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弟子と告白

※※2章以降、程度に関わらず毎話性描写を含みます。


かく 微明びめいと、その同門の弟子には罰を受けてもらいましょう」


 おん 如晟じょせいの言葉に、はい 凛雪りんせつの目が鋭く細められた。


「……罰したところで意味はない」

「では、破門になさいますか?」


 おん 如晟じょせいは穏やかな笑みを崩さぬまま続ける。


忘川観ぼうせんかんの門弟たちが被害に遭っていた可能性もあったのですよ。しかも相手は、人の生き血を啜る血鬼けっきだ。処罰する理由としては十分でしょう」

「実害は出ていない。林宮主りんきゅうしゅが未然に防いだ」


 はい 凛雪りんせつは短く言い切った。


「未遂の罪で、未熟な子供を吊るし上げるつもりか? 」


 その言葉に、おん 如晟じょせいは小さく肩を竦める。


はい師。これは言わば“見せしめ”です」


 室内の空気がぴたりと張った。


「観を守るために必要な処置でもある。───外部の者が忘川観ぼうせんかんで悪念を撒き散らし、人に襲い掛かろうとした。それを師である我々が見過ごし、『次は気を付けなさい』で済ませたとなれば……門弟たちはどう思うでしょう」


 おん 如晟じょせいは静かに目を伏せる。


「しかも師は、白宵しらよい真人の弟弟子である林宮主りんきゅうしゅです。寒霊山かんれいざんにおいて、あのお方の名がどれほど重いか……知らぬ門弟はおりません」


 その一言で、空気がさらに重く沈んだ。


「師は権威ある者には逆らえない。相手が高位の修士であれば、危険を犯しても不問にされる───そう疑う者も現れるかもしれません」


 はい 凛雪りんせつの眉間に皺が刻まれる。おん 如晟じょせいはその反応を見て、さらに続けた。


「その不信は忘川観ぼうせんかんの内部だけでは終わらない。里の者たちの耳に入れば、やがてこう囁かれるでしょう」


 一拍置き、低く告げる。


「───忘川観ぼうせんかん白宵しらよい真人を恐れ、血鬼けっきを野に放った、と」

「黙れ!」


 冷え切った美貌に、露わな怒気が走る。


「くだらん詭弁を並べ立ておって!」


 はい 凛雪りんせつの声が更に低くなる。


「ならばやなぎ 清揺せいようのいた雅心宗がしんしゅうはどうなる!? あの娘を守れなかった責は誰が取った! 挙げ句、追放までしたではないか! 彼女は当時、まだ十にも満たぬ子供だったんだぞ!」

寒玉君かんぎょくくん、落ち着いてください」


 おん 如晟じょせいは呆れたように首を振る。


「細かいことを言えば、あれは雅心宗がしんしゅうの外で起きた事件でしょう。今さら昔の些細な出来事を蒸し返して、何を責め立てるつもりです? 雅心宗がしんしゅうに直接の落ち度は───」

「私が言いたいのはそこではない!」


 はい 凛雪りんせつが怒鳴り返した。


「今回も“些細な出来事”の一つに過ぎない! 実害も出ていない件で、未熟な子供を見せしめにする気か!」


 張り詰めた殺気が室内を震わせる。


「やめなさい」


 穏やかな老人の声が、その空気を静かに鎮めた。

 寒松かんしょう老人である。先ほど忘川観ぼうせんかんへ戻ったばかりで、旅塵を払う暇もなく、この場へ呼び出されていた。


はい師、おん師。二人の言い分は分かる。だが今は、林宮主の御前ですぞ」


 その一言で、室内に漂っていた殺気がわずかに引いた。

 佐藤――りん 香寧こうねいは、部屋の中央に静かに座していた。

 腕の中には目を伏せた微明びめい。その背後には、月澄げっちょう清揺せいようを庇うように片腕を広げている。

 清揺せいようは佐藤の衣の裾を強く握り締めていた。指先は震えている。

 その四人を囲むように、忘川観ぼうせんかんの師たちが居並んでいる。数十人に及ぶ視線と霊圧が部屋を満たしているにも関わらず、佐藤だけは弟子たちを隠すように座り続けている。

 寒松かんしょう老人は、なおも落ち着いた声で続けた。


「それに、血鬼けっきが現れたきっかけは、うちの婉春えんしゅん女医にあったと聞いておる。密室に閉じ込め、薬で口を割らせたと聞いておる。……間違いないな、婉春えんしゅん女医」

「……はい」


 よう 婉春えんしゅん寒松かんしょう老人の隣で俯き、唇を噛み締めていた。だが実際には、薬は意志を奪うほどのものではない。判断を鈍らせる程度の薬で、効力もすでに切れていた。


「加えて、昼間にははい師、おん師の両弟子と、林宮主の弟子たちが打ち合いを行ったそうではないか。その際、悪念は一度でも漏れたか?」


 寒松かんしょう老人は静かに周囲を見回す。


「悪念が噴き出すのは、理性のたがが外れやすい戦闘時が最も多い。だが林宮主の弟子二人は何事もなく試合を終え、なおかつ勝利した。しかも、その場には多くの門弟たちがおった。証言はいくらでも取れる」


 そこで視線をおん 如晟じょせいへ向けた。


「必要ならば、実際に剣を交えた弟子を呼ぼう。おん師」

「……しかし」

れんを呼びなさい」


 ぴしゃりと言い放ったはい 凛雪りんせつに、おん 如晟じょせいも首を縦に振るしかなかった。


 やがて、けい 煌瑛こうえいしゃ れんが部屋へ通された。

 二人とも眠っていたところを急に起こされ、忘川観ぼうせんかんの師たちが勢揃いした異様な場へ連れて来られたのだ。さすがに表情には緊張が浮かんでいる。

 だが、昼間の試合について問われたけい 煌瑛こうえいは、すぐに背筋を伸ばした。


「はい。確かに私はしゃと共に、林宮主のご高弟と打ち合いました」


 真っ直ぐ前を見据え、堂々と言葉を続ける。


「実力差は明白でした。故に私は、本気で勝ちに行きました。……ですが、彼らは真正面からそれに応じた。剣を交えれば分かります。二人は全力でした。しかし悪念どころか、相手を害そうという歪みすら、一切感じませんでした」


 その隣で、しゃ れんも静かに口を開いた。


「……同意見です」


 一度視線を伏せ、それから続ける。


「私は力量で劣っていたため、何度か意図的に挑発を行いました。怒りを誘い、冷静さを失わせようとしたのです」


 部屋の空気がわずかに動く。

 しかし、月澄げっちょう微明びめいだけが気付いていた。そんな覚えは――ない。

 しゃ れんは明らかに嘘をついている。しかし、前髪で目元が隠され、真意を窺うことはできなかった。


「卑劣なやり方でした。ですが二人は乗らなかった。感情に呑まれることなく、最後まで己の剣だけで立派に戦い抜きました」

「“立派”などという言葉、私情が混じっているのではないか?」


 おん 如晟じょせいが薄く笑う。すると、はい 凛雪りんせつの目が鋭く細まった。


おん師。私の弟子に何か問題でも?」


 一触即発の空気が走る。

 寒松かんしょう老人は軽く咳払いし、その場を制した。


けい 煌瑛こうえいしゃ れん。もうよい。二人ともご苦労だった。……今の証言を聞く限り、門弟たちの間に不安や疑念が広がる可能性は低いじゃろう。少なくとも、“制御不能な危険人物を野放しにした”という話にはなるまい」


 そして改めて、おん 如晟じょせいへ視線を向けた。


「……おん師。これで満足かな?」


 しかしおん 如晟じょせいは、穏やかな笑みを崩さなかった。


「――いいえ。まだです」


 はい 凛雪りんせつが口を開きかける。しかしおん 如晟じょせいはそちらを見もせず、静かに片手を上げて制した。


「……我らは弟子たちの処分ばかりに気を取られ、肝心なことを失念しておりましたな。そうでしょう、林宮主」


 その言葉に、背後の月澄げっちょうが僅かに身じろぎする。佐藤は安心させるように彼の肩へそっと触れ、静かに息を吐いた。


「ええ。その通りです」


 佐藤はまっすぐ前を見据える。


「弟子の責は、師の責。ならば私が罰を受ければよい」


 場が静まり返った。


「それでおん師の道理も立つ。忘川観ぼうせんかんの面目も保たれる。……万事、丸く収まるのではありませんか?」

「師匠──」

月澄げっちょう、黙っていなさい」

「っ……」


 月澄げっちょうは苦しげに顔を歪め、師の髪を編み込んだ三つ編みを強く握り締めた。

 その様子を眺め、おん 如晟じょせいが乾いた笑みを漏らす。


「……実に美しい師弟愛だ。さすがは“三煞さんさつ”を従えた名高き渡雲香君とうんこうくん。人ならざるものの御し方には、随分と慣れておられるらしい」

「貴様……!」


 はい 凛雪りんせつが鋭く声を荒げた。三煞さんさつは昔の三人への忌み名だ。佐藤は小さく笑った。


おん師。そんなに私の弟子たちが気になるのでしたら、こうしましょう」


 佐藤は穏やかな声音のまま続ける。


「彼らにも共に罰を受けてもらいます」


 周囲の空気が揺れた。はい 凛雪りんせつは奥歯を噛み締めた。


「視界を閉ざし、耳を塞ぎ、口も鼻も封じる。さらに手足を拘束し、高位の結界内へ一晩置く。そうして己の内側と向き合わせ、悪念の発露を制御させる。……それに、結界の中であれば悪念が外へ漏れることもない。見せしめとしても十分でしょう?」


 おん 如晟じょせいが満足げに頷いた。


「実に良い。これならば“私が罰を強請った”などと、はい師に責め立てられることもない」


 その瞬間、はい 凛雪りんせつの視線が鋭く佐藤へ突き刺さる。佐藤は気づかぬふりで、静かに続けた。


「では、どなたか術を施す手伝いをお願いできますか」


 そこでふと、思い出したように言葉を止める。


「……ああ、そうだ。耳を塞ぐ前に、一つだけ」


 佐藤はゆっくりとおん 如晟じょせいを見上げた。


「先ほど、“三煞さんさつ”と仰いましたね」


 穏やかな声音だった。だが、その場にいた誰もが、空気の温度が下がったのを感じた。


「一体、彼らの何を見て、そう呼ばれたのです?」

「……」

「まるで最初から、私の弟子たちを“災い”と決めつけ、罪人に仕立て上げたいように聞こえてしまいますが」


 おん 如晟じょせいの笑みが、ほんの刹那だけ消えた。しかし次の瞬間には、何事もなかったかのように柔らかな笑みを浮かべていた。彼は佐藤たちの前へ進み出ると、ゆるやかに衣を払って深く一礼する。


「……これは失言でした。林宮主、並びにご高弟方へ、お詫び申し上げます」



━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━



「……どうして出てきたんだ」


 微明びめいが弟へ声を掛ける。しかし返ってきたのは、ますます酷くなる泣き声だけだった。


「兄様! 分かってる! 全部僕が悪いんだ! でも、しょうがないだろ! 怖かったんだ! 本当に怖かったんだ! ……でも兄様も悪い! 僕の首を絞めてでも止めるべきだった!」

「何が怖かったんだ?」


 微明びめいは、努めて穏やかな声を出した。まるで師の口調を真似るように。


「ゆっくりでいい。兄様に話してごらん」

「怖い! 怖いんだ! どうして分からないの!? 僕がこんなに怖がってるのに……兄様は、僕のこと何も分かってくれない! 」


 二人は霊核れいかくの内側――魂の深奥で言葉を交わしていた。

 微明びめいには、二筋にすじの癇癪混じりの声が常に聞こえている。唯一、静かになるのは湯に浸かっている時だけだ。母の胎内を思い出すのか、湯に揺られている間だけ、二筋にすじは幼子のように甘えてきた。

 だが今、その声は怯え切っている。まるで、目の前まで恐怖が迫っているかのように。


「はっ……は、ぁ……アイツ、アイツは酷い……僕が出なかったら、兄様まで食われてた……」

「アイツ……?」

「……人間なのに……鬼を、何十匹も食ってる……」


 微明びめいは息を呑む。


「誰のことを言っている?」


 責めず、急かさず、根気強く問い掛ける。師がいつもそうしてくれたように。


「わ、分からない……たくさんの人とすれ違って、そいつの霊気しか覚えてない……でも、鬼の血の匂いがした……いっぱい、助けてって声がしてた……アイツ……どうして人間……いや、人間のフリをした、化け物……」


 二筋にすじは縋るように声を震わせた。


「兄様……怖い……怖いよ……兄様、抱きしめて……」


 微明びめい二筋にすじは、一つの肉体に宿った二つの魂だ。こうして言葉を交わすことはできても、互いに触れ合うことはできない。


「……兄様……」


 二筋にすじの泣き声は、幼子のように弱々しかった。


「お腹の中で、一度だけ僕を抱きしめてくれたでしょ……お願い……もう一回だけ……最後にするから……」


 二筋にすじは、またしゃくり上げるように泣き出した。けれど微明びめいには、その願いを叶えてやる術がなかった。

 


━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━



 月澄げっちょうが目を覚ました時、そこはすでに雲香宮うんこうきゅうだった。

 薄く目を開き、まだ靄のかかった頭で記憶を辿る。忘川観ぼうせんかんで罰を受けるため、五感を封じられ、四肢を拘束され――そこから先が曖昧だった。

 体を起こさず、視線だけで師を探す。ほどなくして、衣擦れの音が近づいた。


「起きた? お粥あるよ」


 仰向けの視界に、師の柔らかな笑みが映る。月澄げっちょうは口を開きかけた。だが、何も言えなかった。その月澄げっちょうを見て、佐藤は頭を撫でた。


「まだ痛い……? お粥は沢山あるから、まだ寝てていいよ」


 月澄げっちょうは才ある者だった。剣も、術も、学も、人より遥かに早く身につける。己より強い者など、そう多くはないと知っていた。いつかは神すら斬れる――本気でそう思っていた。

 だが、忘川観ぼうせんかんでの自分はどうだった。ただ怯え、震え、師が前へ立つ背中を見ていることしかできなかった。

 月澄げっちょうに怖いものなど無い。ずっとそう思っていた。けれど今、初めて理解した。自分には、師を守れる力がない。その事実を認めることが、何より恐ろしかった。


 回復した三人は、久しぶりに師と同じ卓を囲んでいた。それぞれ好物が並べられている。だが誰一人として、箸は進んでいなかった。ふいに、佐藤が明るい声を出す。


「さて。三人が今考えてることを当ててみようか」


 三人の肩が僅かに揺れた。だが誰も口を開かない。


「私がどんな罰を受けたのか、気になってる。……違う?」

「師匠……」


 微明びめいが堪えきれず声を漏らす。だが佐藤は慌てたように手を上げた。


「待って待って。まだ答え言ってないでしょ? 今から言うから、心して聞くように」


 弟子たちは息を呑む。そして佐藤は、わざとらしく胸を張った。


「正解は――石の上で一晩正座、でした~! 」


 ぱちぱちと自分で拍手までしてみせる。弟子たちは誰も笑えなかった。分かっていた。師がわざと明るく振る舞っていることくらい。そして、こういう時の師ほど、無理をしていることを。


「……本当だよ。ほら、どこも痛くない」


 佐藤は笑ったまま両手を広げる。だから弟子たちも、その嘘に乗った。それが師の優しさであり、愛情なのだと、もう嫌というほど知っていたから。


「……はい、師匠」


 微明びめいは静かに頭を下げる。


「不甲斐ない弟子で、申し訳ありませんでした」


 二筋にすじの分まで含めて謝る。すると佐藤は、微明びめいの好物を小皿へ取り分けながら、困ったように笑った。


「いいんだよ、そんなの」


 その声音は、どこまでも優しかった。


 夜。

 微明びめいは木の上にいた。


 雲香宮うんこうきゅうから少し離れた木だった。静かで、一人になれて、風が気持ちいい。微明びめいは昔からこの場所が好きだった。草木の匂いに包まれながら目を閉じる。まるで自然へ溶け込むように、静かに呼吸をした。反省しているのか、最近二筋にすじは大人しい。

 気が向くと、時折雲香宮うんこうきゅうの方を見る。居間の窓には、師と同門弟子たちの姿が映ることがあった。笑ったり、怒ったり、くだらないことで喧嘩したり。微明びめいは、それを見ているだけで満足だった。自分は、あの輪の中へ入らなくてもいい。三人がそこにいてくれるだけでよかった。

 こちらへ向かってくる足音がした。気づかないふりをしていたのに、遠慮のない客人たちは当然のように木へ登ってくる。


「阿明」

「……責めに来たのか」

「違うよ」


 清揺せいよう微明びめいの隣へ腰掛け、そっと手を握った。


「一緒に反省しに来たの」


 微明びめいが目を伏せる。


月澄げっちょうと話したの。弟子の責任は師匠の責任。でもね、同門弟子なんだから、私たちにも責任あるでしょ? 今までも、これからも」

「……お前たちがどうにか出来たことじゃない」

「いや、出来た」


 月澄げっちょうが即答する。


「お前の腹を殴れば、一発だった」


 風が吹き、三人の長い髪を揺らした。出会った頃より、ずっと伸びている。


「でもそれはそれとして、二筋にすじは殴らせろ」

「……分かった」

「もーやめて……また悪念だ何だって言われちゃう……」


 三人の間に僅かな笑いが零れた。けれどその後、不意に月澄げっちょうが呟く。


「どうしたら、もっと強くなれると思う? 」


 微明びめい清揺せいようが彼を見る。月澄げっちょうは夜空を見上げたまま、低く続けた。


「それこそ、周りの目なんか、どうでもよくなるくらいに。世界を壊せるくらいに」


 金色の瞳が静かに揺れていた。


「阿澄……」


 清揺せいようの声が震える。


「変なこと、絶対しないで……お願い……」


 そのか細い声は、夜の闇へ溶けていった。冷えた空気が頬を撫でた。

 その時、不意に雲香宮うんこうきゅうの窓がからりと開いた。ただそれだけなのに、弟子たちの胸には、まるで暖かな灯がともったような気がした。


「三人ともー!」


 師の声が響く。


「もう暗いんだから帰っておいで! そんなところで寝たら風邪ひくよ!」


 三人は顔を見合わせ、小さく笑った。木から飛び降り、雲香宮うんこうきゅうへ向かう。その時だった。

 ふいに、誰かの声がした。


白宵しらよい師伯を頼りなさい」



━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━



 佐藤は困っていた。

 財布代わりの袋をひっくり返して数え直してみても、やはり金欠だった。


(売るか、白宵しらよいからのお土産……)


 溜息を吐きながら居間へ降りると、台所の方から物音が聞こえる。 気になって覗けば、上半身裸の月澄げっちょうが食材を仕分けていた。どうやら今日の家事当番らしい。

 汗に濡れた背中が灯りを受けて鈍く光る。 長い髪はところどころ張り付いて、動くたび肩や腕の筋肉が盛り上がり、佐藤は思わず視線を止めてしまった。しかし、すぐに見てはいけないものを見ている気がして、慌てて目を逸らす。

 その気配を敏感に察したのか、月澄げっちょうが三つ編みを揺らしながら振り返る。


「師匠、どうされたんですか?」

「……どうもしない」


 本当にどうもしなかった。ただ、裸のまま振り向かれたせいで、風呂場での一件を思い出してしまっただけだ。佐藤は慌てて視線を逸らし、「じゃ」とだけ言い残して客間へ向かう。


「じゃあ、俺はどうかしますね」


 手を洗った月澄げっちょうが当然のように後ろからついてくる。こういう甘え方をされると、佐藤は弱かった。


白宵しらよい師兄からのお土産を整理しようと思って……」

「まさか、また金欠ですか?」

「いやいや、そんなまさか……」


 乾いた笑いで誤魔化しながら、陽の差し込む客間へ入る。積み上がった土産の前へ腰を下ろすと、月澄げっちょうがぴたりと隣に座った。裸のままなので、体温が服越しにも伝わってくる。


「服を着てほしい」

「暑いので嫌です」

「離れればいい」

「寂しいので嫌です」

「っ……」


 わざとらしくも聞こえる声音だった。以前避けていた反動なのか、最近の月澄げっちょうは妙に距離が近い。


(……まあ、無視されるよりはいいか)


 半ば諦めながら、佐藤は土産を仕分けていく。 絹、香木、佩玉はいぎょく、酒器――高価そうなものばかりで、自然と口元が緩んだ。月澄げっちょうが不意に口を開く。


「師匠、顧掌門と双修したんですか?」

「え!?」


 突然の問いに、佐藤の手が止まる。数年前に道侶候補だった、 清峻せいしゅんの話を今更蒸し返されるとは。


(手は合わせたが、あれは仕方なかっただ……)


「いや、するわけないだろう。そもそも道侶でもないし……」

「ふうん」


 それきり、月澄げっちょうは何も言わなかった。 妙な沈黙が落ちる。居心地の悪さを誤魔化すように、佐藤は慌てて別の話題を振った。


「あ、月澄げっちょう。この簪、清揺せいように似合うかな」

「どれですか?」

「これ。ちょっと無骨かもだけど」


 月澄げっちょうは簪を受け取り、少し考え込んだあと、不意に佐藤の髪へ差し込んだ。


「師匠の方が似合います」

「え!?」

「ほら」


 差し出された手鏡を覗く。飾り気の少ない簪は、不思議とよく馴染んでいた。


「……あ、本当だ。案外悪くないな」


 ふと顔を上げると、月澄げっちょうが目を細めてこちらを見ていた。その柔らかい笑みを見た瞬間、佐藤の顔が熱くなる。


(なんでか分からないけど、照れる……!)


月澄げっちょう、こういうのは女の子にしなさい……」


 急に気恥ずかしくなり、佐藤は簪を外して「売るもの」の山へそっと移した。月澄げっちょうが不思議そうに首を傾げる。


「何故ですか?」

「いや、普通こういうのって、好きな人にするものだろ」


「俺、師匠のこと好きです」


 あっさり言われ、佐藤の動きが止まった。


(……待て)


 どう受け取ればいいのか分からない。視線が落ち着かず彷徨う。


(師弟として、って意味だよな……?)


 隣の体温がやけに近い。触れている腕の辺りだけ、じわりと熱かった。だが月澄げっちょうは、何事もなかったように仕分けを続ける。


「師匠、この絹は売りますか?」

「あ、う、うん」

「霊石は残します?」

「……そうだな。使うかもしれないし」


 いつもの空気に戻り、佐藤は密かに安堵した。ところが、月澄げっちょうは再び口を開く。


「陰陽学の授業を受けさせたのって、俺が相談したからですか?」

「えっ……」


 思わず振り向く。金の瞳が真っ直ぐこちらを見ていた。昔のような荒々しさはなく、どこか静かな熱を帯びている。


「習いましたよ。師匠に相談したアレは、走火入魔そうかにゅうまじゃなくて欲情だったって。自慰で発散すればよかったのに、俺は方法も知らなくて苦しんでたって」


 あまりにも率直な言葉に、佐藤はまた目を逸らした。その顔を覗き込むように、月澄げっちょうが身を寄せる。


「そ、そうか……役に立ったなら何よりだ」

「どうして師匠から教えてくれなかったんですか?」


(いや、それは……気まずすぎるからだ!)


「っ……私の中途半端な知識より、専門家に聞いた方がいいだろう」


 月澄げっちょうは逃がすまいとするように視線を追ってくる。佐藤は耐えきれず目を閉じた。すると、吐息混じりの笑い声が降ってくる。


「師匠、お耳が赤いですね。冷ましてあげましょうか」


 耳元へ顔を寄せられ、佐藤は反射的に身構えた。


「いや、大丈夫――っ!」


 ふっと息を吹きかけられた瞬間、身体が跳ねる。ぞくりと背筋を震えが走り、崩れた身体を月澄げっちょうが支えた。


 耳、額、頬、首――。わざと弄ぶように息を吹きかけられるたび、身体が律儀に震えてしまう。


「うっ、おい……やめ、ろ……っ」


 観念して目を開けば、すぐ近くに月澄げっちょうの顔があった。金色の瞳がじっと佐藤を見つめている。目が合った瞬間、嬉しそうに細められた。


「師匠、やっと目が合いましたね」

「……」


 怒るつもりだった。けれど、昔からこういう悪戯を仕掛けてきそうな顔で笑われると弱い。小さく頷いた途端、力が抜ける。そのまま月澄げっちょうに抱え上げられ、膝の上へ乗せられてしまった。


「こら、降ろしなさい」

「嫌です」

「言うこと聞きなさい」

「聞いたら、俺のお願いも聞いてくれますか?」


(割に合わないだろ、それ……)


 佐藤は月澄げっちょうの肩を軽く押した。汗で湿った肌が熱い。


「こういうのは、好きな人にしなさい」

「だから、師匠が好きなんです」

「いや、その好きは……私が師匠だからで……」


 どう言えば伝わるのか分からない。そもそも、何を言っても聞く気がない顔をしている。


「陰陽学で習いました。好きにも種類があります。親愛、敬愛、慈愛、性愛……」


 月澄げっちょうは逃がさないように佐藤を見つめた。


「俺は、その全部で師匠が好きです」


 佐藤は息を呑む。


「勘違いかもしれないだろ」

「どうしてそう思うんですか?」

「お前は雲香宮うんこうきゅうからほとんど出たことがない。狭い世界で出会った私を、勘違いしてるだけかもしれない」

「違います」


 即答だった。


「俺の世界は、師匠です」


 きっぱりと言い切られ、佐藤は泣きたくなるような気持ちになる。


「言いましたよね。俺は雲香宮うんこうきゅうで師匠と暮らして、たまに任務をして、それで十分だって」

「ダメじゃない……でも……」

「でも、何ですか?」


 金の瞳がじっと答えを待っている。焦らず、静かに。けれど同時に、欲しい言葉を聞くまで絶対に離さない――そんな執着も滲んでいた。

 風呂場での出来事を思い出す。勢いで迫られるより、このじわじわ逃げ道を塞がれる時間の方が、ずっと辛かった。


(助けて……いっそ無理やり奪ってくれ……)


月澄げっちょう、降ろしなさい」

「師匠……」

「叩くよ」

「はい。いくらでも叩いていいです。それで信じてくれますか?」


 その言葉に、佐藤の心がぐらりと揺れた。信じてもらえないことを怖がっている。それが分かってしまったからだ。


「もう、忘川観ぼうせんかんの時みたいに、後ろで見ているのは嫌です」


 月澄げっちょうが悔しそうな顔をする。


「本当は、あの時もこうやって、俺で師匠を皆から隠したかったです」


 師匠として当然のことをしただけだ。それなのに、弟子はいつも「ごめんなさい」と謝る。清揺せいようも、微明びめいも……。


「……お前は、私に何をしてほしいんだ」

「師匠も、俺のことを好きだって言ってください」

「……言ったら満足か?」

「はい」


 震える手を、月澄げっちょうの肩へ置く。大きくなった弟子を見つめた。たった二文字。それだけでいい。以前は何度も言っていたはずだ。

 なのに、喉が詰まる。口の中が乾き、うまく声にならない。どうして言えないのか、自分でも分からなかった。二文字を口にしてしまえば、それ以上の感情まで零れ落ちそうで怖かった。二人には言えるのに、月澄げっちょうに言うのは、はなぜか恐ろしいと思ってしまう。

 清揺せいよう微明びめいにも、もちろん情はある。大切な弟子だ。守りたいし、幸せになってほしいと思っている。

 けれど、月澄げっちょうへ向ける感情は、それとはどこか違っていた。本心で泣いているのを知られたように、弱い部分を掴まれている感覚になる。笑われるだけで、全部許してしまいそうになる。それが何なのか、佐藤は考えないようにしていた。認めてしまえば、きっと戻れなくなる。

 結局、また目を逸らしてしまう。


「……」

「師匠?」

「……」

「俺のこと、好きじゃないんですか?」


 佐藤は小さく首を振った。違う。違うのに、言葉が出てこない。すると月澄げっちょうが、囁くような声で言った。


「言えないなら……昔のように証明してください、でも、頭にじゃなくて……」


 佐藤の身体が強張る。


「口にしてください、俺、初めては師匠がいいです……」


 熱が一気に全身へ広がった。拒絶しなければならない。頭では分かっている。それなのに、否定の言葉すら出せない。


「そしたら……これから何があっても頑張れる気がするんです」


 懇願する声は小さかった。けれど、世界で佐藤だけに向けられた声だった。


「師匠――キスしてください。嫌なら、俺を突き飛ばして逃げて、ずっと無視してください」


 そんな酷いこと、出来る訳が無い。天秤の傾きは明らかだ。

 ふと思う。月澄げっちょうは、いずれできる恋人にも同じことをする? 膝に乗せ、甘い言葉を囁き、キスを強請る……それを、自分以外の誰かに向ける未来を想像した瞬間、胸の奥がひどく冷えた。


——嫌だ。


(考えたくない……何も、何も考えたくない!)


 意を決して目を閉じ、震える息を吐きながらそっと近づく。


「ん……」


 唇に柔らかな感触が触れた瞬間、思わず声が漏れた。月澄げっちょうが喉の奥で小さく笑う気配がする。


「嬉しいです。ありがとうございます……師匠は、俺が初めてですか?」


 ──風呂での出来事が脳裏をよぎる。咄嗟に首を振ると、腰を支える手にぐっと力がこもった。


「誰ですか。教えてください」


 拗ねたような声だった。そのあからさまな嫉妬が、逆に佐藤の緊張を少しだけ和らげる。意趣返しに、掠れた声を出す。


「……お前」

「え?」

月澄げっちょう……お前だよ」


 月澄げっちょうが目を見開く。佐藤は垂れた三つ編みを指先で撫でながら、小さな声で続けた。


「あの時、風呂で気絶する前……お前は私に何回もキスをしてきただろう。しかも、首まで噛まれた……」


 理性を欠いた中での行為を数えていいのか分からない。だが確かに、あれが最初だった。月澄げっちょうはやり方を知らなかっただけだ。次の瞬間、強く抱き寄せられる。


「じゃあ二回目ってことですか? ……俺、三回目も、四回目も、ずっと、師匠だけがいいです」


 言い終わるより先に、再び唇が重なった。風呂場での荒々しい口づけとは違う。今度は、驚くほど優しい。

 また噛まれるかもしれない、と少し肩を強張らせたが、月澄げっちょうは離れたくないみたいに何度も唇を食み、ゆっくり吸い上げるだけだった。静かな部屋に、ちゅ、と小さな水音が響く。それが妙に恥ずかしくて、佐藤は思わず身を捩った。


「ま、待て……だめだ」


 視線が客間の入口へ流れる。扉は開いたままで、外から丸見えだった。


「ここ……」

「アイツらのこと気にしてるんですか?」


 そのまま静かに押し倒される。思わず覆いかぶさる体を押そうとすると、耳元で甘く囁かれた。


「気を利かせて、山の中に居ます。ここには誰も居ません。今は、師匠と俺、二人きりです」

「っ……」

「師匠、耳、弱いんですか?」


 耳朶に舌先が触れた瞬間、堪えきれず声が漏れる。


「あっ……」

「師匠、しー……」


 悪戯が成功した子供みたいに笑う顔を見た瞬間、佐藤の中で何かが決壊した。一度でも応えてしまえば、自分は今後も簡単に折れてしまうだろう。そんな関係で、良い師匠でいられるはずがなかった。それがずっと怖かった。

 なのに、月澄げっちょうはずっと己を追いかけてくる。それを、振り払えなかった。……振り払いたくなかった。

 再び迫ってくる月澄げっちょうをもう避けなかった。受け入れた唇を少しだけ吸うと、月澄げっちょうの体がビクリ、と反応した。だが微かに笑うと、また覆いかぶさる。唇を重ねるたび、不思議なほど馴染んだ。まるで、ずっと昔からこうしていたみたいだった。熱い舌が口内をなぞり、流し込まれる唾液を飲み込まされる。建前も理性も溶けて、残るのは本心だけだった。

 そっと腕を回すと、月澄げっちょうの肌は汗ばんでいて、しっかり掴んでいないと滑りそうだった。

 何かに気付いた彼が、膝を割るように足を差し込み、熱をゆっくり押しつけてきた。


「う、ん……っ」


 足の間に膝が入り込み、膨らんだそこをゆっくり押される。それだけで鋭い刺激が腰を貫き、久しく忘れていた感覚に頭が白く染まった。身体から力が抜け、震える。息が荒くなった体の、衣を乱される。弟子の方が師匠の服を脱がすのがずっと上手かった。思わず前合わせを握る。


月澄げっちょう……」

「濡れてるので、拭いてあげようかと思いまして」

「んっ」


 気付けば、佐藤の全身も汗でびっしょりと濡れていた。晒された肌に浮いた雫を何度も舐めとられ、噛まれる。それにまた高ぶってしまう。それを次は直接揉まれ、擦られると、先ほどより呆気なく達する。

 息が落ち着かないのに、月澄げっちょうは、ようやく与えられた褒美を惜しむように、何度も唇を重ねてきた。

 佐藤も月澄げっちょうの下へ恐る恐る手を伸ばすと、その手首を無遠慮に掴まれ、服の中の熱を握らされる。以前も思ったが、やはり、大きい。


「あ……師匠、これ、気持ちいいです……」

「いちいち言うな……」


 次第に月澄げっちょうの呼吸が乱れていく。苦しそうに眉を寄せる顔を見て、佐藤は反射的に頭を撫でていた。


「師匠。俺、今ここで死んでもいいです」

「馬鹿なこと言うな……っ」


 また唇を奪われる。短く呻いた直後、手の中で月澄げっちょうの体が震えた。出したものを何度も擦り付けてくる様子は、やはり獣みたいだ。それなのに、その必死さがどうしようもなく愛おしい。


 少しだけ冷静になった佐藤は、ぼんやり考える。


(どうしよう。これから、俺……)


 だが、不安が形になる前に、また唇を塞がれた。その熱に、不安も思考も溶かされていく。佐藤はゆっくり目を閉じ、抵抗することなく身を委ねた。



 翌日。手紙だけを残して、弟子たちは雲香宮うんこうきゅうから姿を消していた。

新キャラ多め!

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