第63話 葛城ユイ、再起動
視界が歪み、重力の向きが定まらない感覚の中
──葛城ユイは、ひとり空間に浮かんでいた。
空も地も存在しない虚空。
ただ、彼女の周囲にはいくつもの“断片”が浮遊している。
書類、PCモニター、古びた魔道書、そして──壊れた剣の破片。
「……これは、私の……記憶の残滓?」
手を伸ばすと、書類の一枚がふわりと指先に触れた。
そこには、異世界の言語で記された呪文式と、帰還者リストの仮想データ。
そして、ページの片隅に残されたサイン
──それは、彼女が“かつての名前”で記した文字だった。
《葛城ユイ。異界巫女コード:No.014》
その瞬間、記憶が逆流する。
あの世界で、仮面をつけた巫女として、戦場を駆け抜けていた頃の自分。
感情を抑え、祈りを計算に置き換え、仲間たちの支援を続けた日々
──そして、誰にも素顔を見せなかった理由。
感情を封じていたわけではない。
そうすることでしか、生き残れなかった。
「……だから、忘れていたんじゃない。思い出さないようにしてただけ」
意志体の声が空間に満ちる。
《記憶を偽り、現在に適応した者。真なる己を選べ──》
彼女の前に、二つの“姿”が現れる。
一つは、会社で冷静に業務をこなす、今の葛城ユイ。
もう一つは、異界で“仮面の巫女”と呼ばれ、
背後から戦況を制御していた、かつての自分。
どちらも、彼女にとって“本当の自分”だ。
「……私はもう、仮面をつけて逃げる必要なんてない」
ユイは静かに目を閉じ、そして開いた。
「どちらでもない。私は、私だ」
その言葉に反応するように、二つの像が光に溶けていく。
空間が震え、彼女の足元に一本の道が浮かび上がる。
試練の突破。それは、忘れた記憶の再起動だった。
──そして、彼女は再び目を覚ます。
遠く、揺れる地響きの中で。
(続く)




