表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

宗谷(地領丸) 5

 3年以上間が開きましたが、更新します。

 無事に本土に帰り着いた私でしたが、決してそれは安心出来る物ではありませんでした。動ける船は全て動員されて輸送に邁進し、そして優勢な米軍の潜水艦や航空機に次々と撃沈されていく。それが日常的に見られる日々でした。


 トラック環礁の地獄を切り抜けたとは言え、明日には沈んだ仲間達の元へ召されるなんてことは、不思議でも何でもないことだったんです。


 昭和19年は私達にとって、悪夢以外の何物でもない年でした。この年、日本の商船団は事実上壊滅したと言っても過言ではなかったのです。


 私の姉妹達も、この年に沈みました。2月に「民領丸」が、5月には「地領丸」が沈み、私は一人ぼっちになってしまいました。


 しかし、それでも私はまだ幸せな方でしょう。戦前以来の姉妹が全滅した船もありました。出来たそばから沈められる戦時標準船の姉妹達は、それ以上に不憫でした。


 多くの仲間が沈むのを横目に、私は黙々と働くだけでした。年を越して昭和20年となりますが、もうこの頃には南方とのルートは完全に遮断されてしまい、私の働き場所は本土周辺や満州、朝鮮、樺太だけとなってしまいました。


 しかし、そんな日本本土自体が敵の空襲を受けるようになり、もはや日の丸を掲げた船が安心して走れる海はなくなっていました。


 そして戦争も終わりが近づいた8月2日、横須賀でドック入りしていた私の機関室に、米軍機の増槽が飛び込んできました。しかし、幸いにもこの時はエンジンを止めていたので、爆発も炎上もせず、またも私は命拾いしました。


 そして私は、15日の終戦を小樽で迎えることが出来ました。本土決戦と一億総玉砕も叫ばれる中、私も本土決戦までに沈むのだろうと思っていただけに、終戦を迎えて命ながらえたことは、望外のことでした。


 さて、戦争が終わったとはいえ、安堵は出来ませんでした。本土周辺には敵味方が設置した多数の機雷があり、せっかく戦争で助かった多くの仲間たちが、この機雷によって沈みました。


 しかし、国の復興へ向けた作業は待ってはくれません。私は樺太から小樽への引き揚げ作業や、小樽からの石炭輸送など、様々な輸送任務をこなしました。戦争のためではなく、戦争で荒廃した祖国日本を復興するために。


 とは言え、私達は敗戦と言う辛い現実を、自らの船体に掲げる屈辱を受けることとなりました。


 GHQに日本が占領されている間、私達は日の丸の旗を上げられず、SCAJAP旗(日本商船管理局旗)を上げなければならず、7年間の占領期間は非常に肩身の狭い想いをしました。


 さらに、戦争が終わっても私達の安全は保証されませんでした。日本近海には、戦時中に日米両軍が敷設した機雷が、多数設置されていたからです。この機雷のために、せっかく戦争を生き残ったのに沈んだ船たちは本当に哀れでした。


 また戦時下に生を受けたために、安全対策がおなざりとなり、嵐や座礁事故で沈んでしまった戦時標準船たちも、戦争の犠牲者でした。


 そんな苦難の時代もようやく終わる時が来ました。昭和27年に日本がようやく再独立して、日の丸の旗を掲げられた時、私もそして数少ない生き残った仲間達も、本当に喜びました。


 この頃には機雷の掃海も進み、ようやく日本の周辺は安全となりました。


 この間、私は所属が新たに創設された海上保安庁に移り、その巡視船となりました。本当は戦争を生き残った元海軍砕氷艦の「大泊」先輩が巡視船になるはずでしたが、「大泊」先輩はずっと北方暮らしで戦時中も酷使されたので老朽化が激しく、解体となってしまったのです。


「後は頼むね~「宗谷」」


 解体されるため造船所のドッグに入った先輩は、そう言って私に後を託したのでした。


 巡視船、正確には灯台補給船となった私は、日本各地の灯台へ物資を運ぶ仕事に就きました。この時代の灯台は、自動化とは程遠く、燈台守と呼ばれる職員の方々が、家族と一緒に住み込みで灯台の管理をして、日本の海を守っていました。


 戦争が終わり、独立を回復したとは言え日本はまだ復興途上の貧乏な国でした。けど、朝鮮戦争の特需などを通して、徐々に国力も国際的な立場も取り戻していきました。


 とは言え、私には関係ないこと。私は船として黙々と働くだけです。灯台補給の仕事は地味な仕事でしたが、私の運んだ物資が燈台守の方々の生活を支え、日本の海を守っていることを思えば、誇りある仕事でしたし、何よりようやく平和となった海を、恐れることなく走り回れる。これほど嬉しいことはありません。


 しかも、時折見られる燈台守の子供達の笑顔が、私に遣り甲斐を与えてくれました。


 このまま海上保安庁の巡視船として、余生を送る。そんな風に考えたこともありました。ところが、私を巡る運命はまたも大きく変わることとなりました。


 日本の復興も軌道に乗った昭和31年、戦前より長く途絶えていた南極観測に、日本は観測隊を派遣することとなりました。私はその観測隊を輸送するための、南極観測船に選ばれたのです。


 日本はまだ敗戦国として世界から見られており、南極観測も当初は反対されたそうですが、なんとか参加を許されました。つまり、この南極観測は日本の威信が掛かった事業でした。


 そんな重大なお仕事に、私が選ばれたのです。


 これは私の出自が、そもそもソ連向け貨物船で耐氷構造を備えていたことと、これまでの船歴で度々沈没を免れた強運が評価されてのことと言うことでしたが、他にも幾つか理由がありました。


 この時観測船候補には、私と一字違いの国鉄連絡船である「宗谷丸」先輩も挙がっていました。「宗谷丸」先輩は元々樺太航路用の船で、私よりも6歳年上でしたが、耐氷構造は私よりも上等で、船体も大きいので輸送船としても大きな船でした。


 それなのに、私が選ばれた理由には先ほど挙げた理由意外に、改装期間と予算の兼ね合いもあったそうです。


 なんともはや、観測船に適任であるのは「宗谷丸」先輩だったのに、諸々の理由から、私が観測船になってしまったのです。


 後に「宗谷丸」先輩は昭和40年に退役して解体されてしまいましたが、もし歴史が少しでも違っていれば、今こうして船の科学館で余生を過ごし、あなた方に語り掛けているのは、「宗谷丸」先輩だったかもしれません。


 この点は、今でも申し訳なく思っています。

 御意見・御感想お待ちしています。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ