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第二章 其の一

 子供の頃から康介は、一つの家で三年以上過ごしたことがなかった。

 両親の仕事の都合上、康介は度々住む処を変えることを余儀なくされた。云い換えれば、康介は転校を繰り返しながら学年を積み重ねてきた。


 幼少の頃から物静かだった康介は、人附き合いと云うモノが苦手であった。とりわけ、我が強く気性の激しい人間をどうしても好きになることができなかった。其のような人間に浮き立った歯を見せられながら何かを請われたときなどは、康介はきっぱりと断ることができなかった。云われるが儘、康介は彼らの頼みを聞いていった。宿題を見せて欲しいと云われればノートを、ゲームを貸して欲しいと云われればソフトを、人当たりの好い笑顔を貼り付けながら、嗚呼構わないよと渡した。


 表層だけの人当たりの好さを維持する一方で、度重なる転校は、生来内向的な康介の不器用さに益々拍車を掛けた。康介は、誰かに話しかけられれば明るく振る舞うように努めていたが、いつも其処にはぎこちなさと云うモノが残った。そして、自ら積極的に人の輪に加わることも少なかった。


 年齢が上がるに従って、人間は自己が形成される。其れは他者をはっきりと認識することでもある。学年が上がって心の奥底に鋭敏になるにつれ、康介がいくら表面の薄い皮を取り繕っても、学友たちは康介の性格を見抜くようになっていった。そして、他の人たちが鋭敏であるように、康介もまた相手の上っ面に貼り付けた愛想笑いの奥底に潜む影、それは嘲笑や愚弄と云った類の悪意を認め、息詰まる居心地の悪さ、生きることへの窮屈さというものを感じるようになっていった。


 康介は、三歳年上の社交的な兄と自分を良く比較した。康介から見れば、兄は軽いお調子者であり、まるで道化を演じているかのようにも思われた。何時もへらへらと笑い、高揚しているときなどは、芝居じみるほど手を打ち興じた。兄は取り立てて何かが出来るわけではなく、平たく云えば歳相応の月並みであったが、それでも康介に交友関係が広いことを窺い知られていた。康介には、其れがどうしても眩しくて羨ましく感じられた。自分はどうして是ほど不器用な人間なんだろうと思った。


 康介は兄を真似ることを企てた。本人に気が附かれないようにしながら、康介は兄の行動や考え方を密かに検めた。しかし、性格が生まれつき真逆である康介には、真似ることなど到底出来る筈もなかった。そして、自分自身が如何にも得体の知れない奇妙な生き物ではないかとさえ思えてきた。


 だから、康介は少しでも『優等生』を演じることにした。康介は、其れが一番の得策だと考えた。其の抗いが怯えていた康介の最後の城砦であり、康介に出来る精一杯の人間への求愛だった。


 康介は、生真面目に勉強に取り組んだ。恐らく、康介は勉強に他の生徒の二倍の時間と労力を割いたと思う。そのかいあって、康介は常に学年でトップクラスの成績を修めてきた。しかし、康介は決して勉強が好きなわけではなかった。只、聡明であった康介は、親や教師と云った大人であれ、周りの学友であれ、康介を取り囲むの人間は、良い成績を取れる『優等生』に対して一目置くということを敏感に嗅ぎ取っていた。しかし、一目置くということは、康介と周囲の人間に薄いカーテンが引かれ、周りの世界との間を仕切られていると云うことに他ならないことを、康介は聡かった故に気が附かない振りをした。


 康介は『できる子』だけではなく、『まじめな子』も演じた。其れが、康介にとって『優等生』の条件であった。行儀の悪い康介は常に品行に気を払ってきた。何事にも丁寧であった。宿題も忘れることは殆どなく、授業も熱心に受けた。教師に何事かを頼まれれば、彼らの期待に添うだけの仕事もした。周りの生徒や教師から推薦されれば、生徒会の仕事などもそつなくこなした。時折喧嘩する兄に対して素行が良かった康介は、両親からも、兄に比べ手の掛からない子だと評された。


 だけど心の奥底では分かっていた。それは、決して『康介と云う人間』が望まれているのではなく、只象徴的な、偶像的な人間性が評価されているに過ぎないことを。『優等生』と云う条件さえ満たすのであれば、自分以外の人間でも代わりは居るのだと思った。


 年齢が上がるに従い、康介は周囲との目に見えない壁を強く意識するようになった。自分はショーウィンドウに入れられたマネキンのように思われた。其れは、只外の景色を映すだけの硝子の瞳で外を見て、只行き交う人々は時折足を止めて見上げるだけの、素通りされる存在、『ヒトの形を真似た人形』であった。当然ながら、そのような康介には気の置けない、心から信頼に足る人間など一人も居なかった。周囲の人間は、其れは両親や兄も含め、只同じ時間と空間を共有している人間に過ぎなかった。喩え雑多の中に身を置こうとも、康介は常に一人きりであった。


 康介は、いつも綺麗な言葉を掛けてくる人間や、困ったときに上っ面だけ友人面する連中に、心のどこかで辟易していた。そして、『優等生』を演じることしかできない自分を他の誰よりも嫌悪していた。其の感情は、憎悪とすら云っても良かった。それでも、『優等生』を演じ続ければ、根本的に解決できない問題点を内包してようとも、決して問題点が表面に顕在化することはなかった。常に周りの者は康介を称えた。其れは偽りの楽園と云えた。

 しかし、偽りの楽園が壊れるまでには、そう長くはかからなかった。無理やり押さえつけていた傷口は化膿し、爛熟した柘榴のようにばっくりと裂け、今まで溜まっていた膿が愈々噴出するときが来た。


 其れは、康介が高校に上がったときのことだった。

 康介は、入学式で新入生の代表として、壇上に上って教職員と全生徒の前で辞を述べることになった。康介が入学した高校は、県内でも指折りの進学校であった。伝統と格式を重んじる質実剛健な高校で、入試の成績が一番の者が辞を述べる慣わしとなっていた。

 人前での演説に些かの抵抗を覚えたが、仮にも入試一番であり、あまつさえ体を鞣すことに長けた康介にとって、其れ自体は単純な作業であった。新入生として、世辞交じりで美辞麗句を並べて、勉学や修練に打ち込む抱負を語れば好いだけであった。


 「私たち新入生一同は、本日、この名誉ある南條高校の桜の木之下を潜ることができ、大変嬉しく思っています。この南條高校を学び舎に、私たちは三年間過ごします。この高校三年間と云う時間は極めて重要だと考えています。勉学は勿論のこと、人間的にも大きく成長できる時期だからです。この貴重な三年間を素晴らしい学友と教師の方々に囲まれることは、大変恵まれたことであり、実り多い学生生活が前途に広がっていると思います。私たちは新入生一同は、南條高校の学生の名に恥じぬように、勉学、修練共々励みたい一存です。以上簡単ながら新入生の挨拶とさせていただきます。新入生代表、藤宮康介」


 辞を述べ終わった康介が一礼すると、教職員と全生徒から拍手が送られた。万雷の拍手を背に受け、康介は壇上を降りて自分の席へと戻った。大仕事を無事に終えた康介は胸を撫で下ろした。

 席に腰を下ろす前に、康介は横の生徒の顔をちらりと覗った。今日初めて会ったばかりで、其の男子生徒の名前と顔は一致しない。男子生徒は、康介に比べて秀麗な面持ちで、背丈が頭一つ分抜けていた。手を打つ男子生徒は、冷ややかな視線を遣していたが、康介と視線が重なるや否や、つまらなそうに視線を外した。康介は名状しがたい嫌な心持がした。


 その後、式典は淡々粛々と進んでいった。厳かな空気の中、私語を交わす者は誰も居なかった。勿論、康介も横の生徒とすら、只の一言も言葉を交わさなかった。不意に康介は、自分が世界から切り離されたような奇妙な感覚に捕らわれた。全てが、自分の前を素通りしていくような感覚。其れでいて、隣の男子生徒と交えた不穏を予感させる視線だけは、胸の裡で、澱のように静かに渦を巻きながら濁っていくように感ぜられた。


 突き刺さる視線から齎された好くない予感は、暫くして現実のモノとなった。

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