母親のヌードを見たがる娘の図
「ルナちゃん、あの……私とアリスちゃんは、別に――」
「ウチがなんて?」
噂をすれば影、というやつか。
いや別に彼女の話をしてたかと言われれば微妙なところだけど、そんな感じのタイミングで式野さんは戻ってきた。
おかーさんがうろたえる。
「え、あ、え……えっと、別に」
「ゆぅか、あんたも来たんやね。一段落したん?」
「う、うん……」
「そか。お疲れさん。それとルナちゃん、お待たせ。いーもん持ってきたで」
そう言った彼女が手にしていたのは、一冊のスケッチブックだった。
「いいもの?」
だいぶボロボロに見えるけど。
「学生時代の練習帳よ。へったくそやからあんまり人に見せたぁはないんやけど、こっちの方があんたは喜んでくれるか思てね。ノリ子をモデルに描いたのとか載っとるよ」
「「それって」」
わたしとおかーさん、二人の声が重なった。
わたしは、さっき話題にしていたものが実際に出てきたことへの単純な驚きだったけど、おかーさんの声にはなんだか、焦りのようなものが混じってた気がする。
「ちょっと待ってアリスちゃん。もしかしてそれ、あのときの?」
「まぁ、そやね。最初の一冊、ゆぅか」
「やっぱりぃっ!」
悲鳴。
え、なに。どうしたの急に。
小首をかしげてみせると、式野さんはまなじりを下げて頭をかいた。
「いやまぁ、ヌードとかもあるから?」
「ヌード!?」
思わずおかーさんを凝視する。
「え? 脱いだの?」
「脱いでません!」
真っ赤になって声を荒らげるその姿は、娘のわたしから見ても新鮮だ。かわいい。
「じゃあ、なんで?」
「私はちゃんと服を着てたのに、出来上がった絵は勝手に裸にされてたの! すっごく恥ずかしかったんだから!」
ああ、そういうこと。
でも実際に脱いだわけじゃないなら、と一瞬思ったけど、自分が同じことをされたらと思うと確かに恥ずかしいかもしれない。相手によっては訴訟も辞さない。
「冗談のつもりやったんやけどねぇ」
「笑えないわよっ! やだもうっ、思い出したらまた恥ずかしくなってきちゃったっ」
「ゆぅたかてなぁ、他に人もおらへんかったし」
「そうだけど、ほくろの位置まで正確に描く必要なんかなかったじゃない! アリスちゃんのへんたいっ!」
「おうっふ」
おかーさんの罵声を受けて、式野さんは薄い胸を抑えた。嬉しそうに見えるのは気のせい?
「いやいや水泳の授業とかあったやないの。って、当時も言うたやんね?」
「だからって! そもそもなんでルナちゃんに見せようとなんてするの! しかも私に黙って!」
うーん、おかーさんがおかんむりだ。
けどそれはそれとして。
「わかった」
わたしは言った。
え? と二人が振り返る。
「見せて」
それがどういうものであるかは理解した。だから見せろ、と。
「ルナちゃん!? 話聞いてた!?」
「聞いてたよ。おかーさんのヌード、見たい」
「だからなんで!!」
再びの悲鳴。
そして、一拍置いて、がっくりとうなだれた。
「ヘンよ……なんでみんなそんなに見たがるの……?」
あ、マズい。泣きが入った。
おかーさんを悲しませるのは本意じゃない。
けど、それでも譲りたくないものはある。
「だって、絶対きれいだから」
「そっ……!」
「うわぉ」
おかーさんは絶句して、式野さんはなんか変な声を上げた。呆れと感心が半々、みたいな。
「ところで『みんな』ってどういうこと?」
「え?」
「どうしてみんな見たがるの、って今言ったじゃん。どういうこと?」
訊くと、おかーさんではなく式野さんの方が『ああ』と笑ってうなずいた。
「クラスの連中のことよ、当時の。コレの存在がうっかりバレてしもぅてね」
スケッチブックを軽く持ち上げながら言う。
「なんせほら、ノリ子は人気もんやったし、見せろ見せろてうるさかったんよ。懐かしわぁ」
「うぅ……」
なるほど。
「見せたの?」
「見せてないってば!」
なるほど、なるほど。
「……だ、だからね? ルナちゃんも我慢して、あきらめてくれると」
「それって」
「え?」
「クラスの人たちに見せなかったから、わたしにも見せないって、つまりわたしはおかーさんの中でその人たちと同格ってこと?」
「なっ、違うわ! そんなわけ……!」
とっさに顔色を無くすおかーさんに、わたしは止めを刺す。
「じゃあ、見てもいい?」
「うぐっ……」
言葉に詰まる。
この詰まり方は、間違いなく降参のサインだった。
「……ズルいわ、ルナちゃん。そんな言い方されたら……」
「ごめんなさい」
「ああもぅ、わかったわよ。アリスちゃん、貸したげて」
「ええのん?」
「仕方ないじゃない」
ため息のような苦笑いのような、そんな声でおかーさんは言うのだった。
「それより、お茶の用意ができてるんだけど」
「お、えぇね。そういやシュークリーム買うてあるんよ」
というわけで居間に移動する。
「それにしてもあんた、意外と手段を選ばへんとこあるんやね」
途中、式野さんが余計なことを言ってきたけど、私は返事をしなかった。
おかーさんに関することでわたしが妥協や遠慮をする理由はない。
それにああ見えて、本当に本気で嫌がっているわけではないはずだ。なぜならおかーさんはきっと、誰よりも式野さんの絵を認めているから。
わたしよりも、画壇とかの人たちよりも、そしてもしかしたら本人よりも。
◇◆◇
「うわぁ……」
スケッチブックの中身は、凄いのひとことに尽きた。
とんでもなく上手いのは当然として、もちろん緻密さで言えば完成品の彩色画には及ばないにしても、ふとした瞬間まるで写真のように見えてしまうのだ。どれも鉛筆や木炭による素描だというのに、だ。
それほどまでに、そこにあった光景をモノにしてしまっている。
しかもそれが、なんだかとてもえっちな感じなのだ。
いやヌードだからとか関係なく。
普通に制服を着てる絵も、なんなら顔だけのものであっても。
どこかエロティックな雰囲気が漂っていて、だけどいやらしいというか、下品な感じというわけではない。生々しくはあるんだけど、どちらかというともっと無機質な……いや、植物的とでも言うべきか。
食虫花や多肉植物を見たときに感じるような、どこか異質ななまめかしさがそこにはあった。
顔が緩むとかどうでもいい。なんていうかそれどころじゃない。
見ていてすごく、どきどきする。
でもなるほど。これなら確かに、わたしが相手でもおかーさんが見せるのをためらったのもうなずける。
見ちゃったことをいっそ後悔してしまいそうになるほどだった。
しかし。
それよりもなお衝撃的だったのは――
「うぅ……」
おかーさんが対面のソファーからちらちらとこっちを見てきている。その顔はいかにも恥ずかしげだ。
わたしは……
わたしは、おかーさんのことが大好きだ。世界で一番愛してる。手を握ったりキスをしたり、それ以上の触れ合いをするのも好きだ。
きっとわたしは、おかーさんに恋をしている。
だから――わかる。知っている。
これは。
この絵は。
そこに込められた気持ちは、想いは。魂は。
わたしの抱いているそれと、同じものだ。
「食べへんの?」
斜め向かい、おかーさんの隣に座る式野さんが言った。
わたしたち二人に向けてだろう。彼女が用意したシュークリームに、二人ともまだ手を付けていない。
「あ、うん。もらう……わね?」
「わたしはまだいい」
おかーさんはいろいろと複雑な気分でそれどころじゃなかったんだろうけど、わたしは単純に、スケッチブックを汚さないためだ。
フェキサ……なんだっけ。フェキなんとかいう保護材をスプレーして固定してあるから大丈夫、って言われたけど。たぶん靴とかの防水スプレー的なやつ。だからといってクリームべったりにするわけにはいかないし。
「あら、おいしい」
おかーさんがパチリと目を開いて、口元に手を添えて言った。
指の隙間から、唇についた粉砂糖をピンクの舌がちろりと舐め取る瞬間が見えた。
「そらよかった」
式野さんが笑う。
「知る人ぞ知る、地元の人気店のなんよ。宮延に来たからにはいっぺんは食うとかんとね」
言いながら二つ目を手に取る。
その様子を見ておかーさんは、少し不思議そうに首をかしげた。
「そういえばアリスちゃん、甘いもの、平気なの?」
「ん? ……あぁ、まぁ」
なにやら曖昧にうなずく。
「酒飲むようになってからかな。なんや自然とね」
「そっか。うん、ブランデーとチョコレートとか、おいしいよね」
「そんな感じ」
お酒か。
わたしとおかーさんとで共有できないものは少なくないけど、その一つだ。もっともこれは時間が解決してくれる(というかそれ以外にない)ことなので、あまり気にしていない。
おかーさんはこう見えてお酒にはかなり強いから、娘のわたしもきっと飲めるはず。
二十歳の誕生日を迎えたら、母娘で一つの瓶を分けあって飲むというのがわたしの夢の一つだ。
でも、あと六年か。
長いな、くそぅ。
「それより、あー……二冊目の方は、まだ持っとる?」
「え? あ」
二冊目?
まだあるの? こんなのが?
しかもそれをおかーさんが持っている?