プロローグ
ざわざわと屋敷内が波立っている。
普段からお嬢様の怒鳴り声が響くこの屋敷は、静かであることなどほとんどないけれど、それにしてもいつもと雰囲気が違う。
どうやら、大層なお客人がこのサッカレー家にやってきたらしい。
「エイダ! その汚らしい雑巾を、さっさとしまってきなさい!」
サッカレー夫人のゴミを見るような目線にも、もう慣れたものだ。
「はい、ただいま」と階段の手すりを拭いていた雑巾を畳み直すと、洗い場へと持っていく。
「ねえ、それは本当なの!?」
「ええ、確かにお付きの騎士様が仰ったって……! 王太子殿下がこちらに来ているのだと!」
すれ違いざまに聞こえてきた他のメイドたちの声が、耳に入る。
大層なお客人だとは思ったが、まさかこの国を担う王太子殿下が来ていたなんて。成り上がりの商人の屋敷に、いったいどのような要件なのだろうか。
ちんたらするなと叱られる前に雑巾を洗うと、足早に玄関へと戻り後ろに控える。
たくさんの野次馬であまり前は見えなかったが、興奮した様子のお嬢様と夫人の声が、やけにホールに響いていた。
「この家に、王太子殿下がお会いしたい方がいらっしゃるそうだ」
剣を携え、そうまっすぐな瞳で言った騎士様は、探すように辺りを見回す。
だがそんな騎士様をよそに、夫人は上ずった声で一人娘であるお嬢様を呼んだ。
「まあ、デイジー! 大事に育ててきたんですもの。いつか素敵な貴族様に嫁ぐのだろうと思っていたけれど、まさか王太子殿下があなたを見つけてくださるなんて……!」
「お母さま、私、夢を見ているようだわ……。きっと、幸せになってみせます」
完全に自分の世界に入り込んだ婦人とお嬢様を通り過ぎ、旦那様は大きな腹を揺らして騎士様へと近づくと、下卑た笑いをたたえながら手をもんで話しかる。
「これはこれは、エイヴォリー公爵令息……! 王太子殿下が娘に、どのような要件で?」
騎士様は旦那様を前にしても、何も口にすることはなかった。
ただ真顔で旦那様に目礼すると、また誰かを探すように辺りを見回している。
半ば無視されたことに、流石の旦那様の笑顔も固まる。
だが腐っても商人、すぐに気を取り直すと、「娘はこちらです」と両頬に手をあてたお嬢様へと騎士様を案内しようとした。
「ピアーズ。見つかったか?」
その時ホールに響いた、壮麗な声。ざわついていた屋敷が一瞬だけ静かになる。そして、そのあとにさらにざわつきが大きくなった。
「王太子殿下だわ……!」
「まさか、こんなに近くで見ることができるなんて……!」
「噂に違わず、本当にお美しい方……」
国でも生粋の美青年として名高い王太子殿下を目の前に、お嬢様は頬を桃色に染めあげて声も出せずにいるようだった。
対する王太子殿下は、首を横に振る騎士様に、小さくため息をついている。
(すぐそばにお目当てのお嬢様がいるというのに、何故……?)
人の頭の隙間から、そっと様子をうかがっていると、ふと王太子殿下がこちらを見たのが分かった。
気のせいだろうか。目が合った気がする。
「殿下、こちらが娘のデイジーで……」
図々しくも声を上げた旦那様を素通りし、王太子殿下はまっすぐにこちらへとやってくる。
きゃぁ、と周りのメイドたちが声を上げる中、私はひどく困惑していた。
(……やっぱり、目が合ってる、よね……?)
あれほど遠かった王太子殿下はすぐ目の前へとやってきた。
固まった私と王太子殿下から距離を取るように、周りの使用人たちは後ずさっていき、私の周りには池のように円ができていた。
そっと、握りしめていた手を取られると、流れるように王太子殿下は跪く。
絹のように艶のある美しい銀色の髪に、煌めくセルリアンブルーの瞳。白く透き通った肌はまるで陶器のように滑らかだった。
「エイダ。どうか俺と結婚してほしい」
どうして私の名前を知っているの?
鬼のような形相でこちらを見る夫人とお嬢様が視界に入り、悪寒が走るのを感じながら、私はただ困惑して王太子殿下を見つめることしかできなかった。