急がば回れ。
翌朝、ニュートンが食堂へ降りると、マーサが大きな包みを机に並べていた。
干し肉、固いパン、それから布にくるまれた何か。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。先生、ちょっと手を貸しておくれ」
マーサは包みの一つを持ち上げた。
「こいつを紐で結びたいんだけど、どうにも上手くいかなくてね」
ニュートンは近づき、包みを受け取った。
「どちらへ運ばれるのですか?」
「リーナちゃんだよ。今日、北の街道へ出発するだろう?」
「ああ……」
ニュートンは包みを見下ろした。
昨夜、リーナは明日から町を離れると言っていた。
食事のあとも、彼女は仲間たちとの待ち合わせがあるからと、慌ただしく宿を出ていった。
「これを持たせるのですか?」
「そうさ。あの子、仕事となると食事を抜くことがあるからね」
マーサは呆れたように肩をすくめた。
「冒険者ってのは、どうしてああも自分の体を大事にしないんだろうね」
ニュートンは少し考えた。
「危険な状況では、食事を取る余裕もないのではありませんか?」
「だからって、出発前から食べない理由にはならないだろう?」
「……確かに」
ニュートンは包みを紐で結んだ。
「これでよろしいでしょうか」
「おや、ずいぶん綺麗に結ぶねえ」
「荷物を運ぶ際、紐が緩めば中身が落ちてしまいますから」
「そういうところは、よく気がつくんだね」
マーサは笑った。
「先生も、少しは冒険者らしくなってきたじゃないか」
「私は冒険者になった覚えはありませんが」
「ははは! そうだったね!」
食堂に笑い声が響いた。
冒険者ギルドの前には、数台の荷馬車が停まっていた。
護衛依頼の参加者たちが集まり、荷物の確認をしている。
ニュートンが通りかかると、ちょうどリーナが仲間の一人と話しているところだった。
「……だから、薬草の袋はこっち。食料はそっちにまとめて」
「分かったって。何度も言わなくても覚えてるよ」
「前に忘れたのは誰だったかしら?」
「……俺です」
「でしょ?」
リーナは満足げに頷いた。
ニュートンは少し離れたところで、その様子を眺めた。
冒険者としてのリーナは、普段宿で話しているときとは少し違って見えた。
言葉は相変わらず軽快だが、荷物の位置や仲間の装備を細かく確認している。誰が何を持ち、何が足りていないのかを把握しているようだった。
「ニュートン先生?」
リーナがこちらに気づいた。
「おはようございます」
「どうしたの? 見送り?」
「ええ。マーサさんから、こちらを預かりました」
ニュートンは包みを差し出した。
「あっ、これ!」
リーナの顔が明るくなった。
「マーサさん、わざわざ作ってくれたんだ」
「食事を抜くことがあると心配していました」
「……余計なことまで聞いてるのね」
リーナは苦笑した。
「まあ、ありがたくもらっておくわ」
包みを荷物にしまい、彼女はニュートンを見た。
「それで、昨日の話だけど」
「街道の様子について、ですね」
「そう。覚えてたら教えてほしいって言ってたわね」
リーナは少し考えた。
「ただ、実際に行ってみないと分からないことも多いと思うわ。道の状態は季節によっても変わるし、荷馬車の大きさによって通りやすい場所も違うから」
「……なるほど」
ニュートンは頷いた。
「私が知りたいのは、街道そのものの性質です。もし可能なら、坂道の傾斜や、車輪が沈み込むような場所があるかを教えていただきたいのです」
「分かった。危なくない範囲でね」
「もちろんです」
リーナは腕を組んだ。
「でも、先生。昨日の荷馬車の仕事、どうなったの?」
ニュートンは少し目を伏せた。
「……うまくいきませんでした」
「えっ、そうなの?」
「積載量を増やすことはできませんでした」
「そっか……」
リーナは意外にも、笑わなかった。
「でも、荷車が壊れそうだったんでしょ?」
ニュートンは顔を上げた。
「ご存じなのですか?」
「昨日、ギルドでその商人の話を聞いたのよ。最近、北の街道の輸送が滞ってるから、商人たちはみんな焦ってるんだって」
リーナは荷馬車の方を見た。
「荷物が届かなければ、売るものもなくなる。売るものがなければ、商人は稼げない。だから、多少無理をしてでも一度に運ぼうとするんでしょうね」
「……そうですね」
「でも、荷車が壊れたら、もっと困るわ」
リーナはニュートンに向き直った。
「先生が止めたのなら、それは間違いじゃなかったんじゃない?」
ニュートンは返事をしなかった。
昨夜から、何度も考えていたことだった。
自分の判断は正しかったのか。
商人の依頼に応えられなかったことは、失敗なのか。
まだ、はっきりした答えは出ていない。
「……ありがとうございます」
ニュートンはそう答えた。
リーナは少し驚いたように瞬きをした。
「別に、お礼を言われるようなことじゃないわよ」
「いえ。参考になりました」
「本当に、先生って変なところで真面目ね」
リーナは笑った。
出発の合図がかかった。
護衛の冒険者たちが荷馬車の周囲に集まり、装備を確認する。
リーナは肩に掛けていた荷物を背負い直した。
「それじゃ、行ってくるわ」
「お気をつけて」
「先生も、研究ばかりしてないで、ちゃんとご飯を食べるのよ」
「……マーサさんと同じことをおっしゃいますね」
「マーサさんが正しいのよ」
リーナは得意げに笑った。
そして、荷馬車の横を歩き始めた。
ニュートンはその背中を見送った。
荷馬車がゆっくりと動き出す。
車輪が石畳の継ぎ目を越え、木材が小さく軋んだ。
ニュートンは、その音に耳を傾けた。
荷台の揺れ。
車輪の回転。
馬の歩幅。
どれも、彼にとっては興味深い観察対象だった。
しかし、今は記録を取ることができない。
目の前を通り過ぎる荷馬車は、すぐに遠ざかっていく。
リーナの姿も、町の門の向こうへ消えていった。
ニュートンはしばらく、その方向を眺めていた。
「……さて」
呟いて、歩き出す。
自分には、自分の仕事がある。
昼過ぎ。
ニュートンは書店を訪れた。
扉を開けると、鈴の音が鳴った。
「こんにちは」
「おや、先生。今日は何を調べに来たんだね?」
店主の老人が顔を上げた。
「今日は、少し相談がありまして」
「相談?」
老人は眼鏡を直した。
「珍しいな。いつもは質問ばかりなのに」
「相談も、質問の一種ではありませんか?」
「……そう来たか」
老人は苦笑した。
ニュートンは昨日の荷馬車の件を話した。
荷物の重量を量ったこと。
車軸の傷みを確認したこと。
配置を変えても、積載量を増やせなかったこと。
そして、輸送費そのものを考え直す必要があると気づいたこと。
老人は最後まで口を挟まずに聞いていた。
「……なるほどな」
話を終えると、老人は顎に手を当てた。
「それで、先生はどうしたいんだね?」
「もう一度、商人と話をしたいと思っています」
「何を話す?」
ニュートンは少し考えた。
「積載量を増やす以外の方法で、輸送費を減らせないかと」
老人は頷いた。
「よい考えだと思うよ」
「ただ、具体的な方法が思いつきません」
「それは、話を聞いてみなければ分からんだろう」
老人は棚から一冊の本を取り出した。
古びた表紙には、街道と町の位置を記した地図が描かれている。
「この町から北へ向かう街道の地図だ。商人たちが使うものほど詳しくはないが、主要な町と宿場は載っている」
ニュートンは本を受け取った。
「ありがとうございます」
「返してくれれば、しばらく貸しておこう」
ニュートンはページを開いた。
町から北へ伸びる道。
途中にある小さな村。
川を渡る橋。
そして、街道が山地へ入る地点。
彼は地図をじっと見つめた。
「……この橋は?」
「古い橋だよ。大きな荷車が何台も続けて渡るのは、あまり勧められんな」
「橋の強度が分からないのですか?」
「正確にはね。昔から使われているが、修理も何度かしておる。どの程度の重さに耐えられるか、数字で示せる者は少ないだろう」
ニュートンは橋の位置に印をつけた。
「……なるほど」
老人はその手元を眺めた。
「先生。昨日の荷馬車の件で、一つ学んだことがあるんじゃないかね?」
ニュートンは顔を上げた。
「何でしょう」
「物を正確に測ることは大事だ。だが、何を知るために測るのかを忘れてはいかん」
ニュートンは、昨夜自分が書いた言葉を思い出した。
――まず、目的を確かめること。
「……ええ」
「そして、測れないものがあるからといって、何も分からないわけではない」
老人は地図を指で叩いた。
「道を歩いた者は、どこが危ないかを知っている。荷を運んだ者は、どこで車輪が沈むかを知っている。数字にできなくても、知識はそこにある」
ニュートンはしばらく黙っていた。
やがて、地図に視線を戻した。
「……その知識を、どう扱うかも重要ですね」
老人はわずかに目を細めた。
「そうだな」
それ以上、老人は何も言わなかった。
書店を出たニュートンは、宿へ戻る道すがら、地図の内容を頭の中で整理していた。
街道には、橋がある。
山地がある。
村がある。
そして、それぞれの場所に暮らす人々がいる。
荷馬車を一度に多く走らせることができれば、輸送費は減るかもしれない。
しかし、橋の強度が分からないなら、重い荷車を通すのは危険だ。
山道が険しいなら、荷物の重さだけでなく、車輪や馬の負担も考えなければならない。
それならば、荷物を運ぶ経路を変える方法はないだろうか。
あるいは、出発する時期を調整することは。
ニュートンは足を止めた。
「……一つずつ、確かめるしかないか」
空を見上げる。
太陽は西へ傾き始めていた。
元の世界では、考えごとをしているうちに、食事の時間を忘れることも珍しくなかった。
しかし、この世界では、考えるだけでは何も手に入らない。
紙も、インクも、食事も、誰かが作り、運び、売っている。
そして、自分もまた、その営みの中で生きている。
ニュートンは地図を閉じた。
今度は、答えを急ぐまい。
まずは、知っている者に話を聞くところから始めよう。
そう考えながら、彼は宿への道を歩いていった。




