4-42:公女再臨
聖堂を降りると、早速大勢に取り囲まれた。
モノは目を白黒させた。
大聖堂の周りは兵士に取り囲まれており、ほとんど戦場のようだ。塔にやってきたギギのグライダーを、多くの人が目撃していたらしい。
「こ、公女様……?」
フリューゲル家の兵士が、目を見張る。
モノは強い笑みを、意識して浮かべる。何も心配ない、というみたいに。
猫耳がぴこぴこ動いた。
「も、戻ってきました!」
やがて快哉が始まった。
モノの後ろで、長兄アクセルが声を響かせた。
「公女は戻った! 聖堂は落ちた! おのおの、次は地下に向かうぞぉ!」
さざ波のようにアクセルの指示が広がっていく。
長兄は満足そうに頷くと、モノに向かって言った。
「ここで、しばし待て」
「え、お兄様は?」
「時間が惜しい。諸将に、次の用意のための再編をさせねばならん」
「わ、私も」
後を追おうとした時、騎士達の鎧を押しのけて、小柄な影が飛び出してきた。
「モノリス!」
やってきたのは、次女のフランシスカだった。よほど慌てて来たらしい。肩で息をして、顔が赤い。高い帽子も、今は斜めにずれていた。
「お姉様」
「ま、まったく」
次女は大きく息を吐く。空を見上げて、もう光の柱が見えないことを確認したようだ。
翡翠色の瞳がモノを見詰め、思い詰めたようにうるんだ。モノの肩にオットーのネズミを認めると、ついに耐えかねて涙をこぼした。
「肝を冷やしました。よく、無事で……!」
「はい。それで、あの」
「でも! 下から見えましたが、なぜグライダーから飛び降りるのです? そんなことをしなくても、下に降りれば十分に」
お説教が始まりそうだったので、モノは慌てて逃げた。
本当はグライダーからの飛び降りなど問題にならないくらいの冒険をしたのだが、それを話すと長くなる。
「モノ!」
続いてやってきたのは、長女のイザベラだった。男装の長身は、兵士達の中でもすぐに分かった。
後ろには、王太子マティアスと、地鼠族のテオドールが続いている。
「無事だったのね」
「はい!」
「ま、あなたならよほど大丈夫でしょうけど」
長女は肩をすくめた。白い手袋で、肩にいるオットーの鼻をつついた。
「あなたはいつも無茶ねぇ。人間に戻れたって聞いたけど?」
追いついてきたフランシスカが、あっと気づいたような顔になった。
モノもとろんとした目になった。次兄オットーこそ、モノよりも無茶をやっているだろう。
「うん。まぁ、教訓を得たとするなら、何事も単純にはいかないということさ」
苦笑し、イザベラは後ろを振り返った。
「殿下?」
王太子マティアスが立っていた。少しふらついていて、怪我をしたのかと思ったが、どうも様子が違う。
「公女の猫耳にかけて……公女の猫耳に……ハッ!」
マティアスは、夢から覚めたように辺りを見回した。
テオドールの白塗り顔は、痛ましそうに歪んでいた。
「殿下。よく耐えられました。常識的な世界に戻ってきたのです」
「あ、ああ……」
細面の顔は、モノを見つけてほっとしたようだ。
服も髪もよれによれだ。彼もまたモノのために戦ってくれたのだ。
「モノリス」
言われて、思い至った。鐘の音を聞いた時、モノの名前を呼ぶ声が帝都中から聞こえた。
マティアスもそれに、協力してくれたのだろう。
「……だ、大丈夫ですか?」
マティアスの頬に朱が走った。
「?」
下から覗き込むと、王太子は口を結んだ。
安堵したり、険しい顔をしたり、さっきから表情がコロコロ変わる。いつになく真っ直ぐな目が、モノをどきりとさせた。
「その、と、よく戻った」
なんだか、胸の奥がふわふわした。温かいような、ちょっと熱いような、不思議な気持ち。
目の前で、男の子が一生懸命になっている。
何のために? 誰のために?
あ、という気づきは後を追うようにやってきた。風が吹いて、初めて花の匂いに気づくように。
モノの褐色の頬も、みるみる赤くなった。猫耳がピンとなる。
(えええ?)
突き放すような態度。そのくせ、たまに妙に優しかったり。
まさか、そういうことなの?
「と、とにかく無事でよかった。いや、ええと」
互いにあうあう言いかけた時、遠くで轟音が起きた。
遠雷のように、音は空に反響しつつ消えていく。
モノははっとした。風が渡っていくように、精霊の気配を感じたのだ。
「お、お兄様」
モノはオットーのネズミに言った。
「恥ずかしいなら、音の魔術で防音にできるけど?」
「にっ……!」
モノはネズミの髭を引っぱった。
「いたいっ」
「さっきの話です! まだ地下に、精霊が残っているんです! 今感じたの、もしかしたら……!」
モノが置いてきた精霊が、また光の精霊になろうとしているのかもしれない。
モノを取り込んだ堕精霊は、ほとんどが解放されたと思う。でも、あれほど心の力が集う場所だ。同じことが起きる可能性は、ゼロではない。
「公女様!」
またしても声がかかった。今度は聖堂からだった。
降りてからというもの、大忙しだ。
歩いてきたのは、腕を包帯で吊った、老年の戦士だ。兜の前を開けていたので、すぐに分かった。
「ヘルマン!」
目の下にも傷があって、激戦を思わせた。
「その腕は?」
「折れただけです。槍使いの亜人に、してやられました」
ヘルマンはオットーに目線を移した。
「申し訳ありません、オットー様。あの、槍使いは?」
「ああ、彼なら運河へ飛び込んだ。あの高さだけど、なんといっても亜人だからね」
モノは驚きに目を見張った。
(槍使い?)
きっと、ラシャだ。
直感的に、そう思った。
胸騒ぎがする。精霊の気配は強まっていくばかりだ。
精霊術師の力を起き上がらせ、帝都中に共感の力を向けた。精霊の気配は、やはり宮廷の方からだ。
「待たせた!」
アクセルが馬に乗って戻ってきた。兵士達が慌てて道を空ける。
馬はモノの前で前足を上げ、急停止した。
「公女よ、準備は終わった。これより、隊を移動させる」
アクセルの脇から騎士がやってきて、モノに地図を渡した。ずっと前にマティアスと作ってあった、地下の想像図だ。
五十年前、まだ亜人がいた頃の水路を参考にしているから、かなり正確だろう。
「地下と地上、二つに分けて攻める」
アクセルが言うと、ヘルマンが補足した。
腕が痛むだろうというのに、強靱な精神力だった。
「公女様が地下へ呼ばれた地点と、宮廷の位置、そして地鼠族の地図から、中枢へ至る道をすでに割り出してあったのです」
ヘルマンはアクセル達に目で断ってから、続けた。
「ここです。地鼠族のテオドールによれば、彼らの領地と、中枢へと通じる道が、ここで接触しています」
「に。宮廷の、すぐ近くの水路から入れるんですね」
モノは頷いた。地図を畳んで返してから、自分の荷物を確かめる。
島から愛用している短剣は、光の精霊に取り込まれた時に無くしていた。ただ、水を入れた水筒はまだ持っていた。体に縛り付けていたからだろう。
モノが体を調べ出すと、周りの兵士達が慌てだした。
「公女様、お召し物を」
モノは、スカートを膝の辺りでばっさり切っていたのを思い出した。
あちこち切れて、泥で汚れてひどい有様だ。
「要らないです。それより、短剣を」
先んじられて、アクセルは耐えかねたように笑い出す。
「はは! が、もはや止めまい。公女の力は必要だ」
姉達も、モノの意見を尊重してくれた。
フランシスカは、モノの額に手を当て、祈ってくれる。
「武運を、モノリス……私は聖堂で、奇跡の準備をします。鳥も飛ばしましょう」
イザベラは周囲を見まわした。長身を活かして、声を張った。
「また宮廷よ! 大通りの人を、できるだけ遠くへ」
「しかしまだ、商会の荷車が」
「帝都は、きっとまた復興する。商いのため、名を売ると考えなさいな。運河の船も使えば、水の上でも疎開はできる」
イザベラは、市民の避難を先導することになった。この街をまだ活かすなら、疎開の後の補償をする人が必要だ。
モノはサンティを呼び出した。
――グオオ。
運河の水で象られた虎は、モノを乗せる。騎士から短剣を受け取り、腰にさした。
「宮廷へ行くのだな」
マティアスに、モノは頷いた。
「はい。地下に、まだ精霊が残っています。戦いが、まだ……!」
そうか、とマティアスは顎に手を当てた。手近な兵士を呼び止め、なにかの指示を出す。
「余の兵も、連れていくといい。親衛隊だ、宮廷の内部に詳しいし、訓練も受けている」
「でも、殿下は」
マティアスは苦笑した。
「案ずるな。別の兵を指揮する。余が言えば、目端の利く貴族にも動くものもいるだろう」
できることをやるさ。憑きものが落ちたような顔だ。
「無事でな」
「殿下も」
精霊の気配が強くなった。もはや、一刻の猶予もない。
「みんな、行きましょう!」
モノは、サンティを走らせた。
運河にさっと飛び降りて、水の上に立つ。運河には、たくさんの黒いローブの亜人達が浮いていた。
血の臭いが、運河の悪臭と交じりあう。モノは鼻を押さえた。
(また、戦いなんだ)
きれいな水を集めて、モノは岸へと通じる水の橋を作った。
「これは」
騎士達がどよめく。
「運河を通れば、宮廷まですぐですよ」
空から見た限り、宮廷へと通じる道は、避難する市民でごった返していた。聖教府の島から移動するなら、運河を通るのが一番早いと判断した。
「ゆけ、公女を信じろ」
アクセルの馬が運河へ降りる。他の兵士達も追随した。
モノは精霊術を使って、水で馬の足を支える。
「なんと」
「水の、道か」
乗せられるだけの兵士を水に乗せると、モノは運河の上を駆けだした。水の流れの上を、馬達も駆けてゆく。運河を逆流する、銀色の波濤だ。
地下への侵攻は、すでにあちこちで伝わっているらしい。猫耳に空恐ろしい言葉が聞こえた。
「追い詰めろ」
「亜人を、追い出すんだ」
モノは怖くなった。
(これじゃ、前と何も変わらない……!)
家族と戦場に向かいながら、モノは必死に不安を押し殺した。
◆
地下にいたラシャは、光を目指した。
床を蹴ると、ふわりと体が浮く。目に見えない力がラシャの体を、外に向かって押し出した。
「ラシャ!」
仲間達の言葉にも、もはや応えない。その必要を感じなかった。
一時でも長く、一人でも多く、ゲール人を殺す。
美しい庭園が見えたが、何も感じない。
花の匂いも、外の光も、ラシャにとっては状況に過ぎなかった。彼の世界には、もはや己と獲物がいるだけだ。
――アッチ。
導かれるように、宮廷の中へ進んでいく。
裸足となり、音を殺して、見事に磨かれた石の床を歩いた。光を弾く鏡が眩しい。ゲール人の宮は、何もかもが亜人の建物と違う。
そのくせ、静かだった。太古の洞窟のようだ。
本来いるべき貴族や兵は、ほとんどが逃げてしまったのだろう。
「来たか」
二つの太陽を掲げた、一際見事な扉を開ける。
聖ゲール帝国皇帝、ヴィルヘム五世が玉座にあった。
五十年前。いや、それよりずっと前から、一族の敵であった血筋は、もはや老いて干からびた老人だ。
「……跪きたまえ」
槍を構える。
皇帝を守るゲール人達の動きが止まって見えるのは、ラシャ自身がかつてない速さを手にしているからだろう。
「来たか」
呟いた。精霊術師が、この場に近づいている。
獣の耳を持ったゲール人。ラシャとは鏡あわせのような、あの少女が。




