エピローグ
グレーターデーモンとの闘いから一夜明けた昼前、康介は広場のベンチに腰を掛け、熱心にデッサンをしていた。
康介が描いていたのは、リュックブルセルク大聖堂であった。昨夜の戦いで、リュックブセルク大聖堂の損傷は酷かった。荒らされた教会内部、抉られた地面、そして完全に破壊尽くされた門は、被害の大きさを物語っていた。
今のリュックブルセルク大聖堂は芸術性とは全く離れたものであったにもかかわらず、康介は教会を丹念に白いスケッチ帳に写し取っていた。それは、康介が今日リュックブルセルクを発つことにしたからだった。恐らく二度と戻ってくることがないココの思い出として、唯一確証をもって断言できる自己表現の手段、即ち絵で、教会を形あるものとして留めて置きたかったからである。
康介がリュックブルセルクを発つことにしたのは、孤児院に帰ってからだった。
就寝前、エルシールに相談した。
「康介さえよければ、ずっとココにいてもいいのよ。わたしたちは貴方を歓迎するわ」
そういってくれたことは嬉しかった。しかし、有り難い申し出だけに、康介は丁寧に断った。もし、リュックブルセルクに留まることにすれば、温かみのある生活が約束されているかもしれなかった。しかし、それは安易な道に逃げているように思われた。
実際のところ、康介は元の世界に戻る決心がついた訳ではない。正直、今でも迷っている。
――だけれども……
康介は、昨晩のライヤ神父のことを思い出していた。
神父は、忌まわしい事故により友を失い、心に深い闇を抱えることになった。彼は終始悩み続け、闇は次第に深く根ざし、枝を張って肥大化した。彼は矛盾、――友は死に、自分は生き残る。神に仕え、教えを説く身ながら、神の沈黙の前に一抹の懐疑心を抱く――、に長きに渡って悩み続けてきた。
昨日の偽りの芝居によって、ライヤ神父は全ての苦しみから解放されたわけではないだろう。平安の裡に在らず、今後も重い十字架を背負い、茨の道を歩むだろう。しかし、彼は在りのままの自分を受け入れ、過去、現在、そして未来と対面したのである。背負うべき十字架と抱擁を果たしたのである。――
偽りの芝居を提案したのは、紛れもなく、康介であった。
少しばかりの罪の意識を覚えたが、神父の悄然とした姿はいた堪れなかった。だからこそ、康介は提案したのである。
康介は、ライヤ神父の告白を、そして彼の生き様に感化された。康介は無意識のうちに、生き方に迷い、縋るべき存在を希求していたライヤ神父に、自分を重ねていたのかも知れない。神父の立ち向かっていく姿に心を打たれ、康介自身もそのような力強さが欲しいと思った。それは、力強い輝きを宿した純然たる結晶のような本物の気持ちだ。
だから、康介はバベル研究所を目指すことにした。この先に、何が待っているのかは自分でも分からない。しかし、もし過去の自分と向き直って対話し、元の世界に戻ろうと思ったときの帰る手段をつけておこうと考えた。少しでも可能性を幅を広げようと思ったのだ。
康介は、最後の一筆を入れると、スケッチブックを閉じ、鞄に仕舞い込んだ。もう十分もすれば、馬車が出発する筈であった。
子供たちには黙って出てきた。子供たちと話をすれば、決心が鈍ってしまいそうだったからである。コロナには一言声を掛けようかと思ったが、戦いでよほど体力を消耗したのか、深い眠りについていたので、彼女にも黙って出てきた。長い薔薇色の髪に抱かれるようにしながら寝ているコロナを起こさぬように、康介はそろりそろりと部屋を抜け出した。
康介が孤児院を出るとき、詰所に行く前のエルシールと朝食の準備の手を休めたカミーユが見送ってくれた。
「これ、受け取って」
カミーユから差し出されたのは、スケッチブックであった。
「康介君、絵を描くの好きだといっていたから、もしココを出て行くときにはプレゼントしようと皆で話し合っていたの。こんなに早く出て行くことになるとは思っていなかったけれども」
少し悲しそうな顔をするカミーユ。
「これはわたしから、というより詰所の皆から」
エルシールは、こんもり膨れた袋を差し出した。中を見てみると、金貨と紙幣が入っていた。
「これ!」
「それほど多くないけれども、暫くの間は生活に困らない筈よ。グレーターデーモンを倒せたのは半分は貴方のお陰だし、感謝の標として受け取って。これから大変でしょうが、頑張ってね。元の世界に戻れることを祈っているわ」
康介は胸の奥がじんと震えた。そして、瞼の裏から熱い涙が零れ落ちた。
「俺、男なのに皆の前で泣くなんて、かっこ悪いな」
「そんなことないわよ。涙は純粋な気持ち、嘘は吐かないわよ」
そういって、エルシールは康介の肩に優しく手を置いた。
康介は、大きく息を吸い込むと、リュックブルセルク大聖堂を見上げた。
ポケットから、エルシールから餞別にもらった懐中時計を取り出す。金色の蓋を開けると、黒い針がコチコチと時間を指し示していた。
次の街に行く馬車が出発するまで、あと十分ばかり。これで最後の見納めかとばかりに、康介はリュックブルセルク大聖堂を仰いだ。その頂には、丸いステンドガラスが嵌め(はめ)込まれ、アリアの絵があしらわれていた。
「こんな所にいた。私を置いて行くなんて、全くいい度胸じゃない?」
康介が振り向くと、金色の目を拗ねらしたコロナが立っていた。
「コロナ?」
「バベル研究所に行くのでしょう?暫くは、私も旅を続けるからつき合うわ」
コロナは康介につかつかと歩み寄る。そして、「はい、忘れ物」と、ポケットから『契約の腕輪』を取り出して、康介の左手に持たせた。孤児院を出る際に、『契約の腕輪』はコロナの枕元に置いてきた筈だった。
「これ!?」
「誰かと契約を結ぶことは、余り好きじゃないのよね。色々と嫌なことを思い出すから。それに、グレーターデーモンとの一戦以降、康介から魔力の波動を感じないし」
コロナは、「魔力が供給されないのだったら、本当は契約しても意味ないんだからね」などと、愚痴を吐く。しかし、バツ悪そうに情熱的な薔薇色の髪に手を突っ込んで無造作にかき、少し頬を赤らませ、一拍置いてから、
「でも、私たちパートナーでしょう」
コロナは破顔する。康介に白い艶やかな右手を差し伸べてきた。その腕には、日の光に照らし出され麗しき銀色の光沢を放つ腕輪が嵌められていた。
力強さの連想からは全く離れた白い腕と銀色の腕輪は、光を反射する純然たる結晶のように輝き、かえってその裡に力強い存在をもっていた。今の康介にはとても眩しいように思われたが、こうして誰かに手を差し伸べられたことが嬉しかった。
「有難う。コロナが居ると俺も心強いよ」
康介の口からは、自分でも驚くほど素直な言葉が零れる。そして、康介はコロナの手をしっかりと握った。彼女の手は柔らかく、春の陽光のような暖かさがあった。手を伝わってくる温もりは、康介とコロナを結びつけ、ひいては彼女の背後に無限に展された世界を明るく翻訳しているように思われた。それは幸せな福音の予感であった。
――一体何年ぶりだろう。こう、自然に言葉が出るなんて。
いって気恥ずかしくなったが、少なくても悪い気はしない。
寧ろ(むしろ)、もう暫く彼女と一緒に旅を出来ることを楽しみにしている自分を発見して、康介は照れ笑いを浮かべそうになるぐらいだった。
「何、にやついてんのよ?気持ち悪いわよ」
「何でもないよ」
「それなら早く行きましょう。馬車に乗り遅れるわ」
そういってコロナは康介を急かした。
康介は、「おい俺を置いていくなよ」といいながら、コロナの後を追いかけた。弾むようなコロナは振り返って、「早くしないと置いて行っちゃうわよ」と叫んだ。
康介はコロナを追いかけながら空を見上げた。
ドコまでも青く、突き抜けた空。
かつて康介が居た暗い世界からは、見上げることすら眩しく感ぜられた蒼穹の空。
決して手の届かぬ空を見上げる資格すら自分にはないと思っていたが、今ではその空に少しだけ、本当にほんの少しだけだが、手が届きそうな気がした。
(太陽と月にキス 了)




