第1章 まだ何者でもない
何かが足りない。
高嶺ノゾムは、キャンバスから二歩下がった。
大学の非常階段を描いている。
白っぽく焼けたコンクリートの壁を配管が這い、金属製の手すりの隙間から夏の青空がのぞいている。午後の日差しは右上から差していた。
なら、階段の裏側に落ちる影はこれでいい。
踊り場の奥行きもおかしくない。窓の位置も、壁と配管の距離も、だいたい実物どおりだ。
描けている。少なくとも、間違ってはいない。
「……で?」
小さく呟いた。
それが問題だった。
間違っていない。だから何だ。
ノゾムは眼鏡を押し上げ、またキャンバスへ近づいた。
階段の下には、自転車が一台あったはずだ。
描かなかった。
空のペットボトルも落ちていたが、それも消した。手すりには、誰かが置き忘れたらしい色のついた布が引っかかっていた。画面の中で目立ちすぎる気がして、最初から入れなかった。
その結果、構図はすっきりした。階段の形もよく分かるし、視線を邪魔するものもない。
よくできている。
そして、ひどくつまらない。
「高嶺くん」
背後から声がした。
振り返ると、篠原ヨルコが立っていた。ノゾムより二つ上。同じ大学の先輩だ。
「また建物描いてる」
「また、って」
「だって高嶺くん、いつもこういうの描いてない?」
「……まあ」
否定できなかった。
高架下や団地、校舎裏、屋上、工場、立体駐車場。気がつけば、そういうものばかり描いている。
ヨルコがキャンバスの横まで来て、少し首を傾けた。
「やっぱり上手いね」
「そうですか?」
「うん。こういう形見るの、本当に上手い」
「形……」
「階段とか、配管とか。ちゃんとそこにある感じがする」
褒められている。たぶん。
ノゾムは自分の絵を見た。
ちゃんとそこにある。
確かにそうだ。
けれど、それでいいのかと聞かれると、やっぱり分からない。
「篠原先輩」
「ん?」
「個展の準備、今日まででしたっけ」
「ああ」
ヨルコの顔が少し曇った。
「今日中に終わらせないとまずい。明日搬入だから」
「もう明日なんですね」
「そう。もう明日」
初めての個展だ。
話自体は前から聞いていた。それでも「明日搬入」と言われると、急に現実味が出る。
ヨルコの描いた絵が大学の外へ出ていく。額に入れられ、白い壁に掛けられ、知らない人に見られる。
そして、値段がつく。
ノゾムは自分のキャンバスを見た。
課題として提出して、講評を受ける。
今のところ、自分の絵はそこまでだ。
「すごいですよね」
「何が?」
「個展」
「全然」
ヨルコは即答した。
「むしろ怖いよ」
「怖いんですか?」
「怖いでしょ」
当たり前のことを聞かれたような顔をされた。
「一枚も売れなかったらどうしようとか。誰も来なかったらどうしようとか」
「……そういうこと考えるんですね」
「考えるよ」
「いや、篠原先輩って、そういうの気にしないのかと」
「どういう人だと思われてるの、私」
「いや……」
言われてみれば、自分でもよく分からない。
ただ、迷わない人だと思っていた。
描いたものを、これが自分の作品だと言える人。人に見せられる人。そこに値段までつけられる人。
自分とは違って、そこまで進んだ人。
でも、違ったらしい。
怖いし、不安にもなる。
それでも明日、作品を持っていく。
ノゾムには、そのことの方が意外だった。
「高嶺くん」
「はい」
「明日、時間ある?」
「明日ですか」
「搬入、ちょっと手伝ってくれない?」
ノゾムは一瞬だけ考えた。
「俺でよければ」
「助かる」
ヨルコはそう言って、自分の作業へ戻っていった。
ノゾムも再びキャンバスへ向き直る。
誰もいない階段。整った配管。何も落ちていない床。
さっきまでより、その静けさが気になった。
*
翌日。
客のいないギャラリーは、まだ完成前の舞台のようだった。
白い壁の前には脚立や段ボールが置かれ、外された梱包材が床に残っている。壁からは展示用のワイヤーが垂れていた。
作品はもうそこにある。
けれど、まだ展示にはなっていない。
「高嶺くん、それもう少し右」
「これくらい?」
「もうちょい」
「二センチ?」
「その二センチって本当に二センチ?」
「だいたい」
「高嶺くんのだいたいは信用できそう」
「どういう意味ですか」
「褒めてる」
ノゾムは額を少し右へ動かした。
「そこ」
ヨルコが離れた位置から確認する。
「うん。いい」
手を離し、ノゾムも一歩下がった。
隣の作品との間隔はほぼ揃っている。高さも悪くない。壁全体で見ると、視線が自然に右から左へ流れる。
「高嶺くん」
「はい」
「ほんと、こういうの得意だね」
「絵より向いてたりして」
自分で言って、少し嫌になった。
ヨルコは笑わなかった。
「それと絵は別じゃない?」
「そうですかね」
「そうでしょ」
それだけ言って、次の作品を取りに行った。
ノゾムはその背中を見送ってから、ギャラリーの奥へ目を向けた。
一枚の絵が掛かっていた。
すぐ分かった。
前にも何度か見せてもらったことがある。
古びた建物の隙間を抜ける、細い階段。
少し剥がれた壁には配管が走り、その脇に油画室を示す古い表示が残っている。
頭上には真夏の青空。
強い日差しが階段を白く焼き、そのすぐ隣へ濃い影を落としていた。
階段の先には、陽炎に揺れる明るい街が小さく見えている。白い建物の間から、ガラス張りの塔が光を返していた。
そして、画面の端には鉢植えが置かれている。赤や黄色の小さな花が咲いていた。
人物は一人も描かれていない。
それなのに、ノゾムはしばらく絵の前を離れられなかった。
誰もいない。
でも、誰もいない場所には見えない。
なぜだろう。
自分も似たようなものを描いている。
階段や壁、配管、空、光と影。使っているものだけ見れば、それほど違わない。
なのに違う。
ノゾムなら、画面の端にある鉢植えは消すかもしれない。視線が引っかかるからだ。
配管ももう少し整理するし、壁の汚れも減らす。その方が画面は綺麗になるし、階段の形ももっとはっきり見える。
でも。
そうしたら、この絵ではなくなる。
「それ、前からよく見てるよね」
横から声がした。
ヨルコだった。
「……好きなんで」
一拍遅れて付け足す。
「この絵」
「うん」
ヨルコは絵を見た。
「ありがとう」
それだけだった。
ノゾムも、それ以上は言えなかった。
どうして好きなのか、うまく説明できない。
ただ、自分と似たものを描いているのに、自分の絵とは違う。その違いだけが、やけにはっきりしていた。
視線を下げると、作品票があった。
作者名と作品名。
そして販売価格。
ノゾムは数字を見た。
もう一度見た。
昼飯代を一か月削ったくらいでは、焼け石に水だ。
「……これ、売るんですよね」
「うん」
「この絵も?」
「そのつもり」
ヨルコは頷いた。
「売れたら嬉しいし」
ノゾムはまた数字を見る。
高い。少なくとも、自分には。
それでも欲しいと思った。
最初に浮かんだのは、それだった。
そのあとで、別の考えがついてきた。
自分で稼いだ金で、この絵を買えたら。
それができる自分は、今の自分とは少し違う気がした。
課題を描いて提出し、先生に見てもらって、また次の課題を描く。その繰り返しの外へ、一歩出られるんじゃないか。
自分の金で、誰かの作品を買う。
それは、一人前の大人がすることのように思えた。
だったら、一人前の大人になれば、今までとは違うものが見えるのかもしれない。
立つ場所が変われば、見える風景も変わる。
そうしたら、自分の絵だって変わるはずだ。
ノゾムは目の前の絵を見る。
人のいない階段。
なのに、自分には描けない階段。
これを買える自分になれたら、少しくらい、この絵を描いた人のいる場所に近づけるんじゃないか。
「高嶺くん?」
「はい」
ヨルコに呼ばれて、我に返る。
「どうしたの?」
「いや……」
作品票を見る。
そして、もう一つ考えた。
もし、自分がこれを買ったら。
篠原先輩は、どんな顔をするだろう。
少しは、今までと違って見えるだろうか。
「なんでもないです」
「そう?」
「はい」
ノゾムは絵から離れた。
次の額を持ち上げ、位置を合わせる。
少し右。
もう少し上。
「そこ」
ヨルコが言った。
ノゾムは額を固定した。
こういうことなら分かる。
右か左か。高いか低いか。何センチ動かせばいいか。
答えがある。
でも、さっきから頭に残っていることには、まだ答えがなかった。
*
帰り道。
ノゾムは端末を開き、口座残高を確認した。
ギャラリーの作品票を思い出す。
計算するまでもない。
「……全然足りないな」
いったん画面を閉じて歩き出した。
だが、しばらくするとまた端末を開いていた。
あの絵を、自分の金で買いたい。
その考えだけが消えない。
検索窓を開く。
指が少し止まった。
そして入力した。
短期 高額 バイト
検索。




