第44話「学校の窓からは見えない世界」第四部
その空間を満たす楽しげな空気は、まるで伝染病のように部屋中に広がっていた。
竜斗の母、福実のクスクスという笑い声。気さくな相槌。ちょっとした冗談や、息子の恥ずかしい昔話。竜斗がいくら不快そうなしかめっ面を浮かべても、母の弾むようなお喋りを止めることはできなかった。そして、福実の言葉を聞く真琴の、フフッという短く可愛らしい笑い声。
恥ずかしさで引きつり、赤く染まった竜斗の顔には、静かな喜びが表れていた。彼がその時目にしていた光景――二人が一緒に笑い合っている姿――がもたらす、絶対的な安堵感。
まるで、彼の抱えるすべての悩みが消え去ったみたいだ……
彼がずっと避けようとしてきた全てを、もう無理に無視しなくてもいいような気がした。胸の奥底にあった痛みが、嘘のように消え去ったかのように。その音。彼女たちの笑い声の響きこそが、今の彼がただ一つ聞きたいと願うものだった。
真琴が遠慮なく質問を投げかけ、母が彼の幼少期の深い秘密を暴露しても、自分がからかわれているというのに、竜斗は微塵の恐怖も抱かずにそれを聞いていた。
その不思議な感情は、二人が会話の合間に息継ぎをする間も続いた。太陽が山の向こうに隠れそうになり、オレンジ色の、暖かくも弱く、それでいて目が眩むような光を差し込んできた時でさえ。その光は二人の顔の輪郭を優しく浮き彫りにし、瞳の色を際立たせた。母の明るい茶色と、彼女の緑がかった色を。
病室のベッドに繋がれた医療機器のピッ、ピッという無機質な電子音だけが響く時でさえ、そこには平和な空気が漂っていた。
初めて、この少年は『沈黙』を恐れなくなっていた。
「竜斗くん?」
真琴の戸惑うような声が、無邪気に、そして純粋に響いた。彼女は子供のような好奇心で彼を見つめていた。一方、母は疲れた表情のまま、息子の顔つきの変化に気づいて少し唇を開いていた。
「どうしたの?竜斗くん、具合でも悪いの?」真琴は、福実と一時間ほど話し込んでいた椅子から立ち上がりながら尋ねた。
「……なんでもない」彼は目を閉じ、顔を床に向けて、溢れ出そうになる小さな涙を隠そうとしながら答えた。
「もうっ……」真琴は不満げに呟いた。
しかし、息子のその不器用な表情の意味を理解した母は、ただ優しく微笑んだだけだった。
「あらあら!もう夕暮れみたいね!」彼女は声を上げた。その声は大きく、竜斗にはそれがどれほどの努力と体力を要するかわかっているほどの活気に満ちていた。
「あっ!本当だ!」
「そうよ!そうよ!」福実は体の前で両腕を上げながら続けた。薄い病衣の袖が、重力に引かれるように手首まで滑り落ちる。「二人とも、夏休み前の最後の登校日を楽しんでこなくちゃ!さあ、デートに行っておいで!」
「デ、デ、デート!?」真琴はビクッと肩を揺らし、驚いて声を裏返した。
「……そうだね」竜斗が割って入り、二人の注意を引いた。真琴は顔を真っ赤にして彼を見つめ、福実は驚きで目を丸くした。「そろそろ、時間だ」
彼は自分のカバンを手に取り、肩にかけた。続いて、真琴のカバンを持ち上げ、自分の右肩にかけた。
「行くよ、秋――」
「待った!」福実が両腕を大きく横に振って、強く否定する仕草で彼を遮った。
「何……?」
「真琴ちゃんはあなたのことを『竜斗くん』って呼んでたわよね?だったら、ちゃんとそれに相応しい返しをしなさい!ふんっ!」
ピタッ。真琴は完全に固まり、喉の奥で悲鳴を飲み込んだ。一方、いつもは無気力な少年の頬も、どうしようもなく熱く染まっていく。彼は彼女の方を向き、手を差し出した。その視線にはためらいが溢れ、声は低く詰まっていた。
「行こう……ま、真琴……さん……」
真琴は立ち尽くしたまま、大きな目を魅了されたように見開いて彼を見つめた。その奥では、母が誇らしげに、そして少し悪戯っぽくその光景を観察している。彼女はそっと彼の手を握り、二人は一緒に病室のドアへと歩き出した。
「……行ってきます、母さん」
「三浦さん、お会いできて嬉しかったですっ」
福実は弱々しく、しかし温かい微笑みを浮かべた。
「いってらっしゃい」
◇ ◇ ◇
「竜斗くんのお母さん、絶対可愛い人だよ!」
真紅の髪をした少女の弾むような声が、彼の隣で響いた。
二人はすでに病院の建物を後にし、青々とした中庭の入り口にいた。そこは到着した時よりも、少し人が減り、静かになっていた。
「竜斗くんもそう思わない?」彼女は竜斗をまっすぐ見つめながら続けた。しかし、竜斗は視線を上げたまま、まるで空を見上げているようだった。
真琴の目は好奇心で見開かれた。先ほどから何か彼を悩ませているようだったが、それが何なのか彼女にはわからなかった。
「秋――」彼は言いかけ、すぐに口をつぐんだ。「……真琴さん、見たよね?」
彼女は彼の視線を追うように顔を上げ、夕暮れのオレンジ色の空の、目に見えない一点に焦点を合わせた。
「母さんの、身体」
真琴の目が細められる。
「……うん」
蒼白い顔、痩せ細った体、注射の痕や静脈が透けて見えるほど薄い皮膚。腫れた肘、短く綺麗に整えられてはいるものの、細く脆い髪。そして最後に、彼女の顔にある印――鼻と頬に広がる、かすかに蝶を思わせる赤い斑点。
「母さんは、ループス腎炎を伴う全身性エリテマトーデスを患ってるんだ」竜斗は、その目に見えない一点から視線を外さずに明かした。「母さんが一生この病気と付き合っていかなきゃならないのは分かってる……僕が八歳の時、酷い発作を起こして……それ以来」
彼はついに振り返り、背後の病院を見つめた。
「ここで、ずっと入院してる」
「竜斗くん……」それが真琴の絞り出せた精一杯の言葉だった。
(こんな時、あたしに何が言えるっていうの?)
「だから、僕はバイトを始めたんだ……」
彼の目は並々ならぬ決意を示していた。疲労の色がまだ顔に残り、肩は落ちたままだったが、彼は揺るぎない力強さで病院の建物を見据えていた。
「母さんの治療費はどんどん高くなってる。それに、賢進は毎日残業して、休みの日も全部当番に入って、身を粉にして働いてる。帰ってくるのはいつも深夜だ。僕たちが寝静まってから帰ってきて、朝には出て行くこともある。森林警備隊の宿舎に泊まり込んで、家に帰ってこないことだってある」
彼の視線が床に落ち、弱々しい笑みを浮かべながらも、敗北感に満ちた表情を浮かべた。
「自分のバイト代を治療費の足しにするなんて、彼が絶対に許さないことは分かってる。ただ……」
自宅のキッチンの光景が彼の脳裏をよぎった。食卓に並べられた食事、そしてそこに座っているのは自分と咲の二人だけ。
「母さんがこうなってから、僕は毎日咲の世話をしてきた」竜斗は手を上げ、自分の手のひらを見つめた。「今年、あいつが中学校に入ってから、少し自立したんだ」苦い笑みが彼の唇に浮かんだ。「気づいた時には、あいつはもう僕が夕飯を作るのをずっと食卓で待ってるわけじゃなくなってた。迎えに行く必要もなくなったし、ずっと世話を焼く必要もなくなった」
ギュッ。彼の手が強く握りしめられた。
「僕は……どうしていいか、分からなくなったんだ」
真琴は驚きに目を見開いた。
「もし咲がもう僕を必要としていないなら、その分何かで埋め合わせをしなきゃいけない。期待に応えなきゃいけないんだ。何か……行動を起こさなきゃ。たとえ僕が稼いだお金が、家の光熱費を払うくらいにしか役立たなくても。僕は、何かをしなきゃいけないんだ……」
彼の手が、ようやく無力に下ろされた。
「恩返しを、しなきゃいけない」
だが、彼の手が体の横に下ろされたその瞬間。**スッ……**と、優しくて温かい感触がそれを包み込んだ。真琴が彼の手を握っていた。竜斗は心底戸惑ったように彼女を見た。
真琴は微笑んでいた。穏やかで、全てを包み込むような笑顔。
「竜斗くんのお母さんは、間違いなく強い人だよ。そして、竜斗くんはそのお母さんの子どもなんだから」
彼女の指が彼の指と絡み合い、しっかりと握りしめる。
「竜斗くんはとっても強い。絶対、全部うまくいくよ。あたしには分かる」
少年の視線は、彼女の瞳の中に吸い込まれていた。竜斗は再び、自然と笑みをこぼした。そして、彼の指も真琴の柔らかい手を握り返した。
「何か食べる?……真琴さん」
「うんっ!もちろん、竜斗くん!」




