4.この生涯、あなたただ一人
意外なことに、翌朝、茶に招きたいという誘いが皇太后から来た。
その日の公式な予定は、夜会があるだけ。
アレクサンドルは、伺いますとただちに返事をさせた。
小宮殿に赴くと、庭先のテラスに茶の支度が整えてあった。
今日は体調が良いという皇太后は、アレクサンドルの腕もクリスティーヌの介添えも断り、杖を2本使って慎重に歩んで自力で席に着いた。
「鍛えられる時に鍛えねば、衰えていくばかりですのでね」
少し誇らしげな顔をして、皇太后は言った。
席についたのは、皇太后とアレクサンドルのみ。
クリスティーヌが紅茶を注いだ。
茶請けに、フレッシュチーズに果物のソースをかけたものを置いて、女官達が下がった。
クリスティーヌは皇太后の斜め後ろに控えている。
どうぞと皇太后が勧めて、みずから口にし始めたので、アレクサンドルも相伴した。
「この年になると、宮廷作法がわずらわしくなりましてね。
包まずお訊ねいたします。
バイルシュタイン公、あなたは、クリスティーヌを妻としてお望みなのでしょうか」
まさかこう問われると思っていなかったアレクサンドルは、思わずクリスティーヌの方に視線をやった。
クリスティーヌも驚いているようだ。
「……はい。
私の気持ちとしては、そのとおりです」
ふむふむふむ、と皇太后は頷いた。
「この年まで縁薄かったクリスティーヌに、あなたのような方が思いを寄せてくださったこと、喜ばしく、また嬉しく思います。
ですが、クリスティーヌには複雑な事情があるのです」
皇太后は紅茶で一息入れた。
「クリスティーヌは、わたくしの夫の庶子ということになっております。
ですが、それは建前。
本当は、わたくし達の最初の孫なのです」
「え? ああああああ!?」
アレクサンドルは驚いて声を立ててしまった。
思わず、皇太后とクリスティーヌを見比べる。
そういえば、若かりし日の皇太后の肖像画を宮殿のどこかで見た。
今でこそ雪のような白髪ではあるが、クリスティーヌと同じ、珍しい赤みがかったブロンドだった。
目鼻立ち、雰囲気もどことなく似ている。
「ほとんど世に忘れられていることですが、今の皇帝には兄がおりました。
名はユーグ。
19歳の時、落馬事故で亡くなりました」
「……うかがったことはあります」
当時、帝国でなにか内紛でもあって暗殺されたのではないかと諸国で噂になったという話を聞いた覚えがある。
すぐに2歳下の弟皇子が皇太子となり、婚約者もそのまま引き継いで結婚、それが今の皇帝だ。
「5年後、ある家から内々に相談がありました。
その家の未婚の娘が、ユーグが亡くなった年の冬、女の子を産んで、父親は誰とも言わずに生涯緘黙を掟とする修道院に入ってしまった。
その孫が、年々ユーグにそっくりになってきているのだが、いったいどうしたらいいのだろうと」
それがクリスティーヌということか。
既に知っている話なのか、クリスティーヌは落ち着いて聞いている。
アレクサンドルと眼が合うと、小さく頷いてくれた。
「久しぶりに一家揃って離宮で静養することにして帝都を離れ、その家の者達を密かに引見しました」
皇太后はクリスティーヌの方を振り返り、クリスティーヌが近づいて、祖母と孫娘は手をつないだ。
「クリスティーヌはユーグの小さい頃に、本当にそっくりで。
『お名前は?』と訊ねたら、『クリスティーヌ!』と元気に返して胸を張った様子が、ああユーグもこういう答え方をしていたと」
皇太后の眼に光るものがあった。
40年前、アレクサンドルが生まれる前に子を失った悲しみは、まだ彼女の心を抉り続けているのだ。
「覚えておりますわ、おばあさま。
わたくしを、ぎゅうっと抱きしめてくださいましたね」
クリスティーヌの眼も潤んでいた。
皇太后が頷く。
「その場で、この子はわたくしが育てる、絶対に守り通すと宣言しました。
ただ、レスターシャの例がありますから、出自については曖昧にする他なく、良縁を探して嫁がせることもできませんでした」
レスターシャの例というのは50年以上前、レスターシャ大公国で起きた内乱のことだろう。
暗殺された嗣子の庶子が正統な大公位継承者として反乱軍に担がれ、大公位に就いたものの十数日間で鎮圧されて、庶子は斬首となった事件だ。
クリスティーヌの父は、落馬事故という憶測を呼びやすい亡くなり方をしてしまった。
落馬事故は現皇帝による暗殺だったと言い立てて、似たようなことを企むこともできなくはない。
クリスティーヌが嫁いでその血が残れば、将来に禍根を残すこともありえる。
「なるほど、そういうわけだったのですね」
クリスティーヌにまとわりついていた靄が、すべて晴れた気がして、アレクサンドルは頷いた。
「わたくしも、もうこの年です。
神の御下に旅立つ時のことを、日に幾度も考えます。
個人的な財産からクリスティーヌにそれなりのものを遺すように手配はしていますが、わたくしがいなくなったら、この子はどうなってしまうのか……」
そこでこらえきれなくなったのか、ぽろぽろと皇太后は涙を溢れさせた。
「おばあさま、わたくしは大丈夫です」
クリスティーヌがハンカチを差し出し、肩に手をかけて宥めるが、皇太后は幾度も首を横に振った。
今の皇后からすれば、クリスティーヌはかつての婚約者の庶子である。
皇后とユーグ皇太子がどういう関係だったのかは知らないが、もし自分とルイーゼのようにそれなりに交流があり、良い関係を築いていると皇后が思っていたならば、クリスティーヌの存在は裏切りの証である。
皇帝が、姪として遇するのは難しいだろう。
庇護者である皇太后を失えば、宮中で飼い殺しにされるか、名義上の実家となっているド・ロズレーに返されて、寄る辺のない掛り人として息を潜めて暮らすか、どちらにしても今のような、愛し愛される家族がいて、周囲にも大切にされる暮らしはできまい。
さらにクリスティーヌは妊娠しにくい年代に入っているが、絶対にしないとは限らない。
生かしておいては面倒だという話になることもありえる。
「そのような重い事情がある子ではありますが……
もし、それでもよろしければ、バイルシュタイン公、どうぞクリスティーヌをお連れください」
皇太后はアレクサンドルに頭を下げた。
「え!?
そんなの、わたくし嫌です!!
絶対に嫌!!」
アレクサンドルがなにか言う前にクリスティーヌが叫び、皇太后もアレクサンドルものけぞった。
アレクサンドルの心臓は、凍った手で握りしめられたように縮み上がった。
絶対に嫌、という声がぐわんぐわんと脳裏でこだましている。
クリスティーヌは皇太后の膝に取りすがった。
「いくらなんでも急すぎます!
せめて、お庭が完成するまで、おばあさまの下にいさせてください。
アレクサンドル閣下、そのくらいはお待ちいただけませんか?
お待ちくださいますよね!?」
きあっとアレクサンドルの方を振り向いて告げられた言葉に、んん?と皇太后とアレクサンドルは首を傾げた。
「……クリスティーヌ。
バイルシュタイン公に嫁ぐ、そのこと自体は嫌ではないということなのかしら」
クリスティーヌの髪を撫でながら、皇太后は穏やかに問うた。
「あ、その……」
顔を上げたクリスティーヌはうっすらと顔を赤らめて、皇太后に、そしてアレクサンドルに頷いた。
「……はい。
わたくしのつたない話も丁寧に聞いてくださって。
なにごとも胸襟を開いてお話くださって……
ずっとご一緒できればよいのに、と思っておりました」
アレクサンドルは、盛大に脱力した。
「いや、あのその……
私も自分の意志だけで結婚を決められる立場ではありませんので……
一度国元へ持ち帰り、国の許しを得て改めてお迎えに上がるという形になります。
今すぐお連れしてしまいたいのは山々ですが、それでは今後に差し支える」
「ああああ!
そ、そうですわね。
そうなりますよね。
わたくし、てっきり来週お帰りになる時にもう、ご一緒することになるのかと……」
早合点してしまったことに気づいたクリスティーヌは、耳まで真っ赤になってへたりこみ、ふにゃりと笑った。
童女のようで、愛らしかった。
アレクサンドルは立ち上がり、芝生の上にひざまずいた。
「レディ・クリスティーヌ。
おそらくは兄達も許してくれるとは思いますが、まだなにも話していない今、お約束することはできません。
ただ、私の気持ちの印として、これをお持ちください」
アレクサンドルは、首元から守り石を引き出した。
首から外して、クリスティーヌに差し出す。
「肌身につけていたもので恐縮ですが。
これはビエトの王家に伝える守り石。
王家に生まれた者が15歳になった時、みずから魔石を磨いて造り、死ぬまで守りとして身につけるものです」
クリスティーヌは両手で守り石を受け取った。
「そんな大切なものを……
ありがとうございます」
守り石と、アレクサンドルの瞳の色を見比べて、不思議そうに守り石を眺めたクリスティーヌは、ロケットに仕立てられていることに気づいた。
「あの、後で、アレクサンドル閣下の御髪を一房、頂戴できますか?
この守り石に納めて、身につけていたいと存じます」
「はい。
貴女の髪も一房、ぜひ」
二人は手を取り合い、立ち上がった。
年は重ねているものの初々しげな二人を見上げて、皇太后は微笑んだ。
2年ほど後、2人は結婚した。
兄王の温情でウィノウ大使となったアレクサンドルは、クリスティーヌが愛する祖母を看取るのを支えた。
皇太后の没後、2人はビエト王国に戻り、クリスティーヌはビエトの画家や芸術家のパトロンとなって、素晴らしい作品を世に送り出した。
現在、2人が住んでいた館は美術館として公開され、玄関ホールには老いた2人が互いを愛しげに見つめあう肖像画が飾られている。
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