3. 発見
「うぐ……ぐぐぐ……」
ビスケットの最後の一欠けらを口に入れ、水で喉に流し込む。
携帯食料が如何なものかカトレアは書物で知っていたが、実際口にしてみるとその食べ辛いことこの上ない。味はまったくせず、ただ空いた腹を満たすために作られたようであった。
――信じられない……水夫たちは毎日こんなものを食べていたというの?
この乾パンに比べたら、味付けされていない緑野菜の方がまだ食べ応えがあるだろう。
とにかく口の中にしつこく残って飲み込めないのだ。カトレアはどちらかというと焼き菓子は好きな方だが、この食べ物はクッキーとは似ても似つかない。『美味しい』とか『まずい』とかの次元ではなく、なんというか――
「……い、いいえ。保存食とは本来、このような味なのかもしれないわね……」
ビスケットが詰まれた袋をじーっと見つめながら、カトレアはそう結論付けようとした。
ろくに食べ物もないこの状況下で我が侭を言っていられない。とりあえず空腹を満たすことができただけでも十分だろう。
木陰に敷いた船旗を座敷代わりにして、その上にカトレアは腰を下ろした。
特に何かをするわけでもなく、膝を抱えて目の前の水面を眺めてみる。
「…………」
陽の光が反射してキラキラと輝く泉は綺麗で美しい。それに同調する鳥のさえずりや木の葉が擦れる音、肌を撫でる柔らかい風も。全て穏やかで、つい二日前の嵐が嘘であったかのような静けさだ。
……とても心地よい。このまま眠ってしまおうか……。
「ミラーナ……ミラーナを探さないと……」
重い瞼を持ち上げ、睡魔と必死に戦いながらこれからの目的を考える。
まずは侍女ミラーナの捜索。合流できたら何処かで船に乗って一緒に故郷に帰る。けれど、船に乗るためには港に寄らなければならないから、ここからしばらく歩かなくてはならないかもしれない。そうなると移動中の食料や水の確保が必要になってくるから、これも計画に入れて行動しなければ……。
麻袋では駄目だ。長時間歩けるように、背負える鞄を調達しないといけない。携帯食料はたっぷり残っているから問題ないだろう。水を蓄えるための水筒は一つじゃ足りないだろうか。ミラーナの分も含めて最低二つを用意するとして、保険のために予備の水筒もあと一つずつ……。
「……やることは……たくさんあるわね……」
まだ気持ちの整理もついていないのだ。いきなり物事を考えるのはよそう。
――今は、まだ、何も考えたくない……。
「少し……眠らせて……」
くたびれた十七歳の少女の精神には、もう少し休息が必要だ。
一気に解けた緊張の反動を受けて、カトレアの意識はゆっくりと暗闇に堕ちていった。
「キキッ……」
――キキ?
目を覚ますと、カトレアの膝の上に“白い毛玉”がいた。
そいつはモゾモゾと動いていて、しきりに何かを転がしている。
「キキ……キキキ……!」
時折奇妙な鳴き声を上げる白い毛玉……。
意識が覚醒してすぐ、カトレアはそんな印象をその生き物に抱いた。
目覚めて間もない彼女の思考は、平常時の半分も働いていない。よくよく観察すれば、その“白い毛玉”が小動物だとすぐにわかっていただろう。正体は白い毛の猿だ。カトレアの膝の上で何かの胡桃を転がして遊んでいるのである。
「キキキッ……キキ!」
「…………え?」
全てを把握するのに数秒かかった。
眠る前はいなかったはずの“何か”が、目の前にいる……。それは怪奇的な恐怖をカトレアに与えてしまうと同時に、彼女の純粋な興味心も刺激した。
咄嗟に悲鳴を上げて白毛の猿を振るい落とさなかったのも、その珍しい動物に興味を惹かれたのが一番の要因であろう。もっとも、固まって動けなくなってしまった令嬢の表情を見る限り、小動物の観察にも極度の緊張を強いられているに違いないが……。
「……キキッ! キキキ」
「………ん」
ようやく気持ちが落ち着いてくると、今度はその動物に触ってみたくなった。じっくり様子を見守ってみたが、人間に対して危害を加えるような動物には見えない。こちらを食べるつもりであれば、睡眠中にとっくに襲われているだろうし、警戒していればそもそもこんなに近くまで寄ってこないはず。それに何より、その愛らしい見た目や仕草にカトレアはすっかり魅了されていたのだ。
「………かわいい」
白い毛並みに触れようと恐る恐る手を伸ばしてみる。
その指先が白毛猿の頭部と思わしきところに当たり、慌ててすっと手を引いた。
「キキキ……!」
胡桃とじゃれるのに夢中になっているのか、チビ猿は人間の指先に関心を示さない。
自然とカトレアの頬も緩み、さらに触ってみようと再び手を伸ばす。
しかしつい勢いあまって背中を撫でてしまった瞬間、さすがの相手もびっくりしたようだ。小猿はキィッと鳴き声を上げてその場で飛び上がった。
「きゃあ!」
そして驚いたのは猿だけではない。白い毛玉がいきなり顔面に迫ってきたので、カトレアも仰天して上体を大きく仰け反らせたのである。その際に後頭部を背後の木の幹でぶつけてしまい、しばらくの間声にならない悲痛な叫び声を上げた。
ようやく痛みが引き、頭を擦りながら身を起こした時にはすでに例の動物はいなくなっていた。
まだ近くに潜んでいるのかと聞き耳を立ててみたが、それらしい鳴き声はない。というより、他の生き物たちの鳴き声が多くて、特定の鳴き声を聞き取ることはできそうになかった。
「はぁ……」
拍子抜けである。
大事にしていたおもちゃを取り上げられたような、そんな喪失感が胸中に染みる。唐突に触れるのは失敗だったかもしれない。
それから十分ほどじっと待ってみたが、結局あの小猿は姿を見せず、カトレアを心底がっかりさせた。
無条件で人間に懐く動物は珍しいから、てっきりこちらの行動にもさしたる警戒心はないと思ったのだが、どうやらそれは思い過ごしだったようである。あの小動物は人を警戒しなかったのではなくて、ただ人間と関わりを持ったことがなかっただけなのだろう。まさかカトレアが動き出すとは夢にも思わなかったはずだ。でなければ、遊びに夢中になっていたあの小猿が悲鳴を上げて飛び上がり、カトレアの後頭部に痛々しいコブを作らずに済んだだろうから。
「……っつ!? もう……最悪よ……」
悪態を吐き、涙目になりながら背後の木を睨みつけるカトレアだったが、すぐにはっとなって表情を改めた。『プライドだけが高くて器の小さい我が侭お嬢様』だと思われるのも癪だ。カトレアはふつふつと湧き上がる羞恥の怒りをなんとか押さえ込み、深呼吸して気持ちを落ち着かせた。
――独りで腹を立てても仕方のないことよ。それよりも、帰るための準備をしなくちゃ……。
自分の使命を思い出し、カトレアはその場で立ち上がる。座敷代わりにしていた船旗をそのままに、荷物だけを纏めて背中に担いだ。これからもう一度難破船のところへ行ってみるつもりである。準備万端であればそれに越したことはない。他にも何か役に立ちそうなものが落ちていれば、それを回収するつもりであった。
船の残骸や備品が散乱する砂浜を、カトレアは足元に注意しながら歩き回る。
厚底のブーツを履いているお陰で足裏を怪我することはないが、さっき船内で転倒事故を引き起こしたことを踏まえて、なるべく地面を見ながら歩くようにしていた。そのせいか、背中と頭に当たる日差しがひりひりと痛い。日傘でもあれば日光を防ぐことができるだろうが、生憎手持ちのものは船が難破した時に失くしてしまっている。日除け用の帽子でもあれがいいが……あまり期待はできないだろう。
海辺で見つけた櫂の切れ端を杖代わりにして、岩の海岸線も入念に調べてみた。
しかし、場所を変えても発見できる人工物はどれも同じものばかりで、役に立ちそうなものは特にない。唯一カトレアが関心を寄せたものといえば、潮溜まりで数匹の蟹を見つけた時ぐらいだろうか。
いい加減切り上げて森の中に探索場所を移そうかと考え始めた頃――
「ん? あれは……」
ふと顔を上げて前方に視線を移した時である。
波打ち際に、何か大きな物体が揺られているのをカトレアは発見した。
今まで足元ばかりに注意が引かれて気付かなかったが、よく観察すればそれは岩の間に挟まるようにして海水に浮かんでいる。
船内に積まれていた衣類だろうか。それにしては、妙に厚みがあるような気がする……。
正体を確かめるため、カトレアは足場を確認しながらその白い物体に近づいていった。舗装された道とは違って、ゴツゴツした岩ばかりの地面は歩きにくくとても滑りやすい。何度か転びそうになりながらも両手を使って体を支え、四苦八苦しながらもなんとか波打ち際に到着した。
海水を吸って重くなったドレススカートをたくし上げ、打ち寄せる波にさらわれないようにバランスを整える。岩に手を突いて覗き込むと、その白い物体が彼女の目の前で明らかになった。
「え…………」
失念していた……と、カトレアは思うしかなかった。いや、それともただ真実から背いていただけなのか。
まさか、船が難破して自分だけがこの陸地に打ち上げられたなんて都合が成り立つわけがない。船内には三十人もの水夫たちが詰めていたではないか。彼らのうち、誰か一人がこの海岸に流されている可能性も十分に考えられたはずである。
「いやあっ!」
悲鳴を上げて仰け反ったカトレアは、そのまま体勢を崩して地面に尻餅を突いた。波が押し寄せ彼女の上体が海水に飲まれたが、まったく気にならないのか恐怖に歪んだ顔を震わせて固まっている。その目は焦点が合わず、正気であるのかも定かではない。
「し…し……し、死んで……」
人間だった。
海水に浮いていたのは、白地のシャツを着た人間の水死体だったのだ。
性別は男。筋肉質な体格で、右の上腕に青いスカーフを巻きつけている。その見たことのある容姿は、二日前までカトレアが乗船していた中型客船の水夫の服装と酷似していた。
もう少しよく調べれば身元も確認できたかもしれない。しかし純潔な少女の心は、人の死を受け入れることを頑なに拒んだ。
「ひっ……!」
――もうここにいたくない!
カトレアは飛び跳ねるようにして立ち上がると、わき目も振らず一目散にその場から逃げ出した。
「…………」
濡れたドレスの生地が肌に張り付いて気持ち悪い。背中を流れる冷たい雫に身震いして、カトレアは膝を抱える手に力を込めた。
手元にある火種と薪を使って焚き火することもできたが、今の彼女に火を熾すまでの気力は残っていない。あの海岸から逃げ出してこの泉の畔に戻ってきた時には既に、カトレアは心身ともに疲れ果てていた。もう小一時間程、ずっと膝を抱えて座っている。
「人……本当に…人が……!」
一種の錯乱状態に陥ったカトレアは、さっきの遺体を思い出す度に小さな悲鳴を上げて、怯え、喉を震わせて呻いた。
何度も侍女のミラーナに助けを求め、返事がないとわかると自分が一人であるということを改めて思い知らされる。頼り切っていた従者はもういない。自分を恐怖から救い出してくれる優しい女性は、もう傍にいないのだ……。
「わ、私は騎士の女……。い、遺体を見ただけで怯えるなんて……なんて情けないの! 恥を知りなさいカトレア! 私は……わたくしは……ッ!」
「キキッ?」
「きゃあ!?」
耳元で鳴き声を聞いて、カトレアは悲鳴を上げて横向きに倒れ込んだ。
立ち上がって逃げ出そうと懸命に両足を動かすが、スカートの裾が絡まってなかなか上手く立ち上がれない。
「キキキッ!? キキッ!」
彼女が地面でジタバタしている間も、変わった鳴き声はすぐ近くから聞こえてくる。もう逃げ切れないと覚悟を決めて声のした方を振り返ると、そこには――
「キキ?」
「っ!? あ……え?」
白い毛玉のような、丸くて小さい生き物が一匹。
こちらの動きを警戒しているのか、体勢を低くしてカトレアの固まった顔を注視していた。
昼間、泉の木の傍に現れた小猿だ。何故今になって戻ってきたのだろう。あんなに驚いて逃げ出していったのに、野生動物の取る行動とは思えない。他に飼い主がいてここを探らせた……いや、それともこの場所が棲家とでもいうのか。
「キキッ!」
身動きして一瞬肝を冷やしたが、上体を起こしても小猿の方は首を傾げてカトレアの動作を見つめるだけで襲い掛かってはこなかった。だからといって、このままにらみ合っていても埒が明かないのは確かだ。
何かやり過ごす手段はないだろうか。カトレアはこっそり周囲に視線を送り、木陰に寝かせてある小さな袋に釘付けになった。
「あ……」
――餌を撒いて気をそらせば、逃げ切れるかもしれない。
ふと思いついた愚策だったが、あながち使えない方法でもないと彼女は考えた。小猿の行動に細心の注意を払いながら、そっと袋の口をほどいて中に腕を突っ込む。手探りで中から取り出したのは一欠けらの乾パン。カトレアはそれを小猿の足元に放り投げた。
「さ、さあ、お食べなさいな……」
「キキッ?」
小猿がカトレアを仰ぎ見て首を傾げる。まさか、食べられないのだろうか。
カトレアは焦った。猿は雑食だと本で読んだことがあるから、てっきり人間が作ったものも食べられると思ったのである。しかし冷静に考えれば、ここは人気のない無人の森。木の実や小魚はともかく、調理された食べ物とは縁がないのかもしれない。そもそもこの白毛の小動物が“猿”とは限らないわけだし……。
「干し葡萄なら食べられるかしら……?」
ビスケットは諦め、他に与える餌を検討し始める令嬢。
だがそれはカトレアの思い過ごしだったようで――
「キーッ」
彼女が投げたビスケットの欠片を器用に両手で掴み上げた小猿は、一、二度鼻を震わせてから一気に口の中へ放り込んだ。
「まあ……!」
カトレアは驚いた。
自分が与えた食べ物を口に入れ、さらに嬉しそうに鳴き声を上げる小猿に感慨したのである。隙を見て逃げ出すつもりが途端に嬉しい感情が沸き起こり、懐の食料をもっとあげてやりたくなってきたのだ。
カトレアは手元のビスケットを細かく割って手の平に載せると、恐る恐る小猿に差し出した。
「キキッ」
その時の反応は、カトレアにとっても一生忘れられない思い出となっただろう。
今度こそ小猿はカトレアに対する警戒を解き、少女の手の中にある携帯食料に興味を示したのである。一欠けらずつ手に取り、それに噛り付きながら口を動かす様子は愛嬌があってほほ笑ましい。緊張でガチガチに固まっていたカトレアの表情も、そんな小猿の食事風景に心を奪われ顔を綻ばせていた。
「ふふ……それおいしい?」
「キッ?」
「味がしないでしょう? パサパサして喉に詰るし……。それとも、あなたってそういうの気にならないのかしら?」
人の言葉を理解しているとは思わなかったが、それでも孤独な時間を過ごすより幾分も楽しい話し相手であるのには違いなかった。
カトレアが日暮れに気付いたのは、小猿が唐突に木の枝に飛び移った時である。
しばらく夢中になって忘れていた。いくら野生の動物とはいえ、この猿にも自分の住処があるはずだろう。人間の少女と一日中一緒に居るわけにもいかないから、来るべき時間になれば家へ帰りもする。
頭上の枝からこちらを見下ろす小猿を見上げて、カトレアは名残惜しそうにため息を吐いた。
「もう行ってしまうの?」
「キキ? キーッ!」
「私にはあなたの言葉は理解できないわ……。でも、そうね……また会える機会があれば、その時は今日よりたくさん遊びましょう」
「キーキー!」
白毛の小動物は、まるでカトレアの言葉に同調するかのように枝の上で飛び跳ねて見せた。
最後までこの調子だ。本当はこの小猿、人間の言葉がわかるのではないか。実は誰かに飼われていて、ここまで遠出した時にたまたまた人を見かけて近づいてきたのだろうか……。
もしそうなら、この森を抜けた先に集落でもあるのかもしれない。他に当てもないのだから、探してみる価値はあるだろう。
「すぐに暗くなるわ。さあ、もうお行き!」
カトレアが枝を振るって急かすと、小猿は弾かれたように別の枝へ飛び移る。それを繰り返すうちに小猿はどんどんカトレアの元から遠ざかり、最後にこちらを一瞥すると一際大きな鳴き声を上げて薄暗い木々の中に消えていった。
空の闇はさらに深みを増しつつある。
カトレアの二度目の孤独な夜が、ゆっくりと迫っていた。