眠りに
一方その頃、媛野は一人考えていた。
「あの子大丈夫かな~。なんでこんなに心配なんだろうなぁ……お節介が駄目だって分かってるのに。は~もうここまできたら病気かなぁ」
家族が仕事に行っているため、独り言を大きな声で発することが出来る。これは媛野の一種のストレス発散法だ。家の廊下をクルクルとバレエダンサーのように回りながら進む。
「あ~あ。でもちょっと感じ悪過ぎるよ~、どうしよう九月から。学校で超険悪な雰囲気とか嫌だなぁ~」
新しい環境において、敵を作ってしまうと絶対的に過ごしにくい。変な噂を流されたりされかねない。
『あの人はそんな人じゃないよ。ただ、とっても可哀想な人』
「え?」
ぼんやりとした音が家全体に響き渡ったように感じた。その声は優しい女性の声。幼い頃に数度ほど聞いたことのあるものだ。
立ち止まり、一応辺りを見渡して見るものの誰もいない。
――いるの?
実は、姫野にとってこれは初めての経験ではない。幼い頃に何度か女性の声が聞こえたことがあった。しかし、当分なかったものだからすっかり忘れていたのだ。
『お願い……彼の所に行かないと。まだ終わらない。また繰り返してしまう』
――彼って誰? 行くってどこに? 前も聞いたけど教えてくれなかったよね
『まだ分からなかったの、今の彼の名も。居場所も。でも、今なら分かる。貴方も聞いたでしょう? 家に行った時、彼の名を』
――名前? あ
家の外から女性の声でハッキリと聞こえた。”宙彦”と。
『呪いを終わらせる。彼を憎しみから解放してあげたい。もう誰も巻き込みたくない』
――待ってよ。貴方は一体誰なの。あの時にもこれを聞いたと思うけど
『名前なんて忘れてしまった……彼の名前さえも。答えてあげたいけど、分からない。私が分かるのは、彼の恨みを晴らしてあげることが出来たら、この呪いから解放されるということだけよ』
――じゃあ、その呪いって?
『彼は……私が彼を殺したのだと勘違いしているの。悠久の時のように長い時間、魂の旅を続けて……私の知らなかったことを、彼の中で生まれた誤解を知ることが出来たの。40回目の時、私にノコギリを向けながら言ったわ。”お前が俺を殺したんだ、全てを裏切って。この恨み、まだ消えぬようだ”って』
――殺したの?
『違う。消えゆく意識の中、私は考えた。一体彼が何を言っているのか、理解出来なかったから。でもね、分かったの。もしかしたら、お姉様と私を勘違いしているのかもしれないと』
当たり前のように続けられるやり取り。この声は周囲から聞こえているのではなく、媛野は自身の中から響く声なのだと理解し始めていた。
『お願い……全て終わらせる。誰も死なずに、誰も傷つかずに解決する方法が一つだけあるの。彼が殺しに来る前に……その体を貸して欲しいの』
――体を?
その言葉に媛野は、急激に恐怖を覚えた。体を貸すなんて言葉は聞きなれないし、理解出来ない。
「え、怖い……嫌だ」
媛野は思わず、そう漏らした。
『ごめんなさい。でも、もう時間がないの。今までみたいにはやっていられない』
瞬間、媛野の視界は真っ黒に染まった。目の前にはその声の主と思わしき、真っ赤な着物を着た美しい女がいた。
――来ないで、あっちへ行ってよ!
女は、スーッと近寄ってくる。媛野は逃げようとするも、体はその場から金縛りに合ってしまったかのように動かなかった。
――嫌、嫌だ!
『この魂は今の貴方達のものであるはずなのに……ごめんなさい』
女は、媛野に手を伸ばした。媛野の体は光を発し、透き通っていく。その体と女の体はゆっくりと融合していく。媛野の意識は、遠くどこかへ落ちていった。
「待っていて……今度こそ」
本来の姫野は眠りについた。今、媛野の中にいるのは、赤き着物の女である。女は、申し訳なさそうに胸付近を押さえると、頭を下げた。
「貴方が目覚める頃には全て元通りになっているわ」
女はそう呟き、顔を上げた。そして、裸足のまま家を飛び出した。