第88話 重なる影と観測者
村田ジュンは、結晶の前から動かなかった。
空気の緊張が少しずつ戻り始めた“扉の間”においても、彼だけはどこか別の空気を纏っている。
高野は、扉の前で足を止めたままその姿を見つめていた。
「お前、本当に……普通の人間なのか?」
その問いに、村田は肩越しに振り返って笑う。
「うーん、それってどういう意味かな? “普通”って、たとえば魔力が測れないとか? 異世界から帰ってきてるとか?」
とぼけたような口ぶり。だが、誰も笑ってはいなかった。
水科が腕を組みながら、厳しい視線を向ける。
「君は……まるで、こちらの“結界技術”にすら精通しているように見える。あの結晶が放っていた波動にも、耐性を持っていたようにね」
「観察力、鋭いっすね、水科さん」
村田はにやりと笑った。
「でも大丈夫。俺は高野の同期で、ちょっと要領のいいサラリーマンですよ」
「……村田さん」
ユイが前に出る。その声は柔らかいが、眼差しには警戒があった。
「あなた、何か“見えている”んじゃないですか? ……異界の向こう側が」
一瞬、村田の笑みが消える。
それでも彼はすぐに目を細め、飄々とした態度で言葉を返した。
「うーん、あんまり勘ぐられると困るな。俺って繊細なんだよ。冗談に見せかけて、けっこう本気なこと言っちゃうタイプだから」
その場に、また静寂が落ちた。
結晶の脈動は収まりつつあったが、微かに残る魔力の残響が、不穏な波を引きずっている。
高野は、ゆっくりと口を開いた。
「……もしお前が、俺たちと同じ“向こう”を知ってるなら。
そして、何かを企んでるなら……」
「……そのときは、俺自身で見極める」
村田は、立ち上がりながら片手を挙げて返す。
「期待してるよ、“蒼銀の戦神”。ま、今はまだ“見守ってる”だけだからさ」
誰よりも軽いその言葉の裏に、何か重いものが隠されていることに、全員が気づき始めていた。
(続く)




