第九章
湿った土の匂いがした。
「起きて、ケアル」
だれかが俺の名前を呼んでいる。
渇いた喉から出た声。疲労であまり元気のない声。急かすような声。
それは姉さんの声だった。
上半身だけ起きて、「お姉ちゃん、どうしたの?」と尋ねた。
焚火の炎の光が姉さんの横顔を照らしている。周りが暗すぎて、その炎だけが頼りだった。
姉さんは、明後日の方向へ向くと、言った。
「逃げるわよ」
早口言葉みたいに言って、俺の近くにいるもう一人を叩いた。
「カンナも起きて」
うす暗い光を借りてその人を仔細に眺める。
妹のカンナだ。
前の世界線では俺の妹が毒で死んだ。今回はちゃんと生きている。
「お、お姉ちゃん、乱暴しすぎよ。カンナを叩かないで」
すやすやと眠っているカンナの寝息を聞くと、先まで混乱していた俺の心も落ち付いていた。しかし、なぜか姉さんが強引にカンナを起こそうとしている。
「ごめんなさい。でも、時間がないの」
そう言って、姉さんはカンナを抱き上げておんぶする。
俺は眠くて、今でも倒れて寝てしまいそうなのだ。状況の理解はできない。まずここはどこなのかですら分からない。
少なくともここは家の中ではないことは知っている。
姉さんは焚火を蹴散らし、火を消した。
「さ、行こう」
そう言って、彼女は俺を撒く勢いで速足で森のさらに深いところへ行った。
俺は仕方なく姉さんの後ろについていく。
妹は前後不覚に眠っているのを見て、何があったのだろうかと考え込んだ。姉さんに叩かれてもまったく起きる気配がない、よほど疲れているように見える。
「ケアル、いる?」
姉さんはやはり心配になって、慌てて言った。
「いるよ。後ろに」
暗くて何も見えないので、俺は姉さんの服の裾を掴んで、前へ進んだ。
ここは家どころか、ゴブリン村ですらない。
なぜこんなところで寝ているのだろう。
「村の皆は私たちよりも早く逃げた。もうすっかり遅れちゃって、だから早く行かないと」
行くって、どこ?
「村は、どうしたの?」
俺はおずおずと言った。
なぜ逃げる? もしかして、俺はまたやらかしたのか。
結晶マタンゴを殺すって、まずいことになったのか。
「あの化け物から逃げようと、皆は西のアルカンシェル地方へ逃亡したの。ゴブリン村だけじゃない、魔物の草原の皆は全部よ。あの、死を司る化け物からね」
どうやら化け物が出現したみたいだが、なんで?
「それはいつからのこと? ねえ、兄さんたちはどこ?」
俺はさらに聞いてみる。
すると、姉さんが突然立ち止まった。
暗闇の中に、姉さんの表情が見えない。でも、それは悲しい表情だとすぐに覚った。
俺が無駄な口を叩いたからだ。
姉さんは後ろを振り向くと、力強く俺を抱きしめた。彼女の震えが身体を通して伝わってきた。
「ケアル、不安させないでよ。あの化け物、ケアルも見たのでしょう」
俺はこの世界線の記憶がないから、不意の発言が、いいえ、問い詰めだろうか、ショックで記憶が曖昧になったと思われるに違いない。
兄さんたちが死んだ。それしか思い当たらない。なぜ一緒にいないのか、一緒にいるとまずいのか。考えられるのはそれそれ一つだった。
だけど、悲しい気持ちが想像以上に薄かった。
心の感情がスキルを使う度徐々に失っていく気がする。皆が死んでいるのに、それはただの事実として受け入れる。いずれスキルを使ってなんでも挽回できると思ったから、当たり前のように身内の人が死んでも俺はいつも通りの振る舞いをする。
以前の俺にしたらそれは恐怖にしかない。感情のない人間は一番嫌いだった。俺はああいう人になりたくない。でも、俺は無感情な人間になりつつある。今はそのように感じている。
だから家族の皆とプーちゃんが救える世界に行けば、俺は『世界通路』のスキルを封印することに決めた。
けれど、そのような未来があるとしても、それを実現する前、俺は腹をくくってスキルを使うしかない。
なぜが使う度、世界がもっとひどくなっていくのだが。
この先はさらなる狂乱な世界が待っていると思うと、一瞬、諦めようかと考えていた。
その方こそが本心だろう。俺だって怖いのだ。次に死ぬのは俺だという可能性もたっぷりある。
死んだ家族や村の人がいる。割合からして世界線を超える先、その世界線の俺が絶対に生きている保証はない。
自分の死んでいる世界線に飛ばされて、俺はどうなるのか。
時空の狭間に永久に閉じ込められるのか。それはないとしてもやはり死ぬのは怖い。
しかし、プーちゃんを救いたい。
一人の女の子を見捨てるまで自分の生き永らえを望むなんて、俺にはできない。
そんな残忍なことをしても何事もないように平気にいられるほど俺はまだ老獪な人間ができていない。
だから及び腰ながらもやるしかない。
「ごめんなさい、お姉ちゃん、ぼくはちょっと寝ぼけたんだ。あの化け物のせいで、村は滅んでしまったんだ」
俺は安心させるように姉さんの肩に手を置いた。
できるだけ、姉さんの支えになりたい。俺と妹の世話をして、彼女の方こそ倒れそうだ。
「ケアル……」
「うん、ここにいるよ」
俺はぼろぼろまで履いていた突っかけを履きなおして、姉さんと共に前へ進んだ。
危険生物が溢れる森の中、俺たちはひたすら進む。
そして森もまばらになって、やがて森ではなくなり、辺り一面は草原になった。
ちなみに、その森は結晶マタンゴを仕留めた森ではなく、南西方向の一面の大きな森だった。
その森は人間の国の国境線があって、魔物の草原方面はカランスネッシア帝国で、アルカンシエル地方は聖・グラントゥー第二帝国の土地だった。
人間の国の話、つまり、魔物にはあまり関係のない話だ。
魔物の住む森や草原は、昔から魔物の所有地で多くの魔物が生息している。我が物顔で自分の領土だと宣言する人間は魔物の草原に闖入する度、かならず武力紛争を起こす。
魔物たちの縄張りもあって許可なく入ることは許されないので、入った人間を攻撃するのも道理だ。
しかし人間は「魔物はあう度に攻撃をしに来る知恵のない敵対生物だ」と対外宣言する。
魔物たちもなかなか戸惑ってしまう。
自分は正義のためだと自説を固持する人間のことが苛立たしい。我々はそれが苦手だった。
せめてコミュニケーションができればと魔物の中にも人族の言語を研究する者がいた。しかし魔物はあくまでも低劣な種族だと心底そう思っている人間との心の通じ合いはハナからできなかった。
前世の自分が人間だったので、魔物になった今は客観的に自分を見ることができる。そうしたら自分に対する嫌悪感がすごい勢いで湧き上がって塞ぎ込んでしまう。
俺たちはアルカンシエルのゴブリン村に到着する頃、太陽はまだ上っていないが、空の色はちょっぴり白色の光が見えた。
門番に事情説明をした後、難なく通させた。
ここのゴブリン村も同じく門限があり、朝は自由に通せるが、夜は閉じて警備も付けている。
どうやらこちらへ来た魔物の難民も少なくないようで、何があったのか実際も状況把握していた。
誰も住んでいないバラック小屋を簡単に整理して、ここで少し休憩をする。姉さんはひとしきりの休憩の後、どこへ行った。
彼女は山へ入って、山菜、食用スライムをつかまってご飯の用意をする。
その間、俺は妹カンナの様子を見る。
散々苦労して四時間以上も歩いたのに、こいつは楽しそうに眠っている。
能天気なやつだ。泣くまで頬をつまんで引っ張ろうか。
そうするつもりだったが、カンナの寝顔を見ていたら、しょうもないやつだなと思って、やはり起こさないようにする。
「では、やるか」
俺は深呼吸して、スキル『世界情報』を発動。
お姉さんとの森の会話からして、魔物の草原は結構危うい状態になっている。
知っているのは、皆が逃げた。たくさんの人が死んだ。そして、化け物が出た。
化け物か。見当もつかないな。結晶マタンゴを殺した原因で化け物が出た。なんというか辻褄が合わない感じだ。
それは本当に俺のせいなのか。とりあえず情報が欲しいので『世界情報』のスキルを使う。
「来た」
何秒の後、痛みが襲ってきた。
記憶が直接に頭の中に送り込む痛み。さほど痛くはないけれど痛みを耐える間はまともに思考することもできない。ただ嫌味を与えるだけのこの痛みは何とかしたいけど何秒間まもないうちに解消するから耐えられなくもない。
頭痛がちゃんと解消した後、俺は追加された新しい記憶を覗き込む。
ふむ、あのネクロマンサーのやったことか。
記憶によると、ネクロマンサーは人間の魔物粛清に応じて、化け物を召喚したみたい。
勇者の死が暴露し、カランスネッシア帝国の国王は怒りで魔物粛清の命令を出した。
もちろん魔族たちはそれが無視できないので警告もした。
しかし、人間はそれでも魔物と戦争しようと兵を集め、ルームン地方付近、ギザウオーデン森で大規模な魔物屠殺をした。
魔族も仕方なく兵をあげ、カランスネッシア帝国兵と対峙した。
魔族のおかげでカランスネッシア帝国兵はルームン地方に留まって、大した殺戮はできなかった。
それなら別に魔物の草原には被害が及ばないのだが、人間側はその後、すぐに国内の重臣貴族の面々を招集して、打開策があるかと打ち合わせをした。
すると国王派のアルバートがとあるものを持ってきた。
「前に討伐した魔物がありまして、その魔物は、なんと、体内にこういうものを見つけました」
片膝をつくとアルバートはそのものを国王に献上した。
堂内の両側およそ三十人ほどの貴族が立っていて、何物だろうかと不思議に覗いていた。
そのものは、魂の塊だろうか、炎のように空中に漂い、忌々しいオーラを発散していた。
「アルバート卿、それは何物だろう?」
国王はいぶかしげに聞いてみた。
アルバートは微笑んで言った。
「これはとある魔物の死骸に残された魔王の種です。つまり、その魔物は、未来にかならず魔王になるのです。それは私が討伐したのです」
それを聞いて、貴族たちはざわめいていた。
魔王はまだ復活していない。その原因は魔王の種を持つ魔物が死んだか、それとも魔王の種はまだ誰でも授けられていないのかの両方の原因だった。
魔王の種を持つ魔物は、妨げなく成長すれば、何年後は魔王のユニークスキルを持つことができるという、魔王になれるのだ。
魔王不在のいまでも魔族が人間とうまく立ち合っている。魔王が誕生してしまうと、人間はほとんど勝算がなくなる。
「よくやったな、アルバート卿。これではしばらく魔王復活の心配がなくなる」
国王は賞賛の言葉を口にすると、堂内の貴族はそれに合わせて一斉に拍手した。
だが、アルバートはそんな賞賛を得るためにここに来たんじゃない。人間社会のさらなる繁盛を彼は求めている。人間の繁盛はネクロマンサーの繁盛でもあるのだ。
人間にとって、ネクロマンサーは害と見なすべき存在だった。しかし彼ら一族は人間を助ける。そして人間もその助けを求めている。双方の立場からして言い得て妙だ。
もっと理解しやすい言い方にすれば、ネクロマンサーは寄生虫で、人間は宿主。宿主が苦境のトン底に落ちてしまうと、寄生虫もとても生きていられない。
「確かに魔王の復活は私が偶然にも阻止した形になったのです。しかし今回はこの件についての報告だけではありません」
「ほう……また何かあるのか」
「左様でございます。魔王の種はかなり希少なもので、何千万匹の魔物の中に一匹しか種が持っていません。前に人間がそれを手に入れたのは400年ぶり前の頃です。あの頃人間が種を魔法の研究材料として使い、魔法が飛躍的な進歩が目に見えるほどでしてね、人間も魔物と区別され、技術力も魔物より上になりました。今回の戦争では、魔王の種を使って戦争に投入すれば、魔族は間違いなく災難でしょう。実はこの魔王の種を使えば、召喚術で魔王を召喚することができます」
「なんだと!」
ネクロマンサーは死霊術が得意といわれている。死霊術は召喚術の一種で、召喚される死霊は強力な契約獣になる。
だけどネクロマンサーは死霊術以外、普通の召喚術も使える。というか、召喚術は種族関係なくだれでも使える。
召喚術を使うには、必要なのは魔力、道具、そして知識だけだ。条件を備えれば誰でも召喚術が使える。
そうは言ったものの、召喚できる召喚獣の強さは術者の素質によるものだった。誰でも苦手なものはある、いっぱしの魔術師が魔力量問わず、召喚できる召喚獣はトカゲくらいのものがいれば、古代龍が召喚できる三流の魔術師もいる。
アルバートは一般召喚術も使える。ただし今回の召喚対象が魔王だから、用意する魔法陣が少々複雑になっただけだ。
国王はさすがに沈黙してしまう。
その場にいるとある長躯痩身の貴族が懸念の声を出す。
「しかし、魔王を召喚したら、まずいではないか」
魔王が復活してしまうと、人間が不利になる。それはいつもの常識だった。
「ご心配なく、召喚されたものはどんなものであれ、隷属紋は絶対にかけられるのです。隷属紋があれば、魔王でも人間を逆らえません。むしろ魔王は人間の命令に従うしかなにもできません」
「そんなことが、本当にできるのか」
驚いた声を上げ、堂内の貴族大臣たちはまたもや騒めきはじまった。
「我がアルバートの名をかけて、それは確実に実現できます」
アルバートはさらに頭を深く下げる。
「ふむ」国王は言った。「相手の兵士を自分の味方にしろか。兵士どころか、敵将を味方にするとは。いきなり王手をかけるなあー」
国王は立ち上がり、周りはその勢いで一気に静まり返った。
「よろしい、アルバート卿、そなたに召喚の儀式を行うようにと命ずる。魔の者を打ち滅ぼした後、褒賞を授けよう。それでは今回の会議はこれまでだ、皆は下がってよい」
「はっ!」
人々は堂内からぞろぞろと出て帰った。アルバートは出て、二頭の馬車を乗り、帰宅する。