エピローグ1:大陸と海
乾期が訪れる頃、東から西へ季節風が吹く。
孤島に商いにやってくる船は、この時期こそが稼ぎ時だ。大陸から船を出し、季節風を捕まえて一気に南の海へやってくるのだ。
島々から去って行く渡り鳥と入れ違い、南海は船で賑やかになる。
魔の島も、そんな季節にあった。
「砂糖、黒胡椒、それに塩だ!」
「鉄の矢尻や、釘は要らないか!」
「塩漬けの食料があるなら、こっちへ回してくれ!」
山猫族の村は、つかの間の賑やかさに、復興の活気を得ようとしていた。
潮の香る浜辺では、小舟が無数に舳先を並べている。
海鳥や猫、そして島の子供達がいっせいに浜辺へ集まっていた。漁師のおこぼれや、商人の土産が目当てだろう。
今、一つ新しい船がやってくる。水先人に先導され、物資を満載した舟が浜へ乗り上げた。
「長!」
呼ばれて、山猫族の長は顔を上げた。
手には物資の帳面がある。皺に覆われた細い目が、来訪者を認めた。
緑の帽子で、汗をぬぐう。朝の浜にはときどき涼しい風が通るが、こう人が多くては汗ばんでしまうのだ。
「お久しぶりです。山猫族の長よ!」
がっしりした、一目で船乗りと分かる亜人だ。年齢は、四十を超えた頃だろうか。頭には、耳を隠すための赤い布を巻いている。
「祖先と精霊に感謝を。お体に変わりはありませんか? ご家族は元気ですか? 畑は順調ですか?」
大仰な挨拶に、長は笑みを返した。
「ありがとう。皆のおかげで、すべてがマシになりつつある」
商人は頷いたが、すぐ痛ましそうに顔を歪めた。
「……手ひどくやられましたな。噂には聞いておりましたが」
男は、浜から村、そして奥に見える密林を見渡した。
長は口を結んだ。
外からやってきたなら、密林が無残に焼けているのを目にしただろう。
大陸で起きた戦乱は、魔の島にも爪痕を残した。海賊により、島は大きな痛手を受けた。略奪された村や、焼かれた密林が、各地でむごい姿を晒している。
「確かに。だが、野火は恵みをもたらすともいう。我らは海の民。島で暮らせぬのなら、海と取引すればよい」
山猫族の長は、氏族の長として、胸を張る。
恵みが絶えたわけではない。密林は乾期にも関わらず、少しずつ再生を始めている。
雨期の始めに植えた種芋がある内は、焼けた密林を切り開いて、畑にすることもできた。
「生きていかねばならん。悲しんでばかりもいられない」
「確かに。仰るとおりです」
二つの褐色肌はしばし肩をたたき合い、儀礼的な言葉を述べ合った。
長旅の挨拶がすっかり済んでしまうと、商人は視線を方々へ投げた。
「ところで、長。あのお方は?」
「あの方?」
長は、細い目で首を傾げた。
商人はそわそわと浜辺を探している。
「確か、大陸からやってきた、偉い方がいると。彼女が村に訪れて、治水し、種芋まで配って回ったというではありませんか」
長は目を丸くした。やがて、空気が漏れるような、笑い声をあげる。
「あの子が、あのお方とは!」
ぽかんとする商人に構わず、長は笑い続けた。久しくない明るい笑いに、浜辺が注目する。
「……あの方であれば」
長は咳払いし、言いつくろった。
そうなのだ。あの子は、もう子供ではなくなったのだ。
島の密林を見舞い、種芋を授け、他にも現実的な采配をしてくれた。
変わり果てた島にショックを受けたようだが、それでも立ち上がる心が、彼女の強さだ。誇らしさと、少しの寂しさがある。
しかしそれを感じるのは、長よりももっと相応しい人物がいる。
「少し前に島を発ったよ」
「そうですか」
「大方、そこにあるイモと石灰を、金に換えようとしたのだろう? ありがたいことだ」
「いやぁ」
商人は頭をかいた。
石灰は、塩を浴びた畑を快復する手立ての一つだ。
「対価の相談であれば、島の中に地鼠族がいる。彼に言うといい」
「ほう。地鼠族が」
今度は商人が目を丸くした。
「どこにでもいるというのは、まことですな」
「テオドールという。まぁ……本人は憤慨していたが」
長は、公女と共に、その家族が島にやってきたことを思い出す。あの子の家族は、やはりあの子に似ていた。
振り回される方は、色々と苦労するだろう。
「塩商人を目指すそうだ。言葉と商いの修行も兼ねて、この島にしばらくいる。ゲール語が堪能だから、実をいうと重宝する」
「それは、なんとも」
商人は少し考えて、指を一つ立てた。
「では薬師のオネ様は? お見せしたいものも、お持ちしたのですが。よい本が手に入りましてね」
そちらにも、首を振らねばならなかった。
「残念ながら、彼女も島を空けています」
長は海を見やった。遙か北へと続くいていく、今は凪いだ海。
島の精霊術師、オネが発ったのは、一瞬間ほど前になる。そろそろ陸地へ辿り着いた頃だろうか。
商人は、ちょっとこぼした。
「しかし、おかしいな。亜人の公女がいると、確かに聞いたのですが」
公女という言葉は、島の人々を笑顔にした。
俺達は、あの子がうんと小さい頃から知っているんだ。そんな空気が、少しずつ復興が進む島を、明るくする。
◆
殿下、と呼ばれた気がした。
眠りに落ちそうな頭を、強引に呼び起こす。よほど寝ぼけていたらしい。己を呼ぶ声さえ、マティアスは聞き違えていた。
「摂政閣下!」
がば、と跳ね起きた。窓の外は薄暗い。
獣脂ランプの臭いを感じながら、マティアスは嘆息した。
「お休みになってはいかがです?」
声をかけたのは、宮廷の侍従長だ。大声を発し、皇帝の権威を支えていた人物だが、さすがに修道院のこじんまりとした部屋では狭そうだった。
何度も頭をぶつけたのだろう。額にはこぶがある。
「いいや。これを片付けて、眠るよ」
帝都の戦いから、早くも半年が経っていた。
皇帝の容態はいよいよ悪く、マティアスは重責を物理的な圧迫という形で感じていた。権限の委譲は規定の路線だが、何もかも急すぎる。
租税。立法。軍備。そして戦争後の再建。
すべては書類という形で、無造作にマティアスの机に積まれていく。
(怖い、と思う間もない)
思えば、半年前の自分が嘘のようだ。
亜人も、何もかもが怖かった。そんな自分が、亜人の娘のために、こんなに働いているのだ。
「その」
大柄な男は、らしくなく声をひそめた。
「……宮廷近くに、戻られては?」
「当面無理だろう。余も慣れた。お前もならえ」
シェーンブルク宮殿は、地下の陥没により使えない状態となっている。
地面の崩壊自体は宮廷の裏庭に集中していた。が、揺れと地盤の傾きのせいで、おそらくは大部分が立て直しとなるだろう。
大通りは、地価が大いに下がった。
「聖教府の島も、慣れれば住みよい」
当面の政務を行う施設として、聖教府の島が割り当てられた。
大聖堂前の一角と、修道院に、帝国の庁舎が疎開した形だ。当然、大混乱となり、王太子マティアスの権限も、なし崩しに決まった。
――帝国法を、ご参照ください。
思い出し、マティアスは羽ペンを止める。修道院が出してくれる茶を飲んだが、わなわなと震えてきた。
(まったく、あの、家族は……!)
すべては、ある娘のせいだった。
意中の少女と同じ翡翠色の瞳だが、表情は透徹として、いつも一部の隙も無く整えられている。
記憶の中で、次女フランシスカは錫杖を揺らした。
――皇帝の息子、大臣筆頭、侍従長、法官の三名以上が、皇帝が身体上あるいは精神上の理由で公務を執行できないと認めた時、摂政を任命することができます。
次女は続けた。
――大臣筆頭、法官については、すでに口説き落としました。あとは、殿下が賛成すればよろしいかと。
このようにして、マティアスのところへ書類が大挙して押し寄せることになった。
体よく生け贄にされた感がある。
だんだんと分かってきたことだが、緊急を要することは、民が自力で解決する。
(民は、強い……)
仕事をしての実感だった。
実務ではやはり、大臣達に遠く及ばない。それでも苦情や要望を告げにいく、『頭』は必要と言うことだ。
あるいは、負担を感じるのは、頼りになる男がいないからだろうか。
(ロッソウ)
財務大臣の席は、フリューゲル家が幾人か人材を推そうとしている。
それでも、死した男の代わりになるかは、分からない。陰謀に長けてはいたが、やはり得がたい政治家だったのだ。
「もうよい。お前は、休め」
侍従長を遠ざけた。
マティアスは修道院の窓から、帝都を眺めた。
書類と格闘している間に、朝が近くなっていた。冬を越えようとしている日差しが、石造りの街を照らし出す。
一時は存続さえ危ぶまれた都だが、上がる煙は白い。朝の、煮炊きの煙だ。
奪い、奪われ、血に染まった歴史を持つ都。
地下構造の解明には、あと数年もかかるだろう。
それでもここを故郷とし、生きていこうという者も多いのだ。
「余も、やるか」
書類を取り出し、決意を固めた。
風を感じる。
壁の上には、空気が通るよう小さな窓が設けられていた。そこに、小さな人形が腰掛けている。
亜人公女人形という。
帝都で作られた土産物だ。紙すき工場が、内職の片手間に始めたらしい。
灰色の布で、髪と猫耳を。土色の布で、肌を。緑の目を付けて適当に服を合わせれば、もう誰が見ても公女と分かる。これほど覚えやすい人気者もいまい。
「モノリス」
マティアスは溜息を吐いた。胸にくすぐったい感覚がやってきて、頬に熱がこもる。
本物はどうしているだろう。歴史に光を当て、帝国に新しい風を吹き込まんとしている、あの少女は。
マティアスが帝都から頑張るとすれば。彼女は海から、変化の風を送っていくのだろうか。
「閣下、ご相談が」
ドアを叩かれて、マティアスは慌てて表情を引き締めた。
咳払いして、訪れた貴族を招き入れる。まだ、眠れそうにない。
次回で最終回です。
明日10月25日(木) 投稿予定です。




