三章 四 ちょっとした事件と、初めての料理
飲食店というはじめて就く仕事は、思ったよりは問題なくやれていた。
多少男性の客に絡まれることもあるが、基本的には片付けだけを担当するシェスティが表に出ている時間は少ない。もう一人の従業員であるゾフィもシェスティが絡まれるのを嫌がっていると察したのか、それとなく庇ってくれていた。
とはいえ、ちらちらと見える銀髪の見慣れぬ店員が、片付けの時だけ出てくることに気がつき、出てくる回数を増やそうと普段は頼まないサイドメニューを頼む者が増え、売り上げが伸びた――らしい。
そんな集客効果があるとわかっても、シェスティを前に出して客寄せにしようとしないヴェロッテとゾフィには感謝しかなかった。ある程度魔力は回復するあてがあるものの、〔解呪〕を使う機会はなるべく減らしたい。
――問題は仕事が終わった後である。
夕前の鐘の音が鳴る頃には店を出させてもらっているシェスティだが、二日目から店を出た途端男に話しかけられたのである。仕事が終わる時間を見計らって出待ちされていた。
それ自体はテンベルクでもしばしばあって、慣れたものだったため、〔解呪〕をしつつ、急いで表通りに出て人込みにどうにか紛れる――というかたちでかわしていたのだが。
働きだしてちょうど一週間目のことだ。
環境に慣れるため、食事は賄いを出してもらえる昼の他は総菜で済ませていたのだが、そろそろ出費を抑えるべく食材を買おう、と商店街で買い物をした。朝の時点で、今日から自炊をするつもりだとゼルギウスには伝えてある。
調味料は備え付けのもの――という名の前入居者の置き土産――があった。保存は利くが徒歩の旅に持っていくには重い塩などは、こうして次の入居者のためにギルドに申請の上置いておかれることも多いらしい。なので野菜や肉といったものだけ購入したのだが、それでもそれなりの重さになった。
そこで道行く男からかけられる、「持ってあげようか」などという言葉に対して〔解呪〕を行いつつも対応していた。
今までは最低限の買い物をしたら足早に通り抜けていただけだったのだが、その日は料理をする初日だということで買いすぎたのもあり、急ぎたくとも歩く速度は落ちている。その上魔力不足で若干注意力散漫になっていた。
……いや。それだけが原因ではない。少しだけ、少しだけ浮かれていたのだ。美味しいと言ってくれるゼルギウスの姿を想像し、胸を弾ませて、疲れている体もなんのその、と可能な限りの急ぎ足になって。
そのせいで。
家の前で買い物袋を一度置いてから、鍵を取り出そうとして、――そこでようやく、背後の気配を感じた。
――下卑た空気。本能を刺激する、食事の匂い。ゼルギウスではない、と振り返る前からわかっていた。
「ここに住んでたんだね、店員さん」
振り返ればそこに立っていたのは傭兵らしき男だった。店で時折見かけたことがある――ような、気がする。
尾行されていた、とわかっても、ここまで来られてしまえば後の祭りだ。
「ねえ、店員さん、ちょっとお邪魔させてほしいんだ、君とお話してみたくって……わかるでしょ」
「……いやです。ここは、私だけの家ではありません」
シェスティは鍵を開けてさっさと中に入ってしまいたかったが、ここまで近寄られてしまえば閉じる前に押し入られてしまうかもしれない。そうなるともう、追い出す術がない。
「ちょっとだけだよ、友達連れてくるくらい、いいでしょ」
「いつあなたと友達になったんですか」
「ええ、あんなに熱い視線を送ってくれたじゃないか!」
それは完全に気のせいである。なのだが、それを言っても仕方がない。
どちらにせよ、この傭兵の魔術抵抗力が著しく低いか、シェスティが迂闊にも視線を一瞬合わせてしまったかの、どちらかだろう。食器を下げるときもなるべく人と目を合わさないようにしていたつもりだったけれど、かかってしまったらもう原因探しなどしたところで意味がない。
家の前まで来られてしまうと逃げようもなく、〔解呪〕の魔力量も心許ない。どうしようもなく後ずさりした。
背中にとん、と壁の感触を感じたのと同時、階段を上がってくる音がした。ぴく、と男が伸ばしかけていた手を止めて、体を強張らせる。
ほどなくして、上がってきた人物の姿が男の肩越しに見える。ふっと肩の力が抜けたのを感じた。
「……シェスティ。知り合いか?」
シェスティに迫ろうとしていた男は、ゼルギウスを見て少しぎょっとしたようだった。ティアラントに住むトールマンは、比較的長身な者が多いらしいが、その中であれゼルギウスは大柄な部類に入る。顔をしかめて見下ろしてくる姿は、護られている側としては心強いことこの上ないが、咎められている立場では真逆の印象だろう。
「ち、違います、その……お店からつけられてしまっていたようで……」
問いに対してしどろもどろに返す。
「つけるって、そんな言い方……」
「そうか。見たところ傭兵だな。迷惑行為としてギルドに報告しておこう」
ゼルギウスは男の弁解をすっかり無視して畳みかける。
「あの、そこまでは……」
とシェスティが言うか言わないかのうちに、男はゼルギウスの脇を抜けて去っていった。……なんとか、咄嗟に軽めでも〔解呪〕をかけておく。やらないよりましだろう。
「いいのか。つきまとい行為は罰則の対象だったはずだ」
「初めてですし、特に大事には至りませんでしたし……」
そう言うと、ゼルギウスは呆れたようにため息をついた。
「貴女は前もそう言っていたが、もしすぐに俺が来なかったら大事になっていただろう。次からはもう少し厳しく接したほうがいい。特にここにはしばらく滞在するのだから」
彼は言いながら扉の鍵を開け、床に置いたままだった買い物袋を自然に持って中に入っていった。あわてて、すぐ後ろについていく。
「……すみません、ご迷惑おかけして」
「気にするな」
そう言われても、気にするものは気にする。確かにゼルギウスがちゃんと来てくれていなければ大事なのだ。毅然とした対応というものも、時には必要なのだろう。
どうしても、自分がサキュバスでなければ、とか、ちゃんとサキュバスとしての本来の魔力供給を行って、自分の〔催淫〕をコントロールしていれば、こんなことにはならなかったのに――という気持ちもあって、なんとなく強い対処をしたいと思えなくなってしまう。
それでも、曖昧にするせいで事がどんどん大きくなってしまえば、それこそゼルギウスに迷惑がかかるのだ。
「……それより、かなり買ったんだな」
シェスティが凹んでいる間に、ゼルギウスはキッチンの前まで袋を運んでしまっていた。
「量、多かったでしょうか?」
「いや、どのくらい必要かは俺には判断できない。そうではなく、重かっただろう」
「いえ……いや……そうですね。少し」
「無理をさせたな。疲れていないか? 今日のところは、出来合いのものを買ってきてもいいが」
「大丈夫ですよ。すぐ作り出しても食べられますか?」
ゼルギウスはしばらくじっとシェスティの表情を伺っていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「そうだな。頼む」
「わかりました」
そう言って部屋に戻り、荷物を置く。軽く屈めた体を起こしたとき、頭がくらりと揺れた。魔力が枯渇している。
普段は食事後に花の調子を観察しながら吸うのだが、今日は先に『食事』を済ませておかないと倒れてしまいそうだ。
(久しぶりにお料理するんだから、ふらふらだと失敗しちゃいそうだし)
久しぶり――といっても、ゼルギウスと旅に出てから数週間程度のことで、ブランク、とは言い難い。それでもシェスティは少し緊張していた。好きな人にはじめて手料理を食べてもらうのだ。薬は飲んでもらったが、もっと親密で、プライベートなことのような気がする。
窓辺に置いた植木鉢に手を触れて、その精気を吸い取る。そのとき、眼下の街で、男女が腕を組んで歩いているのが目に入った。
一瞬頭に浮かんだ、「うらやましい」という言葉が、すぐに霧散していく。冷や水を浴びせられたように、浮かれていたシェスティの頭は冷静になった。
(美味しいって言ってもらえて、胃袋を掴んだとして、……それからどうするの?)
たしかに、シェスティが努力して、なんとかゼルギウスからの好意を得られたら、契約で縛られただけの関係から、契約終了後も共にいる理由をなんとか見つけられるのかもしれない。
けれど、サキュバスであるという真実を、隠し通して傍にいられるのか。――恋仲になることを目指すならば、それは無理だろうと思う。
サキュバスは対象としたい相手に合わせてある程度姿を変えられるけれど、身体に刻まれた魔術紋だけは誤魔化せない。見た目は下腹部に描かれた入れ墨のようなものだが、サキュバスが常に放つ〔催淫〕の源泉であり、凶悪な呪いのトリガーでもある、サキュバスという種族の心臓部のようなものだ。
魔術紋を直接視認すると、仮に女性であったとしても理性が吹き飛ぶ程度の強力な〔催淫〕魔術が発動する。精力が枯れるまで絞りつくしかねず、場合によっては腹上死もあり得るため、サキュバスは割と着衣で食事をとることも多い。回避するためには事前の入念な〔抵抗〕魔術による準備が必要で、それも生半なものでは耐えられない厄介さだ。
相手に魔術が効けば、その強い効果によって理性を吹き飛ばし行為に及ぶことで魔術紋があったこと自体を誤魔化せる可能性はあるが、ゼルギウスは完全に魔術を無効にするために間違いなくバレる。
恋仲になるなら、シェスティだって正直したい。
酷い飢餓感は今もあり、先程嗅いだ匂いのせいでお預けをくらった気分だ。
けれど、どこかで魔術紋を見られて、サキュバスだとバレてしまったら。
(……というかそもそも、ゼルギウスさんって、性欲あるのかな……)
エプロンをつけながら何度か考えたその問いに辿り着く。そもそも女性に異性としての興味があるのか甚だ謎な人だった。
そういう話も雰囲気もなく、寝るところがなければ同衾を提案し一切の手出しもせず。
――なんというか、胃袋を掴んだところで向けられるのは感謝とか友愛とか、シェスティの恋慕に対して期待するものよりも淡泊なものになりそうな気がしてきていた。
そういったいくつかの事情を考慮して。
この自炊の目的は『第一に節約、あわよくば契約が終わった後もご飯を理由に離れがたいと思ってもらえる程度には美味しいものを作る』ということになった。
少しばかりの思考時間を終えてキッチンへ戻ると、ゼルギウスの姿はなかった。装備の手入れをしているのだろう。手を洗うと、料理の支度を始めた。
今日の料理は羊肉をメインに、サラダとスープを作る。パンは美味しそうな店のバゲットをいくらか買っておいた。
サラダは葉物野菜を中心に。ドレッシングは購入せず、オイルと香草、塩を混ぜたものを使う。
羊肉は少しだけ高かったが、なるべく安くていいものを選んだつもりだ。それをさっと焼く。中身は美しいローザに。いくらかの香辛料と香草を使う。流通のいいフェルトシュテルン地方でも、胡椒はそれなりに結構高いから、控えめに。
そこまで時間がないのでスープはベーコンを使い、出汁をとる時間を短縮する。サラダを作った時に出た野菜のあまりを細かく切って、ベーコンと共にスープに入れる。ゆくゆくは喫茶店が休みの日に時間をかけて数日はもつタネを作っておきたいところだ。
フェルトシュテルン地方はベルグシュタット地方に比べて海に近いこともあり、塩が幾分安い。それとなく確認したところ、入手困難になるということもないようなので、過剰な節約はせず必要なだけ入れる。
味見をしてみると、ちょうどいい塩梅の塩辛さだった。そこから、ほんの少しだけ塩を追加する。体を動かしているゼルギウスは、汗をかく分シェスティよりも塩分の多い食事を好むだろう。
羊肉は焼いてから時間が経ってしまうと味が悪くなるので、盛り付けから配膳まで時間を計算していく。
概ね食卓に並べ終わったあたりでゼルギウスが部屋から出てきた。食卓に並んだ料理を見て、少しだけ驚いたようだった。
「すみません、今日はちょっと手抜き料理ですが」
「いや、むしろ手をかけすぎだ。別に肉を焼いただけでも――」
「お肉とパンだけたくさん食べるのではおなか一杯になるのに結構なお金がかかってしまいます。お野菜でお腹を膨らませば、少し安上がりですしついでに栄養も取れていいですよ。フィールファルベは、農作物が安いですし……」
「そう……なのか?」
本当に今日はすぐできる料理ばかりで、少し恥ずかしいくらいだったが、ゼルギウスは少し首をひねりつつも、「仕事もしているのだから無理はするな」と言いながら席に着いた。冷めてしまうのもよくないということで、食べ始める。
「……あの、お口に合いましたか?」
「ああ。美味い」
「よかった」
微笑んで言われた言葉に世辞はなさそうで、思わず顔がほころぶのがわかる。テンベルクにいる間も、モニカの分まで含めて食事は担当していたから自信はあったけれど、こうして美味しいと言ってもらえるのは素直に嬉しい。
ただ、サラダは少しだけほかに比べて手が進まないようだった。別に不味いというわけではないらしいし、スープは抵抗なく野菜も食べていたから、もしかすると生野菜が嫌いなのかもしれない。明日からは炒めてみたり品を変えてみよう。――と。明日の献立の計画を軽く立てながら食べ進めていく。
「……ああ、シェスティ」
ほとんど食べ終わりかけた頃、それまで黙っていたゼルギウスが口を開いた。
「なんでしょう?」
「シェスティが働くと言っていたのは、『色彩亭』という喫茶だったな」
「はい」
ゼルギウスは言ってから羊肉の最後のひとかけらを口に含み、咀嚼する。そうして飲み込んでからまた喋りだした。
「仕事はいつ終わるんだ?」
「ええと……だいたい、夕前の鐘の頃です」
「なら、その時間に迎えに行く。一人で帰らないように。俺のほうが遅かったら、店内で待っていてくれ」
「え……え?」
「ごちそうさま」
シェスティの困惑をよそに、ゼルギウスは食器を片付けはじめた。
「ま、待ってくださいゼルギウスさん。ありがたいですが、その……えっと、ご迷惑じゃ……依頼もあるのに……」
「いや、迷惑ではない」
彼は淡々とした調子で断言する。
「フィールファルベまで来た今、貯金もあるし、金にはそう困らない。言ってあっただろう。
それに、基本的に日帰りの依頼は夕刻までに終わらせる。日が落ちてからは危険が増すから、お前のことがなくとも、余裕をもって戻るつもりだった」
ゼルギウスの表情は、片付けをしたりして動き回っていて伺うことができない。だからシェスティは、淡々としていて抑揚に乏しい――普段通りと何ら差異の読めない声から、彼の感情を推し量ることができなかった。
とりあえず、もうすっかり空になってしまった自分の食器を、シェスティも片付け始める。
「それに、ああして押しかけられるようなことがまたあっては困る。…………俺は護衛だしな」
「……はい、わかりました。すみません……」
そう付け加えられてはシェスティも反論しがたい。ああいうことがあるとシェスティだけでは対処できないのはわかっている。普通護衛依頼で想定される魔獣との戦闘よりも、ああいった手合いからの護衛の方が多くなってしまいそうな勢いだ。
俯いたシェスティに、ふとゼルギウスが振り返った。少し首を傾げる。
「謝ることではない。護衛依頼の範疇だろう」
「うう……そうですね……」
普通に拠点に滞在するだけでも護衛されなくてはならないなど、面倒な護衛対象だろう。可能な自衛方法さえ提示できたら迷惑をかけずに済むだろうかと思ったが、シェスティがサキュバスである限り難しそうな気がする。
考え込んで手の止まったシェスティがはっと気がついた頃には、食器はシンクにすっかり運ばれ、ゼルギウスが洗おうと袖をまくっていた。
「あっ、わ、私がやります! すみません、ぼーっとしちゃって」
「……。そうか」
ゼルギウスはじっとシェスティの顔を伺ったあと、風呂の方へと向かった。水の音がしはじめる。風呂の準備をしてくれているのだ。家事はこちらで担当したかったのに、ぼーっとしていたせいでゼルギウスを休ませられなかった。
皿の汚れを落とす単純作業をしながら、シェスティはぼんやりと思考を巡らせる。
ゼルギウスがいれば、さすがに声をかけてくる男はある程度減るし、周囲を過度に気にしたりしなくてよくなる。単純に気が楽になるのだ。
それに、一緒にいられる時間が増えるのは、正直、ちょっと、嬉しい。
申し訳なさはあるけれど、迷惑ではないという言葉を信じたいと思った。彼はあまり嘘を吐かない。その表情は伺えなかったけれど、苦虫を噛み潰したような顔ではなかったと信じよう。
いざ確定事項になり、シェスティの中でも納得がいけば、ゼルギウスが自由に行動できる時間を奪う申し訳なさよりも、一緒にいられるという嬉しさが勝ってきた。
頬が緩みそうになったのを引き締めて、シェスティは洗い物を続けた。
どうやらこの町でも、疑いをかけられることは今のところなさそうだった。
ゼルギウスはシェスティの部屋に置いてある鉢植えを見て、「花瓶ではダメなのか?」と首を傾げていたが、それ以外は特に文句を言われることもない。何か疑われている風もない。
とりあえず今のところは、問題なく旅を続けていけそうだ――と。
この時は、思っていた。




