↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/14

第1章 まだ何者でもない

挿絵(By みてみん)


 何かが足りない。

 高嶺ノゾムは、キャンバスから二歩下がった。

 大学の非常階段を描いている。

 白っぽく焼けたコンクリートの壁を配管が這い、金属製の手すりの隙間から夏の青空がのぞいている。午後の日差しは右上から差していた。

 なら、階段の裏側に落ちる影はこれでいい。

 踊り場の奥行きもおかしくない。窓の位置も、壁と配管の距離も、だいたい実物どおりだ。

 描けている。少なくとも、間違ってはいない。

「……で?」

 小さく呟いた。

 それが問題だった。

 間違っていない。だから何だ。

 ノゾムは眼鏡を押し上げ、またキャンバスへ近づいた。

 階段の下には、自転車が一台あったはずだ。

 描かなかった。

 空のペットボトルも落ちていたが、それも消した。手すりには、誰かが置き忘れたらしい色のついた布が引っかかっていた。画面の中で目立ちすぎる気がして、最初から入れなかった。

 その結果、構図はすっきりした。階段の形もよく分かるし、視線を邪魔するものもない。

 よくできている。

 そして、ひどくつまらない。

「高嶺くん」

 背後から声がした。

 振り返ると、篠原ヨルコが立っていた。ノゾムより二つ上。同じ大学の先輩だ。

「また建物描いてる」

「また、って」

「だって高嶺くん、いつもこういうの描いてない?」

「……まあ」

 否定できなかった。

 高架下や団地、校舎裏、屋上、工場、立体駐車場。気がつけば、そういうものばかり描いている。

 ヨルコがキャンバスの横まで来て、少し首を傾けた。

「やっぱり上手いね」

「そうですか?」

「うん。こういう形見るの、本当に上手い」

「形……」

「階段とか、配管とか。ちゃんとそこにある感じがする」

 褒められている。たぶん。

 ノゾムは自分の絵を見た。

 ちゃんとそこにある。

 確かにそうだ。

 けれど、それでいいのかと聞かれると、やっぱり分からない。

「篠原先輩」

「ん?」

「個展の準備、今日まででしたっけ」

「ああ」

 ヨルコの顔が少し曇った。

「今日中に終わらせないとまずい。明日搬入だから」

「もう明日なんですね」

「そう。もう明日」

 初めての個展だ。

 話自体は前から聞いていた。それでも「明日搬入」と言われると、急に現実味が出る。

 ヨルコの描いた絵が大学の外へ出ていく。額に入れられ、白い壁に掛けられ、知らない人に見られる。

 そして、値段がつく。

 ノゾムは自分のキャンバスを見た。

 課題として提出して、講評を受ける。

 今のところ、自分の絵はそこまでだ。

「すごいですよね」

「何が?」

「個展」

「全然」

 ヨルコは即答した。

「むしろ怖いよ」

「怖いんですか?」

「怖いでしょ」

 当たり前のことを聞かれたような顔をされた。

「一枚も売れなかったらどうしようとか。誰も来なかったらどうしようとか」

「……そういうこと考えるんですね」

「考えるよ」

「いや、篠原先輩って、そういうの気にしないのかと」

「どういう人だと思われてるの、私」

「いや……」

 言われてみれば、自分でもよく分からない。

 ただ、迷わない人だと思っていた。

 描いたものを、これが自分の作品だと言える人。人に見せられる人。そこに値段までつけられる人。

 自分とは違って、そこまで進んだ人。

 でも、違ったらしい。

 怖いし、不安にもなる。

 それでも明日、作品を持っていく。

 ノゾムには、そのことの方が意外だった。

「高嶺くん」

「はい」

「明日、時間ある?」

「明日ですか」

「搬入、ちょっと手伝ってくれない?」

 ノゾムは一瞬だけ考えた。

「俺でよければ」

「助かる」

 ヨルコはそう言って、自分の作業へ戻っていった。

 ノゾムも再びキャンバスへ向き直る。

 誰もいない階段。整った配管。何も落ちていない床。

 さっきまでより、その静けさが気になった。


    *


 翌日。

 客のいないギャラリーは、まだ完成前の舞台のようだった。

 白い壁の前には脚立や段ボールが置かれ、外された梱包材が床に残っている。壁からは展示用のワイヤーが垂れていた。

 作品はもうそこにある。

 けれど、まだ展示にはなっていない。

「高嶺くん、それもう少し右」

「これくらい?」

「もうちょい」

「二センチ?」

「その二センチって本当に二センチ?」

「だいたい」

「高嶺くんのだいたいは信用できそう」

「どういう意味ですか」

「褒めてる」

 ノゾムは額を少し右へ動かした。

「そこ」

 ヨルコが離れた位置から確認する。

「うん。いい」

 手を離し、ノゾムも一歩下がった。

 隣の作品との間隔はほぼ揃っている。高さも悪くない。壁全体で見ると、視線が自然に右から左へ流れる。

「高嶺くん」

「はい」

「ほんと、こういうの得意だね」

「絵より向いてたりして」

 自分で言って、少し嫌になった。

 ヨルコは笑わなかった。

「それと絵は別じゃない?」

「そうですかね」

「そうでしょ」

 それだけ言って、次の作品を取りに行った。

 ノゾムはその背中を見送ってから、ギャラリーの奥へ目を向けた。

 一枚の絵が掛かっていた。

 すぐ分かった。

 前にも何度か見せてもらったことがある。

 古びた建物の隙間を抜ける、細い階段。

 少し剥がれた壁には配管が走り、その脇に油画室を示す古い表示が残っている。

 頭上には真夏の青空。

 強い日差しが階段を白く焼き、そのすぐ隣へ濃い影を落としていた。

 階段の先には、陽炎に揺れる明るい街が小さく見えている。白い建物の間から、ガラス張りの塔が光を返していた。

 そして、画面の端には鉢植えが置かれている。赤や黄色の小さな花が咲いていた。

 人物は一人も描かれていない。

 それなのに、ノゾムはしばらく絵の前を離れられなかった。

 誰もいない。

 でも、誰もいない場所には見えない。

 なぜだろう。

 自分も似たようなものを描いている。

 階段や壁、配管、空、光と影。使っているものだけ見れば、それほど違わない。

 なのに違う。

 ノゾムなら、画面の端にある鉢植えは消すかもしれない。視線が引っかかるからだ。

 配管ももう少し整理するし、壁の汚れも減らす。その方が画面は綺麗になるし、階段の形ももっとはっきり見える。

 でも。

 そうしたら、この絵ではなくなる。

「それ、前からよく見てるよね」

 横から声がした。

 ヨルコだった。

「……好きなんで」

 一拍遅れて付け足す。

「この絵」

「うん」

 ヨルコは絵を見た。

「ありがとう」

 それだけだった。

 ノゾムも、それ以上は言えなかった。

 どうして好きなのか、うまく説明できない。

 ただ、自分と似たものを描いているのに、自分の絵とは違う。その違いだけが、やけにはっきりしていた。

 視線を下げると、作品票があった。

 作者名と作品名。

 そして販売価格。

 ノゾムは数字を見た。

 もう一度見た。

 昼飯代を一か月削ったくらいでは、焼け石に水だ。

「……これ、売るんですよね」

「うん」

「この絵も?」

「そのつもり」

 ヨルコは頷いた。

「売れたら嬉しいし」

 ノゾムはまた数字を見る。

 高い。少なくとも、自分には。

 それでも欲しいと思った。

 最初に浮かんだのは、それだった。

 そのあとで、別の考えがついてきた。

 自分で稼いだ金で、この絵を買えたら。

 それができる自分は、今の自分とは少し違う気がした。

 課題を描いて提出し、先生に見てもらって、また次の課題を描く。その繰り返しの外へ、一歩出られるんじゃないか。

 自分の金で、誰かの作品を買う。

 それは、一人前の大人がすることのように思えた。

 だったら、一人前の大人になれば、今までとは違うものが見えるのかもしれない。

 立つ場所が変われば、見える風景も変わる。

 そうしたら、自分の絵だって変わるはずだ。

 ノゾムは目の前の絵を見る。

 人のいない階段。

 なのに、自分には描けない階段。

 これを買える自分になれたら、少しくらい、この絵を描いた人のいる場所に近づけるんじゃないか。

「高嶺くん?」

「はい」

 ヨルコに呼ばれて、我に返る。

「どうしたの?」

「いや……」

 作品票を見る。

 そして、もう一つ考えた。

 もし、自分がこれを買ったら。

 篠原先輩は、どんな顔をするだろう。

 少しは、今までと違って見えるだろうか。

「なんでもないです」

「そう?」

「はい」

 ノゾムは絵から離れた。

 次の額を持ち上げ、位置を合わせる。

 少し右。

 もう少し上。

「そこ」

 ヨルコが言った。

 ノゾムは額を固定した。

 こういうことなら分かる。

 右か左か。高いか低いか。何センチ動かせばいいか。

 答えがある。

 でも、さっきから頭に残っていることには、まだ答えがなかった。


    *


 帰り道。

 ノゾムは端末を開き、口座残高を確認した。

 ギャラリーの作品票を思い出す。

 計算するまでもない。

「……全然足りないな」

 いったん画面を閉じて歩き出した。

 だが、しばらくするとまた端末を開いていた。

 あの絵を、自分の金で買いたい。

 その考えだけが消えない。

 検索窓を開く。

 指が少し止まった。

 そして入力した。

短期 高額 バイト

 検索。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
SFはセンスオブワンダーが重要です。最近、SFはメカや科学用語らしきものさえ表記があればいいという傾向が見られますが、それではセンスオブワンダーにはなりません。 この作品のように、何の変哲もない日常と…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。