す。

「私たち、三橋物産の前会長、大牟田(おおむた)さんから、こちらが国際探偵さんとして、とても実績があるとお聞きしたのですが……」

 遠慮がちにでも話をすすめる倉橋妻とは対照的に、倉橋夫はソファに腰を掛けるなり、薄目を閉じて腕を組んだまま、一言も発さない。微かに頷くのが見えるので眠ってはいないようだ。

「そうです、そうです。私、時枝国際探偵事務所代表の時枝駿が、経費と納得のギャラさえ、しっかり頂きましたら、全世界を股にかけまして、お探しの方を見事、連れ帰って参ります!」

 胸を張って宣言したつもりだが、二人の表情は全く晴れない。

「まず、時枝、先生は……今、おいくつでしょうか?」

 年輩の女性に先生と呼ばれて駿は一瞬、背中がむず痒くなった。隣に座る麗華がやたら自分をセンセイ呼ばわりするので、それに合わせたのかもしれない。

「えっ? まぁ、一九八〇年生まれの今、三十二です」

「あっ、そうなのですか……」

 倉橋妻が少し目を見開いた。ベビーフェイスというのは駿のためにある言葉だと会えば誰しも思う。とくに若い格好をしなくても二十歳そこそこの学生だと勘違いされることが多い。つまり、探偵稼業などという荒事とは無縁の若者に見られるのだ。

 逆に、四十代手前らしい芹沢はいつも五十代に間違われる。

「それで、今のお仕事は始められて、どれくらいでしょう?」

「まぁ、三年ちょっと、ぐらいでしょうか」

「先生は実績多数とお聞きしてますが、今まで何件ぐらいを?」 

「まぁ、十件ぐらい、いや、十五件ぐらいですかね」

 これは嘘。国際探偵の実績は今まで一件だけだ。月に一度来るかどうかの依頼は、たいてい行方不明のペットを探すなど雑用に毛が生えた程度の案件しかないのが現状だ。

「海外での行方不明者の捜索とか、そういう案件が主ですか?」

「そうです、それこそが、私が国際探偵を名乗るゆえんでして!」

 たった一度の経験だが、国際探偵としての駿のデビュー戦はなかなか凄まじく、またそれは、ある種の運命のようだった。   

 三年前、三橋物産前会長の大牟田金吾の実弟がフィリピンで行方不明になった。

 日本屈指の総合商社で副社長まで務めた男が勇退後、突如、フィリピンに渡った。

 マニラ支社長時代、現地に残した若い愛人と再会し、暮らすためだ。引退後、どんな第二の人生を歩むか、それは本人の自由。完全に社内実務から離れた弟を引き止める理由は何もない。ただ、兄弟の情は少なからずある。大牟田はマニラ支社の駐在員には度々、様子を見に行かせていた。そして、マニラに住み出して半年後、彼は忽然と姿を消した。

 巨大首都圏メトロ・マニラの高級住宅地マカティ市に実弟が愛人のために購入したコンドミニアムがあった。駐在員からの一報を聞きつけ、現地に飛んだ大牟田とそこで偶然、出くわしたのが、大陸浪人を気取った青年―駿だ。ヤシの木に囲まれた広大な邸宅の一部は、外国人バックパッカー向けのゲストハウスとして貸し出されており、駿はそこの長期滞在客だった。

 大牟田から事情を聞いた駿は実弟が足繁く通っていたナイトクラブを突き止め、彼が地下カジノで巨額の借金を作っていたことを知る。ナイトクラブの経営権は愛人が持っていたが、調べると、地下カジノを仕切る華人系フィリピン・マフィアの資金が注入されていることが分かった。いわゆる資金洗浄( マネーロンダリング )である。ほどなくして、三橋物産マニラ支社に一通の脅迫メールが届く。実弟の身代金五億ペソ、日本円にして、約十億円の要求だった。フィリピンでの賭博は認可を受けた国営カジノだけが合法。お遊び程度で済む市民の娯楽だ。反して、賭け率の高い地下カジノは犯罪行為。身内の恥を警察に晒せないはずだと高を括った誘拐犯の貪欲さが窺い知れる。

 だが、この送信されたEメールの解析で一気に事件は解決に向かう。駿は海外を放浪するうち、情報収集のためネット上で幾人かのハッカーと知り合いになっていた。駿は高額の報酬を提示したうえで、彼らに脅迫メールの発信源を探索させた。当然、不正使用のメールサーバがプロキシとして幾重にも中継されていたが、高い鼻薬が利いたのか、ハッカーの一人がメールを送信した端末を探知した。発信源の場所はフィリピン群島南端の海を越えた国外、インドネシア・カリマンタン島だった。

 誘拐犯グループと裏で繋がっていると思われる華人マフィアに偽情報を流すため、駿は三橋の社員になりすまし、愛人に近づき、うそぶいた。地下カジノの利権を裏で庇護する地元政治家は、もうすぐ汚職で逮捕される。関与を疑われる前にナイトクラブが蓄えている闇資金を全て別の銀行口座に移すべきだと。

 愛人はその通りにした。元々、彼女自身が華人マフィアの幹部で、実弟の誘拐をインドネシアの海賊にオファーしたのだ。

 闇資金の口座振替が終わるとほぼ同時に、実弟は解放された。

 送金先の口座をハッカーまで駆使して駿はすぐに暴いた。彼女がインターネットバンキングで処理した送金先の名義は、香港にある架空会社( ペーパーカンパニー )の口座だ。その代表は拉致された実弟だった。二人は結婚していないが、彼がもしもの時に備えて全財産をプールしていたのだ。

 その送金されたカジノの闇資金は十億円を軽く超えていた。拉致した海賊の監視下、実弟はカリマンタン島東部の港湾都市バリクパパンで口座から預金を引き出す。本社は自分を見捨てなかったとか、どうとか彼が言う適当な口裏合せなど、大金の山を目の前にした海賊にはどうでもいいことだった。現金を確保したところで、解放された実弟は三橋物産の現地駐在員に保護され、その日のうちに地元国際空港から日本へ帰国した。

 翌日のインドネシアの新聞に、でかでかと殺人事件の記事が載った。バリクパパンのコンテナ倉庫で男八人が死んでいた。現場に残されていた銃器から、死亡した五人はセレベス海に出没する海賊集団のメンバーと特定された。残り三人の身元は不明だが、中国系であることだけは判明した。

 その後、愛人の行方も杳として知れない。ただ、はっきりしていることが一つある。大牟田の実弟は無事、帰国できた。

 その全てを裏で取り仕切ったのが時枝駿だ。大牟田は駿の判断力、舞台度胸、語学力、情報収集力、全てを絶賛した。謝礼として、ぽんと五百万円を渡したのだ。加えて大牟田は言う。

『あんさん、これからも、この手のことでよろしゅう頼んます』

 その一言が、駿の人生を大きく変えた。実は、駿が世界に出て見聞を広めていたのは、日本の経済界の巨頭として名を馳せていた大牟田金吾と無関係ではなかった。だが、当の大牟田は駿との初対面のことなど、とうに忘れているようだった。


 駿は、この唯一の実績を倉橋夫妻に得意げに披露した。フィリピンでの一件は、正式に駿が国際探偵を名乗る前だ。だが、これを実際に解決した事件として宣伝していいものかどうかなどという迷いは微塵もない。とにかく、この件しかやったことがないし、他に実例はない。だからこそ、言い続けるしかない。

「いやぁー、あん時は、ほんとに冷や汗もんでした。誘拐を実行した海賊たちを始末したのは、闇資金の奪還を目論んだ中国系マフィアでしょう。そんでもって、こっちがターゲットになる前に、早々にフィリピンからおさらばしましたよ。一度狙いを定めたら、ああいう手合いはしつこいですからね。でも、ほんとに、無事に見つかって帰国できて、依頼者さんには、それが一番……」

「あの、先生がご活躍された話はようく分りましたから、私どもの依頼について、話を進めてもよろしゅうございますか?」

 いつしか、ただの自慢に転化していた駿の話を遮って、倉橋妻が少し身を乗り出した。キツい口調からして、密かに相当いらついていたのかもしれない。

「私どもが連れ帰って欲しいのは、私どもの一人娘です」

「はぁ、娘さんですか……えーと、どちらにいらっしゃいます?」

「娘、それと孫もです。二人は今、アメリカで暮らしとります」

 今の今まで目を瞑って押し黙っていた倉橋夫が突然、口を開いた。見れば、目の下に隈にできている。睡眠不足のようだ。

「わしらの娘、佳織はカリフォルニアのサンディエゴとか言うとこにおります。四歳になる孫、つまり、あン子の息子は、あれがアメリカで結婚した男との子どもでしてアメリカ国籍です」

「なるほど」つまり日本とアメリカの二重国籍ということだ。

「でも、もう娘は現地で離婚しとります。だから、孫と一緒に日本に帰って来なさいって言ってるのに、帰って来れんのです」

 倉橋夫は、いつしか膝の上に置いた拳を強く握りしめ、背中を小刻みに震わせている。

「娘さんが帰って来られない事情があるのですか?」

「佳織が言うには、ハーグ条約とかいうのに日本政府が締結しとらんので、もし、娘が日本に戻るなら、育てとる息子をアメリカに残さなにゃならんそうです。なんとも合点のいかん話で」

 ー ハーグ条約?

 駿に説明した倉橋夫妻も余り詳しくないのか、それ以上、言葉を足そうとしない。麗華が立ち上がり、事務机に置かれたパソコンに向かってキーボードを打った。ネットで検索している。

「センセイ、多分、これのことでしょ?」

 麗華が画面を回転させて指をさす。駿はざっと目を通した。

「えっと、なになに……。一九八三年にオランダのハーグ国際会議で採択され、発効した条約の一つ、国際的な子の奪取の民事面に関する条約のこと……? うーん、難しそうですね……」

 駿は長々書かれてあるウェブ画面を見ながら首をひねった。

「佳織はアメリカの男と離婚したとき、息子太朗の親権を取った上で育てとります。でも、月一回は父親と面会させないといけない条件が付きました。なんか、向こうの裁判所が決めたことによると、五十マイル、つまり住んでる住所から八十キロの距離を超えて、どこかに無断でを連れて行くと犯罪になるとか」

「犯罪ぃ? 実のお子さんをお母さんが連れてるのにですか?」

「はい。実際に、先週、佳織は太朗を連れて制限距離を超えたらしくて、地元の保安官に逮捕されたんです。その日は父親との面会日だったそうですが、すっぽかしたとかで、相手が怒って通報したそうです。FBIに連行されて尋問されたとか……」

「え、FBIですか!」

 何とも話が大仰なものになってきた。

「何とか、娘と孫をアメリカから日本に連れ帰らせることはできませんか、先生? 警察に相談しても、そういう制度なら仕方がないの一点張りでアテになりません。外務省にも足を運んだんですが、全然色よい返事をくれません。娘のいる国は北朝鮮じゃない。友好国である自由の国アメリカですよ。なのに、まるで檻の中に押し込められているみたいじゃないですか!」

 倉橋夫が興奮して語尾を荒げると、隣に座る妻が背中をさすり、懸命になだめている。

「ま、まぁまぁ、落ち着いて下さい。とりあえず、娘さん、お孫さんは向こうで行方不明ではないのですよね?」

 駿の問い掛けに夫妻がほぼ同時に頷いた。

「ちょっと、私としても調べさせていただきたいので、絶対、依頼を引き受けるとは、今、言えませんが……。あのぉ、いちおう報酬は最低でも、これぐらいというのは、ご存知ですよね?」

 駿は右手の掌を大きく広げて見せた。また夫妻が同時に頷く。

 一瞬、駿はごくりと生唾を飲み込んだ。背に腹は代えられない。でも、その前に芹沢に連絡を取る必要があった。


                        三

 午後十時を過ぎて、ようやく芹沢と連絡が取れた。

『おう、駿か。今日は法務部の会合が忙しくてな、同席できんで悪かった。早速だが、成田発ロス行の便が明後日の夕方五時にあるので、それに乗り込めばだな、次の日の朝十時には……』

「芹沢さん、ちょっと待った!」

 携帯から発する駿の怒鳴り声が先に来たので、芹沢が一呼吸を置いて、やれやれという感じで溜め息交じりに聞いてきた。

『……何だよ? 俺はお前と違って、忙しいんだ』

「この電話は依頼を受けることの確認ではなく、クレームです」

『クレームだと? 仕事を回してやったのに、何が不服だ?』

「あの……ギャラが安過ぎます! たったの五十万て! うちの事務所は最低、五百万からですよ! 必要経費モチ別で! 事務所のホームページにもちゃんと載せてます!」

『黙れ、のぼせ上るな。年中、暇を持て余しているお前には、五十万でも上等だ。いいか、依頼者をみんな、会長みたいな大富豪と一緒にするな。倉橋さんはサラリーマンをふつうに定年退職した年金生活者だ。五百万なんて金を右から左に出せるか』

「大牟田前会長のお知り合いなのに、お金ないんですかァ?」

『なんか近所の囲碁クラブでたまたま知り合ったらしい。とにかく、受けろ。そして、アメリカに行け。会長の顔を潰すな』

「強引だなぁ。ハーグ条約がどうとか結構、難しそうですけど」

『ふん。難しいもんか。会長の弟さんを救ったフィリピンの一件より十倍簡単。だから、ギャラも十分の一。これぞ、常識!

 だいたい、駿、お前、仕事もないくせにギャラをすぐ使い過ぎなんだ。この温泉マニアが。ったく、ジジイか、お前は?』

 決め付けがかった芹沢の口調に駿の昂奮がますます高まる。

 そういう芹沢はギャンブル狂いだ。

 彼が五百万を手にすれば、府中競馬場に行って、半日も持つまい。

 大牟田からの話では、かつて彼は自分の法律事務所を構えていた。

 六、七年前の過払い金請求バブルで大いに儲けたらしい。だが、顧客から預かったサラ金会社からの返還金にまで手をつけ、闇競馬に手を出し、身を滅ぼした。彼が三橋物産役員の隠し子でなければ、今頃、塀の中で、本職の人間相手においちょかぶでもしてるだろう。

「逆にお聞きしますが、どういうポイントが簡単なんですか?」

『まず、倉橋さん夫妻の娘さん、お孫さんの居所は掴めてる。行方知れずじゃないんだ。二人を飛行機にぶち込んで、日本へ連れ帰るというだけの話だろ? フィリピンのときみたいに、変な連中が追っかけて来るわけじゃない』

「でも、娘さん、FBIに捕まったって聞いたし……」

『そんなのとっくに釈放されてる。ただ父親の面会日に息子を会わせなかったから、相手がイラついただけだ。そもそも親権は母親にあるんだ。警察もずうっと張り付いて監視なんてできるか。何とか日本に連れ帰りさえすれば、もうこっちのもんだ。ハーグ条約に加盟してない日本は、父親がアメリカから追っかけて来ても引き渡すどころか、会わせる義務もない。強引に会おうとすれば、逆にアメリカ人の父親が日本の警察に捕まる』

「倉橋さんの娘さん、佳織さんですか? 彼女はアメリカを離れる決心は着いてるんですかね。それが一番、問題なんですけど」

『うるさい、しつこく食い下がるな。そんなの帰りたいに決まってるだろ。お前がちゃんと段取りを付ければ、帰るに決まってる。どうやって段取りを付けるかまで、いちいち俺に考えさせるな。会長は、お前の野生の勘と行動力に期待されてるんだ。そんなことも分からんのなら、国際探偵なんて今すぐ辞めろ』

「わ、分りましたよ。とにかくギャラは先払いでお願いしますよ! 命を張って異国に行くんだから、後でってのはナシです」

 現在、住んでる、オンボロアパートの家賃でも下北沢というだけで月四万五千円はする。もう家賃を滞納して三か月。電気代と水道代も正直、そろそろヤバい。今では同居してる秘書、麗華のほうがチャイナ系キャバクラのバイト代で懐は温かい。

 駿は大きく溜め息を吐きながら、結局、この久々の依頼はやらざるを得ないことに腹立たしさを感じた。とにかく、実績なのだ。それが国際探偵として後で役に立つ。

 その日は遅くまで、ハーグ条約についてネットで調べてから、目覚ましをセットして、自主的に起きれることを祈りつつ寝た。


 倉橋夫妻と面談してから二日後。駿はギャラの振込を指定先の銀行口座で確認してから、依頼遂行に着手する旨を電話で伝えた。

 芹沢が手配した航空機のEチケットのメールを印刷すると、一週間分の着替えとタブレット端末、パスポート、睡眠薬、それにバッグパッカーの指南書とも言える‘地球の歩き方・サンフランシスコとシリコンバレー’をキャリートランクに詰め込んで、昼の一時過ぎには部屋から出る準備が整った。

「あ、センセイ、もう行くのですか? 便は夕方なのに?」

 台所で煮炊き物をしていた麗華に呼び止められた。彼女は常に最低三日分の食材をまとめ買いして、節約に勤しんでいる。

「ああ。ちょっと品川に寄ってから成田に行く」

 二時半までに品川駅からのシャトルバスに乗れば充分、五時過ぎのロス行きのフライトに間に合う。

「これ、センセイ」

 麗華がハンカチで包んだ箱を差し出した。

「うん? 何だ?」

 察しは着いたが、いちおう聞いてみる。

「お弁当です。空港で食べて下さい。お昼代、浮きますでしょ」

「おお、気が利くな、謝謝!」 発音の悪い中国語で礼を言う。

「あの……今月分のあたしのギャラ、十万円、今、下さい!」

 まだ温かい弁当箱を両手で受取りつつ、駿は渋い顔を作った。

「お願いです。払って下さい。センセイが向こうで死んだら、あたし、今月お金来ない。大変ね。だから、すぐくれ。今!」

 温かい手元とは裏腹に、駿の懐は一挙に寒くなった気がした。


「お祖父ちゃん。行って来ます!」

 合掌したまま、しばし黙想していた駿は、目を開けてから、そう呟いた。桐の板で仕切られた狭いスペースには、祖父の遺骨が納められた骨壷と一筋の煙が上がる線香立てがある。

 自分を十八歳になるまで育ててくれた祖父への感謝は尽きる事がない。東京に住み始めて十年になるが、海外へ旅立つ前、駿は必ず、この納骨堂に訪れて冥福を祈る。場所は山手線品川駅に近く、ビルが密集するオフィス街の中にあった。

 遺骨の主である父方の祖父は無宗教だった。だから、墓も戒名も不要なのだと生前、耳が痛くなるほど、何度も聞かされていた。祖父が遺した財産など何もない。貧乏苦学生だった駿にしてやれる供養と言えば、今のような方法しかなかった。

 それでも、線香を上げ、合掌するとき、駿は祖父への感謝の気持ちをいつも忘れないでいようと心新たに誓うのだ。


 成田空港の国際線カウンターで搭乗手続きを終えると、駿は空港ラウンジに向かい、麗華が作ってくれた弁当を取り出した。

 中に汁物が入っているのか、箱を覆うハンカチが濡れて、ねとねとして気持ち悪い。その臭いから、蓋を明けるまでもなく、おおよその見当がついた。

 ー やっぱり、麻婆かぁ! 

 麻婆豆腐の下にご飯が敷き詰められているのかと思えば、チキンラーメンの乾麺がそのまま入れてある。余りのしょっぱさに一口、食べただけで喉が異様に乾いた。


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