足りないもの
部下の報告を聞き終えたセオドリックは、自席の時計へ視線を向けた。
まだ日が沈みきっていない。
普段ならこれからが本番だ。残った書類を片付けているうちに、いつの間にか深夜になっている。
だが今日は違う。
クラリッサとの夕食がある。
共に食事を取ると約束したのだ。
セオドリックは立ち上がった。
執務室にいた者たちが、信じられないものを見るような顔をしている。
「公爵閣下……お帰りになるのですか?」
「何か問題でもあるのか」
「い、いえ。ございません」
問題しかない。
全員の顔がそう言っていた。
残業の権化のような男が定時で帰るなど、明日は槍でも降るのではないか。
そんな空気が執務室に漂っている。
セオドリックは気にせず部屋を後にした。
◇
夕食は、穏やかな時間だった。
クラリッサは今日、仕立て屋が持ってきたドレスのデザインがどれも素晴らしかったこと、仕上がりが楽しみなことを、少し照れながら話してくれた。
その笑顔を見ているだけで、不思議と胸の奥が温かくなる。
悪くない。
むしろ、順調ではないだろうか。
食事を終える頃には、セオドリックは密かに満足していた。
「それでは、おやすみなさいませ」
クラリッサが優雅に一礼する。
「ああ。おやすみ」
彼女が自室へ戻っていく。その背を見送りながら、セオドリックは書斎へ向かった。
仕事が残っている。
持ち帰った書類の束を机へ置き、椅子に腰を下ろす。そこへ、オスカーが紅茶を運んできた。
「――順調だとお思いですか?」
書類をめくる手が、止まった。
オスカーは続けた。
「全く足りておりませんよ」
セオドリックは眉をひそめた。
「何が足りない」
「まず、奥様がドレスを一着しかご注文なさっておりません」
それは意外だった。
公爵夫人ともなれば、社交用の衣装はいくらあっても足りない。デザインも気に入るものが多くあった様子だったのに。
即位記念パーティが終われば、お茶会などの誘いも増えるだろう。当然、何着か仕立てるものだと思っていた。
「歳費については伝えたのか」
「月に金貨五百枚とご説明いたしました」
「足りないのではないか?」
「まさか。奥様は最初、五百枚が歳費だとお思いだったのですよ」
金貨五百枚あれば、帝都の小さな屋敷が買える。
オスカーは、『ひとつきぶん……?』としばらく放心していたクラリッサの姿を思い出し、口元が緩むのを堪えた。
あまり感情を表に出さないオスカーが笑いを堪えている。
よほど印象的だったのだろう。
「ならば、何故買わなかった」
「それが問題なのです」
オスカーは表情を引き締めた。
「ご自身が使っていいものだと、思われていないのかもしれません」
「どういうことだ」
「公爵夫人として……愛されている自覚が、ないのかと」
「まだ彼女を侮る者がいるのか」
セオドリックの表情が険しくなる。
しかし、オスカーは静かに首を横に振る。
「いえ。屋敷全体の空気は改善されました」
今朝のセオドリックの様子を見て以来、使用人たちは誰もがクラリッサを公爵夫人として認めている。
「ならば何故だ」
「旦那様が、原因かと」
沈黙。
セオドリックは瞬きをした。
「……何?」
「初夜を、迎えておりません」
今度はセオドリックが押し黙る番だった。
「奥様からすれば、愛されていない妻だとお思いになっても不思議ではありません」
書類を持つ手が、静かに止まった。
そんなつもりではなかった。ただ、自分の事情に巻き込みたくなかっただけだ。だがクラリッサがどう受け取るかまでは――考えていなかった。
「もう一度、歳費は自由に使ってよいと伝えれば……」
「それと愛されている自覚は、別問題です」
即答だった。
セオドリックは頭を抱えたくなった。
クラリッサの、春の空を思わせる青い瞳を見ていると、言葉がどこかへ消えてしまうのだ。
「……ではどうすればいい」
観念して尋ねると、待っていましたとばかりにオスカーが答えた。
「お二人で帝都をご覧になるのはいかがでしょう」
「しかし、彼女が屋敷の外に出るのはまだ危険ではないか」
まだ人間への敵対心を抱く龍人は少なくない。特に平民の中には。
「旦那様」
オスカーが呆れ顔になる。
「公爵が隣におられて、奥様を襲う者がおりますか。帝国一、龍の力を発現できる旦那様です。これほど安全な場所はございません」
一拍置いて、続けた。
「仕立て屋へ注文されたドレスの進捗確認と、旦那様の採寸も兼ねて――気分転換に、とお誘いするのです」
「仕立て屋にはすでに、奥様のドレスを優先するよう手配済みです。いくらでもご注文いただけます。加えて、今令嬢の間で評判のカフェの席も押さえてございます」
胸を張るように、オスカーは言った。
「名付けて――『奥様に、愛されている自覚を持っていただこう計画』でございます」
ドレスを贈る。
街を歩く。
共に時間を過ごす。
それだけでクラリッサの不安が消えるかどうかは、わからない。だが、何もしないよりはいいだろう。
「……行くか」
小さく呟くと、オスカーは満足そうに微笑んだ。
セオドリックは改めて思う。
優秀な家令がいて、本当に助かっていると。
「それでは、予習としてこちらをどうぞ」
そう言いながらオスカーは一冊の本を差し出した。
クラリッサの好きな物語だ。
この優秀な家令は、自分に似合わない本を持たせて楽しんでいるのではないか――
疑惑の目を向けながらも、セオドリックはそっと表紙に視線を落とした。
タイトルは『サブレを半分こしたら幸せになりました』。
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