弟子と告白
※※2章以降、程度に関わらず毎話性描写を含みます。
「霍 微明と、その同門の弟子には罰を受けてもらいましょう」
温 如晟の言葉に、裴 凛雪の目が鋭く細められた。
「……罰したところで意味はない」
「では、破門になさいますか?」
温 如晟は穏やかな笑みを崩さぬまま続ける。
「忘川観の門弟たちが被害に遭っていた可能性もあったのですよ。しかも相手は、人の生き血を啜る血鬼だ。処罰する理由としては十分でしょう」
「実害は出ていない。林宮主が未然に防いだ」
裴 凛雪は短く言い切った。
「未遂の罪で、未熟な子供を吊るし上げるつもりか? 」
その言葉に、温 如晟は小さく肩を竦める。
「裴師。これは言わば“見せしめ”です」
室内の空気がぴたりと張った。
「観を守るために必要な処置でもある。───外部の者が忘川観で悪念を撒き散らし、人に襲い掛かろうとした。それを師である我々が見過ごし、『次は気を付けなさい』で済ませたとなれば……門弟たちはどう思うでしょう」
温 如晟は静かに目を伏せる。
「しかも師は、白宵真人の弟弟子である林宮主です。寒霊山において、あのお方の名がどれほど重いか……知らぬ門弟はおりません」
その一言で、空気がさらに重く沈んだ。
「師は権威ある者には逆らえない。相手が高位の修士であれば、危険を犯しても不問にされる───そう疑う者も現れるかもしれません」
裴 凛雪の眉間に皺が刻まれる。温 如晟はその反応を見て、さらに続けた。
「その不信は忘川観の内部だけでは終わらない。里の者たちの耳に入れば、やがてこう囁かれるでしょう」
一拍置き、低く告げる。
「───忘川観は白宵真人を恐れ、血鬼を野に放った、と」
「黙れ!」
冷え切った美貌に、露わな怒気が走る。
「くだらん詭弁を並べ立ておって!」
裴 凛雪の声が更に低くなる。
「ならば柳 清揺のいた雅心宗はどうなる!? あの娘を守れなかった責は誰が取った! 挙げ句、追放までしたではないか! 彼女は当時、まだ十にも満たぬ子供だったんだぞ!」
「寒玉君、落ち着いてください」
温 如晟は呆れたように首を振る。
「細かいことを言えば、あれは雅心宗の外で起きた事件でしょう。今さら昔の些細な出来事を蒸し返して、何を責め立てるつもりです? 雅心宗に直接の落ち度は───」
「私が言いたいのはそこではない!」
裴 凛雪が怒鳴り返した。
「今回も“些細な出来事”の一つに過ぎない! 実害も出ていない件で、未熟な子供を見せしめにする気か!」
張り詰めた殺気が室内を震わせる。
「やめなさい」
穏やかな老人の声が、その空気を静かに鎮めた。
寒松老人である。先ほど忘川観へ戻ったばかりで、旅塵を払う暇もなく、この場へ呼び出されていた。
「裴師、温師。二人の言い分は分かる。だが今は、林宮主の御前ですぞ」
その一言で、室内に漂っていた殺気がわずかに引いた。
佐藤――林 香寧は、部屋の中央に静かに座していた。
腕の中には目を伏せた微明。その背後には、月澄と清揺を庇うように片腕を広げている。
清揺は佐藤の衣の裾を強く握り締めていた。指先は震えている。
その四人を囲むように、忘川観の師たちが居並んでいる。数十人に及ぶ視線と霊圧が部屋を満たしているにも関わらず、佐藤だけは弟子たちを隠すように座り続けている。
寒松老人は、なおも落ち着いた声で続けた。
「それに、血鬼が現れたきっかけは、うちの婉春女医にあったと聞いておる。密室に閉じ込め、薬で口を割らせたと聞いておる。……間違いないな、婉春女医」
「……はい」
葉 婉春は寒松老人の隣で俯き、唇を噛み締めていた。だが実際には、薬は意志を奪うほどのものではない。判断を鈍らせる程度の薬で、効力もすでに切れていた。
「加えて、昼間には裴師、温師の両弟子と、林宮主の弟子たちが打ち合いを行ったそうではないか。その際、悪念は一度でも漏れたか?」
寒松老人は静かに周囲を見回す。
「悪念が噴き出すのは、理性の箍が外れやすい戦闘時が最も多い。だが林宮主の弟子二人は何事もなく試合を終え、なおかつ勝利した。しかも、その場には多くの門弟たちがおった。証言はいくらでも取れる」
そこで視線を温 如晟へ向けた。
「必要ならば、実際に剣を交えた弟子を呼ぼう。温師」
「……しかし」
「廉を呼びなさい」
ぴしゃりと言い放った裴 凛雪に、温 如晟も首を縦に振るしかなかった。
やがて、景 煌瑛と謝 廉が部屋へ通された。
二人とも眠っていたところを急に起こされ、忘川観の師たちが勢揃いした異様な場へ連れて来られたのだ。さすがに表情には緊張が浮かんでいる。
だが、昼間の試合について問われた景 煌瑛は、すぐに背筋を伸ばした。
「はい。確かに私は謝と共に、林宮主のご高弟と打ち合いました」
真っ直ぐ前を見据え、堂々と言葉を続ける。
「実力差は明白でした。故に私は、本気で勝ちに行きました。……ですが、彼らは真正面からそれに応じた。剣を交えれば分かります。二人は全力でした。しかし悪念どころか、相手を害そうという歪みすら、一切感じませんでした」
その隣で、謝 廉も静かに口を開いた。
「……同意見です」
一度視線を伏せ、それから続ける。
「私は力量で劣っていたため、何度か意図的に挑発を行いました。怒りを誘い、冷静さを失わせようとしたのです」
部屋の空気がわずかに動く。
しかし、月澄と微明だけが気付いていた。そんな覚えは――ない。
謝 廉は明らかに嘘をついている。しかし、前髪で目元が隠され、真意を窺うことはできなかった。
「卑劣なやり方でした。ですが二人は乗らなかった。感情に呑まれることなく、最後まで己の剣だけで立派に戦い抜きました」
「“立派”などという言葉、私情が混じっているのではないか?」
温 如晟が薄く笑う。すると、裴 凛雪の目が鋭く細まった。
「温師。私の弟子に何か問題でも?」
一触即発の空気が走る。
寒松老人は軽く咳払いし、その場を制した。
「景 煌瑛、謝 廉。もうよい。二人ともご苦労だった。……今の証言を聞く限り、門弟たちの間に不安や疑念が広がる可能性は低いじゃろう。少なくとも、“制御不能な危険人物を野放しにした”という話にはなるまい」
そして改めて、温 如晟へ視線を向けた。
「……温師。これで満足かな?」
しかし温 如晟は、穏やかな笑みを崩さなかった。
「――いいえ。まだです」
裴 凛雪が口を開きかける。しかし温 如晟はそちらを見もせず、静かに片手を上げて制した。
「……我らは弟子たちの処分ばかりに気を取られ、肝心なことを失念しておりましたな。そうでしょう、林宮主」
その言葉に、背後の月澄が僅かに身じろぎする。佐藤は安心させるように彼の肩へそっと触れ、静かに息を吐いた。
「ええ。その通りです」
佐藤はまっすぐ前を見据える。
「弟子の責は、師の責。ならば私が罰を受ければよい」
場が静まり返った。
「それで温師の道理も立つ。忘川観の面目も保たれる。……万事、丸く収まるのではありませんか?」
「師匠──」
「月澄、黙っていなさい」
「っ……」
月澄は苦しげに顔を歪め、師の髪を編み込んだ三つ編みを強く握り締めた。
その様子を眺め、温 如晟が乾いた笑みを漏らす。
「……実に美しい師弟愛だ。さすがは“三煞”を従えた名高き渡雲香君。人ならざるものの御し方には、随分と慣れておられるらしい」
「貴様……!」
裴 凛雪が鋭く声を荒げた。三煞は昔の三人への忌み名だ。佐藤は小さく笑った。
「温師。そんなに私の弟子たちが気になるのでしたら、こうしましょう」
佐藤は穏やかな声音のまま続ける。
「彼らにも共に罰を受けてもらいます」
周囲の空気が揺れた。裴 凛雪は奥歯を噛み締めた。
「視界を閉ざし、耳を塞ぎ、口も鼻も封じる。さらに手足を拘束し、高位の結界内へ一晩置く。そうして己の内側と向き合わせ、悪念の発露を制御させる。……それに、結界の中であれば悪念が外へ漏れることもない。見せしめとしても十分でしょう?」
温 如晟が満足げに頷いた。
「実に良い。これならば“私が罰を強請った”などと、裴師に責め立てられることもない」
その瞬間、裴 凛雪の視線が鋭く佐藤へ突き刺さる。佐藤は気づかぬふりで、静かに続けた。
「では、どなたか術を施す手伝いをお願いできますか」
そこでふと、思い出したように言葉を止める。
「……ああ、そうだ。耳を塞ぐ前に、一つだけ」
佐藤はゆっくりと温 如晟を見上げた。
「先ほど、“三煞”と仰いましたね」
穏やかな声音だった。だが、その場にいた誰もが、空気の温度が下がったのを感じた。
「一体、彼らの何を見て、そう呼ばれたのです?」
「……」
「まるで最初から、私の弟子たちを“災い”と決めつけ、罪人に仕立て上げたいように聞こえてしまいますが」
温 如晟の笑みが、ほんの刹那だけ消えた。しかし次の瞬間には、何事もなかったかのように柔らかな笑みを浮かべていた。彼は佐藤たちの前へ進み出ると、ゆるやかに衣を払って深く一礼する。
「……これは失言でした。林宮主、並びにご高弟方へ、お詫び申し上げます」
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「……どうして出てきたんだ」
微明が弟へ声を掛ける。しかし返ってきたのは、ますます酷くなる泣き声だけだった。
「兄様! 分かってる! 全部僕が悪いんだ! でも、しょうがないだろ! 怖かったんだ! 本当に怖かったんだ! ……でも兄様も悪い! 僕の首を絞めてでも止めるべきだった!」
「何が怖かったんだ?」
微明は、努めて穏やかな声を出した。まるで師の口調を真似るように。
「ゆっくりでいい。兄様に話してごらん」
「怖い! 怖いんだ! どうして分からないの!? 僕がこんなに怖がってるのに……兄様は、僕のこと何も分かってくれない! 」
二人は霊核の内側――魂の深奥で言葉を交わしていた。
微明には、二筋の癇癪混じりの声が常に聞こえている。唯一、静かになるのは湯に浸かっている時だけだ。母の胎内を思い出すのか、湯に揺られている間だけ、二筋は幼子のように甘えてきた。
だが今、その声は怯え切っている。まるで、目の前まで恐怖が迫っているかのように。
「はっ……は、ぁ……アイツ、アイツは酷い……僕が出なかったら、兄様まで食われてた……」
「アイツ……?」
「……人間なのに……鬼を、何十匹も食ってる……」
微明は息を呑む。
「誰のことを言っている?」
責めず、急かさず、根気強く問い掛ける。師がいつもそうしてくれたように。
「わ、分からない……たくさんの人とすれ違って、そいつの霊気しか覚えてない……でも、鬼の血の匂いがした……いっぱい、助けてって声がしてた……アイツ……どうして人間……いや、人間のフリをした、化け物……」
二筋は縋るように声を震わせた。
「兄様……怖い……怖いよ……兄様、抱きしめて……」
微明と二筋は、一つの肉体に宿った二つの魂だ。こうして言葉を交わすことはできても、互いに触れ合うことはできない。
「……兄様……」
二筋の泣き声は、幼子のように弱々しかった。
「お腹の中で、一度だけ僕を抱きしめてくれたでしょ……お願い……もう一回だけ……最後にするから……」
二筋は、またしゃくり上げるように泣き出した。けれど微明には、その願いを叶えてやる術がなかった。
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月澄が目を覚ました時、そこはすでに雲香宮だった。
薄く目を開き、まだ靄のかかった頭で記憶を辿る。忘川観で罰を受けるため、五感を封じられ、四肢を拘束され――そこから先が曖昧だった。
体を起こさず、視線だけで師を探す。ほどなくして、衣擦れの音が近づいた。
「起きた? お粥あるよ」
仰向けの視界に、師の柔らかな笑みが映る。月澄は口を開きかけた。だが、何も言えなかった。その月澄を見て、佐藤は頭を撫でた。
「まだ痛い……? お粥は沢山あるから、まだ寝てていいよ」
月澄は才ある者だった。剣も、術も、学も、人より遥かに早く身につける。己より強い者など、そう多くはないと知っていた。いつかは神すら斬れる――本気でそう思っていた。
だが、忘川観での自分はどうだった。ただ怯え、震え、師が前へ立つ背中を見ていることしかできなかった。
月澄に怖いものなど無い。ずっとそう思っていた。けれど今、初めて理解した。自分には、師を守れる力がない。その事実を認めることが、何より恐ろしかった。
回復した三人は、久しぶりに師と同じ卓を囲んでいた。それぞれ好物が並べられている。だが誰一人として、箸は進んでいなかった。ふいに、佐藤が明るい声を出す。
「さて。三人が今考えてることを当ててみようか」
三人の肩が僅かに揺れた。だが誰も口を開かない。
「私がどんな罰を受けたのか、気になってる。……違う?」
「師匠……」
微明が堪えきれず声を漏らす。だが佐藤は慌てたように手を上げた。
「待って待って。まだ答え言ってないでしょ? 今から言うから、心して聞くように」
弟子たちは息を呑む。そして佐藤は、わざとらしく胸を張った。
「正解は――石の上で一晩正座、でした~! 」
ぱちぱちと自分で拍手までしてみせる。弟子たちは誰も笑えなかった。分かっていた。師がわざと明るく振る舞っていることくらい。そして、こういう時の師ほど、無理をしていることを。
「……本当だよ。ほら、どこも痛くない」
佐藤は笑ったまま両手を広げる。だから弟子たちも、その嘘に乗った。それが師の優しさであり、愛情なのだと、もう嫌というほど知っていたから。
「……はい、師匠」
微明は静かに頭を下げる。
「不甲斐ない弟子で、申し訳ありませんでした」
二筋の分まで含めて謝る。すると佐藤は、微明の好物を小皿へ取り分けながら、困ったように笑った。
「いいんだよ、そんなの」
その声音は、どこまでも優しかった。
夜。
微明は木の上にいた。
雲香宮から少し離れた木だった。静かで、一人になれて、風が気持ちいい。微明は昔からこの場所が好きだった。草木の匂いに包まれながら目を閉じる。まるで自然へ溶け込むように、静かに呼吸をした。反省しているのか、最近二筋は大人しい。
気が向くと、時折雲香宮の方を見る。居間の窓には、師と同門弟子たちの姿が映ることがあった。笑ったり、怒ったり、くだらないことで喧嘩したり。微明は、それを見ているだけで満足だった。自分は、あの輪の中へ入らなくてもいい。三人がそこにいてくれるだけでよかった。
こちらへ向かってくる足音がした。気づかないふりをしていたのに、遠慮のない客人たちは当然のように木へ登ってくる。
「阿明」
「……責めに来たのか」
「違うよ」
清揺は微明の隣へ腰掛け、そっと手を握った。
「一緒に反省しに来たの」
微明が目を伏せる。
「月澄と話したの。弟子の責任は師匠の責任。でもね、同門弟子なんだから、私たちにも責任あるでしょ? 今までも、これからも」
「……お前たちがどうにか出来たことじゃない」
「いや、出来た」
月澄が即答する。
「お前の腹を殴れば、一発だった」
風が吹き、三人の長い髪を揺らした。出会った頃より、ずっと伸びている。
「でもそれはそれとして、二筋は殴らせろ」
「……分かった」
「もーやめて……また悪念だ何だって言われちゃう……」
三人の間に僅かな笑いが零れた。けれどその後、不意に月澄が呟く。
「どうしたら、もっと強くなれると思う? 」
微明と清揺が彼を見る。月澄は夜空を見上げたまま、低く続けた。
「それこそ、周りの目なんか、どうでもよくなるくらいに。世界を壊せるくらいに」
金色の瞳が静かに揺れていた。
「阿澄……」
清揺の声が震える。
「変なこと、絶対しないで……お願い……」
そのか細い声は、夜の闇へ溶けていった。冷えた空気が頬を撫でた。
その時、不意に雲香宮の窓がからりと開いた。ただそれだけなのに、弟子たちの胸には、まるで暖かな灯がともったような気がした。
「三人ともー!」
師の声が響く。
「もう暗いんだから帰っておいで! そんなところで寝たら風邪ひくよ!」
三人は顔を見合わせ、小さく笑った。木から飛び降り、雲香宮へ向かう。その時だった。
ふいに、誰かの声がした。
「白宵師伯を頼りなさい」
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佐藤は困っていた。
財布代わりの袋をひっくり返して数え直してみても、やはり金欠だった。
(売るか、白宵からのお土産……)
溜息を吐きながら居間へ降りると、台所の方から物音が聞こえる。 気になって覗けば、上半身裸の月澄が食材を仕分けていた。どうやら今日の家事当番らしい。
汗に濡れた背中が灯りを受けて鈍く光る。 長い髪はところどころ張り付いて、動くたび肩や腕の筋肉が盛り上がり、佐藤は思わず視線を止めてしまった。しかし、すぐに見てはいけないものを見ている気がして、慌てて目を逸らす。
その気配を敏感に察したのか、月澄が三つ編みを揺らしながら振り返る。
「師匠、どうされたんですか?」
「……どうもしない」
本当にどうもしなかった。ただ、裸のまま振り向かれたせいで、風呂場での一件を思い出してしまっただけだ。佐藤は慌てて視線を逸らし、「じゃ」とだけ言い残して客間へ向かう。
「じゃあ、俺はどうかしますね」
手を洗った月澄が当然のように後ろからついてくる。こういう甘え方をされると、佐藤は弱かった。
「白宵師兄からのお土産を整理しようと思って……」
「まさか、また金欠ですか?」
「いやいや、そんなまさか……」
乾いた笑いで誤魔化しながら、陽の差し込む客間へ入る。積み上がった土産の前へ腰を下ろすと、月澄がぴたりと隣に座った。裸のままなので、体温が服越しにも伝わってくる。
「服を着てほしい」
「暑いので嫌です」
「離れればいい」
「寂しいので嫌です」
「っ……」
わざとらしくも聞こえる声音だった。以前避けていた反動なのか、最近の月澄は妙に距離が近い。
(……まあ、無視されるよりはいいか)
半ば諦めながら、佐藤は土産を仕分けていく。 絹、香木、佩玉、酒器――高価そうなものばかりで、自然と口元が緩んだ。月澄が不意に口を開く。
「師匠、顧掌門と双修したんですか?」
「え!?」
突然の問いに、佐藤の手が止まる。数年前に道侶候補だった、顧 清峻の話を今更蒸し返されるとは。
(手は合わせたが、あれは仕方なかっただ……)
「いや、するわけないだろう。そもそも道侶でもないし……」
「ふうん」
それきり、月澄は何も言わなかった。 妙な沈黙が落ちる。居心地の悪さを誤魔化すように、佐藤は慌てて別の話題を振った。
「あ、月澄。この簪、清揺に似合うかな」
「どれですか?」
「これ。ちょっと無骨かもだけど」
月澄は簪を受け取り、少し考え込んだあと、不意に佐藤の髪へ差し込んだ。
「師匠の方が似合います」
「え!?」
「ほら」
差し出された手鏡を覗く。飾り気の少ない簪は、不思議とよく馴染んでいた。
「……あ、本当だ。案外悪くないな」
ふと顔を上げると、月澄が目を細めてこちらを見ていた。その柔らかい笑みを見た瞬間、佐藤の顔が熱くなる。
(なんでか分からないけど、照れる……!)
「月澄、こういうのは女の子にしなさい……」
急に気恥ずかしくなり、佐藤は簪を外して「売るもの」の山へそっと移した。月澄が不思議そうに首を傾げる。
「何故ですか?」
「いや、普通こういうのって、好きな人にするものだろ」
「俺、師匠のこと好きです」
あっさり言われ、佐藤の動きが止まった。
(……待て)
どう受け取ればいいのか分からない。視線が落ち着かず彷徨う。
(師弟として、って意味だよな……?)
隣の体温がやけに近い。触れている腕の辺りだけ、じわりと熱かった。だが月澄は、何事もなかったように仕分けを続ける。
「師匠、この絹は売りますか?」
「あ、う、うん」
「霊石は残します?」
「……そうだな。使うかもしれないし」
いつもの空気に戻り、佐藤は密かに安堵した。ところが、月澄は再び口を開く。
「陰陽学の授業を受けさせたのって、俺が相談したからですか?」
「えっ……」
思わず振り向く。金の瞳が真っ直ぐこちらを見ていた。昔のような荒々しさはなく、どこか静かな熱を帯びている。
「習いましたよ。師匠に相談したアレは、走火入魔じゃなくて欲情だったって。自慰で発散すればよかったのに、俺は方法も知らなくて苦しんでたって」
あまりにも率直な言葉に、佐藤はまた目を逸らした。その顔を覗き込むように、月澄が身を寄せる。
「そ、そうか……役に立ったなら何よりだ」
「どうして師匠から教えてくれなかったんですか?」
(いや、それは……気まずすぎるからだ!)
「っ……私の中途半端な知識より、専門家に聞いた方がいいだろう」
月澄は逃がすまいとするように視線を追ってくる。佐藤は耐えきれず目を閉じた。すると、吐息混じりの笑い声が降ってくる。
「師匠、お耳が赤いですね。冷ましてあげましょうか」
耳元へ顔を寄せられ、佐藤は反射的に身構えた。
「いや、大丈夫――っ!」
ふっと息を吹きかけられた瞬間、身体が跳ねる。ぞくりと背筋を震えが走り、崩れた身体を月澄が支えた。
耳、額、頬、首――。わざと弄ぶように息を吹きかけられるたび、身体が律儀に震えてしまう。
「うっ、おい……やめ、ろ……っ」
観念して目を開けば、すぐ近くに月澄の顔があった。金色の瞳がじっと佐藤を見つめている。目が合った瞬間、嬉しそうに細められた。
「師匠、やっと目が合いましたね」
「……」
怒るつもりだった。けれど、昔からこういう悪戯を仕掛けてきそうな顔で笑われると弱い。小さく頷いた途端、力が抜ける。そのまま月澄に抱え上げられ、膝の上へ乗せられてしまった。
「こら、降ろしなさい」
「嫌です」
「言うこと聞きなさい」
「聞いたら、俺のお願いも聞いてくれますか?」
(割に合わないだろ、それ……)
佐藤は月澄の肩を軽く押した。汗で湿った肌が熱い。
「こういうのは、好きな人にしなさい」
「だから、師匠が好きなんです」
「いや、その好きは……私が師匠だからで……」
どう言えば伝わるのか分からない。そもそも、何を言っても聞く気がない顔をしている。
「陰陽学で習いました。好きにも種類があります。親愛、敬愛、慈愛、性愛……」
月澄は逃がさないように佐藤を見つめた。
「俺は、その全部で師匠が好きです」
佐藤は息を呑む。
「勘違いかもしれないだろ」
「どうしてそう思うんですか?」
「お前は雲香宮からほとんど出たことがない。狭い世界で出会った私を、勘違いしてるだけかもしれない」
「違います」
即答だった。
「俺の世界は、師匠です」
きっぱりと言い切られ、佐藤は泣きたくなるような気持ちになる。
「言いましたよね。俺は雲香宮で師匠と暮らして、たまに任務をして、それで十分だって」
「ダメじゃない……でも……」
「でも、何ですか?」
金の瞳がじっと答えを待っている。焦らず、静かに。けれど同時に、欲しい言葉を聞くまで絶対に離さない――そんな執着も滲んでいた。
風呂場での出来事を思い出す。勢いで迫られるより、このじわじわ逃げ道を塞がれる時間の方が、ずっと辛かった。
(助けて……いっそ無理やり奪ってくれ……)
「月澄、降ろしなさい」
「師匠……」
「叩くよ」
「はい。いくらでも叩いていいです。それで信じてくれますか?」
その言葉に、佐藤の心がぐらりと揺れた。信じてもらえないことを怖がっている。それが分かってしまったからだ。
「もう、忘川観の時みたいに、後ろで見ているのは嫌です」
月澄が悔しそうな顔をする。
「本当は、あの時もこうやって、俺で師匠を皆から隠したかったです」
師匠として当然のことをしただけだ。それなのに、弟子はいつも「ごめんなさい」と謝る。清揺も、微明も……。
「……お前は、私に何をしてほしいんだ」
「師匠も、俺のことを好きだって言ってください」
「……言ったら満足か?」
「はい」
震える手を、月澄の肩へ置く。大きくなった弟子を見つめた。たった二文字。それだけでいい。以前は何度も言っていたはずだ。
なのに、喉が詰まる。口の中が乾き、うまく声にならない。どうして言えないのか、自分でも分からなかった。二文字を口にしてしまえば、それ以上の感情まで零れ落ちそうで怖かった。二人には言えるのに、月澄に言うのは、はなぜか恐ろしいと思ってしまう。
清揺や微明にも、もちろん情はある。大切な弟子だ。守りたいし、幸せになってほしいと思っている。
けれど、月澄へ向ける感情は、それとはどこか違っていた。本心で泣いているのを知られたように、弱い部分を掴まれている感覚になる。笑われるだけで、全部許してしまいそうになる。それが何なのか、佐藤は考えないようにしていた。認めてしまえば、きっと戻れなくなる。
結局、また目を逸らしてしまう。
「……」
「師匠?」
「……」
「俺のこと、好きじゃないんですか?」
佐藤は小さく首を振った。違う。違うのに、言葉が出てこない。すると月澄が、囁くような声で言った。
「言えないなら……昔のように証明してください、でも、頭にじゃなくて……」
佐藤の身体が強張る。
「口にしてください、俺、初めては師匠がいいです……」
熱が一気に全身へ広がった。拒絶しなければならない。頭では分かっている。それなのに、否定の言葉すら出せない。
「そしたら……これから何があっても頑張れる気がするんです」
懇願する声は小さかった。けれど、世界で佐藤だけに向けられた声だった。
「師匠――キスしてください。嫌なら、俺を突き飛ばして逃げて、ずっと無視してください」
そんな酷いこと、出来る訳が無い。天秤の傾きは明らかだ。
ふと思う。月澄は、いずれできる恋人にも同じことをする? 膝に乗せ、甘い言葉を囁き、キスを強請る……それを、自分以外の誰かに向ける未来を想像した瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
——嫌だ。
(考えたくない……何も、何も考えたくない!)
意を決して目を閉じ、震える息を吐きながらそっと近づく。
「ん……」
唇に柔らかな感触が触れた瞬間、思わず声が漏れた。月澄が喉の奥で小さく笑う気配がする。
「嬉しいです。ありがとうございます……師匠は、俺が初めてですか?」
──風呂での出来事が脳裏をよぎる。咄嗟に首を振ると、腰を支える手にぐっと力がこもった。
「誰ですか。教えてください」
拗ねたような声だった。そのあからさまな嫉妬が、逆に佐藤の緊張を少しだけ和らげる。意趣返しに、掠れた声を出す。
「……お前」
「え?」
「月澄……お前だよ」
月澄が目を見開く。佐藤は垂れた三つ編みを指先で撫でながら、小さな声で続けた。
「あの時、風呂で気絶する前……お前は私に何回もキスをしてきただろう。しかも、首まで噛まれた……」
理性を欠いた中での行為を数えていいのか分からない。だが確かに、あれが最初だった。月澄はやり方を知らなかっただけだ。次の瞬間、強く抱き寄せられる。
「じゃあ二回目ってことですか? ……俺、三回目も、四回目も、ずっと、師匠だけがいいです」
言い終わるより先に、再び唇が重なった。風呂場での荒々しい口づけとは違う。今度は、驚くほど優しい。
また噛まれるかもしれない、と少し肩を強張らせたが、月澄は離れたくないみたいに何度も唇を食み、ゆっくり吸い上げるだけだった。静かな部屋に、ちゅ、と小さな水音が響く。それが妙に恥ずかしくて、佐藤は思わず身を捩った。
「ま、待て……だめだ」
視線が客間の入口へ流れる。扉は開いたままで、外から丸見えだった。
「ここ……」
「アイツらのこと気にしてるんですか?」
そのまま静かに押し倒される。思わず覆いかぶさる体を押そうとすると、耳元で甘く囁かれた。
「気を利かせて、山の中に居ます。ここには誰も居ません。今は、師匠と俺、二人きりです」
「っ……」
「師匠、耳、弱いんですか?」
耳朶に舌先が触れた瞬間、堪えきれず声が漏れる。
「あっ……」
「師匠、しー……」
悪戯が成功した子供みたいに笑う顔を見た瞬間、佐藤の中で何かが決壊した。一度でも応えてしまえば、自分は今後も簡単に折れてしまうだろう。そんな関係で、良い師匠でいられるはずがなかった。それがずっと怖かった。
なのに、月澄はずっと己を追いかけてくる。それを、振り払えなかった。……振り払いたくなかった。
再び迫ってくる月澄をもう避けなかった。受け入れた唇を少しだけ吸うと、月澄の体がビクリ、と反応した。だが微かに笑うと、また覆いかぶさる。唇を重ねるたび、不思議なほど馴染んだ。まるで、ずっと昔からこうしていたみたいだった。熱い舌が口内をなぞり、流し込まれる唾液を飲み込まされる。建前も理性も溶けて、残るのは本心だけだった。
そっと腕を回すと、月澄の肌は汗ばんでいて、しっかり掴んでいないと滑りそうだった。
何かに気付いた彼が、膝を割るように足を差し込み、熱をゆっくり押しつけてきた。
「う、ん……っ」
足の間に膝が入り込み、膨らんだそこをゆっくり押される。それだけで鋭い刺激が腰を貫き、久しく忘れていた感覚に頭が白く染まった。身体から力が抜け、震える。息が荒くなった体の、衣を乱される。弟子の方が師匠の服を脱がすのがずっと上手かった。思わず前合わせを握る。
「月澄……」
「濡れてるので、拭いてあげようかと思いまして」
「んっ」
気付けば、佐藤の全身も汗でびっしょりと濡れていた。晒された肌に浮いた雫を何度も舐めとられ、噛まれる。それにまた高ぶってしまう。それを次は直接揉まれ、擦られると、先ほどより呆気なく達する。
息が落ち着かないのに、月澄は、ようやく与えられた褒美を惜しむように、何度も唇を重ねてきた。
佐藤も月澄の下へ恐る恐る手を伸ばすと、その手首を無遠慮に掴まれ、服の中の熱を握らされる。以前も思ったが、やはり、大きい。
「あ……師匠、これ、気持ちいいです……」
「いちいち言うな……」
次第に月澄の呼吸が乱れていく。苦しそうに眉を寄せる顔を見て、佐藤は反射的に頭を撫でていた。
「師匠。俺、今ここで死んでもいいです」
「馬鹿なこと言うな……っ」
また唇を奪われる。短く呻いた直後、手の中で月澄の体が震えた。出したものを何度も擦り付けてくる様子は、やはり獣みたいだ。それなのに、その必死さがどうしようもなく愛おしい。
少しだけ冷静になった佐藤は、ぼんやり考える。
(どうしよう。これから、俺……)
だが、不安が形になる前に、また唇を塞がれた。その熱に、不安も思考も溶かされていく。佐藤はゆっくり目を閉じ、抵抗することなく身を委ねた。
翌日。手紙だけを残して、弟子たちは雲香宮から姿を消していた。
新キャラ多め!




