─ 三日目 ⑧ ──
── 春日 ──
山之内の奥さんは、私に問いたげな視線を向けてきた。
「すみません。また、お呼びしてしまって」病院の談話室で、先刻座った同じ椅子の前で、私は頭を下げた。
「実は、山之内君の担当している仕事のことで、お訊きしたいことがあるのですが」
そう切り出すと、彼女は途端に戸惑ったような表情を浮かべた。「あの、仕事のことは、あまり家では話しませんので」
「ああ、そうだと思います。男は大抵そうですから」少しだけ笑ってから、「もし、聞いていたら、教えていただきたいと思いまして」
「どういったことでしょう?」
ここで私は、『日本伝統工芸ビッグバンプロジェクト』という名を出した。が、案の定、彼女は首を横に振る。山之内君は陶磁器を担当しているのですが、と言ってみるが、これも反応なし。だが、五郎右衛門と言うと、あ、と顎を上げた。
「特別展で、クレームがついたって、ぼやいていたやつかしら」
私は首肯した。「それです。何だって言ってました?」
「色の悪いのがあるって言われて、確認しに行った・・・そんなようなことを」
「確認しに行った。で、どうだったって言ってました?」
「確かに、色が悪かった。変なんだよな、って首を傾げてましたね」
山之内もおかしい物だと感じたのか。変なんだよな、とは彼にも偽物に思えた、ということだろうか?
「でも、上の人が出てきて、丸く収めてくれたって。助かったけど、どうしてオーケーしたのかな、ってそんなことも、そう言えば」そして、さらに記憶を探るように天井を見る。
上の人とは大石部長だろう。だが、大石部長が収めてくれた? どうしてオーケーしたのかな?
「臭いな」
「えっ?」と奥さんが顔を上げた。
だが、私が言ったのではない。それが証拠に私も後ろを振り向いていた。
「あの?」臭いって何が? と問うように、彼女は眉を寄せている。
妻が言ったのだ。
だが、そんなことは言えない。私は「あの、他にはありますか?」と何事もなかったように質問を続けたが、結局、彼女が覚えていた、五郎右衛門に関する会話はこれだけだった。
「あの」私が礼を言ったあと、彼女が訊ねてきた。「お役に立ちましたか?」
「ああ、はい」煮え切らない私の返事に、彼女が眉を顰める。
「その五郎右衛門が、今度の事故に何か関係あるんですか?」
もっともな質問だ。だが、私にも分からない。だから「いや、分かりません」と正直に答えた。
「そうですか」奥さんは、ぽつんと言うと「では、わたしはそろそろ」
「あ、すみませんでした。お大事になさってください」私は言って、談話室を出ようとした。
「ここで、待っていろ」小さな声が耳元で囁いた。妻だ。
「えっ?」私も小さな声で問う。「何だって?」
「わたしが戻るまで、ここで待っていろ」
「戻るまでって、どこへ行く気だ?」
だが、それきり声はしなくなった。私は、どうしたものかと悩んだ末に、仕方ない、と諦めた。
後ろを振り返り、見送りの態勢に入っている山之内の奥さんに向かって、「あの、わたし、喉が渇いたので、ちょっとコーヒー飲んでいきます」と、自動販売機を指さした。
「そうですか。では、わたしはこれで」と彼女は一礼して、疲れた足取りで廊下を離れて行った。
── 護国寺 ──
警視庁音羽署、二階、刑事課強行犯係。
南田は開いたパソコンを両手で持ちながら、「出ましたよ、係長」と澤野の机にやってきた。長身でがっしりとしたラグビー選手のような男の迫りくる勢いに、澤野は思わず上半身をのけ反らせる。
「なんだ、なんだ?」
「タクシーですよ。見つかりました」
澤野は椅子に座ったまま、まだ三十歳になったばかりの若い刑事を見上げた。
動きはいい。勘も働く、仕事も熱心だ。だが、些か思い込みが激しい。自分が考えていることを、他人も分かっている、そういう前提で、大幅に説明を省いてしまうことがしばしばあった。
「いいか、おい。抱えているやまは一つじゃないんだ。どの事案の、いつのタクシーだ?」
「すみません」と厳つい体の上に載った頭を、ちょこん下げると、「服部神社の階段転落です。発生時刻に付近を通りかかったタクシーがいました」
「昨日のやつか。随分と早く特定できたな」
南田が嬉しそうに笑みを浮かべた。笑った顔はまだ少年のようだ。「大体の当たりを付けてから聞き込んだんですが、三つ目の営業所でビンゴ。あの辺りは道が狭いんで、運ちゃんが嫌がってあまり入らないんですよ。ですから該当車両はすぐ見つかりました」
澤野は、よくやった、と頷く。「で、そこに映ってるのは、ドライブレコーダーの映像か?」
南田は大きく頷きながら、澤野の机の端にパソコンを載せ、さっそく映像を再生した。二人してそれを覗き込む。
正面に上り坂が映っている。信号が青になり、車が動き出す。と、すぐに画面が大きく上を向いた。かなり急だ。しばらく坂が続いたあと、上り切る手前で、南田は一旦、映像を止めた。
「この左手が、服部神社です」
「ああ」
映像を再び動かす。坂の頂には正面に民家の塀が見え、そこで画面は道なりに大きく左に回った。また映像を止める。
「ここは、クランクになっていて、二十メートル程で今度は右に曲がるんですが、その曲がり口の左の角、ええとこの石柱が」と南田は画面の左の隅を指でさし、「神社の階段の降り口です」
「そこから落ちたわけだな、あの二人は。いまのところ、誰も映ってないな。さて、ここからだな」澤野が身を乗り出す。
画面はすぐに次の曲がり角になって、左に階段上の石柱を映した後、右に直角に曲がる。
その先は細い一方通行の道が僅かに蛇行しながら続いていく。
「これです」と映像を止め、「あ、行き過ぎた。ちょっと戻します」画面の左側に二人の男が映っている。
「これ、階段からどのくらい」
「三十メートルはないと思います」
澤野が画面に顔を近づける。「うーん、顔が分かりづらいな、もっと近づけないの」
「これ以上進むと、ライトの陰になってしまうので」
「これさ、顔だけ拡大できない?」
「あ、できます」南田が慣れた手つきでキーボードを叩く。「これで、どうです?」
拡大された映像に、澤野は頷いた。「ああ、これだと分かるね。落ちた二人と見てよさそうだな。でも、二人だけだ。すると、やっぱり事故か」
「いえ、それがもう一人」そう言って、映像を元の大きさに戻し、先に進める。
「あ、これか」澤野が指さした。
南田が映像を止める。人が一人映っている。また拡大する。「二人から、十五メートルといったところです」
「スーツだな。会社員のように見える」
「マスクしてますね。顔を隠しているんでしょうか」
「花粉症かもしれん。これだけじゃ分からんな。この後は誰か映ってるのか?」
「いえ、しばらくは誰も映っていませんでした」
「二人は、この映像の直後に落ちているんだろうな。そして、すぐ後ろには、このマスクの男がいた。二人が落ちたとき、声や音を聞いていてもおかしくないと思うか?」
「聞いている筈だと思います」
「となると、聞いていながら、素通りしたか、或いは・・・」
「このマスクの男が突き落としたか、ですよね」
目を輝かす南田の前に、澤野は指を立てた。「結論を急ぐな。しかし、事件の可能性は出てきたな。この映像から身長を割り出してくれ。その他、男の特定に繋がるものがないかも確認してな」
南田は元気に返事を返すと自席に戻った。
澤野はくるりと椅子を回すと、ブラインドの向こうに見えるビルの景色を眺めながら、「仕事が増えそうだな」とぽつりと呟いた。
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