最後の夜は、もう少しだけ
領主館に戻り、応接間でアレクシスと今日を振り返りながら、他愛のない話に花が咲いた。
最後は穏やかな挨拶を交わし、アレクシスは自室へ、二人は寝室へ戻る。
寝る支度を済ませたクラリッサは小さく息をつく。
(今日で終わり……)
新婚旅行という名目で始まった領地視察。
領内を巡り、書面だけでは知ることのできない実情を見て、領民と言葉を交わし、多くのことを学んだ。
明日は皇都へ戻る。
途中で一泊する予定ではあるが、おそらくセオドリックと同じ寝室で過ごすのは今夜が最後だ。
最初は、同じ部屋で眠ることさえ緊張していた。
着替えも、寝る支度も、息をすることすら意識してしまうほどだった。
もちろん、今でも緊張はしているが、隣にセオドリックがいることが当たり前になっていた。
別々の部屋で眠ることを想像すると、少しだけ寂しくなる。
(セオドリック様の隣は不思議と心地いい)
そんなことを考えながら顔を上げると、セオドリックと目が合った。
青い瞳が真っすぐに重なる。
「……えっ」
思わず肩がびくりとする。
「どうかなさいましたか?」
尋ねると、セオドリックは何か言いかけるように唇を開いた。
「……」
少しだけ何かを言いかけるように唇を開いたが、セオドリックは思い直したように閉じた。
「……そろそろ休むか」
「あ……はい」
明日は朝が早い。
その言葉に頷きながらも、クラリッサはどこか物足りなさを覚えていた。
(もう少し、お話ししたかったな……)
名残惜しさを振り切るように視線を伏せた、その時だった。
「……いや」
セオドリックが小さく呼び止める。
「まだ眠るには少し早いかもしれない」
クラリッサが顔を上げる。
「茶でも飲むか?」
クラリッサの顔がぱっと明るくなった。
「はい!」
その笑顔を見て、セオドリックも穏やかに目元を緩めた。
以前にも、こんなふうに離れがたい夜があった。
焦りからあれこれと抱え込み、寝る間を惜しんで書斎へ向かった夜。
あの時は、もう少し一緒にいたいと思っても、それを口にできる理由がなかった。
寝室は別で、夜も更けていた。引き止めるのは、あまりにも不自然だった。
けれど今は違う。
同じ寝室だからこそ、眠る前に「もう少しだけ」一緒に過ごすことができる。
やがて、扉の向こうから控えめなノックが響く。
「失礼いたします」
ミレイユが湯気の立つハーブティーを載せた盆を手に入室した。
香り高い湯気が立ち上るティーカップを二人の前へ丁寧に置く。
「ありがとう」
クラリッサが笑顔で礼を言うと、ミレイユは満面の笑みを浮かべた。
「ごゆっくりお過ごしくださいませ」
どこか嬉しそうに一礼すると、静かに部屋を後にする。
扉が閉まり、再び二人きりになった。
クラリッサはティーカップを手に取る。
口元へ運ぶと、ちょうどよい温度。
茶葉の香りも、濃さも好みそのものだった。
「……おいしい」
ほっと肩の力が抜ける。
セオドリックへ目を向けると、彼もどこか表情が和らいでいた。
クラリッサはカップを両手で包み、立ちのぼる湯気を見つめる。
(休むと仰っていたのに……)
私の気持ちを察して、お茶を飲む時間を作ってくれた。
「どうして、私の考えていることがお分かりになるのですか?」
「……君はわかりやすいからな」
あまりにも自然に返ってきた言葉。
そして、その穏やかな笑み。
(……っ)
どくん、と心臓が跳ねる。
お茶の温かさとは別の熱が頬へ広がり、落ち着かなくなり、視線をさまよわせた。
セオドリックはそんなクラリッサに気づいているのかいないのか、机の上へ一枚の紙を置いた。
占い師から渡された、あの地図だ。
「今日は色々あったからな」
「はい」
クラリッサも紙を見つめる。
いくつもの分かれ道と花を咲かせる大木。
思い返すだけでも不思議な出来事だった。
「食後にもう一度あの道へ行ってみましたが、分かれ道はありませんでしたね」
「ああ。あの場所には一度しか入れないらしい」
セオドリックが紙を軽く持ち上げる。
「また占い師を訪ねれば、新しい地図をもらえるかもしれない」
クラリッサはくすりと笑った。
「その時は、お代をお支払いしないといけませんね」
「違いない」
セオドリックは口元をわずかに緩め、ハーブティーを一口含んだ。
静かな夜。
ハーブの香りに包まれながら交わす、他愛もない会話。
明日になれば、この時間は終わる。
だからこそ、今だけは。
クラリッサは、誰からも急かされることなく、この穏やかなひとときを少しでも長く味わいたいと思った。
ちらりと見上げたセオドリックの横顔も、どこか名残を惜しむように緩んでいる気がした。
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