第94話:境界に立つ者たち
観測室に満ちる静寂は、誰もが予期していたものではなかった。
幾度となく鳴り響いた警報音も、暴走した魔素の波動も、今はすっかり鳴りを潜め、代わりに漂っているのは──まるで時間そのものが凍りついたかのような、緊張感。
柚葉は今、異世界の空にいた。彼女の手には、赤く脈動する結晶片がある。その輝きは穏やかで、けれど確かに、異界の息吹を伝えていた。
彼女の視線の奥にあるのは、迷いではなく、決意だった。
「……これで、すべてが終わったわけじゃない」
その呟きに、遠く、境界を越えた現実世界の観測室で、高野陸は静かに頷いた。
「まだ、“境界”は閉じてない。むしろ……向こう側の目が、こっちに向けられた気がする」
ユイは端末を操作しながら、端的に状況を補足する。
「魔力波形の変動がゼロにはなっていない。結晶から発せられる共鳴は、今も継続していて……どうやら“観測”は終わってない。つまり、監視は続いてるってこと」
水科は、壁にもたれたまま一歩も動かず、目を閉じていた。まるで、すべてを終わらせる術を必死に探しているかのように。
「直哉……。彼は、本当に向こうで何を見たのだろうな」
呟きには、哀しみと諦観、そして今もなお残る希望が織り交ぜられていた。
結局、本城直哉は、自らの意思で再び“向こう”へと戻った。
それが、再び同じ悲劇を繰り返さないための“鍵”になると信じて。
そして、残された者たちは、いまその選択の意味を噛み締めていた。
千尋は、制御卓の前に立ち、ゆっくりと手を添える。小さく息を吸い、吐き、目を閉じた。
「兄さんの記憶は……たぶん、完全には戻ってない。でも、あの時、目を見たとき、わかったの。あの人は“選んだ”。自分の使命を」
誰も、言葉を挟まなかった。
──静寂。
それは沈黙ではない。覚悟と決意がもたらす、力強い“間”だった。
柚葉は異世界の風を背に、そっと空を見上げる。
「……でも、私たちはまだ、終わってないわ。異界とつながってしまったこの世界で、“生きる”って選んだんだから」
彼女の言葉は、境界を越えて、確かに仲間たちの心に届いていた。
観測室の壁には、いまだ再構築を終えぬデータログが点滅している。あの日、異界の“目”がこちらを見たときに残した痕跡だ。
「この痕跡……誰かが、未来のどこかで再びアクセスするかもしれない」
ユイが頷く。
「そう。そのときに備えて、私たちは“記録者”にならないと」
水科がゆっくりと体を起こし、全員に向き直る。
「かつて、私たちは“扉”を技術で開いた。それが悲劇を生んだのも事実だ。しかし今、異界と向き合える人間がここにいる。それだけで、この研究は……報われたのかもしれない」
高野は軽く肩をすくめた。
「報われるかどうかは、未来の連中が決めることだろ。でも……俺たちが選んだこの道を、少なくとも悔いにはしたくない」
ふと、壁際の端末が微かに光を放った。
──《観測終了。干渉記録、保存完了》
──《次回、扉再起動時──優先介入ルート:確保済》
──《対象:ムラタ・ジュン》
そのログに気づいたユイが、即座に画面へと視線を向ける。
「ムラタ……? なんで、あなたの名前が……?」
だが、そこに当の本人──村田ジュンの姿はない。
まるでその名が記録に刻まれることを察していたかのように、彼は、姿を消していた。
──静かに、けれど確実に次なる“計画”の火種が、再び揺らぎ始めている。
だが今は──物語の幕を一度、ここで下ろすとき。
高野は、背中を預けた制御卓を見上げ、ふっと力を抜くように笑った。
「俺たちは──ただの帰還者じゃない。この世界と、あの世界の“証人”だ」
境界の彼方、柚葉も小さく笑みを浮かべて空に囁いた。
「だからこそ、信じている。“つながり”は、絶たれないって」
“境界”はまだそこにある。
けれど、今はその向こうへと踏み出す者はもういない。
物語は、静かにその幕を閉じる。
だが──次に“誰か”がその扉を開いたとき。
この記録が、きっとその者の灯火となるだろう。
(完)
【あとがき】
ここまでお読みくださった皆さま、本当にありがとうございます。
物語
社畜『サラリーマン、異世界で英雄に覚醒して帰ってきたら満員電車が最大の敵です』は、
これにてひとたび筆を置かせていただきます。
高野陸、神楽坂柚葉、葛城ユイ、そして多くの登場人物たちの物語を、
ここまで歩んできた日々は、自分にとってもかけがえのない時間でした。
書くたびに彼らの感情が胸を打ち、読者の皆さんの反応やご感想が支えになっていました。
けれど、創作とは呼吸のようなものだとも思っています。
吐き出すだけでは苦しくなることもある。いまは少し、深呼吸をする時間をいただきたく思います。
ただし──これは「終わり」ではありません。
扉はまだそこにあります。物語の灯は消えていません。
彼らの行く先に新たな物語が芽吹くとき、きっとまた戻ってまいります。
もし、また続きを読みたいという声がありましたら、
彼らもきっと、再び歩き出すことでしょう。
再会の日まで、しばしの休息を。
そして、本当にありがとうございました。
――筆者より