第10話柏野楓の過去
side:柏野楓
「お嬢様への恩、ですか……。」
その言葉を聞いて、私は昔を思い出した。
◇◇◇
私が六歳の頃、お父さんが病気で亡くなった。
病院の白い天井。
泣き続けるお母さん。
冷たくなったお父さんの手。
幼かった私には何が起きたのかよく分からなかった。
ただ、一つだけ分かったことがある。
もう、お父さんは帰ってこない。
それだけは分かった。
それから、お母さんと私の二人暮らしが始まった。
お母さんは私の為に毎日必死に働いてくれた。
朝早く家を出て、夜遅く帰ってくる。
疲れているはずなのに、私の前では笑っていた。
きっと泣きたい日もあったはずだ。
それでもお母さんは弱音を吐かなかった。
だから私は少しでも力になりたいと思った。
私は家事を覚えた。
最初は失敗ばかりだった。
お皿を割った。
洗濯物を駄目にした。
掃除をしたはずなのに逆に汚したこともあった。
それでも続けた。
お母さんが喜んでくれたから。
「ありがとう。」
そう言って頭を撫でてくれるのが嬉しかった。
そして私が八歳になった頃。
お母さんは再婚した。
その時、私は新しい家族を手に入れた。
そして――天使に出会った。
私より二つ年下のお義弟。
初めて会った時から可愛かった。
本当に可愛かった。
お義父さんもお母さんも仕事で忙しく、家にいる時間は少なかった。
だから私たちはいつも一緒だった。
学校であったことを話す。
一緒にテレビを見る。
一緒にご飯を食べる。
何気ない毎日。
でも、その毎日が幸せだった。
ある日。
私が家事をしていると義弟が言った。
『僕も手伝う。』
小さな手で一生懸命手伝おうとしてくれた。
嬉しかった。
本当に嬉しかった。
だから断った。
可愛い義弟にそんなことをさせたくなかったから。
また別の日。
義弟は照れながら言った。
『僕、お義姉ちゃんと結婚する。』
私は笑った。
『いいよ。大きくなったら結婚しようね。』
子供同士の約束。
だけど、その時の私は本気だった。
でも、四年後。
その幸せは壊れた。
お母さんの浮気が原因で、お義父さんと離婚することになった。
今でも覚えている。
お義父さんの苦しそうな顔を。
お母さんの怒鳴り声を。
『何が悪いの? 私の人生なんだから好きにしていいでしょ!』
その言葉を聞いた時。
胸の奥で何かが壊れた。
目の前にいるのはお母さんだった。
顔も声も同じだった。
なのに別人みたいだった。
私が大好きだったお母さんは、もうどこにもいなかった。
お義父さんは最後まで私を引き取ろうとしてくれたらしい。
でも駄目だった。
私はお母さんに連れられて引っ越した。
お義弟とも離れ離れになった。
新しい住所は教えなかったらしい。
だからもう会えない。
まだ十二歳だった私にも、それだけは分かった。
それからの日々は地獄だった。
『今日彼氏来るからどっか行って。』
『ご飯作っといて。』
『掃除しといて。』
命令ばかり。
殴られたこともある。
蹴られたこともある。
タバコを押し付けられたこともある。
痛かった。
苦しかった。
悲しかった。
でも、それ以上に。
どうしてこうなったのか分からなかった。
あんなに優しかったお母さんだったのに。
ある日。
私は限界を迎えた。
『今日も彼氏来るから。ご飯だけ作っといて。』
それがお母さんと交わした最後の言葉だった。
私は家を飛び出した。
向かう先は一つ。
お義弟のいる町。
もう一度会いたかった。
ただそれだけだった。
お金も食べる物もなかった。
だけど。
歩いて。
歩いて。
歩いて。
遂に辿り着いたはずだった。
だが、お義父さん達は引っ越した後だった。
そして私は力尽きた。
冷たい路地裏で倒れ込む。
お腹が空いた。
寒い。
怖い。
このまま死ぬのかな。
そんなことを考えた気がする。
そして――。
お嬢様と出会った。
あの日。
あの路地裏で。
お嬢様は私の手を取ってくれた。
死ぬはずだった私を救ってくれた。
居場所をくれた。
生きる理由をくれた。
だから、お嬢様への恩は返しきれない。
きっと一生かけても返せない。
義弟を探してほしいと頼まなかったのも、それが理由だ。
これ以上迷惑はかけられなかったからだ。
◇◇◇
ただ、柏野楓は気づいていなかった。
今もなお、自分の中で日に日に大きなっているお義弟への気持ちに。
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