庭園にて
りんごが落ちる。
それは、あまりにも当たり前の現象であった。
枝から離れた果実は、地面へ向かって落下する。鳥が空を飛ぶのと同じように、川の水が低い方へ流れるのと同じように、誰も疑問を抱かぬほど自然なことである。
しかし、アイザック・ニュートンは、その当たり前の中に、世界を支配する何かが隠れていると考えていた。
彼は庭園の椅子に腰掛け、一本のりんごの木を眺めていた。
木の枝は秋の風に揺れ、葉の隙間から差し込む陽光が、草の上に淡い影を落としている。遠くから人の話し声が聞こえたが、彼の耳にはほとんど入っていなかった。
ニュートンの意識は、枝の先にぶら下がる赤い果実に向けられていた。
「……なぜ、上ではなく下なのだろうな」
誰に聞かせるでもなく、彼は呟いた。
仮に、りんごを引き上げる力が存在するのならば、それはいったい何によって生じているのか。
地面がりんごを引き寄せるのか。それとも、りんごが地面に引き寄せられているのか。
両者の間に働く力を考えるならば、月もまた、地球に対して何らかの力を及ぼしているのではないか。
そして、月が地球の周囲を巡る理由も、同じ原理によって説明できるのではないか。
思考は一つの疑問から始まり、次の疑問を生み、やがて彼自身にも予想できぬ場所へと広がっていく。
ニュートンは目を細めた。
そのときだった。
風が止んだ。
先ほどまで揺れていた枝が、ぴたりと動きを止めたのである。
鳥の声も消えた。
遠くから聞こえていた人々の声も、庭園を吹き抜けていた風の音も、すべてが唐突に途絶えてしまった。
ニュートンは顔を上げた。
「……妙だな」
耳が聞こえなくなったのかと思い、彼は自分の耳に指を当てた。
しかし、異常はない。
周囲を見渡そうとした瞬間、視界が白く染まった。
眩しい。
それは太陽を直視したときの光とは異なっていた。目の前に光源があるのではない。世界そのものが白く塗り潰されていくような、奇妙な感覚だった。
椅子から立ち上がろうとしたが、身体の感覚が遠のいていく。
「これは……いったい……」
最後に彼が見たのは、枝から離れた一つのりんごだった。
それが地面へ落ちる瞬間、彼の意識は途絶えた。
*
同じ頃。
ニュートンのいた庭園には、一つのりんごが落ちていた。
草の上に転がった果実は、何事もなかったかのように静止している。
風は再び吹き始め、木々の葉を揺らした。
鳥はさえずり、人々はそれぞれの生活へと戻っていく。
ただ、庭園の椅子に座っていたはずの男だけが、忽然と姿を消していた。
「ニュートン殿?」
庭園の入口から、一人の男が歩いてきた。
彼はニュートンの知人であり、用事があって訪ねてきたのだった。
椅子の前まで来た男は、そこに誰もいないことに気づいて眉をひそめた。
「おかしいな。先ほどまで、ここにいると聞いたのだが……」
男は周囲を見回した。
「ニュートン殿! おられますか!」
返事はない。
庭園の奥へ進み、木々の陰を覗き込む。
「ニュートン殿!」
静寂が返ってきた。
地面には、落ちたりんごが一つ。
それ以外には、彼がそこにいたことを示すものなど、何もなかった。
*
「……む」
最初に戻ってきたのは、冷たい土の感触だった。
ニュートンは頬に触れる湿ったものを感じ、ゆっくりと目を開いた。
視界いっぱいに広がっていたのは、見知らぬ木の幹である。
「……何だ、これは」
彼は身体を起こした。
どうやら地面に倒れていたらしい。
服には土がつき、手のひらには細かな草が付着していた。頭痛はない。手足も動く。意識も明瞭である。
まずは身体の状態を確認する。
ニュートンは自分の腕を動かし、指を折り曲げ、首を左右に回した。
異常は認められない。
次に、周囲を観察した。
「…………」
そして、彼は言葉を失った。
目の前にそびえる木は、彼の知るどの樹木とも違っていた。
幹は大人が十人ほど手を繋いでも囲めそうなほど太く、枝は天を覆うように広がっている。葉は濃い青緑色で、その間には赤紫色の果実がいくつもぶら下がっていた。
一つ一つが人間の頭ほどもある。
表面には金色の筋が走り、果実の周囲には淡い光の粒が漂っていた。
「……これは、樹木なのか?」
彼は立ち上がり、幹に近づいた。
樹皮は硬く、指先で触れると、かすかな温もりが感じられた。
ニュートンは眉を寄せる。
生物の体温に似ている。
しかし、植物がこれほど明瞭な熱を持つものだろうか。
いや、そもそも彼の知る植物と同じ生物学的な分類に属しているかどうかさえ、現段階では断定できない。
彼は果実を見上げた。
大きさ、色、光の性質。観察すべき対象はいくらでもある。
だが、今はそれどころではなかった。
「私は……どこにいる?」
問いかけても、答える者はいない。
彼は振り返った。
木々の間には見渡す限りの森が広がっていた。見慣れた庭園も、屋敷も、遠くの建物もない。
空の色は薄い紫を帯びている。
太陽らしき光源は存在するが、その位置も光の色も、彼の記憶にある景色とは異なっていた。
ニュートンはしばらく黙っていた。
夢だろうか。
いや、足元の土の感触も、肌に触れる風も、鼻をくすぐる植物の匂いも、あまりに明瞭だった。
幻覚という可能性も考えられる。しかし、幻覚であると判断するだけの根拠もない。
未知の現象に遭遇した際、最も避けるべきことは、十分な観察もせずに結論を出すことである。
彼は息を吐いた。
「まずは、人のいる場所を探そう」
それが、現時点で最も合理的な判断だった。
森を抜け、町へ戻る。
そこに人がいれば、今いる場所について何らかの情報が得られるはずだ。
彼は服についた土を払い、森の中を歩き始めた。
*
森の中は、思いのほか静かだった。
足元には見慣れない草が生え、ところどころに淡く光る花が咲いている。木の枝には、鳥に似た生き物が止まっていた。
鳥に似ている、と彼は考えた。
だが、正確には鳥ではない。
翼は四枚あり、頭部には小さな角が二本生えていた。身体の大きさは鳩ほどで、羽ばたくたびに青白い粉のようなものを散らしている。
「……生態系そのものが異なるのか」
ニュートンは歩きながら、目に入るものを観察していた。
草木の形状、地面の傾斜、日光の角度。
いずれも後で役に立つかもしれない。
しかし、観察に夢中になるあまり、彼は自分が森の奥へ進みすぎていることに気づかなかった。
そのとき。
ガサリ、と背後の茂みが揺れた。
ニュートンは足を止めた。
「誰かいるのか?」
返事はない。
もう一度、茂みが揺れた。
今度は、先ほどよりも近い。
彼はゆっくりと振り返った。
そこから現れたのは、狼に似た生き物だった。
いや、狼と呼ぶには、あまりにも異様だった。
体高は彼の腰ほどもあり、灰色の体毛の隙間から黒い鱗が覗いている。口元には鋭い牙が並び、額には湾曲した角が一本生えていた。
黄色い目が、ニュートンを捉えた。
「…………」
彼は息を呑んだ。
動物の形態としては、狼に近い。
しかし、あの角と鱗は何だ。
進化の過程で生じたものなのか。それとも、まったく別の生物なのか。
思考が答えにたどり着くより早く、獣が低く唸った。
「おい、待て。私は君に危害を加えるつもりは――」
言い終える前に、獣が飛びかかってきた。
「なっ……!」
ニュートンは反射的に横へ飛び退いた。
牙が服の裾をかすめ、獣の巨体が地面に激突する。
彼は転がるようにして距離を取った。
だが、獣はすぐに体勢を立て直した。
速い。
そして、こちらを獲物と認識している。
言葉が通じるかどうかなど、もはや問題ではなかった。
ニュートンは走った。
枝が顔に当たり、足元の根につまずきそうになる。背後から荒々しい息遣いが迫ってきた。
振り返る余裕はない。
しかし、次の瞬間、背中に強い衝撃が走った。
「ぐっ……!」
爪が肩をかすめ、ニュートンは地面に倒れ込んだ。
鋭い痛みが走る。
服の肩口が裂け、その下から血が滲んでいた。
彼は歯を食いしばり、地面を這うようにして後ずさった。
獣が再び身を低くする。
次で終わる。
そう理解した瞬間だった。
「――おい! そこの魔物、こっちだ!」
少年の声が響いた。
獣の動きが止まる。
ニュートンは顔を上げた。
少し離れた場所に、一人の少年が立っていた。
年齢は十歳か、十二歳ほどだろう。背中には籠を背負い、手には木の杖を握っている。腰には小さな布袋が下がっていた。
少年はニュートンと獣を交互に見た。
「うわっ、怪我してる! あんた、そこでじっとしてて!」
「君、危ない! 逃げなさい!」
ニュートンは叫んだ。
どう見ても、少年が立ち向かえる相手ではない。
しかし、少年は逃げなかった。
「大丈夫だって!」
彼は杖を構えた。
「我が手に宿れ、火の精よ!」
杖の先に、赤い光が灯った。
ニュートンは目を見開いた。
火花ではない。
燃焼に必要な燃料も、着火のための道具も見当たらない。それにもかかわらず、杖の先端に炎が生まれていた。
炎は瞬く間に大きくなり、少年の手のひらほどの火球へと変わった。
「燃えろっ!」
少年が杖を振る。
火球が一直線に飛んだ。
獣は咄嗟に身をひねったが、火球は前脚の近くで弾けた。
爆ぜるような音とともに、熱風が森を駆け抜ける。
獣は甲高い声で吠え、数歩後ずさった。
「まだだ!」
少年がもう一度、杖を構える。
その先端に炎が揺らめいたのを見て、獣は一瞬だけ少年を睨みつけた。
そして、踵を返して森の奥へと走り去っていった。
枝が揺れ、足音が遠ざかる。
やがて、再び静寂が訪れた。
「……はあ。行ったか」
少年は肩の力を抜き、杖を下ろした。
ニュートンは、呆然と彼を見つめていた。
火。
確かに火だった。
しかも、少年の意思に応じて発生し、一定の方向へ飛んでいった。
あれはいったい、何を原理としているのか。
「おじさん、大丈夫?」
少年が駆け寄ってきた。
「肩、切れてるね。痛む?」
「あ、ああ……多少は」
「そりゃそうだよ。あんなのに引っかかれたんだから」
少年は籠を地面に置き、布袋から小さな瓶を取り出した。
中には、緑色の液体が入っている。
「これ、飲める?」
「何が入っているのかね?」
「薬草を煎じたもの。傷薬だよ。飲むとちょっと苦いけど」
「薬草……」
ニュートンは瓶を受け取った。
中身を観察したいという欲求が湧いたが、今はそれどころではない。
彼は瓶を傾け、液体を口に含んだ。
「……苦いな」
「でしょ?」
少年は笑った。
しかし、ニュートンの傷口を見て、すぐに表情を引き締める。
「でも、これだけじゃ足りないか。ちょっと待って」
少年は両手を傷口へかざした。
「今度は治癒魔術ね。じっとしてて」
「治癒……何だって?」
「治癒魔術。傷を治す魔法だよ」
あまりにも当然のことのように言われ、ニュートンは口を閉じた。
少年の両手の間に、淡い緑色の光が生じた。
温かな光が肩を包み込む。
痛みが、ゆっくりと引いていった。
裂けていた皮膚が閉じ、滲んでいた血が止まる。最後には、傷口に薄い赤みが残るだけになった。
ニュートンは自分の肩を触った。
「……信じられん」
「うん?」
「いや、何でもない」
少年は首を傾げた。
「もう歩けると思うけど、無理はしないでね。魔物に襲われたの、初めて?」
「初めてだ。あれは、狼ではないのかね?」
「狼? ああ、もしかしてフェンリルウルフのこと? 違うよ。あれは角狼。森の浅いところにも出てくるんだ」
「角狼……」
ニュートンはその名を繰り返した。
どうやら、あの生物には名前があるらしい。
そして、少年が扱った炎や治癒の光にも、何らかの体系が存在する。
少なくとも、この世界の住人にとっては、それほど不思議なことではないようだった。
「君は、いったい……」
「僕? 僕はトマだよ。村から薬草を採りに来たんだ。おじさんは?」
「私はアイザック・ニュートンだ」
「アイザック? 変わった名前だね」
「そうかね」
「うん。それで、どこの村の人?」
ニュートンは答えに詰まった。
どこの村。
その問いに対する答えを、彼は持っていなかった。
「……少々、道に迷ってしまってね」
嘘ではない。
ただし、彼が迷っているのは道だけではなかった。
「そっか。じゃあ、町まで案内しようか? 僕もそっちに帰るところだから」
「それは助かる。ぜひ、お願いしたい」
少年はにっこりと笑った。
「じゃあ、ついてきて!」
トマが歩き始める。
ニュートンはその後ろに続いた。
彼の頭の中では、いくつもの疑問が渦巻いていた。
火は、何もないところから発生したのか。
治癒の光は、どのような作用によって傷を塞いだのか。
そもそも、この世界には自分の知る自然法則が通用するのだろうか。
疑問は尽きない。
しかし、まずは人のいる場所へ行くことだ。
観察と実験には、道具も時間も必要だった。
*
森を抜けた先に、町があった。
ニュートンは、その光景を目にした途端、足を止めた。
そこには、彼の知るどの都市とも異なる町並みが広がっていた。
石造りの建物が並び、赤茶色の屋根が陽光を反射している。通りには人々が行き交い、荷車を引く馬に似た動物が歩いていた。
道端には色とりどりの露店が立ち並び、野菜や果物、見たこともない道具が売られている。
人々の服装は、彼の知るイングランドのものとは大きく異なっていた。
革の鎧を着た男。
背中に剣を背負った女。
大きな籠を抱えた老人。
そして、頭に獣の耳を生やした人間らしき者までいる。
ニュートンは、思わず立ち尽くした。
「……ここは、どこの町なのだ?」
「え? ここはリーベルの町だよ」
トマは不思議そうに答えた。
「リーベル……」
聞き覚えのない地名だった。
もちろん、遠い異国の都市である可能性はある。世界には彼が訪れたことのない土地が数多く存在するのだから。
しかし、あの空の色、あの魔物、そして少年が使った魔法。
これらすべてを、単に未知の国という言葉で片付けることはできそうになかった。
「トマ君、一つ尋ねたい」
「なに?」
「この町は、どこの国に属しているのかね?」
「どこの国って……アルデリア王国だけど」
「アルデリア王国……」
やはり、聞き覚えはなかった。
ニュートンは額に手を当てた。
頭痛がするわけではない。
自分の置かれた状況を、少しずつ整理しようとしていたのである。
知らない町。
知らない国。
知らない生物。
そして、魔法。
彼は、自分が途方もなく遠い場所へ来てしまった可能性を認めざるを得なかった。
「おじさん、どうしたの? 顔色が悪いよ」
「いや……少し、考え事をしていた」
「ふうん。まあ、町に入ったんだから、あとは大丈夫だと思うよ。僕、薬草を届けに行かなくちゃ」
「そうか。助けてくれてありがとう。君がいなければ、私は今頃どうなっていたことか」
「いいよ、別に! 困ってる人を助けるのは当たり前だし」
トマは照れくさそうに笑った。
「じゃあね、おじさん!」
「ああ。気をつけて帰りなさい」
少年は人混みの中へ消えていった。
ニュートンは、しばらくその背中を見送っていた。
助けられたことへの感謝はもちろんあった。
それと同時に、彼の心には新たな疑問が生じていた。
あの少年は、火を生み出した。
傷を治した。
しかも、それらを特別なこととも思っていない。
この世界では、魔法は日常の一部なのだろう。
ならば、魔法とは何なのか。
自然法則に反する現象なのか。それとも、まだ知られていない法則に従っているだけなのか。
ニュートンは静かに息を吐いた。
「……興味深い」
その一言には、恐怖よりも強い好奇心が込められていた。
*
まずは、食料と情報が必要だった。
ニュートンは町の露店を眺めながら、売られている品々を確認した。
果物、パン、干し肉、布地。
見慣れた品もあれば、用途さえ分からないものもある。
彼は一軒の露店の前で足を止めた。
店主は、日に焼けた顔をした中年の男だった。店先には、丸い果実や焼き菓子が並んでいる。
「すまない。このパンはいくらだろうか?」
「銅貨三枚だ」
「銅貨三枚……なるほど」
ニュートンは懐を探った。
幸い、庭園にいたときの持ち物は、そのまま身につけていた。
彼は財布を取り出し、中から硬貨を一枚選んだ。
それは彼の暮らしていた世界で使われていた貨幣だった。
「これで支払えるだろうか?」
店主は硬貨を受け取った。
そして、しばらく眺めたあと、怪訝そうに眉をひそめた。
「……何だ、こりゃ」
「何とは?」
「こんな金、見たことねえぞ」
「金貨だ。少なくとも、私のいた場所では通用する」
「俺はこの町で商売をしてるんだ。見たこともねえ金を受け取れるわけがないだろう」
「しかし、金属としての価値はあるはずだ。材質を調べれば――」
「そういう問題じゃねえよ!」
店主は声を荒らげた。
「この町で使える金かどうかって話だ! 金属の塊を渡されても困るんだよ!」
周囲の客が、何事かと振り返った。
ニュートンは困惑した。
彼にとって貨幣とは、一定の価値を保証された交換手段である。
しかし、貨幣の価値は、その社会の信用によって成り立っている。
この町では、彼の硬貨にその信用がない。
理屈としては理解できた。
問題は、それによって何も買えないという事実だった。
「……では、交換してもらうことはできないだろうか。金属としての価値に応じて――」
「できるわけねえだろ。悪いが、ほかを当たってくれ」
「しかし、私は食事を必要としているのだ」
「俺だって商売なんだよ!」
口論が激しくなりかけた、そのときだった。
「まあまあ、店主さん。少し落ち着いてくださいな」
柔らかな声が二人の間に割って入った。
ニュートンが振り向くと、そこには一人の女性が立っていた。
年齢は二十代半ばほどだろうか。
栗色の髪を後ろで束ね、落ち着いた色合いの外套を羽織っている。腰には小さな革袋が下がり、その手には紙包みが抱えられていた。
彼女は店主に向かって微笑んだ。
「この方も、困っているだけのようですし」
「困ってるからって、商売にならねえもんを売るわけにはいかねえよ」
「ええ、それはそうですね。こちらの方も、それは理解されたと思いますよ」
女性はそう言ってから、ニュートンに向き直った。
「失礼ですが、旅の方ですか?」
「……そうだと言えるだろう」
少なくとも、今の彼にはそう答えるほかなかった。
「この町に来たばかりなのですか?」
「実を言えば、そうなのだ。道中で少々不運な目に遭ってね。町に着けば何とかなると思ったのだが、貨幣まで通用しないとは思わなかった」
女性は彼の服装を眺めた。
仕立てのよい上着に、見慣れない形の靴。旅装というには不自然であり、商人というには荷物が少なすぎる。
「なるほど……。ずいぶん遠くからいらしたのですね」
「まあ、そんなところだ」
ニュートンは、異世界から来たとは言わなかった。
自分自身、まだそれを完全に理解できているわけではない。
知らない国から来た旅人という説明なら、今のところ嘘にはならないだろう。
女性は少し考えてから、口を開いた。
「それでしたら、ギルドへ行ってみてはいかがでしょう?」
「ギルド?」
「はい。冒険者ギルドです。この町には、仕事を探している人や、依頼を出したい人が集まる場所があるんです」
「仕事……」
「薬草の採取や荷物の運搬、魔物の討伐、商人の護衛など、依頼はいろいろあります。初めての方でも受けられる仕事がありますから、まずはそこで相談してみるといいと思いますよ」
ニュートンは考え込んだ。
仕事を得られるのなら、当面の生活費を確保できる。
同時に、町の情報を集めることもできるだろう。
この世界の通貨について知る必要もある。言語は幸い通じているが、それ以外の常識については何も知らないに等しい。
そして何より、魔法という現象について調べるためにも、この世界の人々と関わる必要があった。
「……そのギルドという場所では、誰でも仕事を受けられるのだろうか?」
「ええ。もちろん、依頼によって条件はありますけれど。登録の方法も、受付の方が教えてくれるはずです」
「なるほど。大変参考になる」
ニュートンは女性に向かって頭を下げた。
「親切に感謝する。あなたのおかげで、ひとまず進むべき道が見えた」
「いえいえ。困ったときはお互いさまですから」
女性は微笑んだ。
「ギルドは、この通りをまっすぐ進んで、広場を右に曲がったところにあります。大きな看板が出ているので、すぐ分かると思いますよ」
「承知した。ありがとう」
「どういたしまして。それでは、よい一日を」
女性は軽く会釈すると、人混みの中へと去っていった。
ニュートンはその姿を見送り、手元の硬貨を財布に戻した。
彼の知っている世界では、自然現象を理解するために観察と実験を重ねてきた。
だが、この世界では、その出発点に立つことさえ難しい。
まずは生活の基盤を整えなければならない。
金が必要だ。
情報が必要だ。
そして、何よりも、この世界を知る必要がある。
ニュートンは女性の教えてくれた道を歩き始めた。
通りの向こうに、大きな建物が見えてくる。
石造りの壁。重厚な扉。そして、建物の正面に掲げられた、剣と盾を模した看板。
その下には、見慣れない文字が刻まれていた。
しかし、なぜか意味は理解できた。
冒険者ギルド。
ニュートンは足を止め、看板を見上げた。
「……さて」
彼は小さく呟いた。
「この世界の法則を知るには、まず、この世界で生きていかねばなるまい」
扉の向こうから、人々の話し声が聞こえる。
ニュートンは一度だけ深く息を吸い、重厚な扉へと手を伸ばした。




