第四章 其の八
「それから暫く(しばらく)して、落盤事故で五百人の死者を出したのにもかかわらず、鉱山の開発は何事もなかったように再開されました。それは、父の思惑でした。その頃、父は病を患っていましたが、何としても自分が生きている間に、リュックブルセルクに富をもたらしたいと純粋に願っていたのです。そういう点では、父は紛れもなく偉人と呼べたかも知れません。そして、父の渇望がそうさせたのでしょうか、父の願い通り、リュックブルセルク鉱山から金脈が発見されました。そればかりではありません。近くの別の鉱山からは、鉄鉱石も発見されるようになりました。それからは、リュックブルセルクは、天高く飛翔する鳥のように工業都市として成長しました。リュックブルセルクの発展の最中、父は持病が悪化して息を引き取りました。父が亡くなった後、私は父の跡を継ぐことになりました」
「私が父の後を継いだ頃には、リュックブルセルクはかなり大きな都市になっていました。道を歩けば、かつては想像できなかったような人々の笑いが溢れていました。一方で、まだまだかつての貧しさを引きずっている部分もありました。貧富の差が広がり、一部の人々が黒い世界に手を染めなければならなかったのです。私は、少しでも彼らの力にならなければなりませんでした。その為に、様々な政策を施しました。父がこのリュックブルセルクに富をもたらしたのであれば、栄光によって生まれた光と闇の手を、互いに親しく握手させるのが私の使命でした。経済的政策を施行し、僅かずつではありますが、功を奏し始めました」
「しかし、必ずしも、それだけでは人々の心は動かすことは出来ませんでした。それは、当時のリュックブルセルクの発展の陰で、人々の心が荒み、驕り(おごり)を覚えていたからに外なりませんでした。そこで、私は、人々の心の平安の寄る辺として、このリュックブルセルク大聖堂を建設することを提案しました。また、子供たちを受け入れる施設、即ち孤児院を開設することを同時に提案しました。何故ならば、黒い世界の煽りを最も受けたのは子供たちだったからです。それが、今の『セレスタ孤児院』です。当初、議会は猛反対でしたが、私は何とか説き伏せ、その二つを建設するに至ったのです。もしかすると、私は心のどこかで、誰かの役に立ちたいと思っていたのかも知れません。それは、私なりの罪滅ぼしでもあったのです」
「大聖堂で説教を人々に教授するようになってからも、常に私はそれに値する人間かを疑問に思っていました。あれ程の忌まわしい出来事を起こしてしまった私が、本当に人々に教えを説ける立場にいるのだろうかと。十年経っても、二十年経っても、私の心は鬱蒼とした木々に覆われた、迷いの森を彷徨っていたのです。デレンの父親の泣き叫ぶ姿を一日たりとも忘れたことはありません」
「あれ程の業の深い出来事を起こしてしまったのにもかかわらず、今回私は、取り返せない程の過ちを再び犯してしまいました。およそ半年前のことです。この教会で私は、いつものように主に祈りを捧げていました。そして、自分が犯してしまった過ちをどうすれば贖罪できるかを自問していました。その時です。私は、背筋がぞくぞくと何かに掻き立てられる思いがしました。後ろを振り返りましたが、誰も立っていません。しかし、そこには、はっきりと何者かの濃密な気配が漂っていたのです。私は気味が悪く感じました。そして、そのようなことが、神聖な教会で起こったということに、二重の気味悪さを感じました。胸に一種の黒い靄のような物が湧き上がりましたが、ここは神の家です。私は、毅然とした態度で声を張りました。『誰かいるのか?』。それに呼応するように、忌まわしい声がしたのです。『我は、お前をその苦しみから解放する術を持っている。わたしに体を委ねるが良い。全てを忘れさせて楽にしてやる』と」
「私ははっとしました。私は本能的に悟ったのです。この声は良くないものだと。私は、声に対峙しました。『お前は何者だ?姿を見せなさい』。しかし姿は現さず、そして再び声が、今度は耳元に息を吹きかけられるぐらい間近で囁いたのです。『お前は知っている筈だ。お前がどれほど罪深い人間なのかを。お前は自分の親友を殺したのだ。これは永遠に贖える(あがなえる)ものではない。お前は分かっている筈だ。お前の主が沈黙を保っているのは、罪を赦さない(ゆるさない)からだ』。そして、舌を舐めるような音がしたのです。私は怖くなって、その場を飛び出しました」
「しかし、教会を出てから、耳に粘りつく嫌な声はぱたりと止んでしまったのです。さらに、不吉な出来事の前触れかとも思いましたが、それから数日の間は何も起こりませんでした。それで私は、海の中の水泡がゆっくりと海面に向って上昇するように、自分の中の暗い無意識が不図した弾みで浮上したのだろうと思いました。私は暫く(しばらく)声のことを忘れていました。しかし、一週間程経った日のことです。再び、あの忌まわしい、耳に粘りつく声がしたのです」
「私が、自室で日記を書いていることのことでした。私は、その日の出来事や、自分の考えをノートに書き留めるとことを習慣としていました。壁際の振り子時計が、鐘を以って深夜十二時を示した時です。鈍い音と共に、耳元で誰かが囁くのです。『まだ分からないのか?お前には救いの道は用意されていないということを』。私は驚いて腰を浮かせました。部屋を見回しますが、そこには誰も居ませんでした。しかし、声は続きます。『さあ、我を受け入れろ。我が、お前の苦しみを全て引き受けよう。お前は、我の声にただ従っていれば良い』。私は、怖くなり叫びました。『誰だ?お前は何者なのだ?』。その時です。眩い光が迸ったかと思うと、私の目の前にグレンが出現したのです」
「しかし、それはデレンであって、デレンではありませんでした。デレンの肌の色は骨のように白く、目は若かりし日の時に見せた色がすっかり抜け落ちていました。私を映す瞳は、ガラス玉のようでした。私は、突然デレンが現れたこと、そして彼の変わりように驚きました。『デレン、デレンなのか?』。しかし、彼は、私をただ見返すばかりで何も答えませんでした。私の驚きは、不気味なほどの部屋の無音に吸い込まれました。私はもう一度、『デレン、デレンなのか?』と、尋ねました。すると、どうでしょう。彼は、ゆらりと私の方に近づいてきたのです。しかし、その時、私は彼の異変に気がつきました。一歩、一歩彼が私の方に近づく度に、彼の体が崩れてゆくのです。先ず、指が落ちました。次に、額から血が流れ出ました。そして、鈍い音と共に腕が抜けました。鎖骨が飛び出し、断面からは血が滝のように噴出しました。立ち止まると、バネ仕掛けの壊れた人形にように、かくかくとした震えをきたし、続いて体がバラバラに弾け飛びました。そして、彼の頭は私の足元にころころと転がりました」
「突然のことに、私は声も出ませんでした。私はデレンと目が合いました。球のように転がるデレンの頭についている一対のガラス玉とです。そして、私と目が合ったデレンは、微かに口を震わせながら呟くのです。『痛いよ。助けてよ、ライヤ』と。それを何度も、何度も繰り返すのです。私は、どうすれば良いのか分からず、後ずさりすることしか出来ませんでした。突然、私の足首が何者かにつかまれました。床を見ると、そこには、見覚えのある、かつての鉱夫仲間たちが、胸から下半身を地面に埋めていました。彼らは、あの忌まわしい落盤で亡くなった者たちでした。いつの間にか、私の部屋は、嘗ての坑道に変わっていたのです。口々に彼らは、押し潰された声を上げました。『痛いよ。助けてくれよ、ライヤ』。私は、最早何を信じて良いのか分からず、発狂し、咽喉が潰れるまで叫び続けました。その時、私の耳元で声が再び囁いたのです。『アレは、決して避けられなかった事故なのだ。だから、お前が悔やむことではないんだ。そうだろう?お前は十分に苦しんだ。これ以上自責の念に駆られる必要性はない。我を受け入れろ。我なら、お前を悪夢から解放してやろう』。その声を聞いたとき、私は心の中で、ガラスの器のように何かが砕けました。今まで張りつめていた糸がふつりと切れました。その時、私は声に縋り、ソレを受け入れたのです」
「今にして思えば、それが私の犯してしまった第二の罪です。本来なら、私は決してそのような言葉に耳を傾けてはならなかったのです。その時からでしょう、私は時々記憶が細切れになるようになったのです。所々黒い色紙を被せたように、私の記憶は曖昧になったのです。初めは、教会で昼の祈祷を済ませた後でした。急に睡魔に襲われ、気がつくと、私は自室のベッドで倒れていました。既に日は傾き、西の空は茜色に染め上がっていました。その間の記憶がすっぽりと抜け落ちていたのです。次は、別の日の夕方でした。夕方、自室で諸事を済ましたのち、私は散歩に出かけました。しかし、門を出た所で、眩暈を起こしたのです。気がつくと、私は自宅の地下牢にいました。私は、地下牢の中央で血を吸った鉈を右手に持っていました。目の前には、首を刎ねられた仔猫の死体がありました。『コレは、私がやったことなのか?』。私は、良心の呵責に打ちひしがれました。その時です。私を嘲笑うかのように、例の声が頭の中に響いたのです。『其の猫は、紛れもなくお前が殺したのだ。さて、次は人を殺すのだ。そうだ、若い乙女が良い。乙女を殺して、その血を啜るのだ』。頭の中には、何度も何度も声が、『殺せ、殺せ』と迫ってくるのです。私は自己を保とうと、必死に声に抗いました。しかし、私が意識を保っていられる時間は次第に減っていきました。心の中で、『私』というものがごっそりと削げ落ち、抜け落ちた部分に『漆黒のもの』が流れ込んでくるのです。それからというもの、私は『漆黒のもの』に絶えず脅かされました。私が私でなくなっていく感覚です。即ち、私の心は段々と果実のように腐っていったのです」
「声は、私が怯えているのことに愉悦を見出しているようでした。そして、私が恐れていたように、声に支配されている時間は、私の意識が覚醒している時間を上回るようになりました。そして私は、ついに取り返しのつかない過ちを犯してしまったのでした。私の名を呼ぶ声に気がつくと、自分は地下牢の真ん中で鉈を振り上げていたのです。そして、目の前には、何とあろうことにか、孤児院のターニャが泣きながら訴えていたのです。『神父さま。何時もの優しい神父さまはどうなさったのですか?』。私は狼狽しました。何故こんなことになっているのかと。しかし、すぐさま声が私の体を乗っ取ろうとするのです。再び朦朧とする意識の中、私は自分の手の腹を鉈で切ることで、何とか自我を繋ぎとめました。それからは、全てが転落でした。ここより先は、お話しするまでもないでしょう」
そういって、ライヤ神父は話を結んだ。神父は静かに目を閉じ、審判が下されるのを待っていた。
話を横で聞いていたエルシールは神父のことがいた堪れなくなった。そして、父親同然であった彼の微妙な変化の兆しを見逃していた自分に悔しさと憤りを覚えた。
暫く、場には重苦しい沈黙が流れた。そして、徐に(おもむろに)光が判断を下した。
「いかなる事情があったにせよ、お前が犯してしまった物は罪以外の何物でもない。しかも、その罪は決して赦されるものではない。我は汝を罰しなければならない。汝にいい渡す。汝の魂は、地獄にて永遠に灼熱の業火に包まれるであろう」
「そ、そんな!」
叫ぼうとしたエルシールを、ライヤ神父は制した。
「主の御言葉とあれば、私は謹んで御受けしなければなりません。思い起こせば、私の人生は罪塗れのものでした。主に帰依する身でありながら、今まで罰を免れてきました。それは決して赦されるものではないでしょう。主の罰を有り難く頂戴したい所存です」
そういって、ライヤ神父は深々と頭を垂れた。
神父の表情は清々しさに満ちていた。長年の間に胸中でしこりのように蟠って(わだかまって)いた罪を神の前に告白できたこと、そして、その罪に対してしるべき罰がようやく下されることに悔恨という枷から解き放たれようだった。
教会と云う、伽藍堂に吹き込む風はどこまでも冷たかった。
辺りには静謐が降りていた。
「しかし、……」
光は徐に呟いた。一拍置き、
「そのような罰は、汝の死後に幾らでも受けることが出来よう。さて、汝。汝は何のためにこの聖堂と孤児院を設けたのか?先程汝は、『私は心のどこかで、誰かの役に立ちたいと思っていたのかも知れません』と答えたな。私には、汝のその言葉に嘘偽りがあるとは思えない。立ちなさい、ライヤ」
像の陰影がライヤ神父を大きく包み込んだ。
ライヤ神父は、エレスト像を仰ぎ見て、エルシールに支えられながら立ち上がった。
光は語った。
「ライヤよ、汝が私の救済を必要としたように、この街の人間は汝の手を必要としている。見なさい、この聖堂を。天蓋に描かれた絵、嵌め込まれた(はめこまれた)ステンドガラス。これらを造った職人や芸術家は皆、かつての荒んだリュックブルセルクにあって、汝の理想に共感した者たちではないのか。見なさい、この磨り減った物たちを。床に敷き詰められたタイルや整然と並べられた信徒席の汚れは、汝の話を聞くために大勢の人間が訪れた証ではないのか。見なさい、汝の隣人を」
瞠目したライヤ神父に、エルシールは優しく微笑んだ。
「エルシールは、汝の子である。エルシールばかりではあるまい。今まで、何十人、否、百人以上の子の自立を支援してきたのではあるまいか。その者たちは、汝のことをどうのように思っているだろうか?彼らは、何を思って生きてきただろうか?そこにあるのは、憎しみか?悲しみか?否、断じて否。それは喜びである。決して汝の罪が赦されるわけではないが、汝が他者の為に生きてきたことは十分に誇るべきことである。そして、汝の生の限り、他者の為に生きることも罪の償い方の一つではあるまいか」
ライヤ神父は、光の声に涙した。
神父は昔のことを思い出していた。
二十八年前、若かりしライヤ神父は、建てられて間もない孤児院に足繁に通っていた。扉を開けると、子供たちが神父の懐によく飛びついてきていた。
その日も、いつもと同じようである筈だった。しかし、その日はいつもと勝手が違っていた。
扉を開けると、子供たちがそわそわした様子で駆け寄ってきた。
「神父様、大変なんです。どうしましょう?」
手を引かれて行った先には、バスケットの中に赤子が毛布に包まれていた。可愛らしい小さな手を折りながら、穏やかな寝息を立てていた。
赤子の毛布に挟まれた紙切れが、ふと目に留まった。
――エルシールを、私の代わりに育ててください。
簡潔な手紙であった。
当時のリュックブルセルクには、まだ暗い影が残っており、孤児院の前に子供を捨てざるえない親たちがいたのは事実だ。しかし、子供に名前を附ける親は珍しかった。たとえ、名前を決めていたとしても、それを口にすることは少なかった。何故なら、子供に情が移り、別れが辛くなるからだ。
「よし。この子はエルシールというそうですよ。皆仲良くするのですよ」
そういって、神父はエルシールを迎え入れたのである。
ライヤ神父は思った。
――辛い日々もあった。しかし、それでもこの子たちの笑顔を護る為に今までやってきたのではあるまいか?
子供たちの誕生日を祝った日。
逆に子供たちに誕生日を祝らえた日。
十五を迎えた子供が、自立して巣立っていった日。
巣立っていった子供たちが、五年ぶりに帰ってきて再会した日。
古びたセピア色の遠い日の記憶は、今まさに鮮やかな彩りをもって蘇って来たのである。
奥底に埋もれていた記憶のぼやけていた輪郭は、明瞭な形をもち、その仔細をつぶさに手に取ることが出来るほど浮かび上がってきたのである。
「あ、あ、あ、あ――……」
崩れ落ちたライヤ神父は、咽び泣くことしか出来なかった。
「どうやら、答えが出たようだな」
光は静かにいった。
内部を照らし出していた光は、少しずつ陰り始めた。ステンドガラスを通して流れ込んでいた光は、徐々に退いていった。
「汝がこれからの生き様を見せてもらおう」といって、光はゆっくりと消えていった。
辺りは穏やかな静けさと、ライヤ神父の嗚咽だけが残された。
深遠な闇の中で、天から降り注ぐ一筋の光を見出したライヤ神父は、その光に導かれ、終には開けた出口へと辿り着いているように思われた。




